第13話 肯定する男は、否定しない
13話目になります。
よろしくお願いします。
午前十時十二分。
普段なら三人しか働いていない大場企画の事務所には、朝から妙に多くの人間が集まっていた。
窓際のデスクには久世透真。その向こうには、大きな身体を持て余すように立っている大場泰然。廉沙莉は自分の席で電話やメールの処理を続けながらも、何度もこちらへ視線を送っている。
来客用の席には白峰アリスと明日香蘭。
さらに、その少し離れた場所には相良修司が座っていた。
小さな広告代理店としては明らかに人口密度がおかしい。
それでも電話は鳴るし、コピー機は紙を吐き出す。窓の向こうでは大阪の街がいつも通りに動き、蝉の声が薄いガラス越しに聞こえていた。
異常な話をしている場所ほど、外から見れば普通に見える。
透真はそれが少しだけ不思議だった。
目の前のモニターには、昨日までなら五分もあれば返せた見積書のメールが開かれている。
三行ほど文章を入力する。
一度読み返す。
消す。
もう一度書く。
また消した。
「久世さん」
沙莉の声が飛んできた。
透真は画面を見たまま答える。
「何ですか」
「さっきから同じ文章、ずっと打って消してません?」
「考えています」
「見積書の文章を?」
「はい」
「三行ですよ?」
「三行だから難しいこともあります」
沙莉は少し考えたあと、首を傾げた。
「そういうものですかね」
「そういうものです」
透真は再びキーボードへ指を置いた。
だが、大場が容赦なく口を挟んできた。
「絶対、仕事のこと考えてねえだろ」
透真はようやく顔を上げる。
「勤務時間中です」
「知ってる」
「なら仕事を考えていても不自然ではありません」
「お前が朝から白峰ちゃんを三回も見てる方が不自然だ」
透真の指が止まった。
アリスが目を瞬く。
沙莉の口元が緩む。
相良は何も言わないまま片目を閉じた。
そして蘭だけが、膝の上に置いた銀色の天秤へ指先を添えながら、明らかに楽しそうに微笑んでいる。
「三回なんですか?」
アリスが尋ねた。
「数えなくていいです」
透真はすぐに答えた。
「私、全然気づきませんでした」
「なら問題ありません」
「四回目です」
沙莉が小さく言った。
透真がそちらを見る。
沙莉は笑いながらパソコンへ顔を戻した。
「今ので四回」
「仕事してください」
「してますよ」
「なら私もしています」
「久世さん、今は私を見てます」
返す言葉が見つからない。
大場が吹き出し、アリスも笑った。
透真は諦めて視線をモニターへ戻す。
さっきからアリスを見ていた。
それ自体は事実だった。
今ここにいるアリスは、いつも通りだった。
腰近くまで伸びるプラチナブロンドの髪も、澄んだ黒い瞳も、薄いブルーのパーカーも変わらない。怪我もしていないし、泣いてもいない。
だが透真の頭には、別のアリスが残っていた。
雨の中。
傷ついた右腕。
今より短く乱れた髪。
二つに分かれた道。
そして、涙を流しながら言った言葉。
――逃がさないで。
透真は小さく息を吐いた。
「それで」
相良の声が、少し緩んだ空気を切り替えた。
大きな声ではない。
それでも、自然と全員が彼を見る。
「一度、整理するぞ」
大場が自分の椅子を引く。
「やっと刑事らしくなってきたな」
相良が眉を寄せた。
「ずっと刑事です」
「そうだったな」
「何だと思ってたんです」
「面倒な知り合い」
透真は少しだけ相良に同情した。
相良は机の上に置かれた空の証拠袋へ視線を落とした。
「十年前の火災現場で現れた古い鍵が、警察の証拠保管室から消えた」
誰も口を挟まない。
「その直後、保管室の壁に扉らしきものが現れた。同じ時間帯、この会社の防犯カメラにも扉のような影が映っている」
沙莉は自分のモニターへ一度だけ視線を向けた。
昨夜の防犯映像は、まだ画面の端に開いたままだ。
「そして今日、その扉が実際にこの会社の廊下へ現れた。久世、大場さん、廉さん、明日香さんが確認している」
「はい」
沙莉が答えた。
相良は続ける。
「扉の向こうには白峰アリスがいた。ただし、その時間、本人は自宅にいた」
全員の視線がアリスへ向いた。
アリスは静かに頷く。
「いました」
「それで問題がここだ」
相良は片目を閉じた。
「本人ではない。でも偽物でもない」
刑事として口にするには、ずいぶん扱いづらい文章だと思ったのだろう。
相良自身が少し嫌そうな顔をしている。
「白峰さん」
「はい」
「その判断は今も変わらない?」
アリスはすぐには答えなかった。
数秒だけ考えてから、ゆっくり頷いた。
「変わりません。あそこにいたのは今ここにいる私ではありません。でも、偽物でもないです」
「根拠は?」
「……分かるから、としか言えません」
「説明になってないな」
「すみません」
「責めてない」
相良は指先で机を一度だけ叩いた。
「今までの君なら、嘘か本当かを判断していた。でも今回は、本人か偽物かという二択そのものが成立していない可能性がある」
透真が相良を見る。
「そこまで分かりました?」
「一応、刑事だからな」
「最近忘れそうになります」
「誰のせいだ」
透真は答えなかった。
蘭の膝の上で、銀色の天秤がわずかに揺れた。
光が左右の皿を滑る。
「その考え方でいいと思います」
蘭が言った。
相良の視線が移る。
「次はあなたです」
「私?」
「その天秤について聞きたい」
