第12話 もう一人のアリスと、選ばれなかった未来
12話目になります。
よろしくお願いします。
扉が消えたあとも。
誰も、すぐには動かなかった。
大場企画の六階。
いつもならコピー機の駆動音や電話の呼び出し音が途切れず聞こえる廊下に、今は空調の低い音しか残っていない。
白い壁。
つい数秒前まで、そこには扉があった。
銀色のドアノブ。
鍵穴。
そして。
その向こうに。
白峰アリスがいた。
透真は右手を上げたまま、壁を見つめていた。
指先と壁まで、二十センチほど。
触れようと思えば届く。
それなのに。
なぜか。
触れる気になれなかった。
「……久世」
大場の声が背後から届く。
透真は答えない。
「久世」
二度目。
「聞こえてます」
「なら返事しろ」
透真はゆっくり手を下ろした。
壁。
普通。
少なくとも見た目は。
透真は指先で触れる。
硬い。
冷たい。
一般的な石膏ボード。
継ぎ目。
傷。
小さな汚れ。
何も変わらない。
「さっきの扉」
廉沙莉の声は、いつもより少し小さかった。
「本当に、ここにありましたよね」
「ありました」
大場が即答した。
「俺も見た」
透真も頷く。
「ありました」
沙莉は明日香蘭を見る。
蘭だけは。
銀色の天秤を右手に持ったまま、壁から少し距離を取って立っていた。
先ほどまで絶えなかった微笑みは戻っている。
ただし。
完全ではない。
口元は笑っている。
けれど。
ゴールドの瞳だけが。
まったく笑っていなかった。
「明日香さんも?」
沙莉が尋ねる。
「はい」
蘭は壁を見たまま答える。
「ありました」
「幻覚とかじゃなく?」
「少なくとも」
蘭が少し考える。
「四人が同じ幻覚を見るよりは、扉が存在していたと考える方が簡単でしょうね」
大場が腕を組む。
「最近、その『簡単』の基準が分からなくなってきたな」
「私もです」
沙莉が真顔で返した。
透真は二人の会話を聞きながら。
別のことを考えていた。
アリス。
プラチナブロンド。
黒い瞳。
身長。
顔。
服装。
見間違いではない。
白峰アリスだった。
問題は。
なぜ。
彼女が扉の向こうにいたのか。
そして。
なぜ。
泣いていた。
さらに。
――逃げて。
声はなかった。
それでも。
唇は確かにそう動いていた。
「久世さん」
蘭。
透真が見る。
「何です」
「何を考えています?」
「色々」
「例えば?」
「あなたに説明する義務はありません」
「そうですね」
あっさり。
蘭は肯定した。
そして。
「では、別の聞き方をします」
透真の眉が動く。
「嫌な予感がします」
「さっきの白峰アリスさん」
蘭の微笑み。
少し。
深くなる。
「本物だと思いました?」
透真は答えなかった。
そこ。
自分でも整理できていない。
偽物。
顔のない男。
以前。
透真の姿を取った存在がいた。
だから。
アリスの姿を取るものが現れても。
不思議ではない。
少なくとも。
最近の基準では。
だが。
さっきのアリス。
違和感がなかった。
むしろ。
透真は。
扉が開いた瞬間。
考えるより先に。
アリス。
と認識した。
「分かりません」
透真が答える。
蘭は首を少し傾ける。
「意外ですね」
「何が」
「偽物だと言うと思いました」
「根拠がないので」
「では本物?」
「それも根拠がありません」
「両方?」
透真の目が少し細くなる。
「それ、あなたが好きな答えでしょう」
蘭が笑う。
「そうかもしれません」
大場が二人を交互に見る。
「お前ら、初対面だよな?」
「私はそう認識しています」
透真。
「私もです」
蘭。
「何でそんな会話できんだよ」
「知りません」
「相性が良いのかもしれませんね」
蘭が言う。
透真はすぐ答える。
「悪いです」
「私は良いと思います」
「では平均して普通ですね」
蘭が止まった。
大場も。
沙莉も。
一秒後。
沙莉が吹き出した。
「久世さん、その返し明日香さんっぽい」
透真は少し嫌そうな顔をした。
「やめてください」
その時。
大場のスマートフォンから。
相良の声がした。
通話。
まだ切れていない。
『楽しそうなところ悪いんだが』
全員がスマートフォンを見る。
大場が端末を持ち直す。
「相良さん、まだいたんですか」
『お前がスピーカーにしたんだろ』
「そうでした」
『こっちも状況が変わった』
空気。
再び。
少しだけ硬くなる。
透真が大場へ近づく。
「鍵ですか」
『ああ』
「見つかった?」
『いや』
相良の声。
低い。
『消えたままだ』
透真は壁を見る。
「監視カメラは?」
『今確認してる』
「誰か入った形跡」
『ない』
「保管庫の鍵は」
『施錠されたまま』
「証拠袋は?」
