『世界から逃げる男』 第一章 逃げる男と、事件を連れてくる女
初投稿です。
宜しくお願い致します。
第一章 逃げる男と、事件を連れてくる女
久世透真は、逃げることにかけては誰にも負けなかった。
足が速いという意味ではない。
もちろん、足も速い。
百メートルを全力で走れば、運動部の学生程度なら簡単に置き去りにできる。人混みの中で追手を撒くことも、監視カメラの死角だけを通って建物から抜け出すこともできる。
しかし、それは技術にすぎない。
透真が本当に逃げられるものは、もっと広かった。
面倒な仕事。
気まずい会話。
突然の事故。
偶然の遭遇。
背後から振り下ろされる刃。
迫りくる死。
人と人との約束。
過去に刻まれた記憶。
神と呼ばれる何かが定めた運命。
それらすべてから、彼は逃げることができる。
正確に言えば――。
世界に存在するあらゆるものには、それぞれが存在するための理由がある。
火は燃える。
水は流れる。
刃は切る。
扉は隔てる。
人は生き、やがて死ぬ。
そして久世透真の存在意義は、
逃げること。
それが物質であろうと、法則であろうと、概念であろうと関係ない。
ただし、彼はその力を好んではいなかった。
好きで逃げているわけではない。
逃げなければ、もっと多くのものを失うから逃げている。
それだけだった。
「申し訳ありません。その件については、私の担当ではありませんので」
午後六時十二分。
透真は電話口の相手にそう告げると、静かに通話を終えた。
大阪市内の雑居ビル。
六階に入る小さな広告代理店の事務所には、彼以外誰も残っていない。
窓の向こうでは、夕日に照らされたビル群が赤く染まり始めている。
透真はパソコンを閉じ、机の上を確認した。
スマートフォン。
薄いカードケース。
使い捨てのビニール手袋。
数本の細い金属棒。
小型ライト。
糸。
折り畳んだ紙幣。
絆創膏。
そして、見た目だけは普通の黒いビジネスバッグ。
必要なものは、すべてジャケットやパンツの内側に収納している。
バッグの中には、古い書類と空のペットボトルしか入っていない。
それでも、何かを使うときには必ずバッグに手を入れる。
周囲には、そこから取り出したように見せるためだ。
人間は、納得できる理由が目の前にあれば、それ以上深く考えようとはしない。
透真は黒いバッグを持ち上げた。
身長は百七十センチ。
体格は中肉中背。
目立って大きくもなく、小さくもない。
整った顔立ちではあるが、人混みですれ違えば、数分後には思い出せなくなる程度の印象しか残さない。
アッシュグレーの髪に、ところどころ黒髪が混じっている。襟元にかかる程度のミディアムヘアー。
瞳は青みを帯びたエメラルドグリーン。
珍しい色だが、他人と視線を合わせる時間が短いため、それを記憶されることは少なかった。
白いシャツ。
黒に近いネイビーのジャケット。
細身のスラックス。
ネクタイは着けていない。
少し崩したオフィスカジュアル。
どこにでもいそうで、どこにもいない男。
それが久世透真だった。
「今日は何も起こりませんように」
誰に祈るでもなく呟く。
しかし、透真は知っている。
何も起こらない一日というものは、願った時点で起こらなくなる。
願いは可能性を生み、可能性は出来事を呼ぶ。
だから祈るべきではなかった。
透真は事務所の照明を落とし、出口へ向かった。
ドアノブに手を掛ける。
そこで動きを止めた。
廊下の向こう。
エレベーターが到着する音。
扉が開く。
足音は一人分。
軽い。
歩幅はやや狭い。
ヒールではない。
靴底の擦れる音から、スニーカー。
躊躇なく廊下を歩いてくる。
この階にある会社は、透真が勤める広告代理店と、既に営業を終えた税理士事務所だけだ。
来客の予定はない。
足音は事務所の前で止まった。
二度、ノックが鳴る。
「すみませーん」
若い女性の声だった。
透真は返事をしなかった。
気配を消し、ドアの横に立つ。
「誰かいませんか?」
もう一度、ノック。
透真は腕時計を見た。
