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11/25

第11話 正義は、笑ってやってくる

11話目になります。

よろしくお願いします。


翌朝。


久世透真は、いつもより十一分早く目を覚ました。


午前七時二分。


目覚まし時計はまだ鳴っていない。


薄いカーテンの隙間から朝の光が差し込み、部屋の壁に細長い線を作っている。


昨夜つけたまま眠ったエアコンの低い駆動音。


窓の外を走る一台目のトラック。


遠くで鳴く蝉。


何もおかしくない。


透真はベッドの上で数秒間、天井を見つめた。


そして。


右手を持ち上げる。


昨日。


この手で。


四人を逃がした。


正確には、手を使ったわけではない。


触れていない人間もいた。


何かを掴んだわけでも。


何かを放ったわけでもない。


ただ。


逃がす。


そう決めた。


それだけだった。


透真は指を開く。


握る。


もう一度開く。


見た目は普通の手だった。


傷もない。


痣もない。


何か特別なものが宿っているようにも見えない。


「……面倒だな」


朝一番の言葉がそれだった。


能力が増えた。


そんな単純な話なら、まだ良かった。


自分ができることを新しく知っただけかもしれない。


もっと悪い可能性もある。


昨日。


自分の存在意義そのものが変化した。


あるいは。


自分がこれまで理解していた「逃避」というものが、最初から間違っていた。


透真は起き上がった。


考えるのをやめる。


今考えても分からない。


分からないことを朝から考え続けても、会社へ行く時間が遅くなるだけだった。


顔を洗い。


歯を磨き。


白いシャツを着る。


ネイビーのジャケット。


黒いスラックス。


黒いビジネスバッグ。


いつも通り。


玄関を出る直前。


透真は一度だけスマートフォンを見る。


通知。


三件。


一件目。


会社の業務連絡。


二件目。


大場泰然。


『今日は普通に来い』


透真は少し眉を寄せた。


昨日までなら。


普通に来い。


などという連絡を受ける理由はなかった。


三件目。


白峰アリス。


午前六時四十一分。


『おはようございます』


それだけ。


透真は画面を見る。


返信しない。


スマートフォンをポケットへ入れた。


ドアを開ける。


数秒。


閉める。


そして。


階段を降りながら。


結局。


スマートフォンを取り出した。


『おはようございます』


送信。


三秒。


既読。


速い。


『返ってきた!』


透真は画面を閉じた。


朝から少しだけ疲れた。



午前八時四十三分。


大場企画。


六階。


透真がエレベーターを降りると。


廊下に。


大場泰然が立っていた。


身長百九十五センチ。


黒い短髪。


ヘーゼルの瞳。


今日も伊達メガネ。


腕を組み。


事務所の扉の前。


完全に待ち構えている。


透真は一歩だけ止まった。


「おはようございます」


「おう」


「では」


透真が身体を横へ向ける。


大場の眉が動く。


「どこ行く」


「トイレです」


「今来たばっかりだろ」


「生理現象に出勤時間は関係ありません」


「嘘つけ」


透真が止まる。


「最近、みんなそれ言いますね」


「逃げようとしただろ」


「なぜ?」


「俺の顔見て方向変えた」


「偶然です」


「昨日の白峰ちゃん呼ぶぞ」


透真が大場を見る。


大場が少し勝ち誇った顔をした。


「入れ」


「……はい」


事務所の扉を開く。


中。


いつも通り。


蛍光灯。


コピー機。


デスク。


観葉植物。


廉沙莉が自分の席でパソコンを操作している。


クリームブラウンのボブ。


白いブラウス。


ネイビーのタイトスカート。


朝からすでに仕事の顔。


「おはようございます」


「おはようございます、久世さん」


沙莉は画面を見たまま答えた。


透真は自分の席へ向かう。


椅子。


机。


パソコン。


昨日と変わらない。


一つを除いて。


「……何ですか、これ」


透真の机の上。


透明な保存袋。


中。


小さな紙片。


白紙。


何も書かれていない。


大場が近づく。


「俺も聞きてえ」


「誰が置いたんです」


「知らん」


「沙莉さん?」


「私じゃないですよ」