数秒。
相良の返事。
『ある』
透真の眉が動く。
「袋だけ?」
『そうだ』
証拠袋。
開けられていない。
破損もない。
なのに。
中の鍵だけが消えた。
大場が頭を掻く。
「もう警察でも駄目じゃねえか」
『聞こえてるぞ、大場さん』
「すみません」
『否定できんのが腹立つな』
沙莉が口元を押さえる。
相良は続けた。
『それと久世』
「はい」
『保管室の映像に妙なものがある』
透真の表情が変わる。
「何です」
『今送る』
数秒。
大場のスマートフォン。
通知。
動画。
十五秒。
透真たちは。
事務所へ戻った。
沙莉のパソコンへ転送。
再生。
証拠保管室。
白い蛍光灯。
棚。
施錠されたケース。
中央。
例の鍵が入った証拠袋。
映像。
午後十一時五十七分。
何もない。
五十八分。
何もない。
五十九分。
鍵が。
動く。
ゆっくり。
袋の中で。
右へ。
三十度。
さらに。
回る。
そして。
停止。
次。
画面。
一度だけ。
大きく乱れる。
戻る。
証拠袋。
空。
鍵がない。
「ここまでは昨日聞いた話と同じですね」
透真。
『そのあとだ』
相良。
映像。
続く。
鍵が消えてから。
三秒。
五秒。
七秒。
壁。
証拠棚の奥。
白い壁。
そこに。
黒い線。
一本。
縦。
透真の呼吸が。
少しだけ浅くなる。
会社の壁。
同じ。
黒い線。
それが。
ゆっくり。
広がる。
扉。
白。
銀色のドアノブ。
鍵穴。
沙莉が息を呑む。
「同じ……」
「はい」
透真。
映像の中。
扉。
開かない。
ただ。
存在する。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
ノック。
映像に音はない。
だが。
扉が。
僅かに震える。
一回。
二回。
三回。
次の瞬間。
画面が乱れる。
戻った時。
扉はない。
普通の壁。
相良が言った。
『保管室の職員に確認した』
「音を聞いた人は?」
『いない』
「映像だけ?」
『今のところはな』
透真は。
会社の壁を見る。
ここでは。
音があった。
扉も開いた。
アリスもいた。
違い。
何だ。
「相良さん」
透真が言う。
『何だ』
「鍵が消えた時間は」
相良。
資料を見るような音。
『午前零時ちょうど』
透真の目が。
防犯カメラの時刻へ。
会社。
昨夜。
午前零時。
最初の映像乱れ。
同時刻。
「繋がってますね」
大場が言った。
透真はすぐには答えない。
繋がっている。
そう見える。
でも。
何と。
何が。
「相良さん」
『何だ』
「今から来られます?」
『もう向かってる』
透真。
一瞬。
黙る。
「早いですね」
『お前が逃げる前にな』
「逃げませんよ」
『今日は?』
「……たぶん」
『信用できんな』
電話。
切れた。
大場が端末を下ろす。
「で」
全員を見る。
「どうする」
透真は壁を見る。
蘭も。
沙莉。
大場。
三人。
そして。
思う。
アリス。
今。
どこにいる。
朝。
連絡。
あった。
午前六時四十一分。
おはようございます。
透真はスマートフォンを取り出した。
メッセージ。
開く。
最後。
『返ってきた!』
その後。
何もない。
時間。
午前九時十八分。
まだ。
普通。
連絡がなくても。
何もおかしくない。
なのに。
透真の親指は。
通話ボタンへ。
動いていた。
止まる。
「電話しないんですか」
蘭。
透真が見る。
「画面を覗かないでください」
「見えました」
「見ないでください」
「善処します」
「信用できません」
透真。
画面。
白峰アリス。
電話。
一秒。
二秒。
三秒。
呼び出し。
四秒。
五秒。
『はい?』
声。
透真の肩から。
ほんの少し。
力が抜けた。
自分で。
気づく。
気に入らない。
『透真さん?』
「はい」
『電話珍しいですね』
「そうですか」
『そうですよ。どうしました?』
「今どこですか」
一瞬。
間。
『家です』
「一人?」
『はい』
「怪我は」
『してません』
「泣いてますか」
通話の向こう。
沈黙。
大場。
沙莉。
蘭。
三人とも。
透真を見る。
『……泣いてませんけど』
「本当に?」
『どうしたんですか』
透真は。
答えない。
『透真さん?』
「今から会社へ来られます?」
言った。
自分で。
一瞬。
止まる。
大場の眉が。
大きく。
動いた。
沙莉。
口を開けたまま。
蘭だけ。
静かに。
透真を見ている。
電話の向こう。
アリス。
数秒。
『……え?』
透真も。
少し。
後悔した。
普段。
来るな。
帰れ。
近づくな。
そう言っている自分が。
今。
自分から。
来てほしい。
と言った。
正確には。
来られます?