午後六時十五分。
会社の営業時間は午後六時まで。
残業している人間がいても不思議ではないが、扉の外にいる人物がそれを知っているとは限らない。
「困ったなあ」
女性は独り言を漏らした。
「ここに逃げ込めって言われたのに」
透真の眉が、わずかに動いた。
その直後だった。
非常階段の扉が乱暴に開いた。
複数の足音が廊下へ雪崩れ込んでくる。
最低でも四人。
全員が成人男性。
走り慣れていない重い足取り。
「いたぞ!」
怒鳴り声。
「逃がすな!」
透真は目を閉じた。
面倒なことになった。
正確には、面倒なことが扉の向こうまでやってきた。
透真には選択肢があった。
この場から逃げる。
それだけなら簡単だった。
自分の存在を、この出来事から切り離せばいい。
追われている女性も、追ってきた男たちも、透真がここにいた事実を認識できなくなる。
事件が終わったあと、彼らの記憶に透真は残らない。
だが。
「開けてください!」
女性がドアを叩く。
「お願い、ここを開けて!」
その声に、恐怖は混じっていなかった。
焦ってはいる。
しかし、怯えてはいない。
むしろ、どこか楽しんでいるようにさえ聞こえる。
追手の男が叫んだ。
「そこを動くな!」
「動くなって言われて動かなかった人、歴史上一人でもいるんですか?」
女性が答える。
透真は、小さく息を吐いた。
扉の鍵を開ける。
ドアが勢いよく開き、女性が飛び込んできた。
透真は身体を半歩ずらして彼女を避ける。
女性は事務所の中へ入り、そのまま奥まで走った。
「ありがとうございます!」
「まだ助けるとは言っていません」
「扉を開けてくれたので、もう共犯です」
「今から閉めます」
「冷たいですね」
透真は扉を閉めようとした。
だが、追いついた男の靴が隙間へ差し込まれる。
「待て!」
力任せに扉が押し開かれた。
大柄な男が一人、事務所へ踏み込んでくる。
黒いシャツ。
首元に金色のネックレス。
右手には伸縮式の特殊警棒。
透真は警棒を見て、わずかに目を細めた。
「その女を渡せ」
「嫌です」
女性が即答した。
「お前には聞いてない!」
「でも私の話ですよね?」
「黙れ!」
男が怒鳴る。
透真は女性を見た。
長いプラチナブロンドの髪。
身長は百六十五センチほど。
白いシャツに薄手のブルーのパーカー。
黒いショートパンツ。
白いスニーカー。
服装だけなら、街を歩く普通の若い女性に見える。
しかし、その容姿は普通という言葉から大きく外れていた。
完璧に整った顔立ち。
大きな黒い瞳。
透き通るような白い肌。
細い腰と長い脚。
人の理性を傾け、国さえ争わせる。
傾国という古い表現が、冗談では済まないほどの美少女だった。
だが、その美貌以上に透真が気になったのは、彼女の立ち方だった。
重心がぶれていない。
追われていた直後だというのに、呼吸も乱れていない。
両手は自然に下ろされているが、いつでも相手の腕を取れる位置にある。
武道経験者。
それも、かなり深いところまで修めている。
「どうして追われているんですか」
透真が尋ねた。
「道を歩いていたら、この人たちが誰かを車に押し込もうとしていたんです」
女性は笑顔で答えた。
「それで声を掛けました」
「なんと?」
「誘拐ですかって」
「それは追われますね」
「やっぱり?」
「分かっていたでしょう」
「なんとなくは」
男が警棒を持ち上げた。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
透真は男を見る。
「警察を呼びます」
「呼べると思うか?」
「思います」
「だったらやってみろ!」
男が踏み込んだ。
警棒が透真の頭部へ振り下ろされる。
女性の表情から笑みが消えた。
「危ない!」
警棒は速かった。
一般人なら、見てから避けることは難しい。
だが透真には、警棒の軌道があまりにもよく見えていた。
肩の動き。
肘の角度。
手首の向き。
踏み込んだ足に掛かる体重。
攻撃が始まる前から、どこを通るのか分かる。
透真は半歩だけ身体を引いた。