蘭は、自分の手の中にある銀色の天秤を見た。
「皆さん、もう普通に特殊なものとして扱っていますね」
「特殊じゃないんですか?」
沙莉が聞く。
蘭は少し考える。
「物としては普通ですよ。銀で作られていますし、少し重いです。足に落とせばかなり痛いと思います」
大場が眉を寄せた。
「そういう意味じゃねえだろ」
「分かっています」
透真は蘭の右手を見る。
長い指。
白い皮膚。
天秤を持つ手にはほとんど力が入っていない。
だが、昨日。
高層ビルの上から自分たちを見ていた白いコートの人物も、同じ天秤を持っていた。
透真の中ではもう、ほぼ同一人物として結びついている。
問題は、その正体だった。
「明日香さん」
透真が呼ぶ。
「はい」
「あなたの存在意義」
蘭の微笑みが少しだけ深くなった。
大場と沙莉が透真へ目を向ける。
相良は反応しない。
昨日の話から、ある程度は理解しているのだろう。
「あなたの存在意義は『正義』ですか」
天秤の揺れが止まった。
左右の皿が、綺麗に水平になる。
蘭は透真を見ていた。
微笑みは崩れない。
ただ、先ほどまでそこにあった遊びのようなものが少しだけ消えた。
「そう呼ばれています」
「自称ではない?」
「自称でもあります」
「どちらです」
「両方ですね」
大場が小さく呟く。
「またそれか」
蘭は気にした様子もなく続けた。
「正確に言えば、私の存在意義は『正義』。その本質は『両方共に』です」
沙莉が首を傾げる。
「両方共に?」
「はい」
「正しいものが二つあるって意味ですか?」
「そういう時もあります」
蘭は右側の皿へ指を置く。
「例えば、一人を救うことが正しい」
今度は左。
「百人を救うことも正しい」
沙莉が少し考えてから尋ねた。
「じゃあ、一人を助けたら百人が死ぬ場合は?」
蘭は笑った。
「それでも、一人を救おうとする正義は消えません」
沙莉の表情が変わる。
「ただし、百人を救おうとする正義も消えない。だから正義は簡単じゃないんです」
大場が腕を組んだ。
「俺の中では、正義ってもっと白黒つけるものだったけどな」
蘭のゴールドの瞳が少し細くなる。
「白か黒しかないなら、天秤は必要ありません」
静かな言葉だった。
だが妙に耳へ残った。
透真はアリスを見る。
アリスも蘭を見ている。
黒い瞳には好奇心がある。
同時に、警戒もある。
二つの感情が自然に同居している。
「では話を戻す」
相良が言った。
「明日香さん。さっき白峰さんについて、生きている未来と死んでいる未来の二つがあると言った」
蘭の微笑みが少し薄くなる。
「はい」
「未来が見えるんですか」
「いいえ」
「なら何を見た」
蘭はすぐには答えなかった。
窓の外へ一度だけ視線を向ける。
夏の青い空。
ビルの隙間を雲が流れている。
それから、天秤へ目を戻した。
「可能性です」
「可能性?」
「もう少し正確に言うなら、成立し得る二つの結果です」
相良が眉を寄せた。
「未来と何が違う」
蘭は天秤の中央へ指を置いた。
「未来はまだ来ていません。でも結果は、選ばれなかっただけで、どこかに残っているのかもしれない」
透真の目がわずかに動く。
「選ばれなかった結果」
蘭が透真を見る。
「そうです」
「それが扉の向こうに残っている?」
「可能性としては」
「また便利な言葉ですね」
「分からないことを断言するよりは良いでしょう?」
そこは否定できなかった。
透真は口を閉じる。
大場が机の端へ腰を預けた。
「つまり昨日、久世が俺たち全員を崩落から逃がしただろ」
「はい」
蘭。
「もし久世が逃がさなかった結果が消えずに残ってるなら、扉の向こうはその結果ってことか?」
「説明の一つにはなります」
「じゃあ、あそこにいた白峰ちゃんは、昨日逃がされなかった方の白峰ちゃん?」
「その可能性もあります」
そこでアリスが口を開いた。
「でも、それだけだと変じゃないですか?」
全員が彼女を見る。
アリスは膝の上で両手を重ねたまま、真剣な表情をしていた。
「昨日の建物が崩れた時、透真さんが私たちを逃がしたんですよね」
「はい」
蘭が答える。
「だったら、逃がされなかった私は建物の中にいたはずですよね」
「そうなりますね」
「でも透真さんがさっき見た私は、別の場所にいた」
透真の中に、先ほどの景色が戻る。
夕暮れ。
雨。
傷ついたアリス。
二つの道。
「そうです」
透真が答えた。
アリスは少し考え、それから透真を見る。
「それなら、昨日一回分だけじゃないんじゃないですか?」
事務所の空気が静かになった。
透真も。
相良も。
蘭も。
すぐには何も言わない。
アリスが続ける。
「もし本当に、選ばれなかった未来がどこかに残るなら……透真さんが今まで逃げた全部に、逃げなかった側があるんじゃないですか?」
冷房の風が、突然少しだけ冷たく感じた。
透真は無意識に右手を見る。
十年前。
死から逃げた。
火から逃げた。
崩落から逃げた。
記憶から逃げた。
家族から逃げた。
約束から逃げた。
銃弾から逃げた。
運命から。
因果から。
もし、そのたびに。
逃げなかった自分。
死んだ自分。
記憶を持ち続けた自分。
家族の元に残った自分。
別の人生を選んだ自分。
それらがどこかに残っているのなら。
自分はいったい、どれだけの「選ばれなかった結果」を作ってきた。
「……かなり嫌な仮説ですね」
透真が言った。
声は平坦だった。
大場が透真を見る。