だが。
意味は。
同じ。
「無理なら」
『行きます』
速い。
「まだ何も」
『行きます』
声。
少し。
嬉しそう。
透真。
目を閉じる。
「では」
『何分くらいで?』
「急がなくていいです」
『三十分くらい』
「分かりました」
『透真さん』
「何です」
『今の』
嫌な予感。
『もう一回言ってもらっていいですか?』
「切ります」
『あ、待っ――』
切断。
透真は。
スマートフォンを机へ置いた。
静か。
大場。
沙莉。
二人。
笑いを。
耐えている。
「何ですか」
透真。
沙莉。
顔を逸らす。
「何でも」
大場。
咳払い。
「いや」
「笑ってますよね」
「笑ってねえ」
「顔に出てます」
蘭が言った。
「呼んだんですね」
透真が見る。
「聞いてましたよね」
「はい」
「なら確認する必要あります?」
「いえ」
蘭は。
微笑む。
「面白かったので」
「帰ってください」
「嫌です」
「……」
透真は。
朝から何度目か分からない。
ため息をついた。
午前九時四十九分。
エレベーター。
六階。
到着音。
透真は。
パソコンの画面を見ていた。
メール。
三通処理。
見積書。
一枚。
電話。
二件。
その間。
壁からノックはない。
扉も。
現れない。
相良はまだ来ていない。
大場は。
廊下と事務所を何度も行き来している。
沙莉は。
仕事をしながら。
五分に一度。
壁を確認している。
明日香蘭は。
来客用の椅子。
銀色の天秤を膝の上に置き。
何もせず。
座っている。
それが。
一番気になる。
透真は。
三度目。
蘭を見る。
蘭。
微笑む。
「何です?」
「いつまでいるんですか」
「追い出されるまで?」
「帰ってください」
「断ります」
「では追い出します」
「物理的に?」
「必要なら」
蘭の笑み。
少し。
深くなる。
「楽しそうですね」
「全く」
その時。
足音。
エレベーター。
軽い。
一定。
スニーカー。
透真。
分かる。
なぜ。
分かる。
考えない。
ノック。
二回。
沙莉が立つ。
「はーい」
透真。
一瞬。
言おうとする。
待ってください。
でも。
止めた。
沙莉。
扉。
開ける。
「こんにちはー」
白峰アリス。
いつもの。
プラチナブロンド。
長い髪。
黒い瞳。
薄いブルーのパーカー。
黒いショートパンツ。
白いスニーカー。
笑顔。
透真は。
その姿を。
少し。
長く見る。
髪。
乾いている。
頬。
涙。
なし。
服。
同じ。
扉の向こうで見たアリスとは。
表情だけが違う。
「透真さん」
アリス。
透真の視線に。
気づく。
「何ですか」
「何でもありません」
「嘘です」
即答。
蘭のゴールドの瞳が。
僅かに動く。
透真。
アリスを見る。
「本当に元気ですか」
「はい」
「今朝何か変なことは?」
「透真さんから電話が来ました」
「それ以外」
「特に」
アリス。
首を傾げる。
「本当にどうしたんですか」
透真は。
答える前。
明日香蘭を見る。
アリスも。
視線を追う。
そして。
初めて。
二人。
目が合った。
黒。
ゴールド。
数秒。
何も。
起きない。
はずだった。
銀色の天秤。
小さく。
鳴った。
ちん。
金属。
澄んだ音。
全員。
見る。
蘭。
天秤へ。
視線。
落とす。
右の皿。
下がる。
左。
上がる。
次。
反転。
左。
下。
右。
上。
また。
逆。
安定しない。
蘭の微笑みが。
僅かに。
薄くなる。
「……面白い」
アリスが。
蘭を見る。
「何がですか?」
「初めまして」
蘭。
立つ。
白いコート。
髪。
長く。
床近くまで流れる。
「明日香蘭です」
「白峰アリスです」
アリス。
笑顔。
「透真さんのお知り合い?」
「違います」
透真。
「今日初めて会いました」
「でも仲良さそう」
「どこがですか」
「会話?」
「最悪です」
蘭が微笑む。
「私は良いと思っています」
アリス。
一瞬。
透真を見る。