警棒が鼻先を通過する。
男の目が見開かれる。
透真は反撃しなかった。
空振りで崩れた男の脇をすり抜け、距離を取る。
「てめえ!」
男が再び警棒を振るう。
横薙ぎ。
透真は上体を僅かに沈める。
警棒は髪の先にも触れない。
三撃目。
突き。
透真は首を傾けるだけで避けた。
まるで最初から、攻撃が当たらない場所を知っているかのようだった。
実際、知っている。
透真の目は、物事をよく見る。
筋肉の収縮。
視線。
呼吸。
殺気。
環境。
人と人との距離。
そのすべてを読み、最も安全な場所を選ぶ。
そこに、彼の存在意義が加わる。
攻撃から逃げる。
ただそれだけで、相手の攻撃は永遠に彼へ届かなくなる。
「くそっ!」
男は苛立ち、さらに大きく警棒を振りかぶった。
今度は避ければ、背後のデスクが壊れる。
透真はバッグを床へ置いた。
右手を上げる。
だが拳は作らない。
警棒が振り下ろされる直前、男の手首へ指先を添えた。
ほんの僅かに、軌道を外側へずらす。
同時に左足で男の踏み込んだ足を止める。
男の身体は自らの勢いで回転し、床へ倒れた。
鈍い音が事務所に響く。
警棒が手を離れ、床を滑った。
透真はそれを拾わない。
武器には触れなかった。
「いまの、何ですか?」
女性が目を輝かせる。
「避けただけです」
「最後、投げましたよね?」
「勝手に転んだんです」
「嘘ですね」
女性は即答した。
透真が彼女を見る。
彼女は楽しそうに笑っていた。
「今のは嘘です」
「……なぜ分かるんですか」
「分かるからです」
「理由になっていません」
「あなたも避けられる理由を説明していないので、お互い様です」
廊下から、残りの男たちが入ってきた。
三人。
一人はナイフを持っている。
一人はスマートフォンで誰かと通話している。
最後の一人は、腕にタトゥーが見えた。
倒れた男を確認し、ナイフの男が透真を睨む。
「お前、何者だ」
「会社員です」
「嘘ではありません」
女性が言った。
「黙っていてください」
「本当に会社員なんですね」
「あなたのせいで明日から無職になるかもしれませんが」
「じゃあ責任を取ります」
「取らなくて結構です」
ナイフの男が苛立った声を上げる。
「ふざけやがって!」
男たちが一斉に動く。
透真は女性に言った。
「戦えますね」
「分かります?」
「立ち方で」
「合気道を少し」
「少しという人の立ち方ではありません」
「免許皆伝です」
「やはり嘘ではありません」
「今の、私の真似ですか?」
透真は答えなかった。
ナイフを持った男が突っ込んでくる。
透真は刃から逃げた。
身体を右へ滑らせ、男の側面へ回る。
ナイフを持つ手には触れない。
肘を軽く押し、進行方向だけを変える。
男はそのまま、女性へ向かってよろめいた。
「え、こっちに渡すんですか?」
「お願いします」
「仕方ないですね」
女性は男の手首を取った。
動きは滑らかだった。
力をぶつけるのではなく、男が前へ進もうとする勢いをそのまま利用する。
彼女は身体を半回転させ、男の腕を円を描くように導いた。
次の瞬間、男の身体が宙を舞った。
背中から床へ落ちる。
ナイフが手を離れた。
彼女は男の手首を固定し、身動きを封じる。
「痛い痛い痛い!」
「暴れると、もっと痛くなりますよ」
「離せ!」
「嫌です」
別の男が、背後から彼女へ掴みかかる。
透真は床に落ちていたキャスター付きの椅子を、足先で軽く押した。
椅子が男の膝裏に当たる。
男はバランスを崩し、女性の横を通り過ぎた。
彼女は空いた左手で男の腕を取り、そのまま床へ伏せさせる。
二人同時に制圧した。
「なかなか相性が良さそうですね、私たち」
「気のせいです」
「嘘ですか?」
「感想です」
「それは見抜けないんですよね」
「何がですか」
「人の気持ちです」
彼女はそう言って、透真を見つめた。
「事実かどうかは分かります。言葉が嘘か本当かも分かります。でも、その人が何を感じているのかは分からないんです」
「普通は分かりません」