「顔はもっと嫌そうだけどな」
「気のせいです」
アリスが首を横へ振る。
「嘘です」
「呼んでません」
「でも分かるので」
透真は目を閉じた。
今まで。
逃げるとは、自分に起きるはずだった結果から外れることだと思っていた。
だから。
外れたあとの結果がどうなるかなど考えたことがない。
自分に起こらない。
それで終わり。
そういう能力だと思っていた。
「久世さん」
蘭が呼ぶ。
透真は目を開ける。
「あなたは今まで、自分が逃げた後の結果を気にしたことがあります?」
「ありません」
即答だった。
蘭の眉がほんの少し上がる。
「早いですね」
「自分に起きなかった結果を考えても仕方ないでしょう」
「今までは?」
透真の目がわずかに細くなる。
蘭は笑った。
「今は?」
透真は答えなかった。
その沈黙を。
蘭は肯定もしなければ、否定もしない。
ただ待つ。
それが透真には少し不快だった。
アリスとは違う。
アリスは事実へ到達する。
蘭は答えをこちらの口から出させようとする。
「明日香さん」
「はい」
「会話を誘導していますよね」
「いつです?」
「今です」
蘭の瞳が少し楽しそうに細くなった。
「気づいているなら、もう誘導とは言わないかもしれません」
「気づいた後も誘導は誘導です」
「それも正しい」
透真はため息をついた。
「正義って嫌いかもしれません」
「まだ会って二時間も経ってませんよ」
「十分です」
蘭は少し笑う。
「それなら私も、逃避は面倒だと思っています」
「良かったです」
「両想いですね」
「やめてください」
アリスが吹き出した。
「仲良いですね」
「悪いです」
透真が答える。
「良いと思います」
蘭が答える。
沙莉が笑いながら言った。
「じゃあ平均して普通ですね」
今度は透真が完全に黙った。
大場が腹を抱えるように笑い、相良は目元を押さえる。
「話を戻せ」
その一言で、ようやく全員が少し真面目な顔へ戻った。
相良が透真を見る。
「さっきお前が見たものを、もう一度詳しく話せ」
「またですか」
「まただ」
「刑事って本当に面倒ですね」
「知ってる」
透真は椅子の背もたれへ少し身体を預けた。
そして。
思い出す。
会社ではない場所。
夕暮れの大阪。
雨。
路面へ反射する街灯。
アリス。
「大阪市内だと思います」
「根拠は?」
「街並みです」
「場所は特定できる?」
「今は無理です」
「時間帯」
「夕方」
「季節」
透真は一瞬考えた。
「そこまでは分かりません」
「雨が降っていた」
「はい」
相良が資料へ何かを書き込む。
「白峰さんは?」
透真の視線がアリスへ向く。
今の彼女は無傷だ。
笑っている。
だが。
あの時のアリスは。
「怪我をしていました」
アリスの笑みが少し消えた。
「どこを」
「右腕」
「程度」
「出血していました。服にも血が付いていた」
相良のペンが止まる。
「他は?」
「髪が今より短かったです」
アリスが自分の長い髪へ触れる。
「どのくらい?」
「肩より下。でも今ほど長くない」
「切った感じ?」
沙莉が尋ねる。
透真は首を横に振る。
「綺麗に切ったようには見えませんでした。何かで千切れたか、切れた可能性があります」
沙莉の顔から笑みが消える。
「怖いですね」
相良が続ける。
「周囲に誰かいた?」
「いません」
「扉は?」
「見えませんでした」
そこで蘭が静かに口を挟んだ。
「私は少し違うものを見ています」
透真が彼女を見る。
「二つのアリスですか」
「はい」
蘭は天秤の右皿へ視線を落とす。
「一人は生きている」
今度は左。
「もう一人は死んでいる」
大場が小さく舌打ちした。
アリスの表情も変わる。
透真の声が少し低くなる。
「死んでいる方は、どう死んでいた」
「分かりません」
「本当に?」
蘭のゴールドの瞳が透真を真っ直ぐ見る。
「はい」
数秒。
透真は視線を逸らさなかった。
自分に嘘を見抜く力はない。
それでも。
少なくとも今、蘭が誤魔化しているようには見えなかった。
「透真さん」
アリスの声。
透真が見る。
アリスは少し困ったような笑みを浮かべている。
「そんな怖い顔しなくても大丈夫ですよ」
「してません」
「してます」
「嘘では」
「嘘です」
「最近、能力の使い方が雑では?」
「便利なので」
蘭が少し笑った。
透真には気に入らない。
だが。
胸の奥の冷たさが、先ほどより少しだけ薄くなった。
その時。
会社の固定電話が鳴った。
全員が反応した。
一回。
二回。
三回。
沙莉が受話器と全員の顔を交互に見る。
「普通の電話ですよね?」
大場が言う。
「出ろよ」
「私ですか?」
「事務員だろ」
「そうでした」
沙莉が受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。大場企画でございます」
数秒。
普通。
「はい」
メモを取る。
「はい、承知しました」
さらに数秒。
「担当へ確認いたしますので、少々お待ちください」
保留。
沙莉が透真を見る。
「久世さん」
「何です」
「印刷会社さんです」
透真の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「普通ですね」
「すごく普通です」
「良かったです」
大場が呆れたように言う。
「電話一本で安心する会社って何なんだよ」
透真は席を立ち、受話器を受け取った。
