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第3話 逃げられない話と、近づいてくる異常

3話です。

毎日できるだけ投稿していきます。


雨は、十分ほどで止んだ。




まるで降る理由を失ったかのように。




青空が戻る。




路面だけが濡れていた。




黒いワゴン車は街路樹に突っ込んだまま停止している。




運転手は警察官に取り押さえられ、周囲には救急隊員と野次馬が集まり始めていた。




大きな事故の割に、重傷者はいない。




それだけ見れば、不幸中の幸いという言葉で片付けられる。




だが。




相良修司は、久世透真から目を離していなかった。




「久世」




透真は聞こえないふりをした。




「久世」




二度目。




「はい」




仕方なく振り返る。




相良は事故車と六階の窓を交互に見た。




「お前、さっきまで上にいたよな」




「いましたね」




「どうやって降りた」




「普通に」




「普通に?」




「はい」




「エレベーターは動いてない」




透真は黙った。




事故直前、停電は起きていない。




ただし、エレベーターは点検中だった。




階段を使ったとしても、この時間では間に合わない。




「階段です」




「何秒で?」




「急いだので」




「お前、陸上選手か?」




「違います」




相良が目を細める。




アリスはその横で、黙って二人を見ていた。




珍しく口を挟まない。




透真はそれが逆に気になった。




「とにかく」




透真が言う。




「事故は終わりました」




「お前の中ではな」




「警察の仕事でしょう」




「その警察が聞いてる」




「私は被害者でも加害者でもありません」




「目撃者だ」




「見てません」




「お前、事故車の目の前にいたぞ」




「気づいたらいました」




相良の眉間に皺が寄る。




「今のは本気で言ってるのか」




「はい」




嘘ではない。




実際。




気づいたときには、そこにいた。




相良は数秒黙った。




そして深く息を吐く。




「あとでまた話を聞く」




「嫌です」




「拒否権はない」




「そうですか」




透真はその言葉を受け流した。




拒否権がない。




そういう言葉も、嫌いではない。




拒否権がないなら、別のものから逃げればいい。




時間。




場所。




予定。




相手の都合。




逃げ道はいくらでもある。




「透真さん」




アリスが言った。




「今度こそ、少し話しませんか?」




「嫌です」




「即答ですね」




「昨日から同じ話をしています」




「でも今日は二回助けてもらいました」




「二回?」




「昨日と今日」




「昨日は昨日です」




「今日は今日ですね」




「そうです」




「じゃあ、今日は一回助けてもらいました」




「助けてません」




「さっき私の前に来ましたよね」




「偶然です」




「嘘ですね」




「……」




「それに」




アリスは少しだけ声を落とした。




「さっきの、普通じゃなかったですよね」




透真は彼女を見る。




黒い瞳。




まっすぐ。




逃げるような隙がない。




「何がですか」




「六階から、あの一瞬でここまで来たことです」




「気のせいです」




「嘘です」




「便利ですね、その力」




「そっちもでしょう?」




透真は返事をしなかった。




相良が二人の会話を聞こうとしている。




透真は一歩だけアリスへ近づいた。




「場所を変えます」




アリスが笑う。




「話してくれるんですね」




「警察の前で話したくないだけです」




「でも話すんですね」




「まだ決めてません」




「じゃあ決めるまで待ちます」




「面倒ですね」




「よく言われます」




「でしょうね」




二人はビルから少し離れた。




人通りの少ない裏通り。




小さな公園。




ベンチ。




アリスが座る。




透真は座らなかった。




「座らないんですか?」




「すぐ帰るので」




「毎回それ言いますね」




「毎回帰りたいので」




「でも帰れてませんね」




「あなたのせいです」




「それは少し嬉しいですね」




「なぜ」




「誰かの予定を狂わせるって、ちょっと特別な感じがしません?」




「全く」




アリスは笑った。




風が吹く。




プラチナブロンドの髪が揺れた。




さっきまでの事故が嘘のように、周囲は静かだ。




「それで」




透真が言う。




「何を話すんですか」




「私のこと」




「興味ありません」