沙莉が振り返る。


笑っていない。


「今朝、来た時にはもうありました」


「社長より先に?」


「私の方が三分早かったです」


大場が不満そうな顔をする。


「何でそこ張り合うんですか」


沙莉が笑う。


「社長、毎朝一番乗りしたがるんで」


「したがってねえ」


「昨日は八時三十八分でしたよね」


「何で覚えてんだ」


「勤怠です」


「俺のも取ってんの?」


「社長なので」


「俺、社長なのに?」


「社長だからです」


透真は二人の会話を半分聞き流しながら、机の紙片を見る。


普通の紙。


名刺より少し小さい。


表。


白。


裏。


白。


匂い。


特になし。


何もない。


「触りました?」


透真が尋ねる。


「触ってねえ」


大場。


「私も」


沙莉。


「警察に連絡は」


「まだ」


大場が言う。


透真が見る。


「意外ですね」


「昨日相良さんに散々話したからな」


伊達メガネを押し上げる。


「とりあえずお前が来るまで待った」


「なぜ私を基準に」


「最近変なこと全部お前から始まってるからだ」


「風評被害ですね」


「事実だろ」


透真は保存袋を持ち上げる。


軽い。


紙。


本当にただの紙にしか見えない。


その時。


沙莉が言った。


「久世さん」


「はい」


「昨日の夜」


「何です」


沙莉の手が止まる。


「ここ、誰か来ました?」


透真が見る。


「私は来ていません」


「社長は?」


「来るか。昨日あのあと警察だったんだぞ」


「ですよね」


沙莉の顔から。


いつもの笑みが少し消える。


「朝」


「はい」


「廊下の防犯カメラ確認したんです」


透真の視線が変わった。


「何か映ってました?」


「何も」


「なら」


「でも」


沙莉が画面を開く。


映像。


昨夜。


午後十一時五十八分。


誰もいない六階。


照明。


消えている。


非常灯だけ。


静かな廊下。


映像右上。


時刻。


十一時五十九分。


十二時。


その瞬間。


画面。


一度。


乱れる。


一秒。


戻る。


誰もいない。


沙莉が少し早送りする。


十二時三分。


また乱れる。


十二時六分。


また。


十二時九分。


透真が目を細める。


「三分間隔」


「はい」


「何回」


「十回」


沙莉が答える。


「十二時二十七分まで」


「それで終わり?」


「はい」


透真は画面を見る。


最後。


十二時二十七分。


映像が乱れる。


戻る。


その瞬間。


透真の目が止まった。


「戻してください」


「はい」


一秒。


戻る。


停止。


廊下。


何もない。


透真が近づく。


「ここ」


画面の奥。


事務所から数メートル離れた壁。


白い壁。


いつも通り。


だが。


床。


壁の前。


細い影。


縦。


扉ほどの幅。


光源はない。


「昨日はこんな影ありました?」


沙莉が画面を見る。


表情が変わる。


「……ないです」


大場も近づく。


「扉みてえだな」


誰もすぐには答えなかった。


透真は。


昨日。


証拠保管室。


古びた鍵。


開けてはいけない部屋。


思い出す。


「相良さんに連絡してください」


大場が透真を見る。


「お前から?」


「社長からお願いします」


「何で」


「私は」


透真は自分の席へ座る。


「仕事します」


「お前なあ!」


「昨日休んだ分が溜まってます」


「そういう問題か!」


「会社なので」


沙莉が口元を押さえる。


「久世さん」


「何です」


「普通に仕事始めるんですね」


「異常が起きる度に仕事を止めていたら何も終わりません」


「慣れてません?」


「慣れたくはありません」


本心だった。


大場は大きなため息をつき。


スマートフォンを取り出した。


「分かったよ。相良さんに電話する」


「お願いします」


「その代わり」


大場が言う。


「今日は勝手に消えるなよ」


「努力します」


「それ禁止にするぞ」


透真はパソコンを起動した。


電源。


ロゴ。


起動。


普通。


社員名簿。


三人。


普通。


メール。


未読。


十二件。


普通。


透真はキーボードへ手を置く。


その時。


二度。


ノック。