本当に普通の仕事だった。
納期。
校正データ。
再入稿。
色味。
三分ほどの電話。
その間だけ。
透真は完全に会社員へ戻った。
受話器を置く。
締切と金額。
今はそちらの方が、未来や存在意義よりはずっと扱いやすい。
「久世さん」
蘭が呼んだ。
透真は嫌そうに見る。
「何です」
「今、安心しました?」
「仕事が終わっただけです」
「そうですか」
「何です、その顔」
「普通のことが好きなんだなと思っただけです」
透真は一瞬だけ答えるのが遅れた。
「嫌いではありません」
アリスが笑う。
「なのに普通じゃないことばっかり起こりますね」
「あなたがいるからでは?」
「私?」
「混沌でしょう」
アリスは頬を少し膨らませた。
「私のせいみたいに言わないでください」
「事実として?」
アリスが止まる。
数秒。
「……分かりません」
「便利ですね」
「透真さんに言われたくないです」
大場が笑った。
その空気を。
小さな金属音が切った。
ちん。
全員の視線が蘭の手元へ向く。
銀色の天秤。
誰も触れていない。
それなのに。
右の皿が、少しだけ下がっている。
蘭の表情が変わった。
透真はすぐに気づく。
「何です」
蘭は答えない。
視線が事務所の入口へ向かっている。
「明日香さん」
アリスも蘭を見る。
天秤の右皿が、さらにゆっくり下がる。
左の皿が上がる。
激しくはない。
誰かの存在を測っているような、静かな動きだった。
相良が椅子から立ち上がる。
「何が来る」
「分かりません」
「またそれか」
「今回は本当に分かりません」
蘭も立ち上がった。
白いコートの裾が椅子の端を滑る。
長いピンクブロンドの髪が肩から流れ落ちる。
「ただ」
蘭は天秤から目を離さない。
「何かが、全部を肯定しています」
透真が眉を寄せた。
「全部?」
「はい」
蘭は右の皿を見る。
「こちらも」
次に左。
「反対側も」
そして中央へ視線を戻す。
「全部、正しい」
透真は一瞬考えた。
「あなたと同じでは?」
蘭は即座に首を横へ振った。
「違います」
今までの蘭には珍しいほど、答えが早かった。
「私は両方を見るんです」
彼女は天秤へ指を置く。
「これは、両方ともそのまま肯定している」
その言葉に。
透真の中で、まだ知らない何かが輪郭を持ち始める。
同時に。
廊下の向こうで、エレベーターの到着音が鳴った。
電子音。
扉が開く。
少し遅れて、足音。
一人。
男性。
歩幅は小さめ。
急いでいない。
かといって迷ってもいない。
ただ真っ直ぐこちらへ近づいてくる。
相良は自然に壁際へ位置を変えた。
大場は沙莉の前へ半歩出る。
アリスも椅子から立ち上がる。
蘭だけは微笑みを戻していた。
だが。
透真には分かる。
さっきまでの笑顔とは違う。
警戒している。
足音が止まった。
二回。
軽いノック。
こん、こん。
誰も返事をしない。
三秒ほど。
扉の向こうから、明るい声が聞こえた。
「すみませーん」
大場が眉を寄せる。
「普通だな」
透真も扉を見る。
「普通ですね」
相良が低く言う。
「普通だから怪しい」
透真は相良を見た。
「刑事さん、それはもう職業病では?」
「お前に言われたくない」
沙莉が大場の後ろから少しだけ顔を出す。
「開けます?」
透真は呼吸へ意識を向ける。
扉越しでは細かい動きまでは分からない。
ただ。
殺気は感じない。
強い緊張もない。
むしろ。
不気味なくらい自然だった。
「私が開けます」
透真が言った。
大場の眉が動く。
「珍しいな」
「近いので」
「それだけ?」
「はい」
アリスがすぐに言う。
「嘘です」
透真は彼女を見ずに答えた。
「呼んでません」
扉へ歩く。
右手をドアノブへ伸ばす。
ほんの一瞬。
昨日の白い扉が頭をよぎった。
最近。
本当に扉が嫌いになってきた。
それでも回す。
扉を開ける。
そこには。
若い男が立っていた。
透真より少し低い。
百六十五センチほど。
細身。
白と黒を基調とした長袖の服。
シンプルで、街中にいてもそれほど目立たない格好だった。
髪は紺色。
短髪だが天然の癖が強く、前髪が少し不規則に跳ねている。
顔立ちは整っている。
美形と言っていい。
ただ、見る者を圧倒するというよりは、不思議と安心させる種類の顔だった。
そして。
何より目を引くのは瞳。
右が黒。
左が白。
はっきりと分かれたオッドアイ。
男は。
笑っていた。
最初から。
まるでこの場に緊張というものが存在しないかのように。
自信に満ちた、明るく力強い笑顔。
「こんにちは」
透真は返事をしなかった。
男も気にしない。
「ここ、大場企画で合ってます?」
後ろから大場が答える。
「ああ。そうだけど」
男は大場を見る。
笑顔は変わらない。
「良かった」
そしてポケットへ手を入れた。
透真の身体が、ごく僅かに反応する。
武器ではない。
取り出したのは名刺だった。
男が差し出す。
「榊原朔燎です」
透真は名刺を見る。
会社名はない。
肩書きもない。
名前。
電話番号。
メールアドレス。
それだけ。
相良が後ろから尋ねる。
「個人ですか」
朔燎の視線が相良へ向く。
「今のところは」
「何の用です」
「人に会いに来ました」
「誰に」
朔燎は再び透真を見る。
笑みが少しだけ強くなった。
「久世透真さん」
透真は名刺を受け取らなかった。
「いません」
後ろで沙莉が笑いを堪える気配がする。
大場は額へ手を当てた。