「嘘ですね」




「本当に興味ないです」




「それは本当ですね」




「でしょう」




「でも気にはなってます」




透真が黙る。




アリスは勝ち誇ったように笑った。




「違います?」




「……話を続けてください」




「逃げましたね」




「話題を進めただけです」




「それを逃げるって言うんじゃないですか?」




「場合によります」




アリスは少し考えたあと、表情を変えた。




さっきまでの笑顔が薄くなる。




「私、小さい頃からこうなんです」




「こう?」




「事件が起きるんです」




透真は黙って聞いた。




「事故」




アリスが指を一本立てる。




「喧嘩」




二本目。




「誘拐」




三本目。




「火事」




四本目。




「強盗」




五本目。




「落下事故」




六本目を出そうとして止まる。




「指が足りませんね」




「冗談にする内容ではありません」




「そうですね」




笑顔はなかった。




「最初は偶然だと思ってました」




「普通はそうでしょう」




「でも、多すぎたんです」




アリスは手を膝の上に置く。




「出かけたら事故に遭う」




「学校に行けば誰かが喧嘩する」




「旅行に行けば事件が起きる」




「知らない人に道を聞かれたと思ったら、その人が指名手配犯だったこともあります」




「……」




「一度、何も起きないようにって、一週間家から出なかったことがあるんです」




「それで?」




「三日目に隣の部屋が火事になりました」




透真は目を細めた。




「偶然では」




「私もそう思いたかったです」




「でも思えなかった」




「はい」




アリスが空を見る。




「だから、途中から考えるのをやめました」




「なぜ」




「私が考えても、事件は起きるので」




その言葉に、透真は少しだけ引っかかった。




考えても起きる。




逃げても起きる。




避けても起きる。




「怖くないんですか」




透真が尋ねる。




アリスは少し驚いた。




「私が?」




「はい」




「怖いですよ」




「そうは見えません」




「見せてないだけです」




透真は黙る。




「怖がったところで、事件が遠慮してくれるわけじゃないですから」




アリスが笑った。




今度の笑顔は少し弱い。




「だったら、笑ってる方が得かなって」




透真はその顔を見る。




嘘ではない。




彼女の言葉が事実かどうかは、彼には分からない。




だが。




少なくとも。




今の笑顔が強がりだということくらいは分かった。




「それで」




透真が言う。




「昨日も今日も、事件が起きた」




「はい」




「あなたは、自分が原因だと思っている」




「原因というより」




アリスは少し考える。




「中心?」




「中心」




「事件の方から寄ってくる感じです」




透真は昨日考えた言葉を思い出した。




事件に巻き込まれるのではない。




事件の方が、彼女を目指して集まってくる。




「誰かに言ったことは」




「あります」




「どうなりました」




「笑われました」




「でしょうね」




「ひどい」




「普通の反応です」




「透真さんは信じるんですか?」




透真は答えなかった。




信じる。




というより。




自分も同じ側にいる。




透真の周囲では、普通なら起きないことが起きる。




彼自身が普通ではないからだ。




「信じるんですね」




「何も言ってません」




「否定もしませんでした」




「それが答えになるんですか」




「私の場合は」




アリスは笑う。




「なります」




透真は小さく息を吐いた。




「一つだけ聞きます」




「どうぞ」




「昨日」




「はい」




「ここに来た方がいい気がした、と言いましたね」




「言いました」




「誰かに言われたわけではない?」




「違います」




「夢でもない」




「違います」




「ただの直感?」




「はい」




「今日ここへ来たのも?」




「今日はお礼です」




「本当に?」




アリスが少し止まった。




「……半分」




「残り半分は」




「会った方がいい気がしたから」




透真の表情が変わる。




「またですか」




「またです」




「誰に」




「分かりません」




「何のために」




「分かりません」




「なのに来た」




「はい」




「危険だと思わなかった?」




「思いました」




「それでも来た」




「はい」




「なぜ」




アリスは透真を見る。




