第2話 責任から逃げる男と、再び現れる女
2話目です。
翌朝。
午前七時十三分。
久世透真は、いつも通り目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る一分前だった。
ベッドから身体を起こし、カーテンを開ける。
昨日の雨が嘘だったかのように、空は晴れていた。
雲ひとつない青空。
窓ガラスの向こうでは、朝日を浴びた街が何事もなかったように動き始めている。
昨夜、大阪市内の一部で発生した大規模な停電も、午前二時頃には完全復旧したらしい。
原因は調査中。
変電設備の一時的な異常。
ニュースではそう報じられていた。
透真はスマートフォンの画面を消した。
「一時的な異常、ね」
便利な言葉だと思う。
人間は理解できないことが起きると、とりあえず名前を付ける。
故障。
事故。
偶然。
異常。
名前が付けば、それだけで少し安心できる。
昨夜の出来事にも、いずれ適当な名前が付くだろう。
銃弾が消えたこと。
知らない番号から届いたメッセージ。
街全体を包んだ停電。
世界の外側から聞こえた声。
そして。
白峰アリス。
透真は考えるのをやめた。
正確には、その思考から逃げた。
頭の中に浮かびかけた少女の顔が、霧が晴れるように薄れていく。
完全に消すことはできなかった。
それが少し気に入らない。
「仕事に行こう」
誰に言うでもなく呟く。
シャワーを浴びる。
白いシャツを着る。
ネイビーのジャケット。
細身のスラックス。
財布。
スマートフォン。
カードケース。
小型ライト。
ビニール手袋。
細い金属棒。
いつも通り。
黒いビジネスバッグを持つ。
いつもと同じ朝。
昨日、人間に銃を向けられた男とは思えないほど、久世透真の一日は平凡に始まった。
午前八時四十六分。
透真は会社の入る雑居ビルの前に立っていた。
見上げる。
六階。
当然だが、建物は残っている。
警察の規制線もない。
ビルの出入口には管理会社の人間らしき男が立ち、何かを確認していた。
透真はその横を通り過ぎる。
「六階の広告会社の方ですか?」
声を掛けられた。
透真は止まった。
「そうですが」
「昨日、大変だったみたいですね」
「そうみたいですね」
「そうみたいって……中にいたんですよね?」
「いました」
男は怪訝な顔をした。
透真はその視線から逃げなかった。
ここで逃げれば、逆に怪しまれる。
逃げるというのは、必ずしもその場からいなくなることではない。
最も面倒にならない場所へ移動すること。
それもまた、逃げるということだった。
「警察の人、あとでまた来るかもしれませんよ」
「分かりました」
「事務所、結構荒れてるらしいです」
「そうでしょうね」
「……落ち着いてますね」
「もう終わったことなので」
透真は頭を下げ、エレベーターへ向かった。
男はしばらくその背中を見ていた。
六階。
エレベーターの扉が開く。
昨日の騒ぎが嘘だったように、廊下は静かだった。
ただし。
会社の扉を開けた瞬間、その考えは消えた。
「久世ぇぇぇ!」
怒鳴り声。
透真は扉を閉めた。
三秒後。
もう一度開ける。
「閉めんな!」
社長の声だった。
事務所の中央。
四十代半ば。
少し腹の出た男が仁王立ちしている。
その後ろには、昨日倒れたキャスター付きの椅子。
ひびの入った棚。
倒れた観葉植物。
散乱した書類。
警棒が当たったらしい壁の傷。
そして床には、警察が付けたと思われる小さな番号札の跡が残っていた。
「おはようございます」
「おはようじゃない!」
「では、こんにちは」
「まだ朝だ!」
透真は自分のデスクへ向かった。
「説明しろ」
「何をですか」
「昨日だよ!」
「昨日は昨日です」
「哲学の話してんじゃねえ!」
社長が机を叩く。
隣のデスクに座っていた女性社員が肩を震わせて笑いを堪えていた。
透真はバッグを椅子の横に置く。
パソコンの電源を入れた。
「久世」
「はい」
「お前、昨日ここでヤクザみたいなのと喧嘩したらしいな」
「喧嘩はしていません」
「警察から聞いたぞ!」
「なら説明は不要では?」
「お前から聞きたいんだよ!」