事務所の入口。


全員が止まった。


大場が電話を耳に当てたまま。


透真を見る。


沙莉も。


誰も動かない。


三度目。


こん。


一瞬。


昨日の扉。


透真の背中に。


冷たいものが走った。


だが。


今回は。


扉の向こうから。


女性の声。


「すみません」


全員。


僅かに力が抜ける。


沙莉が立つ。


「はーい」


透真が言う。


「待ってください」


沙莉が止まる。


「何です?」


透真は扉を見る。


足音。


一人。


ヒール。


呼吸。


落ち着いている。


動きに迷いがない。


異常な気配。


なし。


少なくとも。


透真には感じない。


「……大丈夫です」


「何だったんですか」


「最近、扉が嫌いになりました」


沙莉が笑う。


「珍しい弱点」


「笑わないでください」


沙莉が扉を開ける。


そして。


止まった。


数秒。


何も言わない。


大場が怪訝そうに見る。


「沙莉?」


「……あ」


沙莉がようやく声を出した。


「すみません」


扉の外。


一人の人物が立っていた。


白いコート。


その裾が。


夏の風もない廊下で。


僅かに揺れている。


身長。


百七十センチほど。


細身。


長い。


異常なほど長い髪。


腰。


いや。


さらに下。


太腿近くまで流れる。


ピンクブロンド。


蛍光灯の白い光を受け。


角度によって淡い金色にも見えた。


瞳。


ゴールド。


顔立ち。


美しい。


という言葉だけでは。


少し足りない。


女性的。


同時に。


男性的。


どちらでもあり。


どちらかに分類する必要そのものを感じさせない。


整いすぎた顔。


柔らかな口元。


常に。


微笑んでいる。


沙莉が固まった理由を。


透真は理解した。


容姿。


それだけでも目を引く。


だが。


透真が見ていたのは。


そこではない。


右手。


銀色の天秤。


小さい。


持ち運べる大きさ。


けれど。


昨日。


高層ビルの向こう。


炎の中。


一瞬だけ見た。


白いコート。


銀色の天秤。


同じ。


透真の指が。


キーボードの上で止まる。


相手も。


透真を見た。


ゴールドの瞳。


一瞬。


その笑みが。


ほんの少し。


深くなった。


「こんにちは」


声。


低すぎない。


高すぎない。


耳に残る。


「大場企画さんはこちらで合っていますか?」


沙莉が。


ようやく仕事の顔へ戻る。


「はい。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」


「ありがとうございます」


人物は。


丁寧に頭を下げた。


「明日香と申します」


透真。


動かない。


「明日香……」


大場が口にする。


「はい」


白いコートの人物。


微笑む。


「明日香蘭です」


透真の中で。


一つ。


言葉が浮かぶ。


正義。


なぜ。


そう思ったのか。


自分でも分からない。


蘭は。


沙莉へ視線を戻した。


「久世透真さんはいらっしゃいますか?」


沙莉の視線が。


ゆっくり。


透真へ。


大場も。


透真を見る。


透真は。


小さく息を吐いた。


「いません」


沙莉が即座に吹き出した。


蘭も。


微笑んだまま。


大場は頭を抱えた。


「久世」


「何です」


「本人が言うな」


「今から外出すれば嘘では」


「なる」


蘭が。


静かに言った。


全員。


見る。


ゴールドの瞳が。


透真を捉えている。


「少なくとも」


蘭は笑う。


「今は、ここにいらっしゃいますから」


透真は。


アリスとは違う。


そう思った。


アリスは。


事実を見抜く。


蘭は。


言葉を。


逃がさない。


そんな印象。


「何の用ですか」


透真が尋ねた。


「お仕事の相談です」


「営業なら担当が」


大場が眉を寄せる。


「うち営業担当いねえだろ」


「では社長が」


「お前が名指しされてる」


「不自然ですね」


「分かってる」


蘭が小さく笑う。


「大丈夫ですよ」


「何がです」


「怪しいですよね」


透真が一瞬。


黙る。


蘭は続ける。


「初対面」


一歩。


事務所の中へ。


沙莉は。