アリスは小さく笑った。
しかし。
朔燎の反応だけは、透真の予想と少し違った。
「そうなんだ」
それだけだった。
否定しない。
疑わない。
目の前に透真本人がいるにもかかわらず、本当にその言葉をそのまま受け取っている。
「じゃあ待つよ」
透真の眉が動いた。
「今、私を見てますよね」
「見てる」
「私の名前は?」
「久世透真さん」
「なら、いますよね」
「うん」
「さっき私は、いないと言いました」
「言ったね」
「矛盾してません?」
朔燎は少しだけ首を傾げた。
笑顔は崩れない。
「両方、本当でいいんじゃない?」
透真の背後。
蘭の天秤が音を立てた。
ちん。
透真は朔燎から目を離さない。
「どういう意味です」
「君が『いない』って言った」
朔燎は楽しそうでも、馬鹿にしているようでもない。
本当に、ただ説明する。
「だったらその瞬間の君は、ここにいないことにしたかったんだろ?」
「……」
「でも、俺の目の前にはいる」
朔燎が笑う。
「それも本当でいいじゃん」
透真は少しだけ気に入らなかった。
理由はまだ分からない。
その時。
蘭が背後から呼んだ。
「榊原さん」
朔燎の視線が初めて蘭へ向く。
そして。
笑顔がさらに大きくなった。
「あ」
明らかに知っている反応。
蘭は笑っていない。
「お久しぶりです」
「久しぶり」
今度は。
大場。
アリス。
相良。
沙莉。
透真。
全員の視線が蘭へ向く。
「知り合いですか」
透真が尋ねる。
「はい」
蘭が答える。
朔燎も同時に頷いた。
「うん」
「どの程度?」
透真。
蘭が少しだけ嫌そうな顔をした。
この人物にしては、驚くほど分かりやすい。
「面倒な程度です」
透真は一瞬言葉を失う。
「あなたが言うんですか」
「言います」
朔燎が笑った。
「ひどいなあ」
蘭が視線を向ける。
「否定します?」
朔燎は少し考えた。
「しない」
即答。
「面倒なら面倒でいいよ」
蘭のゴールドの瞳が細くなる。
「変わりませんね」
「変わる必要ある?」
「ないなら」
「じゃあいいじゃん」
透真は二人を見る。
何かが。
少しずつ。
分かってくる。
蘭は。
両方を見る。
この男は。
何かを選ぶ以前に。
存在しているものを、そのまま認めている。
「榊原さん」
透真が呼ぶ。
「朔燎でいいよ」
「嫌です」
「それもいい」
透真は一秒ほど黙った。
「面倒ですね」
「それもいいね」
「どこが」
「君らしい」
透真の目が僅かに冷える。
「初対面ですよね」
「うん」
「なぜ私らしいと分かるんです」
朔燎は本当に不思議そうな顔をした。
それでも笑っている。
「だって」
透真を見る。
「逃げる人なんだろ?」
空気が止まった。
大場の顔。
相良の目。
沙莉の表情。
アリスの黒い瞳。
全員が変わる。
透真だけは動かなかった。
「誰から聞きました」
「誰からも」
「では、なぜ知ってる」
朔燎は。
右の黒い瞳と。
左の白い瞳。
両方で透真を見る。
「分かるから」
アリスの表情が変わる。
自分がよく使う言葉と似ていた。
透真は無意識に半歩下がりかけた。
その動きを。
途中で止める。
まだ。
逃げるほどではない。
朔燎はその足を見た。
そして。
楽しそうに笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「逃げること」
透真の目が止まる。
朔燎は続けた。
「嫌なら逃げればいい」
声は明るい。
「危ないなら逃げればいい」
誰かを説得するようでもない。
「面倒なら逃げればいい」
透真は何も言わない。
「責任が嫌なら逃げればいい」
今まで。
何度も逆を言われてきた。
逃げるな。
立ち向かえ。
責任を取れ。
向き合え。
逃げることを。
当然のように悪いものとして扱われてきた。
でも。
目の前の男は。
何一つ否定しない。
「死ぬのが嫌なら」
朔燎は笑った。
「死から逃げればいい」
相良が閉じていた片目を開いた。
大場の身体が、わずかに前へ出る。
アリスも朔燎を真っ直ぐ見ている。
透真は低い声で尋ねた。
「あなた、何者です」
朔燎は笑顔のまま答える。
「榊原朔燎」
「名前は聞きました」
「じゃあ」
少し考える。
「君と同じ」
「何が」
「存在意義を持ってる」
蘭が静かに目を閉じた。
来ると分かっていたような反応だった。
透真は尋ねる。
「何です」
朔燎は胸を張るわけでもない。
誇るでもない。
ただ、ごく普通の自己紹介の続きのように言った。
「肯定」
アリスが小さく繰り返す。
「肯定?」
「うん」
朔燎は笑う。
「俺は、あるものをあるまま認める」
透真は相手の言葉を頭の中で組み立てていく。
「何でも肯定するんですか?」
アリスが聞いた。
朔燎は彼女を見る。
「何でもは違うかな」
「違う?」
「ないものは肯定できない」
朔燎は軽く右手を開いた。
「例えば、君が嘘を見抜ける。それが本当に君の中にあるなら、肯定できる」
アリスの黒い瞳が僅かに開く。
「でも、君が空を飛べないなら、飛べるとは肯定できない」
透真が口を開く。
「すでに存在するものだけ」
「そう」
「認めるだけ?」
「認める」
朔燎は一度だけ笑みを深くした。
「そして、強くする」
蘭の天秤の右皿が小さく震えた。
空気が。
ほんの少し変わる。
朔燎は事務所の入口近くに置かれた観葉植物を見る。
葉の一部が少し垂れている。
水不足。