透真は少し考える。
「知らない女性が入ってきました」
「うん」
「知らない男性たちが追ってきました」
「うん」
「揉めました」
「雑!」
「警察が来ました」
「途中を説明しろ!」
透真はキーボードへ手を置いた。
昨日届いていたメールを確認する。
十三件。
そのうち八件は急ぎではない。
二件は自分の担当ではない。
一件は返信不要。
残り二件だけ返せばいい。
社長がデスクの前へ回り込んできた。
「銃まで出たんだろ」
「出ましたね」
「出ましたね、じゃねえ!」
「でも撃たれませんでした」
「撃たれたって聞いたぞ!」
「当たっていません」
「撃たれたかどうかは、当たったかどうかじゃねえ!」
透真は手を止めた。
少し考える。
「なるほど」
「納得すんな!」
女性社員がついに吹き出した。
社長が睨む。
「笑い事じゃないからな!」
「すみません」
そう言いながら、まだ肩が震えている。
社長は再び透真を見る。
「とにかくだ」
嫌な予感がした。
「修理代」
「管理会社へお願いします」
「原因お前らだろ!」
「私は壊していません」
「でもお前がいた」
「勤務時間外です」
「十五分しか過ぎてねえよ!」
「営業時間は六時までです」
「そういう問題じゃねえ!」
透真は小さく息を吐いた。
責任。
それは透真が比較的よく逃げるものの一つだった。
人は責任という言葉を使うとき、多くの場合、その意味を正確には定義していない。
誰が悪いのか。
誰が払うのか。
誰が謝るのか。
誰が後始末をするのか。
それらを全部まとめて、責任と呼ぶ。
だから逃げやすい。
形が曖昧なものほど、境界を切り離しやすい。
「昨日の事件について、私に法的な賠償責任があるんですか?」
「……いや」
「会社の指示で争ったわけでもありません」
「それはそうだけど」
「私が相手を招き入れたわけでもない」
一瞬、昨日の光景が浮かぶ。
扉の鍵を開けた自分。
透真は少しだけ視線を逸らした。
「正確には、勝手に入ってきました」
かなり都合のいい解釈だった。
「警察には被害者として扱われています」
「まあ……そうだけどよ」
「なら、責任は犯人にあります」
「……」
「以上です」
透真はメールを開く。
社長は口を開いたまま止まっていた。
責任から逃げた。
特殊な力を使うほどでもなかった。
「お前、本当にこういう時だけ理屈強いよな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねえ」
「では忘れます」
「それもやめろ」
透真は一通目のメールへ返信する。
隣の女性社員が小声で言った。
「久世さん」
「何ですか」
「昨日の女の子、めちゃくちゃ美人だったって本当?」
透真の指が止まった。
ほんの一瞬。
「普通です」
「嘘だ」
反射的にそう言われた気がした。
透真は女性社員を見る。
「何か?」
「いや、絶対普通じゃないでしょ。警察の人もすごい美人だったって言ってたし」
「そうですか」
「名前は?」
「知りません」
今度は自然に言えた。
正確には、知っている。
だが仕事とは関係ない。
答える義務もない。
「えー、聞かなかったの?」
「興味がないので」
「絶対嘘」
透真の眉が僅かに動いた。
昨日から、その言葉に敏感になっている。
――嘘です。
頭の中に、楽しそうな声が蘇った。
「久世さん?」
「何でもありません」
透真はメールへ視線を戻した。
午前九時三十二分。
警察が来た。
事情聴取は二度目だった。
昨日と同じことを聞かれる。
女性が逃げ込んできた。
男たちが追ってきた。
揉み合いになった。
銃が発射された。
犯人は確保された。
問題は。
「弾丸が見つかっていないんですよ」
刑事が言った。
五十代くらい。
短く刈った髪。
目つきが鋭い。
名刺には、
大阪府警。
捜査一課。
相良修司。
そう書かれていた。
「そうですか」
透真は答えた。
「壁にも床にも天井にも弾痕がない」
「不思議ですね」
「四発です」
「はい」
「四発撃ったと、犯人も認めています」
「そうですか」
「薬莢もあります」
「なるほど」
「でも弾がない」