「またですか」
「何が」
「綺麗な人」
「私に聞かないでください」
「女性?」
アリス。
蘭を見る。
蘭。
答える。
「女性でもあります」
アリスの眉。
少し。
動く。
「でも?」
「男性でもあります」
アリス。
数秒。
蘭を見る。
そして。
普通に。
頷く。
「なるほど」
大場。
小さく。
「早いな」
沙莉も。
「早いですね」
蘭の目が。
少し。
柔らかくなる。
「驚かないんですね」
アリス。
首を傾げる。
「何にですか?」
「私に」
「明日香さんは明日香さんですよね?」
蘭。
一瞬。
言葉を失った。
ほんの。
一瞬。
透真だけ。
気づいた。
笑顔。
止まった。
すぐ。
戻る。
「そうですね」
蘭。
銀色の天秤。
持ち直す。
「その通りです」
アリスは。
天秤を見る。
「それ、何ですか?」
「天秤です」
「見れば分かります」
透真が。
少し。
横を見る。
今の返し。
自分と似ていた。
嫌だ。
「どうして持ってるんですか」
アリス。
蘭。
少し。
考える。
「必要だから」
「何に?」
「正しいものを」
一拍。
「両方見るため」
アリス。
黒い瞳。
蘭を見る。
「正義?」
蘭。
完全に。
止まった。
透真の目。
細くなる。
大場。
沙莉。
意味。
分からない。
「どうして」
蘭。
初めて。
少し。
声が変わる。
「そう思いました?」
アリス。
困る。
「何となく」
「何となく?」
「はい」
蘭。
数秒。
アリスを見る。
そして。
「あなた」
微笑み。
戻る。
「やっぱり面白いですね」
透真が言う。
「それ、私にも言いましたよね」
「お二人とも面白いので」
「褒めてませんよね」
「半分」
アリスが吹き出す。
「透真さん、それ最近よく言われますね」
「なぜ知ってるんです」
「顔」
「……もう嫌ですね、その言葉」
空気。
少し。
緩む。
透真は。
その瞬間を。
使う。
「アリス」
「はい」
「あなたを呼んだ理由」
アリス。
表情。
少し。
真面目。
「はい」
透真。
壁を見る。
「さっき」
一度。
言葉。
止まる。
「あなたがいました」
アリスが。
目を瞬く。
「私?」
「はい」
「どこに?」
透真。
壁。
指す。
「扉の向こう」
アリス。
壁。
見る。
「私、来てませんよ」
「知っています」
「じゃあ」
「分からないので呼びました」
アリスの顔。
少し。
変わる。
透真が。
自分から。
呼んだ。
その意味。
今は。
触れない。
「どんな私でした?」
「泣いていました」
笑顔。
消える。
「何か言ってた?」
「声は聞こえませんでした」
「口は?」
透真。
見る。
「逃げて」
アリスの黒い瞳。
僅かに。
揺れる。
沈黙。
空調。
電話。
外。
普通の音。
「私が」
アリス。
ゆっくり。
「透真さんに?」
「はい」
「逃げてって?」
「はい」
アリス。
壁。
見る。
表情。
複雑。
「変ですね」
「何が」
「私なら」
一度。
言葉。
探す。
「透真さんが逃げたいなら、逃げていいって言うと思います」
透真の瞳。
少し。
動く。
「逃げて」
命令。
「逃げてもいい」
選択。
違う。
蘭が。
二人の横で。
天秤を見る。
「そこ」
透真が蘭を見る。
「何です」
「重要かもしれません」
アリスも。
「どういう意味ですか」
蘭。
壁。
見る。
「言葉が同じでも」
銀色の天秤。
右。
「逃げて」
左。
「逃げてもいい」
中央。
「意味はまったく違います」
透真。
黙る。
その通り。
アリス。
逃げて。
命令するタイプではない。
少なくとも。
今のアリスは。
「アリス」
透真。
「十年前は?」
「え?」
「昔のあなたなら」
「分かりません」
「覚えてない」
「はい」
二人。
同時に。
壁を見る。
忘れた透真。
忘れたアリス。
記憶。
過去。
扉。
「一つ試しても?」
蘭。
透真。
嫌な顔。
「嫌です」
「まだ内容を言ってません」