「普通じゃないものは、普通のことが苦手なんですよ」
最後に残ったタトゥーの男が後退する。
仲間が次々に倒され、完全に戦意を失っていた。
男は出口へ視線を向けた。
逃げるつもりだ。
透真は止めなかった。
逃げたい人間を、追う理由はない。
「おい」
倒れていた大柄な男が、低い声を出した。
透真が振り返る。
男は床に伏せたまま、ジャケットの内側へ手を入れていた。
銃。
透真は、見える前からそれを理解した。
金属の擦れる微かな音。
重心の変化。
そして何より、この場に生まれた死の気配。
男が小型の拳銃を抜く。
銃口が、女性へ向いた。
「死ね!」
銃声が響いた。
狭い事務所の空気が震える。
女性の黒い瞳が大きく見開かれた。
だが、弾丸は彼女に当たらなかった。
透真が、その間に立っていた。
「え……?」
女性の声。
透真の胸元。
白いシャツに、穴は開いていない。
血も出ていない。
彼は撃たれていなかった。
弾丸は確かに発射された。
銃口は確かに透真へ向いていた。
距離は五メートルもない。
外れるはずがない。
それでも弾丸は、透真の身体へ到達しなかった。
壁にも、天井にも、床にも、弾痕はない。
弾丸そのものが、この空間から消えていた。
透真は男を見る。
その瞳には、静かな怒りがあった。
「武器を下ろしてください」
「な、なんだ、お前……」
「下ろしてください」
「化け物……」
男の指が、再び引き金に掛かる。
透真の表情が曇った。
銃を持った人間を止める方法は、いくつも知っている。
腕を折る。
喉を潰す。
神経を打つ。
意識を断つ。
命を奪うことさえ、難しくはない。
透真は、あらゆる武術に通じていた。
空手。
柔術。
剣術。
槍術。
中国武術。
ボクシング。
軍隊格闘術。
その他、名前すら持たない殺人技術。
しかし、彼はそれらを使わない。
武器も持たない。
武器を持った瞬間、自分は誰かを傷つける側になる。
一度でもそちら側へ立てば、もう逃げられなくなるかもしれない。
何より。
強さとは、相手を倒す力ではない。
戦わずに終わらせる力だと、透真は信じている。
「撃つなら、もう一度撃っても構いません」
透真が言った。
「やめてください!」
女性が声を上げる。
男は引き金を引いた。
二発目の銃声。
再び、弾丸は消えた。
透真には届かない。
男は三度、四度と引き金を引いた。
銃声だけが響く。
弾丸は一発も透真に触れない。
それどころか、どこにも存在しない。
銃弾という結果だけが、透真から逃げられたのではない。
透真が、銃弾に当たるという因果から逃げたのだ。
やがて、拳銃のスライドが後退した状態で止まった。
弾切れ。
男は震える手から銃を落とした。
「ありえない……」
「そうですね」
透真は答えた。
「普通なら、ありえません」
女性が透真を見つめていた。
先ほどまでの天真爛漫な笑顔は消えている。
黒い瞳は、彼をまっすぐに捉えていた。
彼女には分かる。
起きたことが事実かどうか。
目の前の現象が、手品や錯覚ではないことも。
透真が無傷であることも。
発射された弾丸が、どこにも到達していないことも。
すべて事実。
だからこそ、理解できない。
「あなたは……何から逃げたんですか」
彼女が尋ねた。
透真は答えなかった。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
女性がスマートフォンを見せた。
「追われながら警察に通報しておきました」
「最初からですか」
「はい」
「なら、ここへ逃げ込む必要はなかったのでは?」
「それとこれとは別です」
「何が別なんですか」
「警察が来るまで捕まらないようにする必要がありました」
「もっと人の多い場所へ行けばよかったでしょう」
女性は少し考えた。
「なぜか、ここに来た方がいい気がしたんです」
透真の背筋に、微かな寒気が走った。
偶然。
直感。
運命。
人はそれらを別々の言葉で呼ぶ。
しかし、ときにその正体は同じものだ。
世界が、ある地点へ人間を導こうとする力。