相良が透真を見る。
「どう思います?」
「分かりません」
嘘ではない。
実際に、透真にも分かっていない。
普段なら、銃弾が消えることなどない。
避ければ、どこかへ飛んでいく。
しかし昨日は違った。
銃弾そのものが、
透真に命中するという出来事から、
存在ごと逃げた。
そんな感覚だった。
「久世さん」
「はい」
「あなた、本当に何もしていない?」
「していません」
相良は数秒間、透真を見る。
透真も見返した。
人間の嘘を見抜く方法はいくつもある。
視線。
呼吸。
瞬き。
声の高さ。
言葉を選ぶ時間。
しかし。
透真の言葉は嘘ではない。
意図的に銃弾を消したわけではないからだ。
やがて相良は視線を外した。
「分かりました」
「もういいですか?」
「今日は」
今日は。
透真はその言葉を聞き逃さなかった。
面倒な予感がする。
「できれば、今後も呼ばないでいただけると」
「それは約束できません」
「そうですか」
約束。
透真はその言葉から意識を逸らした。
相良は立ち上がる。
出口へ向かいながら、一度だけ振り返った。
「そういえば」
「はい」
「白峰アリスさん」
透真の指先が僅かに動く。
「彼女、あなたと以前から知り合いですか?」
「いいえ」
「そうですか」
「なぜ?」
「いや」
相良が少し笑う。
「彼女はそう思ってないようだったんでね」
透真は何も言わなかった。
相良はそのまま帰っていった。
午前十一時四十五分。
何も起こらない。
午後十二時三十分。
何も起こらない。
午後二時。
何も起こらない。
透真は少しだけ安心し始めていた。
昨日の事件。
白峰アリス。
停電。
謎のメッセージ。
それらすべてが、一晩だけの異常だった可能性。
世界にはときどき、説明できない一日がある。
それだけだったのかもしれない。
午後三時十七分。
透真はコピー機から資料を取る。
午後三時二十九分。
電話を一本。
午後三時四十一分。
コーヒーを淹れる。
午後四時。
何も起こらない。
平和だった。
完璧に平和だ。
だから。
透真は不安になった。
昨日、自分は願った。
今日は何も起こりませんように。
そして事件が起きた。
なら今日は。
何も願っていない。
だから何も起きない。
論理としては正しい。
しかし、世界がそこまで単純ではないことを、透真は知っている。
午後四時十二分。
スマートフォンを見る。
知らない番号からの着信はない。
メッセージもない。
白峰アリスから連絡が来る理由もない。
そもそも連絡先を教えていない。
「久世さん」
女性社員が声を掛ける。
「はい」
「下にお客さん」
「誰ですか」
「女の子」
透真は動きを止めた。
女性社員がにやりと笑う。
「めっちゃ美人」
透真は目を閉じた。
「帰ったことにしてください」
「まだ帰ってないじゃん」
「今帰ります」
「逃げるの早っ」
透真はバッグを持った。
本当に帰るつもりだった。
入口。
エレベーター。
非常階段。
窓。
六階程度なら、外壁設備を利用して降りることもできる。
だが。
「久世透真さん!」
廊下から声がした。
透真は止まった。
聞き覚えがある。
聞き覚えしかない。
事務所のドアが開く。
長いプラチナブロンドの髪。
大きな黒い瞳。
薄いブルーのパーカー。
白いシャツ。
黒いショートパンツ。
白いスニーカー。
昨日とほとんど同じ格好。
白峰アリスが、紙袋を両手に持って立っていた。
「こんにちは!」
「帰ってください」
第一声だった。
「まだ何も言ってません」
「用件を聞く前に断っています」
「ひどくないですか?」
「昨日よりは優しいです」
「昨日は銃弾から庇ってくれたのに」
事務所が静まり返った。
社員たちの視線が、一斉に透真へ集まる。
透真はゆっくりとアリスを見る。
「その話はしないでください」
「秘密でした?」
「普通は会社で話しません」
「でも事実ですよね」
「……」
「嘘じゃないですよね?」
笑顔。
透真は頭が痛くなった。
社長が奥から出てくる。
「久世」
「はい」
「この子?」
「違います」
「何が違うんですか?」
アリスが言う。
「昨日の女の子か?」