なぜか。


自然に道を譲っていた。


「久世さんを名指し」


もう一歩。


「見慣れない格好」


銀色の天秤。


「変な物まで持っている」


透真の視線が。


天秤へ動く。


蘭は。


それを見ている。


「警戒するのは正しいと思います」


透真が答える。


「なら帰っていただけると助かります」


「それも正しい」


「では」


「でも」


蘭は。


その場で止まった。


透真まで。


距離。


約四メートル。


近すぎず。


遠すぎない。


「私が帰るのが正しいなら」


笑み。


「私の話を聞くことが間違いだと、まだ決まっていませんよね?」


透真の眉が。


僅かに動く。


大場。


沙莉。


会話を聞いている。


誰も。


おかしいとは思っていない。


普通の問い。


普通の返答。


なのに。


透真は。


気づく。


話を聞くか。


帰ってもらうか。


いつの間にか。


その二択になっている。


本当は。


警察を呼ぶ。


無視する。


会社から出る。


大場へ任せる。


いくらでも選択肢がある。


蘭は。


選択肢を減らしている。


会話だけで。


「誘導しますね」


透真が言った。


蘭の瞳が。


ほんの少し。


楽しそうに細くなる。


「気づきます?」


「気づかない方が楽でした」


「それも一つの選択ですね」


「何の用ですか」


「話」


「内容は」


「正義について」


大場が。


眉を寄せた。


沙莉も。


少し困った顔。


透真だけ。


表情が消える。


「宗教なら帰ってください」


「違います」


「政治?」


「もっと面倒です」


「なら余計に嫌です」


蘭が笑った。


声を立てない。


ただ。


口元が柔らかく上がる。


「久世透真さん」


初めて。


フルネーム。


「あなたは昨日」


透真の中の警戒が。


一段。


上がった。


「四人を逃がしましたね」


大場が。


完全に黙る。


沙莉。


何の話か分からず。


透真を見る。


「何のことですか」


「崩れる建物から」


蘭。


「白峰アリス」


一人。


「大場泰然」


二人。


大場の表情が変わる。


「相良修司」


三人。


「御影廻斗」


四人。


透真の右手。


無意識に。


机の下へ。


逃げ道。


入口。


窓。


非常階段。


位置。


確認。


蘭は。


それを見ていた。


「大丈夫です」


「何が」


「今、逃げても追いません」


透真の目が止まる。


大場が。


蘭を見る。


「ちょっと待て」


低い声。


「昨日のこと、何で知ってる」


蘭は。


大場へ。


同じ微笑みを向けた。


「見ていたからです」


「どこから」


「遠くから」


「誰なんだ、あんた」


「明日香蘭です」


「名前じゃねえよ」


大場の声が。


一段低くなる。


普段。


社員へ向ける厳しさとは違う。


守る側。


社長としての顔。


蘭は。


その変化を。


興味深そうに見た。


「大場さん」


「何だ」


「久世さんを守ろうとしています?」


「社員だからな」


「危険だと思っているのに?」


「だからだ」


即答。


蘭の笑みが。


少しだけ深くなる。


「素敵ですね」


「何がだ」


「両立している」


大場が眉を寄せる。


蘭は説明しない。


透真が。


蘭の右手。


銀色の天秤を見る。


「あなた」


「はい」


「昨日の建物にいましたね」


沙莉が。


透真を見る。


大場も。


蘭。


数秒。


透真を見つめた。


「いました」


嘘。


ではない。


透真には分からない。


でも。


蘭は隠す気もないらしい。


「なぜ」


「見たかったから」


「何を」


「あなたを」


透真の表情が。


少しだけ嫌そうになる。


「帰っていいですか」


「ここ、あなたの会社ですよね」


「帰宅します」


「まだ午前九時です」


「早退」


大場が横から言う。


「認めねえぞ」


「社長」


「今日は逃がさねえ」


蘭が。


その言葉に。


僅かに目を細めた。


逃がさない。


ほんの一瞬。


天秤。


銀色の皿が。


小さく。


揺れた。


誰も触れていない。


透真だけが。


気づいた。


「その天秤」


「気になります?」


「動きました」