「来たかったからです」




一瞬。




透真は言葉を失った。




理屈ではない。




運命でもない。




予感でもない。




単純な意思。




「そうですか」




透真は視線を逸らした。




「今の、ちょっと逃げましたね」




「何からですか」




「私から」




「違います」




「嘘」




「便利すぎません?」




「透真さん相手だと特に」




少しだけ。




空気が軽くなる。




そのとき。




透真のスマートフォンが震えた。




会社から。




画面には社長の名前。




「はい」




『久世、今どこだ』




「外です」




『分かってる!』




後ろで何人かの声が聞こえる。




ざわついている。




「どうしました」




『お前のパソコン、変なんだよ』




透真の眉が動く。




「変?」




『勝手に動いてる』




「電源を切ってください」




『切った!』




「なら」




『それでも画面がついてるんだよ!』




透真は黙った。




アリスが表情を変える。




「何かありました?」




透真は答えない。




電話の向こう。




社長の声が小さくなる。




『あと』




「何ですか」




『お前の画面に、変な文章出てる』




透真の背筋に、冷たいものが走る。




「なんて」




『えーっと』




数秒。




『逃げる場所がなくなった時、お前はどうする』




透真の目から感情が消えた。




昨日のメッセージ。




今日のメッセージ。




そして今。




会社のパソコン。




「誰か触りましたか」




『誰も触ってない』




「ネットを切ってください」




『もう切ってる』




「それでも?」




『出てる』




アリスが立ち上がる。




「透真さん」




「帰ります」




「会社に?」




「はい」




「私も行きます」




「来ないでください」




「事件かもしれません」




「だからです」




「でも」




「だから来ないでください」




透真の声が少し強くなる。




アリスが止まる。




「あなたが来ると、増える」




「事件が?」




「はい」




一瞬。




アリスの表情が曇った。




透真は言ったあとで気づいた。




言い方が悪かった。




だが。




訂正しなかった。




できなかった。




「分かりました」




アリスが笑う。




いつもの笑顔。




でも。




さっきより少し遠い。




「今日は帰ります」




透真は頷いた。




「気をつけて」




「はい」




アリスは歩き出した。




数歩。




振り返る。




「透真さん」




「何ですか」




「私」




少しだけ迷う。




「本当に、来ない方がいいですか?」




透真は答えようとした。




来ない方がいい。




その方が安全だ。




自分のためにも。




彼女のためにも。




会社のためにも。




そう答えるべきだった。




「……」




でも。




言えなかった。




アリスが小さく笑った。




「今のは、嘘じゃないですね」




「何がですか」




「分からない、って顔してました」




「感情は分からないんでしょう」




「顔は見えます」




「ずるいですね」




「お互い様です」




アリスは今度こそ去っていった。




透真はその背中を見る。




そして。




会社へ戻る。




六階。




事務所。




扉を開けた瞬間。




社員全員が透真を見る。




誰も喋らない。




パソコン。




透真のデスク。




電源ケーブルは抜かれている。




LANケーブルも外れている。




それでも。




画面だけはついていた。




黒い背景。




白い文字。




一行。




――逃げる場所がなくなった時、お前はどうする。




透真は近づく。




触れない。




画面を見る。




文字が消える。




そして。




新しい文章。




――次は、お前の日常だ。




画面が暗転した。




同時に。




事務所の照明が落ちる。




「うわっ」




誰かが声を上げた。




停電ではない。




廊下は明るい。




この部屋だけ。




暗い。




透真の目が細くなる。




一秒。




二秒。




三秒。




照明が戻る。




何もない。




誰も怪我をしていない。




物も動いていない。




「久世」




社長が言う。




「これ、何なんだ」




透真は答えなかった。




分からない。




だが。




一つだけは分かる。




異常はもう、事件現場だけに現れるものではない。