「あなたの提案なので」
「合理的ではありませんね」
「最近、合理性だけで生きるのを少しやめています」
言ってから。
透真。
止まる。
アリス。
見る。
蘭。
見る。
大場。
沙莉。
全員。
透真を見る。
「何ですか」
大場。
眉。
大きく。
上がる。
「お前、今すげえこと言わなかったか?」
「何も」
「言っただろ」
「忘れてください」
「逃げるな」
「記憶から逃げてもらえません?」
「お前がやれ」
「社長」
アリス。
笑う。
蘭。
そのやり取りを。
静かに。
見ている。
そして。
小さく。
天秤を見る。
揺れていない。
「試すって何です?」
アリス。
蘭へ。
「簡単です」
蘭。
アリスの前へ。
立つ。
距離。
一メートル半。
「白峰アリスさん」
「はい」
「あなたは」
一拍。
「さっき、この扉の向こうにいましたか?」
透真。
目。
細くなる。
アリス。
すぐ。
「いません」
「本当?」
「はい」
蘭。
天秤。
右。
動かない。
「では」
「はい」
「さっき、この扉の向こうにいたのは白峰アリスですか?」
アリス。
口。
開く。
止まる。
透真。
見る。
質問。
違う。
自分がいたか。
ではなく。
いたのは自分か。
「……分かりません」
アリスが答える。
蘭。
天秤。
見る。
「なら」
さらに。
「扉の向こうにいた人物は、偽物の白峰アリスですか?」
アリス。
目。
細くなる。
数秒。
「違います」
透真の指。
僅かに。
動く。
「事実として?」
透真。
アリスを見る。
アリス。
ゆっくり。
頷く。
「はい」
静寂。
大場。
沙莉。
理解。
追いつかない。
蘭。
天秤。
大きく。
揺れる。
「つまり」
大場。
言う。
「本人じゃない」
「はい」
アリス。
「でも偽物でもない?」
「はい」
「どういうことだ」
「分かりません」
「久世みたいなこと言い始めたな」
「失礼ですね」
透真が言う。
「お前が言うのか」
蘭。
微笑み。
消えている。
完全に。
ゴールドの瞳。
壁。
見つめる。
「本人ではない」
小さく。
「でも」
「偽物ではない」
透真。
その続きを。
拾う。
「両方共に成立する?」
蘭。
見る。
「はい」
透真。
嫌な予感。
背中。
冷たい。
「例えば」
蘭。
ゆっくり。
言う。
「別の時間にいる同じ人間」
大場。
「未来ってことか?」
「可能性の一つです」
「過去?」
「それも」
沙莉が。
小さく。
「平行世界とか?」
蘭。
沙莉を見る。
「それも否定できません」
透真。
壁。
見る。
選択。
逃げる。
逃げない。
結果。
もし。
扉。
過去を見せた。
昨日。
少年の自分。
父。
過去。
でも。
今日。
アリス。
現在とは。
違う。
「選ばれなかったもの」
透真が言った。
全員。
見る。
「何?」
アリス。
透真。
答える前。
少し。
考える。
「私の逃避が」
右手。
見る。
「結果から逃げることだとしたら」
蘭。
目。
細くなる。
「逃げた結果は?」
大場。
眉。
寄せる。
「どういう意味だ」
透真。
説明。
ゆっくり。
「例えば」
「昨日」
「建物が崩れた」
「はい」
アリス。
「普通なら」
「私たちは建物の中に残る」
「でも」
「私は全員を逃がした」
蘭が。
続ける。
「だから」
「崩落に巻き込まれる結果を選ばなかった」
「はい」
透真。
壁。
見る。
「じゃあ」
少し。
声。
低く。
「選ばれなかった結果は」
誰も。
答えない。
「消えるんですか」
空気。
止まる。
逃げる。
とは。
自分を。
結果から。
外す。
なら。
結果。
そのものは。
どうなる。
「透真さん」
アリス。
小さく。
「扉の向こうの私」
「はい」
「選ばれなかった私?」
透真。
答えられない。
でも。
その言葉。
妙に。
しっくり。
来てしまった。
もし。
昨日。
透真が。
全員を逃がさなかったら。
アリスは。
泣いていた?