沙莉が昨日、水やりを忘れたと言っていたものだ。
朔燎はその植物を指差す。
「これ」
沙莉が見る。
「はい?」
「生きようとしてる」
次の瞬間。
垂れていた葉が。
ごく僅かに持ち上がった。
大場の目が細くなる。
沙莉が一歩近づく。
「え……」
葉の緑が少しだけ濃くなる。
萎れていた先端に張りが戻る。
光はない。
魔法陣もない。
派手な変化ではない。
だからこそ。
余計に不自然だった。
「お前」
大場が低く言う。
朔燎は植物を見たまま笑った。
「生きようとしてるから」
「そこを肯定しただけ」
透真が聞く。
「どこまで強くできる」
朔燎は肩をすくめた。
「その時次第」
「人にも?」
「もちろん」
アリスの表情が少し真剣になる。
「危険な人にも?」
朔燎は迷わない。
「あるなら」
蘭が口を挟む。
「悪意も?」
朔燎は蘭を見る。
笑顔は少し薄くなった。
でも。
消えない。
「本当にその人の中にあるなら」
「肯定する」
大場が眉を寄せる。
「それは駄目だろ」
朔燎は大場を見る。
「そう思う?」
「当たり前だ」
「うん」
頷く。
「その考えもいい」
大場は口を開いたまま止まった。
「……お前、話しにくいな」
「よく言われる」
透真は小さく目を閉じた。
蘭。
相良。
廻斗。
アリス。
最近。
面倒な人間が増えすぎている。
だが。
この男は。
その中でも。
明確に違う。
自分を。
否定しない。
それが。
一番。
気持ち悪い。
「久世さん」
朔燎が呼ぶ。
透真は目を開ける。
「何です」
「君の逃避」
力強く笑う。
「すごくいい」
「何が」
「全部」
朔燎は続ける。
「世界が君に何かを押し付けるなら、逃げればいい」
透真は黙っている。
「運命が決めるなら、逃げればいい」
静かに。
「死ぬって決まっても、逃げればいい」
そして。
ほんの一拍。
朔燎は言った。
「誰かのために残りたくなったら、残ればいい」
透真の瞳が動く。
蘭も。
アリスも。
少しだけ表情を変えた。
「矛盾してません?」
透真が尋ねる。
「してる?」
「私の存在意義を肯定するなら、逃げろと言うはずでしょう」
朔燎は首を傾げた。
「どうして?」
「逃避だからです」
「逃げる存在だからって」
朔燎の笑顔。
変わらない。
「全部から逃げなきゃいけないの?」
透真の胸の奥で。
何かが僅かに動いた。
それは。
つい最近まで自分が考え始めたことと。
よく似ていた。
「君が逃げることを選ぶなら、それを肯定する」
朔燎は言う。
「君が逃げないことを選ぶなら」
透真を見る。
「それも本当に君の中にあるなら、肯定するよ」
透真は。
すぐに言葉を返せなかった。
思っていた。
存在意義を持つ者同士が出会うなら。
誰かが自分の対極に立つ。
逃げるな。
立ち向かえ。
そう言う。
だが。
朔燎は違う。
逃げろ。
残れ。
どちらも認める。
蘭の「両方共に」と似ている。
でも。
根本が違う。
蘭は二つを量る。
朔燎は。
存在するなら。
二つとも、そのまま強くする。
「それで」
透真はようやく聞いた。
「何のために私に会いに来たんです」
朔燎は笑った。
「見たかった」
透真は蘭を一度だけ見る。
「あなたもですか」
「も?」
「最近、見世物になった覚えはないんですが」
朔燎は楽しそうに笑う。
「逃げる人が」
透真を見る。
「どこまで逃げるのか」
そして今度は。
アリスへ視線を移す。
「どこで残るのか」
透真の表情が僅かに変わった。
「それが見たい」
蘭の天秤が大きく揺れた。
右。
左。
どちらにも決まらず。
最後は中央へ戻る。
蘭が朔燎を見る。
「あなた」
声が少し低い。
「何をするつもりです」
朔燎は笑う。
「何もしないよ」
アリスがすぐに彼を見る。
黒い瞳が少し鋭くなる。
数秒。
「本当です」
大場が眉を寄せる。
「何もしないのに何しに来たんだ」
「会いに」
「それだけ?」
「今日はね」
透真が聞く。
「今日は?」
朔燎の笑顔が少し強くなる。
「また来る」
「来なくていいです」
「分かった」
透真は止まった。
「来ないんですか」
「来ないでって言ったから」
「……」
朔燎はポケットからスマートフォンを取り出す。
「でも、別の場所で会ったら」
笑う。
「その時はよろしく」
透真は心の底から思った。
面倒だ。
相手が否定してくれれば。
拒絶できる。
押し付けてくれれば。
逃げられる。
敵意があれば。
距離を取れる。
でも。
この男は。
拒絶すら肯定する。
「透真さん」
アリスが小声で呼ぶ。
「何です」
「苦手そうですね」
「はい」
「珍しい」
「何が」
「明日香さんより苦手そう」
透真が蘭を見る。
蘭は少し嬉しそうに微笑んだ。
「私は嬉しいです」
「比較で勝って喜ばないでください」
朔燎が笑う。
「仲良いね」
透真と蘭が、ほぼ同時に答えた。
「悪いです」
一瞬。
沈黙。
次に。
沙莉が吹き出した。
大場も笑う。
アリスも。
相良は目を閉じた。
そして。
朔燎が一番大きく笑った。
その笑いは。
本当に明るかった。
誰の言葉も。
誰の在り方も。
何一つ否定していない。
しばらくして。
朔燎は名刺を再び自分のポケットへ戻した。
透真が受け取らなかったからだ。
机へ勝手に置くこともしない。
そこも。
妙に徹底している。
「急に来てすみませんでした」
大場へ軽く頭を下げる。
大場は腕を組んだまま答える。
「本当に急だったな」
「次は連絡します」
