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第10話 逃がす男と、選ぶということ

10話目になります。

よろしくお願いします。


空き地から十年前の建物が消えてから、二十分ほどが経っていた。


夏の午後の日差しは容赦なく照りつけている。さっきまで目の前に存在していた炎も雨も、今はどこにもない。濡れていたはずの透真のジャケットも乾いていて、靴底に残っていた水滴さえ消えていた。


まるで最初から、何も起きていなかったようだった。


ただ一つ。


相良修司が手にしている透明な証拠袋の中に、古びた銀色の鍵が残っている。


それだけが、今見たものを夢ではなかったと証明していた。


透真はフェンスの前に立ち、何もない空き地を眺めていた。雑草が風に揺れ、道路を走る車の音が聞こえる。少し離れた場所では、蝉が何事もなかったように鳴き続けている。


普通の日常。


つい数分前まで、そこに十年前が存在していたとは思えない。


「久世」


背後から相良に呼ばれた。


透真は振り返らなかった。


「何ですか」


「一応言っとくが、帰るなよ」


「帰るつもりでした」


「だから言ったんだ」


透真は小さく息を吐いた。


振り返ると、相良は証拠袋を片手に持ったまま、いつものように片目を僅かに閉じている。


大場泰然は車の横に立ち、額の汗を大きな手で拭っていた。先ほどまで存在しない建物の中にいたせいなのか、それとも単純に暑いからなのか、本人にも判断がついていないらしい。