「よく見ていますね」


「目は良いので」


「知っています」


透真の瞳。


冷える。


「なぜ知っている」


蘭。


返事の前。


少しだけ。


間を作った。


意図的。


透真には。


そう見えた。


「久世さん」


「はい」


「昨日、四人を逃がしたこと」


「……」


「良いことをしたと思います?」


唐突。


透真が黙る。


蘭は。


答えを急かさない。


沙莉。


大場。


何も言わない。


空調。


コピー機。


外の車。


会社。


普通の日常。


その真ん中で。


質問だけが。


異物のように残る。


「思いません」


透真が答えた。


大場が少し眉を動かす。


蘭は。


表情を変えない。


「悪いこと?」


「それも違います」


「では」


蘭。


一歩。


透真へ近づく。


「正しい?」


「正しいかどうかを」


透真は答える。


「私が決めることではありません」


蘭の足が止まった。


数秒。


ゴールドの瞳。


透真を見る。


「どうして?」


「四人を逃がした結果」


透真。


右手。


見る。


「別の誰かが死んだ可能性がゼロだと証明できない」


大場の表情が変わる。


沙莉は。


話についていけていない。


それでも。


黙って聞く。


「今回はたまたま全員だった」


透真は続ける。


「もし次」


「一人しか逃がせなかったら?」


蘭が。


先を取る。


透真の目が。


僅かに開く。


アリスと。


昨日。


話した問い。


蘭は。


知らないはず。


「誰を選ぶ?」


蘭。


「子供」


一つ。


「友人」


二つ。


「恋人」


三つ。


「善人」


四つ。


「社会的価値の高い人」


五つ。


「それとも」


蘭は。


笑った。


「自分?」


透真。


答えない。


蘭は。


透真の沈黙を。


否定とも。


肯定とも扱わない。


「難しいですよね」


「あなたなら?」


透真が聞いた。


蘭。


ほとんど間を置かない。


「両方」


透真の眉が。


動く。


「一人しか選べない話です」


「なら」


蘭は。


銀色の天秤を持ち上げる。


左右。


二つの皿。


「一人しか選べないという条件を疑います」


透真。


天秤を見る。


「逃げてますね」


今度は。


蘭の瞳が。


僅かに開いた。


大場。


少し。


口元が動く。


沙莉も。


透真と蘭を交互に見る。


「質問から」


透真が言う。


「一人しか選べないという前提から逃げた」


蘭。


数秒。


そして。


初めて。


少し。


楽しそうに笑った。


「そうですね」


「正義なのに?」


「正義だからです」


透真の目。


細くなる。


蘭は。


天秤を下ろした。


「一人を救う正義」


右。


「九人を救う正義」


左。


「どちらが正しい?」


「人数なら九人」


「では一人がアリスさんなら?」


空気。


止まった。


透真の表情から。


完全に。


色が消える。


大場が。


蘭を見る。


沙莉も。


名前を知っている。


その質問の意味までは。


分からない。


透真は。


一秒。


二秒。


答えない。


蘭は。


待つ。


微笑み。


崩さない。


それが。


透真には。


少し気に入らなかった。


「選択肢が不足しています」


透真が言う。


蘭の目が。


細くなる。


「どう不足しているんです?」


「九人も」


一拍。


「アリスも」


もう一拍。


「全部逃がします」


銀色の天秤。


大きく。


揺れた。


蘭の笑みが。


止まった。


ほんの一瞬。


初めて。


微笑みが消えた。


透真は見逃さない。


次の瞬間。


元に戻る。


「なるほど」


蘭。


小さく。


呟く。


「やっぱり」


「何が」


「あなた」


天秤。


見る。


「正義と相性が悪そう」


透真が。


即答する。


「良かったです」


「なぜ?」


「仲良くしたいと思っていないので」


沙莉が。


小さく吹き出した。


大場も。


呆れた顔。


蘭だけ。


楽しそう。


「私は」


蘭が言う。


「仲良くなれそうだと思っています」


「一方的ですね」


「人間関係は最初、大体そうですよ」