透真が口を挟む。
「次はありません」
朔燎はすぐに頷いた。
「分かった」
透真は眉を寄せる。
このやり取り。
何度やっても。
調子が狂う。
朔燎が廊下へ出る。
その瞬間だった。
事務所の外。
白い壁に。
ほんの薄く。
黒い線が一本だけ浮かんだ。
透真たちの位置からは見えない。
昨日現れた扉。
その輪郭。
まだ完全ではない。
開きもしない。
ただ。
壁の向こうに。
何かがいる。
顔のない。
輪郭の曖昧な人影。
そして。
さらにその奥。
人の形すらはっきりしない。
完全な暗闇。
朔燎だけが。
一度。
そちらを見た。
笑顔は変わらない。
驚きもしない。
警戒もしない。
ただ。
そこにあるものを見るように。
小さく呟いた。
「それもいるんだ」
透真が声を拾う。
「何か言いました?」
朔燎は振り返る。
「いや」
笑う。
「何も」
アリスがその言葉を見つめる。
黒い瞳。
数秒。
そして。
「本当です」
透真は目を細くした。
本当に。
何も。
少なくとも朔燎本人は。
そう認識している。
だから。
今は追わない。
エレベーターの扉が閉じる。
その姿が消える。
事務所へ戻ったあと。
相良が蘭を見る。
「明日香さん」
「はい」
「知り合いなんですよね」
「知っています」
「危険ですか」
蘭はすぐに答えなかった。
手に持つ銀色の天秤へ指を添える。
それから。
廊下の奥。
朔燎が消えた方向を見た。
「危険です」
初めて。
はっきりと言い切った。
大場の表情が変わる。
「何でだ」
蘭はしばらくエレベーターの方向を見たままだった。
「人を否定しないからです」
大場も。
沙莉も。
すぐには意味を理解できない。
透真は黙って聞く。
蘭が続ける。
「普通の人は、どこかで相手を止めます」
視線を天秤へ落とす。
「それは違う」
右の皿。
「そんなことをするな」
左の皿。
「それは間違っている」
中央。
「否定というのは、悪いことばかりではありません。人間が他人との間に境界線を作る方法でもあります」
透真の瞳が少し細くなる。
蘭は静かに続ける。
「でも彼は違う。その人の中に本当に存在しているものなら、どこまででも肯定できる」
透真は朔燎が観葉植物へ言った言葉を思い出す。
生きようとしている。
だから。
強くした。
では。
人間が本気で誰かを殺したいと思っていたら。
その悪意も。
「悪意も」
透真が言った。
蘭は頷く。
「肯定できます」
「逃避も」
「はい」
アリスが聞く。
「混沌も?」
蘭はアリスを見る。
「できます」
アリスの笑顔が少し薄くなった。
透真はさらに聞いた。
「正義も?」
蘭は一瞬だけ間を置く。
「できます」
そして。
透真の頭に。
もう一つ。
浮かぶ。
「終焉は?」
その言葉が出た瞬間。
蘭の瞳が止まった。
相良。
大場。
沙莉。
意味を知らない者たちは、互いを見る。
アリスは透真から蘭へ視線を移した。
数秒。
蘭は何も言わなかった。
それから。
非常に小さな声で答える。
「できるでしょうね」
透真の背中へ。
冷たい感覚が走る。
終焉。
全てを終わらせる存在。
それを。
肯定する。
強める。
「最悪ですね」
透真が言った。
蘭の口元に、ごく薄い笑みが戻った。
「でしょう?」
だが。
そこで。
アリスが口を開く。
「でも」
全員が彼女を見る。
アリスは少しだけ考えながら言う。
「できることと、やることは同じじゃないですよね」
蘭の目がわずかに動く。
アリスは続ける。
「朔燎さんが終焉を肯定できるとしても、本人が肯定したいと思わなければ、しないんじゃないですか」
透真は。
アリスを見る。
その言葉。
自分にそのまま返ってくる。
逃げられる。
だから。
逃げる。
ではない。
他人を逃がせる。
だから。
逃がす。
でもない。
できること。
選ぶこと。
同じではない。
蘭も。
その意味に気づいたらしい。
「白峰さん」
少しだけ笑う。
「あなた、本当に面白いですね」
透真が横から言う。
「またそれですか」
アリスは嬉しそうに笑った。
「褒められました」
「半分かもしれませんよ」
「透真さんと同じ?」
「やめてください」
空気が。
少しだけ緩む。
遠くで。
エレベーターの到着音がした。
朔燎はもう帰ったらしい。
透真は事務所へ戻ろうとする。
その背中へ。
蘭が声を掛けた。
「久世さん」
透真は振り返る。
「何です」
「彼の言葉」
「どれです」
「逃げればいい」
透真は。
少しだけ考えた。
逃げればいい。
今まで。
誰からもほとんど言われなかった言葉。
逃げることを。
完全に否定しない。
その言葉。
「嫌いではありません」
アリスが透真を見る。
蘭は続ける。
「では」
少し間を置く。
「残ればいい、は?」
透真は今度。
少し長く。
答えを考えた。
窓の外。
夏の大阪。
会社。
机。
仕事。
アリス。
大場。
沙莉。
相良。
蘭。
今までなら。
面倒だと感じた時点で。
どこかへ行くこともできた。
でも。
今日は。
まだここにいる。
「それは」
透真は静かに答える。
「まだ分かりません」
蘭はそれ以上聞かなかった。
「そうですか」
それだけ。
透真は自分の席へ戻る。
パソコン。
見積書。
未読メール。
時計を見る。
十一時台だと思っていた。
十二時を過ぎている。
「……最悪ですね」
小さく呟く。
大場が聞く。
「何が」
「仕事です」
「そこかよ」
「当然でしょう」