何かを見た?
透真に。
逃げて。
と言った?
違う。
まだ。
分からない。
「推測です」
透真。
「しかもかなり雑な」
蘭。
天秤。
見る。
「でも」
「はい」
「面白い」
透真。
少し。
嫌そうに。
「あなた、それ好きですね」
「面白いので」
アリス。
壁へ。
一歩。
近づく。
透真。
反射。
腕。
伸びる。
アリスの肩。
直前。
止まる。
触れない。
「何ですか?」
アリス。
透真。
手。
下ろす。
「近づかない方が」
「危ない?」
「分からないので」
「でも」
アリス。
壁を見る。
「私なんですよね」
「だからです」
言った。
透真。
自分。
止まる。
だから。
近づくな。
自分のため?
調査のため?
違う。
アリスだから。
危険に。
近づけたくない。
理由。
そこまで。
言葉に。
しない。
アリス。
透真を見る。
「……そうですか」
少し。
笑う。
「何です」
「別に」
「嘘ですか」
「感想です」
透真。
黙る。
自分の言葉。
返された。
蘭。
その二人を。
じっと。
見ている。
銀色の天秤。
ほんの。
僅か。
アリス側へ。
傾く。
蘭。
気づく。
透真は。
気づかない。
その時。
エレベーター。
到着。
足音。
重い。
速い。
相良。
事務所。
扉。
開く。
「久世」
第一声。
透真。
「逃げてません」
「珍しいな」
「最近成長しました」
「自分で言うな」
相良。
室内。
見る。
アリス。
大場。
沙莉。
そして。
明日香蘭。
片目。
閉じる。
蘭。
微笑む。
二人。
視線。
合う。
「警察?」
蘭。
「刑事です」
相良。
「相良修司」
「明日香蘭です」
「何者です」
「初対面でそれですか」
「慣れてるんで」
透真。
一瞬。
相良を見る。
また。
似た人間。
増えた。
嫌だ。
「相良さん」
透真。
「鍵」
相良。
ポケット。
証拠袋。
空。
机へ。
置く。
「消えた」
アリス。
袋。
見る。
蘭。
天秤。
小さく。
揺れる。
その時。
音。
廊下。
こん。
全員。
止まる。
一回。
二回。
こん。
三回。
こん。
透真。
立つ。
アリス。
隣。
相良。
手。
腰。
拳銃。
触れる。
透真。
見て。
「使わないでください」
「状況次第だ」
「効くと思います?」
「思わん」
「なら」
「持つだけだ」
蘭。
天秤。
手に。
大場。
沙莉。
後ろ。
透真。
廊下。
出る。
壁。
白い。
線。
ない。
ノック。
止まる。
数秒。
何も。
起きない。
「消えた?」
大場。
その瞬間。
アリスのスマートフォン。
鳴った。
着信。
全員。
見る。
非通知。
アリス。
画面。
見る。
透真が。
言う。
「出ないでください」
アリス。
「でも」
「出ない」
少し。
強い。
声。
アリス。
透真を見る。
蘭。
透真を見る。
相良。
何も言わない。
着信。
続く。
一秒。
二秒。
三秒。
切れる。
すぐ。
メッセージ。
非通知。
普通なら。
あり得ない。
画面。
文字。
一行。
アリスの表情。
固まる。
透真。
「何です」
アリス。
スマートフォン。
見せる。
『今度は、あなたが選んで。』
誰も。
喋らない。
透真。
画面。
見る。
今度は。
あなた。
アリス。
選ぶ。
何を。
誰を。
蘭の天秤。
突然。
大きく。
右へ。
傾いた。
戻らない。
蘭の顔。
変わる。
「……明日香さん?」
アリス。
蘭。
天秤。
見る。
「おかしい」
初めて。
はっきり。
困惑。
「何がです」
透真。
「釣り合わない」
「何と何が」
蘭。
答えない。
天秤。
右。
沈んだまま。
左。
上。
透真。
右皿。
見る。
何も。
乗っていない。
左も。
空。
「何を量ってるんです」
相良。
蘭。
数秒。
黙る。
そして。
「選択」
透真の瞳。
細くなる。
「誰の」
蘭。
ゆっくり。
アリスを見る。
「彼女の」
空気。
変わる。
アリス。
自分。
指す。
「私?」
蘭。
頷く。
「今」
ゴールドの瞳。
アリス。
見る。
「あなたに」
少し。
声。
低い。
「何か大きな選択が近づいています」
透真。
すぐ。
言う。
「何です」
蘭。
首。
横。
「分かりません」
透真。
一歩。
蘭へ。
「正義なのに?」
「正義だから未来が見えるわけではありません」
「ならなぜ」
「天秤が」
蘭。
右皿。
指。
「片側しか存在しないように傾いている」
透真。
止まる。
選択。
片側。
だけ。
選べない?