白峰アリスは少し離れた場所で、自分の両手を見ていた。


その表情は珍しく静かだった。


御影廻斗だけは、まだ空き地を見ている。


「事情を聞く」


相良が言った。


「さっきも聞いていたでしょう」


「それは十年前の話だ」


「今の出来事についてなら、全員見ています」


「だから全員から聞く」


「非効率ですね」


「警察は効率だけで仕事してない」


「大変ですね」


「お前のせいでな」


透真が少し眉を寄せる。


「私のせいではありません」


すぐ横からアリスの声が飛んできた。


「今のは本当です」


「呼んでません」


「一応」


「必要ありません」


相良が二人を見る。


「お前ら、普段からずっとそれやってるのか」


「違います」


「大体こんな感じです」


透真とアリスが同時に答えた。


一拍。


大場が吹き出した。


相良は額を押さえ、廻斗は空き地を見たまま肩を揺らした。


透真は気に入らないという顔をしたが、否定はしなかった。


その程度のやり取りができるだけで、先ほどまで張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


しかし。


透真の右手は、まだ完全には力が抜けていなかった。


自分以外の人間を逃がした。


アリス。


大場。


相良。


廻斗。


四人同時に。


しかも、偶然ではない。


明確に「この四人を崩落から逃がす」と考えた。


そして。


できた。


そこが問題だった。


今まで透真にとって「逃げる」という行為は、基本的に自分と世界との関係だった。


攻撃から逃げる。


事故から逃げる。


死から逃げる。


記憶から逃げる。


約束から逃げる。


そこに他人が介在することはない。


少なくとも。


そう思っていた。


「透真さん」


アリスがいつの間にか隣まで来ていた。


「何ですか」


「考え事ですか?」


「見れば分かるでしょう」


「内容までは分かりません」


「珍しく不便ですね」


「珍しくって何ですか」


透真は答えず、再び自分の右手を見る。


アリスもその手を見る。


「さっき」


アリスが静かに言った。


「私たちを逃がしましたよね」


透真の指が僅かに動いた。


「結果的には」


「意識してましたよね」


「……」


「透真さん?」


「最近、本当に便利ですね。その質問の仕方」


「ありがとうございます」


「褒めてません」


アリスは少し笑った。


だが、すぐに真面目な顔へ戻る。


「できるって、知らなかったんですか?」


「知りませんでした」


「一度も?」


透真は答える前に廻斗を見る。


十年前。


幼いアリスを逃がした。


それなら、初めてではない。


正確には。


「覚えている範囲では初めてです」


アリスはその言葉の意味を理解したようだった。


「十年前は別」


「らしいですね」


「自分のことなのに他人事みたいですね」


「覚えていないので」


それ以上の言葉が続かない。


透真は視線を空き地へ戻した。


アリスもしばらく黙っていた。


やがて。


「嬉しくないんですか?」


そう尋ねた。


透真が見る。


「何がですか」


「自分だけじゃなくて、他の人も助けられるって分かったこと」


その問いに、透真はすぐには答えなかった。


助ける。


アリスは自然にその言葉を使った。


透真にとって、それは少し違う。


少なくとも。


簡単には同じだと思えなかった。


「助けるのとは違います」


「そうですか?」


「はい」


透真は少し考え、言葉を選んだ。


「仮に、十人が事故に巻き込まれるとします」


アリスは黙って聞く。


「私が一人だけ逃がしたら」


透真はアリスを見る。


「残り九人を見捨てたことになりますか?」


アリスの笑みが消えた。


「それは……」


「全員逃がせるなら問題ない。でも、本当にどんな状況でも全員に使えるのかは分からない」


透真の声は淡々としていた。


だが、アリスには分かる。


これは能力の話だけではない。


「もし、一人しか逃がせなかったら」


透真は続ける。


「誰を選びます?」


アリスは答えなかった。


「子供?」


「……」


「若い人?」


「……」


「善人?」


「……」


「知り合い?」


アリスの黒い瞳が、ゆっくり透真を見る。


「自分が好きな人?」


そこで。


透真は言葉を止めた。


風が吹く。


アリスの長いプラチナブロンドの髪が揺れ、その一部が透真の腕に触れた。


透真は避けなかった。


「逃がせるということは」


透真が言う。


「選べるということです」


そして。


「選べるということは、選ばなかった側ができる」


アリスは黙ったまま、透真を見ていた。


「だから」


透真は僅かに視線を逸らす。


「面倒なんです」


アリスが数秒遅れて笑った。


大きな笑いではない。


少しだけ。


「透真さんらしいですね」


「褒めてます?」


「半分」


「最近それもよく聞きます」


「残り半分は」


アリスが少し考える。


「優しいなって思ってます」


透真の眉が動いた。


「それは違います」


「嘘ですか?」


「感想でしょう」


アリスが一瞬止まる。


透真はほんの僅かに口元を上げた。


「それは見抜けないんですよね」


アリスが目を細める。


「最近、私の能力の穴を突くの上手くなってません?」


「学習しました」


「ずるい」


「お互い様です」


その会話を、少し離れた場所から廻斗が聞いていた。


声を掛けようとはしなかった。


ただ、昔の何かと今の透真を重ねるように、静かに見ていた。


やがて相良が歩いてくる。


「話は終わったか」


「聞いてたんですか」


「聞こえた」


「盗み聞きですね」