沙莉が笑いながら言う。
「久世さん、午前中の電話メモ渡しますね」
「お願いします」
アリスが来客席から身を乗り出す。
「私、何か手伝います?」
「帰ってください」
「嫌です」
透真の眉が寄る。
その横から蘭が言う。
「私も手伝いましょうか」
「あなたも帰ってください」
「嫌です」
透真は二人を見る。
今日。
仕事は。
たぶん終わらない。
本気でそう思った。
でも。
席から立たなかった。
アリスからも。
蘭からも。
大場からも。
相良からも。
この会社そのものからも。
必要なら逃げられる。
それでも。
今は。
キーボードへ指を置く。
「沙莉さん」
「はい」
「午前中の電話メモください」
「はい」
「社長」
「何だ」
「十一時の打ち合わせ、少し後ろへずらせます?」
大場が時計を見る。
そして。
透真を見る。
「もう十二時過ぎてるぞ」
透真は時計を見る。
数秒。
完全に止まる。
後ろからアリスの声。
「逃げましたね」
透真が振り返る。
「何からです」
「時間から」
「逃げてません」
「じゃあ忘れてた?」
「……それも違います」
「どっちです?」
透真は小さく息を吐いた。
「時間からは逃げられませんでした」
アリスが笑う。
大場も。
沙莉も。
そして。
蘭の天秤が。
誰にも気づかれないほど小さく揺れた。
その頃。
一階。
大場企画の入る雑居ビルから、榊原朔燎が外へ出た。
真夏の光が歩道を白く照らしている。
蝉の声。
車。
自転車。
信号待ちをする人々。
大阪の街は。
六階で起きている異常など知らない。
朔燎は入口から少し離れた場所で立ち止まり、ビルの六階を見上げた。
笑顔は変わっていない。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には一件の通知。
送信者。
表示なし。
本文。
一行。
『逃避を肯定するのか』
朔燎は。
少しも迷わなかった。
『もちろん』
送信。
数秒後。
新しいメッセージ。
『なら、逃げない選択も?』
朔燎は笑う。
『もちろん』
また送る。
今度は。
少し長く返事が来なかった。
十秒。
二十秒。
横断歩道の信号が青へ変わる。
朔燎は人の流れに合わせて歩き出した。
道路の中央付近。
スマートフォンが震える。
『矛盾している』
朔燎は画面を見た。
笑顔が少し深くなる。
『矛盾しててもいいじゃん』
送信。
そのまま歩く。
少しして。
最後の返信。
『それがお前の答えか』
朔燎は横断歩道を渡り切ったところで足を止めた。
周囲を人が通り過ぎる。
車が走る。
街が動く。
彼だけが。
立ち止まっている。
右の黒い瞳。
左の白い瞳。
その両方で。
もう一度。
六階を見る。
「答え?」
小さく呟く。
誰にも聞こえない。
そして。
笑った。
「まだ決めてないよ」
スマートフォンをポケットへ戻す。
「だって」
再び歩き出す。
夏の光が。
紺色の髪を照らした。
「一つに決めたら」
その笑顔は。
最後まで。
変わらない。
「それ以外を否定することになるだろ?」
その言葉を聞く者はいなかった。
ただ。
遠く離れたビルの屋上。
誰もいないはずの場所で。
黒い影だけが。
ほんの一瞬。
揺れた。
そして。
消えた。
一方。
六階。
透真は何も知らず。
仕事をしていた。
見積書を送り。
メールを返し。
沙莉の作った電話メモへ目を通す。
アリスは帰らず。
蘭も帰らず。
相良はまだ大場と何かを話している。
透真は何度目か分からないため息をつきながら、それでも席を立とうとはしなかった。
逃げる男と。
肯定する男。
二人はまだ。
互いを敵だとは思っていない。
ライバルだとも思っていない。
だが。
考え方はすでに交わり始めていた。
透真は。
何から逃げるのか。
何から逃げないのか。
その境界を、自分で決めようとし始めている。
朔燎は。
その選択が透真自身から生まれたものである限り。
逃げることも。
残ることも。
どちらも肯定する。
今は。
それだけだった。
けれど。
透真がいつか。
自分の存在意義とは反対に見える選択をし。
朔燎がそれすら肯定しようとした時。
あるいは。
透真自身が否定したい自分まで。
朔燎が肯定した時。
二人の考えは。
同じ方向を向いたまま。
真正面からぶつかることになる。
ただ。
それはまだ先の話だ。
今の透真は。
そんな未来など知らない。
机の上の書類を一枚取り。
確認し。
沙莉へ渡す。
「ここ、数字違います」
「え?」
沙莉が受け取る。
「本当だ」
「直してください」
「はい」
アリスが横から覗き込む。
「透真さん」
「何です」
「普通に仕事してますね」
透真は彼女を見る。
「会社なので」
「さっきまで未来とか死とか話してたのに?」
「それと締切は別問題です」
アリスが笑う。
「透真さんらしいですね」
透真は返事をしなかった。
ただ。
今度は。
アリスから視線を外すまでに。
ほんの一秒だけ。
余計に時間が掛かった。
それを。
アリスは気づかなかった。
蘭は。
気づいた。
けれど。
何も言わなかった。
銀色の天秤だけが。
小さく。
一度。
揺れた。
そして。
大場企画の午後は。
何事もなかったように。
始まった。
少なくとも。
次の異常が。
彼らを見つけるまでは。
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