いや。
選択肢が。
一つ?
それは。
選択と。
呼べるのか。
アリス。
スマートフォン。
再び。
震える。
二通目。
『逃げる男に、選ばせないで。』
透真の表情。
消える。
一瞬。
室内の音。
全部。
遠くなる。
アリス。
見る。
蘭。
相良。
大場。
沙莉。
透真の頭。
逃げ道。
ではない。
別のもの。
浮かぶ。
誰が。
アリスに。
何を。
選ばせようとしている。
そして。
なぜ。
自分に。
選ばせるな。
と言う。
「透真さん」
アリス。
声。
透真。
見る。
アリス。
笑っていない。
でも。
泣いても。
いない。
扉の向こうとは。
違う。
「私」
アリス。
スマートフォン。
握る。
「選ばない方がいいんでしょうか」
透真。
答え。
すぐ。
出ない。
逃げろ。
そう言えば。
簡単。
危険。
避ける。
アリス。
この事件から。
遠ざける。
それが。
合理的。
今までなら。
そうする。
でも。
透真は。
昨日。
考えた。
他人を。
逃がせる。
その瞬間。
責任が。
生まれた。
他人を逃がす。
それは。
助ける?
それとも。
その人から。
選択する権利を。
奪う?
透真。
アリスを見る。
「分かりません」
アリス。
少し。
驚く。
透真。
続ける。
「でも」
一度。
息。
吸う。
「あなたの選択なら」
言葉。
探す。
「私が勝手に逃がすのは」
蘭。
静かに。
見る。
相良。
片目。
閉じる。
「違う気がします」
アリスの黒い瞳。
僅かに。
揺れる。
「透真さんが?」
「はい」
「私を逃がせるのに?」
「たぶん」
「危険でも?」
透真。
答える。
前。
ほんの。
一秒。
遅れる。
「……場合によります」
アリス。
笑う。
小さく。
「逃げましたね」
「保留です」
「同じです」
「違います」
その軽い会話。
でも。
誰も。
笑わない。
透真は。
自分でも。
分かっている。
今。
一つ。
変わった。
昨日までは。
危険なら。
アリスを。
逃がせばいい。
そう。
思っていた。
でも。
今。
アリスが。
何かを選ぶなら。
その選択からまで。
逃がしていいのか。
分からなくなった。
蘭が。
初めて。
透真から。
アリスへ。
視線。
移す。
「白峰さん」
「はい」
「一つだけ」
「何ですか」
蘭。
銀色の天秤。
アリスへ。
差し出す。
「触ってみます?」
透真。
即座。
「駄目です」
蘭。
見る。
「どうして?」
「何が起きるか分からない」
「だから?」
透真。
止まる。
蘭。
微笑み。
戻る。
「選ぶのは」
一拍。
「彼女でしょう?」
透真。
何も。
言えない。
アリス。
透真を見る。
次。
天秤。
見る。
右手。
ゆっくり。
伸ばす。
透真の身体。
動かない。
逃がせる。
今なら。
アリスを。
この状況から。
消せる。
でも。
しない。
アリスの指。
銀色の天秤。
中央。
触れる。
その瞬間。
音。
全部。
消えた。
透真の視界。
白。
次。
知らない場所。
夕暮れ。
大阪。
雨。
透真。
立っている。
一人。
違う。
目の前。
アリス。
背中。
長い。
プラチナブロンド。
だが。
少し。
違う。
髪。
短く。
切れている。
服。
汚れている。
右腕。
血。
そして。
アリスの前。
二つ。
道。
左。
明るい。
右。
真っ暗。
透真は。
動けない。
声。
出ない。
アリスが。
振り返る。
黒い瞳。
泣いている。
扉の向こう。
あのアリス。
同じ。
透真。
確信。
する。
彼女だ。
アリスの唇。
動く。
今度は。
声。
聞こえる。
「透真さん」
透真。
息。
止まる。
「今度は」
アリス。
涙。
一つ。
頬。
落ちる。
「逃がさないで」
世界。
暗転。
透真の視界。
戻る。
会社。
廊下。
天秤。
アリス。
蘭。
相良。
大場。
沙莉。
全員。
いる。
透真。
一歩。
後ろ。
下がる。
壁。
背中。
当たる。
「久世」
相良。
透真。
返事。
できない。
アリスが。
天秤から。
手を離す。
「……透真さん?」
透真。
彼女を見る。
今のアリス。
無傷。
笑顔。
違う。
未来?