「はい!」
「違います」
「どっちだよ!」
アリスが社長へ頭を下げた。
「昨日はご迷惑をお掛けしました」
「あ、いやいや」
社長の声が急に柔らかくなる。
「大変だったねえ」
「はい。でも透真さんが助けてくれたので」
「透真さん?」
女性社員が反応した。
「名前呼び?」
「昨日知り合ったばっかりじゃないの?」
「久世さん、やるじゃん」
透真は天井を見た。
責任からは逃げられた。
警察からも一旦逃げられた。
しかし。
この状況から逃げる方法が、まだ見つからない。
「それで今日は」
アリスが紙袋を持ち上げる。
「お礼を持ってきました」
「要りません」
「即答」
「受け取る理由がないので」
「助けてもらったお礼です」
「助けていません」
「助けました」
「結果的にです」
「結果も事実です」
透真は黙った。
この相手と事実関係で争うのは不利だ。
「じゃあ会社の皆さんで食べてください」
アリスが社長へ紙袋を差し出す。
有名な洋菓子店のロゴ。
社長が受け取った。
「いやー、気を遣わなくても」
「いえ。事務所も壊してしまいましたし」
「壊したのは犯人だけどね」
「そうなんですけど、私が来なかったら起きなかったので」
透真はアリスを見る。
自分とは正反対だと思った。
透真は責任から逃げる。
アリスは、自分に直接責任がなくても引き受けようとする。
「じゃあ、私はこれで」
アリスが言った。
透真は少し意外に思った。
もっと何かあると思っていた。
「そうですか」
「はい」
「では」
「はい」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
アリスは笑った。
そして事務所を出た。
ドアが閉まる。
静寂。
透真は自分のデスクへ戻った。
「……何ですか」
全員が見ている。
女性社員が言った。
「追わなくていいの?」
「なぜ追うんですか」
「普通追うでしょ」
「普通ではないので」
昨日。
アリスが言った言葉を思い出す。
――普通じゃないものは、普通のことが苦手なんですよ。
透真は椅子へ座った。
パソコンを見る。
時計。
午後四時十八分。
本当に帰った。
そう思った。
一分。
二分。
三分。
何も起こらない。
透真は少しだけ息を吐いた。
やはり今日は平穏に終わる。
そう思った瞬間。
スマートフォンが震えた。
知らない番号ではない。
会社の代表番号から内線が入っている。
一階受付。
透真は嫌な予感を覚えながら受話器を取った。
「はい」
『久世さんですか?』
「はい」
『先ほどの女性なんですけど』
透真は目を閉じた。
「忘れ物ですか」
『いえ』
少し間が空く。
『ビルの前で警察に囲まれてます』
透真は目を開けた。
「……なぜ」
『よく分からないんですけど、パトカー三台来てます』
事務所の窓へ向かう。
六階。
下を見る。
ビルの前。
確かにいる。
白峰アリス。
その周囲を囲む複数の警察官。
その中には午前中に来た刑事、
相良修司の姿もあった。
アリスは困ったように笑っている。
まるで。
また事件が向こうから彼女を見つけたように。
透真は窓から離れた。
関係ない。
今回は本当に関係ない。
自分は会社にいる。
アリスは外にいる。
警察もいる。
何かあったとしても、自分が出る必要はない。
完璧だ。
透真は席へ戻った。
「久世さん」
女性社員が窓の外を見る。
「あの子、捕まるの?」
「知りません」
「助けに行かなくていい?」
「警察ですよ」
「でも」
「私には関係ありません」
はっきりと言った。
その瞬間。
透真のスマートフォンが鳴った。
画面を見る。
非通知。
透真の表情が消える。
昨日と同じ。
電話は取らない。
そう決めた。
着信は三秒で切れた。
直後。
画面が一度だけ暗くなる。
そして。
メッセージが表示された。
送信者はない。
――混沌を放置するのか。
透真の瞳が細くなる。
昨日と同じ何者か。
「……」
次の文章。
――ならば、その結果から逃げてみろ。
透真が立ち上がる。
同時だった。
窓の外。
突然。
一台の黒いワゴン車が、赤信号を無視して交差点へ突っ込んだ。
クラクション。