「屋外で普通に喋ってただろ」


透真は否定できなかった。


相良は一度だけアリスを見て、それから透真へ視線を戻した。


「お前」


「はい」


「本当に何でも逃がせるのか」


「分かりません」


「自分は?」


「おそらく」


「他人は?」


「今知ったところです」


「距離は?」


「分かりません」


「人数は」


「分かりません」


「条件」


「分かりません」


相良が黙る。


大場が横から言った。


「相良さん」


「何です」


「久世に聞いても多分それ以上出ねえぞ」


「分かってます」


「なら何で聞く」


「聞かないと分からないからです」


大場が少し考えた。


「刑事って面倒だな」


「さっき御影さんにも言われました」


透真は二人を眺めながら、少しだけ思う。


普通の人間は。


普通ではない出来事に遭遇すると、もう少し取り乱すものではないのだろうか。


社長。


刑事。


叔父。


アリス。


自分の周囲には、慣れるのが早すぎる人間しかいない気がする。


その中で。


アリスだけは普通ではないから仕方ないとして。


「とりあえず署に来てもらう」


相良が言った。


透真は即座に顔を逸らした。


「久世」


「聞こえてます」


「来るよな」


「任意ですよね」


「今のところは」


「なら」


「久世」


大場の声。


透真が見る。


大場は腕を組み、伊達メガネの奥から透真を睨んでいた。


「行け」


「社長命令ですか」


「今日は有給だ」


「では命令権は」


「そういう時だけ頭回すな!」


アリスが笑った。


相良も僅かに口元を緩める。


透真は。


逃げようと思えば逃げられる。


事情聴取から。


警察から。


面倒から。


だが。


証拠袋に入った古い鍵を見る。


そして。


一度だけ。


廻斗を見る。


「……分かりました」


その返事に。


今度は大場が驚いた。


「素直だな」


「最近それもよく言われます」


透真は黒いバッグを持ち直した。


「行きます」


その日の午後五時過ぎ。


大阪府警の一室には、冷房の低い音が絶え間なく響いていた。


外の暑さとは対照的に、室内は少し冷えすぎている。


灰色の机。


簡素な椅子。


壁際に置かれたホワイトボード。


窓の外には、夕方の大阪の街が見える。


透真は椅子に座り、目の前に置かれた紙コップの水を見ていた。


飲んでいない。


相良は向かい側。


大場とアリスは別室。


廻斗も別の刑事から話を聞かれているらしい。


相良は資料をまとめながら、何度も同じことを確認した。


建物へ入った時間。


見えたもの。


幼い自分。


幼いアリス。


父親らしき人物。


閉ざされた扉。


崩落。


そして。


気がつけば全員が外にいたこと。


透真は、能力の部分だけを曖昧にして答えた。


嘘はついていない。


ただ。


全部は話していない。


「久世」


相良が資料から顔を上げる。


「はい」


「俺が見たこと」


「何です」


「普通じゃない」


「そうですね」


「否定しないんだな」


透真は紙コップへ視線を落とした。


「今さらでしょう」


相良は何も言わない。


片目を閉じる。


透真はその癖に気づいている。


相良が人を見るとき。


何かを判断しようとするとき。


視界の情報を減らす。


おそらく。


見たいものだけを見るためだ。


「超能力者か?」


相良が突然聞いた。


透真は少しだけ眉を上げた。


「刑事さんからその言葉が出るとは思いませんでした」


「俺もだ」


「答えは」


透真は少し考えた。


「違うと思います」


「思う?」


「私自身、よく分かっていないので」


相良はしばらく黙った。


机に置いたボールペンを指先で一度だけ転がす。


「お前は」


視線を上げる。


「怖くないのか」


透真は意味を考えた。


「何がです」


「自分が何なのか分からないことが」


その質問だけは。


少し違った。


警察としてではない。


一人の人間として聞いている。


透真は窓の外を見る。


夕日に染まり始めた大阪の街。


道路。


車。


人。


自分と何の関係もなく動いている日常。


「怖いですよ」


「そう見えん」


「見せる必要がないので」


相良が僅かに目を細める。


「逃げればいいんじゃないのか」


透真は相良を見る。


相良は続ける。


「記憶からも逃げられるんだろ」


透真の表情が僅かに変わった。


どこまで聞いていたのか。


相良はそれを察したらしい。


「御影さんの話と、お前たちの会話を繋げただけだ」


「刑事ですね」


「一応な」


透真は返事をしなかった。


逃げればいい。


確かに。


また全部忘れることはできる。


廻斗。


父親。


火事。


鍵。


アリスとの過去。


ここ数日の出来事さえ。


全部。


自分と切り離せばいい。


そうすれば。


明日から。


普通の会社員に戻れる。


「逃げませんよ」


透真が言った。


相良の片目が開いた。


「今回は」


透真は付け加える。


「今回は?」


「永久に逃げないとは言ってません」


相良が鼻から小さく息を吐いた。


笑ったのか。


呆れたのか。


透真には分からなかった。


「お前らしいな」


「数日しか会ってませんよ」


「数日で十分面倒だった」


「それはすみません」


「思ってないだろ」


透真は答えなかった。


午後六時を過ぎた頃。


事情聴取はひとまず終わった。


廊下へ出ると、大場が壁にもたれて待っていた。


長い椅子に座るには体が大きすぎるらしく、途中で諦めたらしい。


アリスはその椅子に座り、自動販売機で買ったミルクティーを飲んでいる。


透真を見ると、すぐに立ち上がった。