「迷惑です」


「それも正しい」


透真は。


椅子へ座り直した。


「話は終わりですか」


「まだです」


「帰ってください」


「それもまだ」


「面倒ですね」


「よく言われます」


透真の目が。


僅かに動く。


その返し。


相良。


自分。


似ている。


また。


面倒な人間。


透真は。


本気で。


会社を辞めるか少し考えた。


その時。


廊下。


外。


三回。


ノック。


こん。


こん。


こん。


全員。


止まる。


蘭の表情だけが。


変わらなかった。


透真は。


ゆっくり。


入口を見る。


音。


事務所の扉ではない。


もっと奥。


昨日。


防犯カメラに影が映っていた壁。


大場が。


低い声で言う。


「またか」


沙莉の顔から。


笑みが消える。


透真は立ち上がる。


蘭も。


同時。


「来ないでください」


透真が言う。


「なぜ?」


「あなたが来ると」


一度。


言葉を選ぶ。


「さらに面倒になりそうなので」


蘭の口元が。


上がる。


「それ」


「何です」


「アリスさんにも言いました?」


透真が止まる。


「なぜ知ってる」


「顔」


「最近本当に多いですね、それ」


蘭は。


扉へ歩く。


白いコート。


長い髪。


銀色の天秤。


透真が。


その横へ並ぶ。


「止まってください」


「嫌です」


「私の真似?」


「違います」


「嘘ですか」


蘭が透真を見る。


ゴールド。


透真も。


蘭を見る。


エメラルド。


「それは」


蘭。


少し笑う。


「白峰アリスさんに聞いてください」


そして。


廊下。


壁。


四人。


透真。


蘭。


大場。


沙莉。


ゆっくり。


近づく。


昨日までは。


何もなかった場所。


今日は。


白い壁。


何もない。


透真が。


指先で触れる。


硬い。


普通。


ノック。


三回。


こん。


こん。


こん。


壁の向こう。


沙莉が。


一歩。


大場へ近づく。


大場は。


無意識に。


沙莉の前へ出る。


透真は。


逃げ道を確認する。


非常階段。


エレベーター。


窓。


そして。


蘭。


透真が横を見る。


蘭は。


壁ではなく。


透真を見ていた。


「何ですか」


「いえ」


蘭。


笑う。


「本当に」


銀色の天秤が。


小さく。


揺れる。


「自分から一番遠い逃げ道から確認するんですね」


透真の目が。


止まった。


大場も。


気づく。


沙莉。


何のことか分からない。


透真は。


壁を見る。


「癖です」


「でしょうね」


「悪いですか」


蘭。


少し。


首を傾げる。


「いいえ」


そして。


「正しいとも言いません」


透真が。


蘭を見る。


「どっちです」


蘭の笑み。


深くなる。


「両方共に」


その瞬間。


透真の背中を。


冷たい感覚が走った。


言葉。


ただの四文字。


なのに。


妙に。


重かった。


まるで。


それが。


この人物そのものを表しているように。


壁。


中央。


音。


小さく。


金属。


回る。


鍵。


透真。


目を細める。


壁には。


鍵穴などない。


それでも。


確かに。


聞こえる。


昨日。


相良が持ち帰った。


銀色の鍵。


あの鍵が。


どこかで。


回っているような音。


蘭の天秤。


一度。


大きく。


傾く。


左。


次。


右。


そして。


中央。


完全に。


水平。


蘭の微笑みが。


僅かに消えた。


「……これは」


初めて。


蘭が。


言葉を止めた。


透真が見る。


「何です」


蘭は。


壁を見る。


ゴールドの瞳。


細くなる。


「正しくない」


透真の表情が変わる。


初めてだった。


蘭が。


片方を否定した。


その瞬間。


壁に。


一本。


縦の線が走った。


上から。


下へ。


白い壁。


二つへ。


割れるように。


細い隙間。


黒。


その向こう。


何も見えない。


沙莉が。


息を呑む。


大場が。


一歩。


前へ。


透真は。


右手を上げた。