自分の会社。




自分の仕事。




自分の日常。




そこまで。




何かが入り込んできている。




その夜。




透真はいつもより早く会社を出た。




一人で。




駅へ向かう。




人混み。




車。




信号。




店の明かり。




普通の街。




普通の日常。




それが。




少しだけ違って見える。




途中。




コンビニに入る。




水を一本。




レジへ。




「百二十八円です」




店員。




透真は支払う。




外へ出る。




三分後。




別のコンビニ。




同じ店員がいた。




透真は止まる。




髪型。




制服。




声。




名札。




同じ。




偶然。




そう思う。




さらに五分。




駅前。




自販機の前。




さっきの店員が立っている。




制服のまま。




透真を見る。




微笑む。




透真は目を細めた。




瞬き。




消えた。




人混みだけ。




「……」




透真は歩く。




今度は逃げない。




見間違いだと決めつけない。




家へ帰るまで。




同じ人物を七回見た。




七回とも。




別の場所。




別の角度。




別の距離。




そして。




最後の一回。




自宅マンションの前。




さっきの店員が立っていた。




「久世透真さん」




初めて名前を呼ばれた。




透真は止まる。




相手は笑う。




次の瞬間。




顔が崩れた。




皮膚が溶けるわけではない。




別の顔へ変わる。




若い男。




中年。




老婆。




少女。




次々。




最後に。




顔のない人間になる。




のっぺらぼう。




「見つけた」




声だけが響く。




透真は距離を取る。




「誰ですか」




「まだ、名乗る段階ではない」




「なら帰ってください」




「それはできない」




「なぜ」




「お前が逃げるからだ」




透真の瞳が冷える。




「誰から」




「全部から」




顔のない男が一歩近づく。




「正義も」




もう一歩。




「終焉も」




さらに一歩。




「混沌も」




透真の表情が変わる。




「そして」




男が止まる。




「お前自身からも」




透真は黙る。




「今夜は挨拶だけだ」




男が笑ったような気配。




「逃げるなよ」




「嫌です」




即答。




男が一瞬止まる。




透真は言う。




「逃げろと言われても逃げますし、逃げるなと言われても逃げます」




「……」




「他人に決められるのが一番嫌いなので」




男の気配が少し変わる。




「なるほど」




次の瞬間。




消えた。




音もなく。




気配もなく。




最初からいなかったように。




透真はしばらくその場を見る。




そして。




スマートフォンが鳴った。




今度は普通の通知。




メッセージ。




送信者。




白峰アリス。




透真の眉が動く。




いつ番号を。




そう思って開く。




一行。




『透真さん、今どこですか?』




返信しない。




続けて。




『私の家の前に、透真さんがいます』




透真の表情が消える。




もう一通。




『でも』




数秒。




『たぶん、透真さんじゃないです』




透真は走り出した。




理由を考える前に。




場所を聞く。




返信が来る。




透真は速度を上げる。




自分でも気づいていない。




逃げるためではない。




誰かから離れるためでもない。




アリスのいる場所へ。




自分から向かっている。




その頃。




遠く離れた高層ビル。




白いコートの男は、銀色の天秤を見ていた。




皿が揺れている。




逃避。




混沌。




その間に。




第三の重り。




名前のない黒い石。




「早いな」




男が呟く。




背後の黒服が尋ねる。




「何がですか」




「他の概念が動き始めた」




「排除しますか」




「まだだ」




男は天秤を見つめる。




「久世透真が」




銀色の皿が揺れる。




「どこまで逃げるのか」




そして。




ほんの少しだけ笑った。




「見てみたい」




夜の街。




透真は走る。




アリスのもとへ。




逃げることが存在意義の男が。




その夜。




初めて。




誰かのいる場所へ、全力で向かっていた。

評価よろしくお願いします。

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