透真は女性を見る。
彼女を中心に、何かが動いている。
これは今日だけの出来事ではない。
おそらく彼女は、何度も事件に巻き込まれてきた。
事件に巻き込まれるのではない。
事件の方が、彼女を目指して集まってくる。
「名前を聞いてもいいですか?」
女性が尋ねた。
「聞かない方がいいです」
「どうしてですか?」
「あなたと関わると、面倒なことが起こりそうなので」
「それはもう起きました」
「これ以上です」
「安心してください。私は悪い人ではありません」
「嘘ではありませんね」
「でしょう?」
「ですが、悪いことを連れてくる人ではあります」
彼女は一瞬、驚いた顔をした。
そして、楽しそうに笑った。
「よく言われます」
「否定してください」
「でも事実なので」
サイレンが近づいてくる。
透真は床のバッグを拾った。
「警察には、あなた一人で説明してください」
「あなたは?」
「帰ります」
「襲われたのに?」
「当事者ではありません」
「銃で撃たれましたよ」
「当たっていません」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題です」
透真は出口へ向かう。
女性が男たちを拘束したまま、声を掛けた。
「待ってください」
透真は立ち止まらない。
「名前くらい教えてください」
「嫌です」
「じゃあ、私から名乗ります」
「聞いていません」
「白峰アリスです」
その名を聞いた瞬間、透真の足が止まった。
わずかな反応。
他人なら気づかなかっただろう。
だがアリスは見逃さなかった。
「私のこと、知っているんですか?」
「知りません」
「それは嘘です」
透真は振り返らなかった。
白峰。
その姓を、彼は知っている。
正確には、忘れたはずだった。
十年前。
透真は、自分の過去から逃げた。
記憶から逃げた。
名前から逃げた。
家族から逃げた。
そこで起きた出来事から逃げた。
だから思い出せない。
思い出せるはずがない。
それでも、白峰という二文字を耳にした瞬間、存在しないはずの記憶が胸の奥で軋んだ。
炎。
雨。
崩れ落ちる建物。
差し出された小さな手。
泣いている少女。
そして、誰かの声。
――この子だけは、逃がして。
透真は胸元を押さえた。
痛みではない。
もっと曖昧で、もっと深いもの。
忘れたはずの約束。
「どうしました?」
アリスの声が近づく。
透真は彼女から逃げようとした。
だが、足が動かない。
逃げられない。
そんなことは、今まで一度もなかった。
逃げたいと願えば、何からでも逃げられた。
なのに今は、白峰アリスという存在から、自分を切り離すことができない。
透真は初めて彼女を正面から見た。
プラチナブロンドの髪。
黒い瞳。
その奥に、世界の真実を見抜く光がある。
アリスは透真の顔をじっと見つめた。
「あなた、私を知っていますね」
「知りません」
「嘘です」
「忘れました」
アリスが目を細める。
「それは……」
彼女の表情が変わった。
困惑。
言葉の真偽を確実に見抜ける彼女が、初めて答えを出せずにいる。
透真は知らない。
同時に知っている。
忘れている。
同時に覚えている。
相反する二つの事実が、どちらも真実として存在していた。
「あなた、何者なんですか」
アリスが小さく尋ねた。
透真は数秒間、沈黙した。
そして、諦めるように答えた。
「久世透真です」
アリスの顔に笑みが戻る。
「透真さんですね」
「名前を教えただけです」
「はい」
「もう会うことはありません」
「それは嘘です」
「なぜ分かるんですか」
「分かるからです」
「未来のことは事実ではありません」
「そうですね」
アリスは黒い瞳で透真を見つめる。
「でも、あなたは今、もう会わないと思っていません」
透真は答えられなかった。
嘘を見抜くことはできても、気持ちは見抜けない。
彼女はそう言った。
だが、事実と感情の境界は、本人が思うほど明確ではないらしい。
エレベーターの到着音が鳴る。
警察官たちの声が廊下に響いた。