可能性?
選ばれなかった結果?
「何を見たんです」
蘭。
透真。
見る。
蘭。
表情。
初めて。
完全に。
真剣。
「あなたも見えたんですね」
「あなたも?」
透真。
蘭。
答える。
「私は」
一拍。
「二つ見ました」
「二つ?」
「はい」
蘭。
アリスを見る。
「白峰アリスが」
右。
「生きている未来」
左。
「死んでいる未来」
空気。
凍る。
大場。
「おい」
相良。
顔。
変わる。
アリス。
一瞬。
動かない。
透真。
声。
低く。
「どっちが正しい」
蘭。
銀色の天秤。
見る。
再び。
揺れている。
左右。
どちらにも。
決まらない。
そして。
蘭は。
静かに。
答えた。
「両方共に」
透真の中で。
何か。
冷える。
未来。
決まっている?
違う。
二つ。
ある。
なら。
選ぶ。
誰が。
アリス?
透真?
世界?
存在意義?
透真は。
アリスを見る。
逃がせる。
死からも。
運命からも。
たぶん。
アリスから。
選択を。
奪うことさえ。
できる。
それが。
最善かもしれない。
そう。
思った。
なのに。
さっきのアリス。
未来か。
可能性か。
分からない。
泣きながら。
言った。
――逃がさないで。
透真は。
初めて。
自分の存在意義を。
少しだけ。
怖いと思った。
逃げる力。
何からでも。
逃げられる。
それは。
自由だと思っていた。
でも。
他人を逃がせるなら。
自分は。
他人の未来からさえ。
勝手に。
逃がすことができる。
それは。
自由なのか。
それとも。
奪うことなのか。
透真は。
右手を見る。
昨日までは。
ただ。
便利なものだった。
今は。
少し。
違って見える。
アリスが。
透真の横へ。
一歩。
近づく。
「透真さん」
「何です」
「何を見たか」
少し。
間。
「今は聞きません」
透真。
顔。
上げる。
アリス。
小さく。
笑う。
「言いたくなったら言ってください」
大場が。
少し。
透真を見る。
廻斗。
同じこと。
言った。
言いたくなったら。
言え。
逃げなくても。
追わない。
待つ。
透真は。
なぜか。
その言葉が。
一番。
逃げにくい。
「……そうします」
アリスの目。
少し。
開く。
「素直」
「最近よく言われます」
「成長?」
「たぶん退化です」
アリス。
笑う。
蘭は。
二人を見る。
天秤。
ほんの僅か。
揺れる。
でも。
今度は。
どちらにも。
傾かない。
相良が。
証拠袋を拾う。
「とりあえず」
低い声。
「今のことも全部聞く」
透真。
即座。
「帰っていいですか」
「駄目だ」
「任意ですよね」
「大場さん」
相良。
大場。
すぐ。
「業務命令だ」
「今日は勤務中ですけど」
「じゃあ命令できるな」
透真。
黙る。
沙莉。
吹き出す。
アリスも。
笑う。
蘭。
微笑む。
透真は。
天井を見る。
平穏。
昨日。
無理だった。
今日。
もっと。
無理そうだった。
そして。
誰も気づいていない。
会社の廊下。
白い壁。
透真たちが背を向けたあと。
ほんの一瞬だけ。
黒い線が。
一本。
浮かぶ。
扉。
開かない。
ただ。
その向こう。
誰か。
立っている。
白峰アリス。
ではない。
背が高い。
男。
白と黒の服。
短い。
紺色の髪。
少し癖がある。
右目。
黒。
左目。
白。
男は。
扉の向こうで。
笑っていた。
楽しそうに。
力強く。
まるで。
目の前にあるすべてを。
最初から。
肯定しているように。
そして。
扉が。
消える。
誰も。
見ていない。
まだ。
久世透真は。
知らない。
これから。
自分が逃げるたび。
自分が残るたび。
必ず。
その選択を。
肯定する男が。
現れることを。
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