「下がってください」


大場。


「久世」


「社長も」


「お前は」


「私は」


透真。


隙間を見る。


「逃げられるので」


言ったあと。


一瞬。


止まる。


違う。


今。


自分が考えたのは。


自分ではない。


大場。


沙莉。


まず。


二人。


逃がす。


蘭が。


その横顔を見る。


透真には。


気づかない。


壁。


ゆっくり。


開く。


扉。


白い。


昨日。


存在しなかった扉。


今。


会社の廊下に。


ある。


ドアノブ。


銀色。


焼けていない。


十年前。


開けてはいけない部屋。


同じ。


透真の呼吸が。


ほんの僅かに。


浅くなる。


大場のスマートフォン。


その時。


着信。


相良。


大場が。


画面を見る。


「相良さんだ」


「出してください」


透真。


扉から目を離さない。


大場。


通話。


「もしもし」


数秒。


顔。


変わる。


「……何?」


透真が。


振り返る。


大場。


スマートフォンを。


スピーカーへ。


相良の声。


『証拠保管室から』


雑音。


『鍵が消えた』


全員。


扉を見る。


銀色のドアノブ。


その中心。


鍵穴。


何も。


入っていない。


なのに。


内側から。


ゆっくり。


回る。


かちゃ。


ロック。


外れる。


沙莉が。


大場の腕を掴む。


蘭。


笑っていない。


透真。


一歩。


前へ。


「久世!」


大場。


透真。


止まらない。


「逃げるんじゃなかったのか」


透真は。


扉を見る。


右手。


ドアノブへ。


あと。


二十センチ。


十五。


十。


そして。


止まる。


「逃げますよ」


低い声。


「必要なら」


蘭が。


横から。


透真を見る。


「じゃあ今は?」


透真は。


答えなかった。


ドアノブ。


自分から。


回り始める。


透真の手は。


触れていない。


扉。


ゆっくり。


開く。


隙間。


黒。


その奥。


誰か。


立っている。


小柄。


人間。


輪郭。


女。


いや。


少女。


プラチナブロンド。


透真の瞳が。


大きく。


見開かれる。


「……アリス?」


扉の向こう。


白峰アリスが。


立っていた。


だが。


アリスは。


今。


ここにいない。


そして。


扉の中のアリスは。


透真を見て。


笑っていなかった。


黒い瞳。


涙。


頬。


濡れている。


唇。


動く。


声。


聞こえない。


透真は。


その口の形を。


読む。


逃げて。


扉が。


閉まった。


勢いよく。


轟音。


廊下。


静寂。


誰も。


動けない。


透真の手だけが。


空中に残る。


明日香蘭が。


その横で。


初めて。


完全に。


笑みを消していた。


そして。


銀色の天秤を。


強く。


握る。


「久世さん」


透真は。


扉を見る。


「何です」


蘭の声。


今までと。


少し違う。


「予定変更です」


「何が」


ゴールドの瞳。


真っ直ぐ。


透真を見る。


「あなたを観察するつもりでした」


一拍。


「でも」


閉じた扉。


「私も」


天秤。


静かに。


水平へ戻る。


「こちら側に入ります」


透真は。


明日香蘭を見る。


初対面。


正体。


分からない。


目的。


分からない。


信用。


できない。


その全てが。


面倒だった。


だから。


透真は。


小さく息を吐いた。


「断っても?」


蘭の口元に。


ほんの僅か。


微笑みが戻る。


「もちろん」


「なら断ります」


「でも私は参加します」


「選択肢の意味ないですよね」


「ありますよ」


蘭は。


銀色の天秤を持ち上げた。


「あなたが断ったという事実は残ります」


透真は。


数秒。


蘭を見る。


そして。


本気で思った。


白峰アリスとは。


別の意味で。


とんでもなく面倒な人間が。


また一人。


自分の日常へ。


入ってきた。

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