透真は今度こそ歩き出す。
アリスは追いかけなかった。
ただ、去っていく背中に向かって声を上げた。
「また会いましょう、透真さん!」
透真は振り返らず、片手だけを上げた。
否定はしなかった。
それが失敗だった。
ビルを出ると、外は既に暗くなっていた。
雨が降り始めている。
天気予報では、降水確率はゼロだった。
透真は傘を持っていない。
本来なら、雨から逃げることもできる。
自分の身体だけを濡れない結果へ移すこともできる。
しかし今夜、透真はそうしなかった。
雨に濡れながら歩いた。
十年前の記憶が、断片的に胸の奥へ浮かんでは消える。
白峰アリス。
彼女は何者なのか。
なぜ自分は、彼女から逃げられなかったのか。
そして、あの銃弾。
透真は無意識に、自分の右手を見た。
発射された弾丸は、どこへ消えたのか。
普段なら、攻撃という結果から自分だけが外れる。
弾丸は壁か床へ当たる。
だが今回は違った。
弾丸そのものが世界から消えた。
透真の力が強くなっている。
あるいは、何かが壊れ始めている。
「最悪だ」
呟いた直後、スマートフォンが鳴った。
知らない番号からの着信。
透真は足を止めた。
アリスに番号を教えた覚えはない。
警察に伝えた覚えもない。
会社の番号ではなく、個人のスマートフォンだ。
着信音は鳴り続ける。
透真は出ないことを選んだ。
この電話から逃げればいい。
着信という出来事との関係を断てば、電話は二度とかかってこない。
そう考えた瞬間。
画面に表示されていた番号が消えた。
代わりに、短い文章が浮かび上がる。
送信者の名前はない。
ただ、一行だけ。
――逃げ続けた先に、終わりはあるか。
透真の表情が消えた。
背後で雷鳴が響く。
街の照明が一斉に消えた。
停電。
信号も、ビルの窓も、街灯も。
街全体が暗闇に包まれる。
人々の悲鳴が上がる。
車のブレーキ音。
何かが衝突する音。
透真は暗闇の中で目を閉じた。
そして理解した。
白峰アリスとの出会いは、始まりではない。
既に何かが始まっていたから、二人は出会わされたのだ。
遠く離れた高層ビルの屋上。
暗闇に沈んだ街を、一人の男が見下ろしていた。
白いコートを着た長身の男。
その手には、正義を象徴するかのような銀色の天秤が握られている。
片方の皿には、久世透真の写真。
もう片方には、白峰アリスの写真。
天秤は大きく揺れていた。
「逃避と混沌が接触した」
男は静かに呟く。
「これで世界の均衡は崩れる」
背後に立つ黒服の人物が尋ねた。
「排除しますか?」
「まだだ」
男は透真の写真を指先で摘まむ。
「罪から逃げる者を、正義は許さない」
銀色の天秤が、透真の側へ傾いた。
「久世透真」
男の瞳に、冷たい光が宿る。
「お前が世界の法から逃げられるというのなら――」
暗闇の中で、天秤だけが白く輝いた。
「私がお前を裁こう」
そのさらに遠く。
街でも、国でもない場所。
時間と空間の境界すら存在しない、世界の外側。
巨大な黒い影が、ゆっくりと目を開いた。
それは始まりから存在し、あらゆる物語の最後に立つもの。
命の終わり。
時代の終わり。
文明の終わり。
世界の終わり。
すべてを閉じる概念。
その存在意義は、
終焉。
黒い影は、笑った。
逃げる者が目覚めた。
混沌を招く者と出会った。
正義を掲げる者が動き出した。
残る概念も、いずれ集まる。
「逃げてみろ」
世界の外側から、声が響く。
誰にも聞こえない声。
ただ一人。
久世透真だけが、暗闇の街で顔を上げた。
「今のは……」
確かに、何かが聞こえた。
「逃げられるものなら、最後から逃げてみろ」
降りしきる雨の中。
久世透真の物語は、静かに始まった。
彼が逃げ続けた先に何があるのか。
自由か。
孤独か。
救いか。
あるいは、世界の終わりか。
その答えを知る者は、まだどこにもいなかった。
ただ一つ確かなことがある。
久世透真は、あらゆるものから逃げることができる。
けれど、この夜初めて出会った少女からだけは――。
逃げることができなかった。