「終わりました?」


「とりあえず」


「帰れます?」


「帰りたいです」


「それは聞いてません」


「帰れると思います」


大場が壁から身体を起こした。


「久世」


「はい」


「今日はもう会社来んなよ」


「もう終業時間です」


「お前、本当にそういうところだけは普通だな」


「会社員なので」


「明日も休んでいいぞ」


「嫌です」


大場が目を見開く。


「何でだよ」


「仕事が溜まります」


「お前が仕事を理由に休み拒否する日が来るとはな」


「私を何だと思ってます?」


「責任から逃げる社員」


「否定できませんね」


アリスが笑う。


その笑い声が廊下に響いた。


警察署という場所には少し似合わないほど明るい。


透真はその横を通り過ぎようとした。


「透真さん」


「何です」


「帰り、一緒に」


「嫌です」


「まだ最後まで言ってません」


「一緒に帰りましょう、でしょう」


アリスが少し驚く。


「分かるようになりましたね」


「あなたが分かりやすいだけです」


「じゃあ」


アリスは少し考える。


「ご飯食べて帰りません?」


「嫌です」


「即答」


「今日は疲れました」


「私もです」


「なら帰って寝てください」


「一人で食べるより二人の方が回復します」


「何の理論ですか」


「私理論」


「信用できません」


そう言いながら。


透真は歩く速度を落としていた。


アリスも。


気づいた。


でも。


何も言わなかった。


大場だけが後ろから二人を眺め、大きな身体で腕を組む。


「若いなあ」


横から声。


「何がですか?」


振り返る。


御影廻斗がいた。


いつの間に事情聴取を終えたのか。


黒いコートは脱いで腕に掛けている。


大場が廻斗を見る。


「お前、四十六だろ」


「そうだけど」


「俺と三つしか変わらん」


「俺は若いつもりだ」


「俺もだ」


二人は少し睨み合った。


それから。


ほぼ同時に視線を逸らす。


妙なところで似ている。


廊下の先では。


透真とアリスが、まだ夕食について揉めていた。


その夜。


午後八時十三分。


透真は結局。


アリスと食事をしていた。


大阪市内の小さな定食屋。


駅から少し離れた場所にあり、店内には十席ほどしかない。


古いテレビからニュース番組の音が流れ、厨房では油の弾ける音がしている。


透真の前。


焼き魚定食。


アリスの前。


唐揚げ定食。


「結局来ましたね」


アリスが嬉しそうに言った。


「お腹が空いていたので」


「私と食べたかった?」


「違います」


「本当ですね」


「なぜ少し残念そうなんですか」


「別に」


アリスは唐揚げを一つ口へ運んだ。


透真も箸を取る。


そのまま。


しばらく会話はなかった。


店内の音だけ。


皿。


箸。


テレビ。


厨房。


外を通る車。


普通の夜だった。


透真は。


その普通さが。


少しだけありがたかった。


「透真さん」


アリスが静かに呼ぶ。


「何です」


「今日」


箸を置く。


「私を逃がしましたよね」


透真も箸を止める。


「さっきもその話しました」


「違います」


アリスは少しだけ迷った。


「十年前も」


透真は答えない。


「今日も」


アリスの黒い瞳が、真正面から透真を見る。


「どうして私なんですか?」


質問。


透真は意味を考える。


「全員逃がしました」


「今日は」


「十年前もあなた以外に人がいた可能性は」


「そうじゃなくて」


アリスは少し笑った。


「私、透真さんに何回助けられるんだろうって」


透真は。


焼き魚へ視線を落とす。


「数えなくていいです」


「何で?」


「返されても困るので」


「返しませんよ」


透真が顔を上げる。


アリスは笑っていた。


「だって」


少しだけ。


表情が柔らかくなる。


「透真さんが勝手にしたことですから」


透真は数秒。


何も言わなかった。


そして。


少しだけ。


笑った。


「それは助かります」


「でしょう?」


「責任を取らなくて済むので」


「そこですか」


二人の間に。


軽い笑い。


すぐに消える。


アリスは再び箸を持った。


透真も食事を再開する。


でも。


さっきとは少し違う。


静かでも。


気まずくない。


その頃。


大阪府警の証拠保管室では。


一つの証拠袋が、冷たい蛍光灯の下に置かれていた。


十年前の鍵。


相良が保管手続きを終えたばかりのもの。


室内には誰もいない。


監視カメラ。


施錠された扉。


窓なし。


完全に閉ざされた空間。


銀色の鍵は。


何も動かない。


一分。


二分。


三分。


そして。


午後八時十七分。


証拠袋の中で。


鍵が。


ゆっくり。


回転した。


誰も触れていない。


金属が。


透明な袋を擦る。


かすかな音。


鍵の先端が。


一定の方向を向く。


北。


ではない。


東。


でもない。


建物の構造上。


その先にあるのは。


壁。


何もない。


はずだった。


その壁の向こうから。


三回。


ノック。


こん。


こん。


こん。


監視カメラの映像が。


一秒だけ。


乱れた。


次に映った時。


壁には。


一枚の扉があった。


白い。


何の変哲もない扉。


取っ手。


鍵穴。


そして。


数秒後。


再び映像が乱れる。


扉は消えた。


証拠袋の鍵だけが。


元の位置へ戻っていた。


その異常を。


まだ誰も知らない。


同じ時刻。


大阪の中心部から少し離れた高層ホテル。


最上階のラウンジ。