悲鳴。
急ブレーキ。
車は歩道へ乗り上げる。
その先。
白峰アリス。
警察官たちが振り返る。
距離が近すぎる。
間に合わない。
透真は窓を見る。
六階。
階段。
エレベーター。
間に合わない。
普通なら。
透真は目を閉じた。
事故。
距離。
時間。
物理。
自分とアリスを隔てるすべてのもの。
そこから。
逃げる。
次の瞬間。
アリスの目の前を、黒いワゴン車が通過した。
大きな衝突音。
街路樹へ激突する。
煙。
悲鳴。
人々が動き出す。
だが。
アリスは無傷だった。
そして。
その隣に。
久世透真が立っていた。
六階にいたはずの男が。
誰にも移動する姿を見られることなく。
当たり前のように、そこにいた。
相良が目を見開く。
「……久世?」
透真は黙っている。
アリスが横を見る。
一瞬だけ驚いた顔。
そして。
笑った。
「来てくれたんですね」
「違います」
「何がですか?」
「逃げただけです」
「会社から?」
「事故からです」
「誰が?」
透真は答えない。
アリスは少し考える。
そして、楽しそうに言った。
「私ですか?」
透真は彼女を見る。
黒い瞳。
真実を見抜く目。
「違います」
「嘘ですね」
即答だった。
透真は空を見上げた。
青空。
朝からずっと晴れていた。
天気予報も晴れ。
降水確率。
ゼロ。
ぽつり。
透真の頬に水滴が落ちた。
アリスが空を見る。
「雨?」
次の瞬間。
青空の下で、雨が降り始めた。
昨日と同じ。
透真の背筋に寒気が走る。
偶然ではない。
もう分かっている。
白峰アリスが現れる場所では、
世界の法則が少しずつずれていく。
雨。
事故。
事件。
因果。
そして自分の力。
すべてが彼女を中心に変わり始めている。
「透真さん」
アリスが言った。
「何ですか」
「今日こそ、ちゃんとお話ししません?」
「嫌です」
「昨日もそう言いましたよね」
「今日もです」
「明日は?」
「嫌です」
「明後日は?」
「嫌です」
「一週間後」
「嫌です」
「一か月後」
「嫌です」
アリスは笑った。
「じゃあ、一年後」
透真は答えようとした。
だが。
言葉が出なかった。
アリスが目を細める。
「今、迷いましたね」
「迷っていません」
「嘘です」
「あなたは人の感情は分からないんでしょう」
「はい」
「なら分からないはずです」
「でも」
アリスが少しだけ顔を近づける。
「あなたが私から逃げようとしていることは、事実です」
透真は答えない。
「そして」
アリスの黒い瞳が、静かに透真を捉えた。
「逃げられていないことも」
雨が強くなる。
周囲では警察官たちが事故車へ駆け寄っている。
相良は二人を見ていた。
驚きではない。
疑い。
観察。
そして。
確信に近い何か。
透真はその視線に気づく。
面倒なものが増えた。
アリス。
警察。
謎のメッセージ。
昨日の停電。
消えた銃弾。
世界の外側から聞こえた声。
そして。
自分自身の力の変化。
平穏な日常に戻るつもりだった。
ほんの数時間前までは。
透真は小さく息を吐いた。
「最悪だ」
隣でアリスが笑った。
「昨日も言ってましたね」
「あなたに会うと増えるんです」
「何がですか?」
「最悪が」
「それは失礼ですね」
「事実です」
アリスが一瞬黙る。
そして。
「……本当ですね」
少しだけ傷ついたような顔をした。
透真は視線を逸らした。
なぜか。
今の表情からは、逃げにくかった。
雨の向こう。
誰にも気づかれない場所。
ビルの屋上に、一人の男が立っていた。
白いコート。
その手にある銀色の天秤。
片方には、
逃避。
もう片方には、
混沌。
昨日よりも。
天秤の揺れは大きくなっていた。
「二度目の接触」
男は静かに呟く。
「偶然ではなくなった」
銀色の皿が軋む。
「ならば次は」
男の指が、天秤へ触れる。
「正義が介入する」
遠くで雷が鳴った。
久世透真はまだ知らない。
昨日の事件は終わっていない。
白峰アリスとの出会いも終わっていない。
そして。
彼が守ろうとしている平穏な日常そのものが、
既に世界から逃げ始めていることを。
評価よろしくお願いします。