大きな窓の向こうには、夜の大阪が宝石のように広がっている。


その窓際。


一人の人物が座っていた。


長い。


腰を遥かに越えるピンクブロンドの髪。


照明を受けるたび、淡い金色が混じって見える。


瞳はゴールド。


細身。


整いすぎた顔立ちは、女性的にも男性的にも見えた。


白いコート。


椅子の横。


銀色の天秤。


明日香蘭は。


ワイングラスではなく。


アイスティーの入った細長いグラスを指先でゆっくり回していた。


常に浮かべている微笑みは。


今も変わらない。


テーブルの向かいには。


スーツ姿の男。


五十代。


額には汗。


蘭と話し始めてから。


十五分。


男は自分でも気づかないうちに。


会社の内部事情。


資金の流れ。


隠していた取引。


ほとんど全てを話していた。


蘭は。


一度も。


「話せ」と言っていない。


ただ。


質問しただけ。


選択肢を示し。


相手が自分で答えを選んだように。


会話を動かした。


「つまり」


蘭が柔らかく言う。


「あなたは悪くない、と?」


「そ、そうです」


男はすぐ頷く。


「では、部下の方が悪い?」


「いや、それは……」


「会社?」


「そういうわけでも」


「取引先?」


「……」


男が詰まる。


蘭は微笑んだまま。


グラスを置いた。


「不思議ですね」


「何がです?」


「誰も悪くないのなら」


ゴールドの瞳。


男を見る。


「どうして悪いことが起きたんでしょう」


男は。


答えられなかった。


蘭は急かさない。


窓の向こう。


大阪の夜。


車の光。


ビル。


人。


無数の選択。


「まあ」


蘭が言った。


「どちらも正しいのでしょうね」


男が顔を上げる。


「どちらも?」


「あなたも」


微笑み。


「あなたが責任を押しつけようとした人たちも」


男の顔が強張る。


蘭は。


その反応を楽しむようでも。


責めるようでもない。


ただ。


見ている。


「正義って」


銀色の天秤へ。


指先を置く。


「片方だけにあると思うから難しいんです」


天秤。


僅かに揺れる。


男は。


何も言えない。


蘭のスマートフォンが。


一度だけ震えた。


画面。


通知。


文章ではない。


画像。


空き地。


久世透真。


白峰アリス。


大場。


相良。


廻斗。


五人。


蘭の微笑みが。


ほんの少し。


深くなる。


「すみません」


男を見る。


「今日はここまでにしましょう」


「え?」


「大丈夫です」


蘭は立ち上がった。


白いコートの裾が。


椅子を滑るように揺れる。


「あなたが何を選ぶかは」


銀色の天秤。


手に取る。


「あなたが決めればいい」


男が困惑する。


「じゃあ、何のために私はここへ?」


蘭は。


少し考えるように首を傾けた。


「選んだつもりになってもらうため?」


男の表情が凍る。


蘭は楽しそうに微笑んだ。


「冗談です」


それが。


本当に冗談だったのか。


男には分からない。


蘭はラウンジを出た。


長い廊下。


ヒールの音。


一定。


迷いなし。


エレベーター。


扉が開く。


鏡張りの室内へ入る。


一人。


鏡には。


同じ人物。


何人も映る。


女性。


男性。


そのどちらにも見える。


そのどちらでもある。


蘭は。


鏡の中の自分を見る。


「逃避」


小さく。


言う。


「混沌」


銀色の天秤。


僅かに。


揺れる。


「そして」


今日。


もう一つ。


逃避から派生したもの。


自分だけではなく。


他者を逃がす。


その意味。


蘭は目を閉じる。


天秤。


片方。


逃げる。


もう片方。


残る。


どちらも。


正しい。


どちらも。


間違っている。


だから。


面白い。


「久世透真」


蘭は。


初めて。


その名前を口にした。


エレベーターが一階へ到着する。


扉。


開く。


ホテルのロビー。


人。


光。


音。


蘭は歩き出す。


白いコートのポケットから。


一枚の紙を取り出した。


小さな広告代理店。


住所。


六階。


久世透真。


勤務先。


蘭は。


微笑む。


「そろそろ」


夜の街へ出る。


大阪の湿った夏の空気が。


長い髪を揺らした。


「会いに行こうかな」


その頃。


定食屋。


アリスが最後の唐揚げを食べ終えた。


透真は。


まだ焼き魚を少し残している。


「透真さん」


「何です」


「明日」


嫌な予感。


透真は。


箸を止める。


「会社行ってもいいですか?」


「駄目です」


「まだ理由言ってません」


「理由に関係なく駄目です」


「ひどい」


「仕事の邪魔なので」


「じゃあ静かにします」


「あなたに可能ですか」


「失礼ですね」


アリスが頬を膨らませる。


透真は。


水を一口飲む。


明日。


会社。


普通の日常。


朝。


仕事。


電話。


書類。


昼。


何も起こらない。


そんな日。


透真は。


まだ少しだけ。


期待していた。


けれど。


その夜。


相良の保管した鍵は。


もう一度。


誰もいない証拠保管室で。


静かに回転した。


そして。


透真の会社では。


誰もいない六階の廊下の奥。


存在しないはずの壁から。


三回。


ノックの音がした。


こん。


こん。


こん。


十年前に閉ざされた扉は。


もう。


過去の中だけに存在するものではなかった。

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