第14話 逃げた先に、誰が残る
14話目になります。
よろしくお願いします。
午後一時四十七分。
大場企画の事務所には、ようやく昼休みらしい空気が戻っていた。
正確には、昼休みはとっくに終わっている。
ただ、午前中に未来だの存在意義だの死んだ可能性だのという、会社員の昼前にはあまり適していない話題を詰め込みすぎたせいで、誰もまともに昼食を取れていなかった。
その結果。
来客用のテーブルには、コンビニの袋が三つ。
ペットボトル。
紙コップ。
サンドイッチ。
おにぎり。
冷やし中華。
そして、大場泰然が買ってきた弁当が二つ並んでいる。
「社長」
久世透真は、自分のデスクからその光景を見た。
「何だ」
「なぜ弁当が二つあるんです」
「食うからだよ」
「一人で?」
「一人で」
大場は当然のように答えた。
百九十五センチの大柄な身体を考えれば、不自然ではない。
不自然ではないが。
「燃費悪いですね」
「お前、社長に言うことじゃねえぞ」
「車だったら買い替えを検討します」
「人間なんだよ、俺は」
向かい側でサンドイッチの包装を開けていた廉沙莉が笑う。
「でも社長、朝も結構食べてましたよね」
「食った」
「何食べたんです?」
「米二合」
「朝から?」
「あと目玉焼き四つ」
沙莉の手が止まる。
白峰アリスも止まる。
明日香蘭まで大場を見た。
大場だけが何も気にしていない。
透真は数秒考えてから言った。
「やっぱり燃費悪いですね」
「だから人間だっつってんだろ」
事務所に笑い声が広がった。
午前中までいた相良修司は、十二時半頃に警察へ戻った。
帰る直前まで「絶対に勝手なことをするな」と念を押していたが、何をもって勝手なこととするのかについては最後まで明確にしなかった。
透真としてはありがたい。
基準が曖昧なら、後からいくらでも解釈できる。
そのことを相良へ伝えたところ、
「そういうところだぞ」
とだけ返された。
何がそういうところなのかは分からない。
分かろうとも思わない。
そして。
もう一人。
本来なら帰っていてもおかしくない人物が、まだいる。
透真は冷やし中華の蓋を開けながら、その人物を見た。
アリス。
来客用の椅子に座り、おにぎりの包装と格闘している。
「……何してるんです?」
「開きません」
「見れば分かります」
「じゃあ聞かないでください」
「なぜ開かないんです」
「分かりません」
アリスは真剣だった。
赤い三角形の部分を引いている。
だが、途中で海苔の袋だけが変な方向へ裂けている。
「貸してください」
「できます?」
「おにぎりですよ」
「私もそう思って始めました」
「何と戦ってるんですか」
「鮭です」
「まだ鮭まで到達してません」
透真は手を伸ばした。
アリスがおにぎりを渡す。
指先が一瞬触れた。
透真は特に反応せず、破れかけた包装を見る。
横から。
蘭が見ている。
透真はそちらへ視線を向けた。
「何です」
「何も」
「今、何か考えてましたよね」
「人間は面白いな、と」
「範囲が広すぎません?」
「では、久世さんは面白いな、と」
「帰ってください」
「嫌です」
午前中と同じ答えだった。
透真はそれ以上相手にせず、おにぎりの包装を少し戻し、裂けた部分を指先で押さえながら海苔を外す。
完全には綺麗にならなかった。
それでも食べられる状態にはなった。
「はい」
アリスへ返す。
「ありがとうございます」
「次から普通に開けてください」
「普通に開けようとはしました」
「結果が普通じゃないんです」
アリスが少し笑った。
「結果から逃げます?」
透真の手が。
一瞬だけ止まった。
ほんの少し前なら。
ただの冗談だった。
今は違う。
結果。
その言葉が、午前中とは別の意味を持っている。
アリスも気づいたらしい。
「あ」
笑みが少し薄くなる。
「すみません」
「別に」
透真は冷やし中華へ視線を落とした。
透明な蓋。
麺。
錦糸卵。
きゅうり。
ハム。
何もおかしくない。
普通の昼食。
だから。
そのまま食べることにした。
アリスも何も言わず、おにぎりを一口食べる。
数秒。
「美味しいです」
「良かったですね」
「透真さんのは?」
「普通です」
「一口ください」
「嫌です」
「即答」
「自分のを食べてください」
「鮭ですよ」
「知ってます」
「冷やし中華じゃないですよ」
「見れば分かります」
「交換しません?」
「嫌です」
「少しくらい」
「嫌です」
「ケチですね」
「何とでも」
透真は冷やし中華を食べる。
アリスは少し頬を膨らませながら鮭おにぎりを食べる。
向かいで沙莉が笑っている。
大場も弁当を食べながら、時々こちらを見ている。
そして。
蘭は。
銀色の天秤を机の上へ置いたまま、コンビニで買ったサラダを食べている。
何でもない。
本当に。
何でもない時間だった。
少なくとも。
五分ほどは。
「そういえば」
沙莉が言った。
「白峰さんって、今日仕事とか大丈夫なんですか?」
アリスが咀嚼を終えてから答える。
「今日は休みなんです」
「学生さんでしたっけ?」
「はい」
「夏休み?」
「そうです」
「いいなあ」
沙莉が椅子の背へ身体を預ける。
「学生の夏休みって最強ですよね」
「そうですか?」
「社会人になると分かりますよ」
透真が口を挟む。
「脅さないでください」
「久世さんは戻りたいです?」
「学生に?」
「はい」
「嫌です」
「即答ですね」
「毎日決まった時間に授業があって、テストがあって、体育があって、集団行動があるんですよ」
「体育そんな嫌です?」
「着替えるのが面倒です」
大場が笑う。
「そこかよ」
「あと体育祭」
「運動できそうなのにな」
「できますよ」
透真は麺を持ち上げながら答えた。
「できることと、やりたいことは別です」
その言葉に。
アリスが少しだけ透真を見る。
透真も。
一拍遅れて気づいた。
午前中。
アリスが言った。
できることと、やることは同じじゃない。
透真は何も言わない。
アリスも。
言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ笑った。
その表情が気に入らない。
「何です」
「何も」
「笑いましたよね」
「笑いました」
「なぜ」
「秘密です」
「そうですか」
追及しない。
冷やし中華を食べる。
その時だった。
蘭の天秤が。
ほんの僅かに動いた。
ちん。
午前中にも聞いた音。
小さな金属音。
だが。
今度は。
誰もすぐには反応しなかった。
大場が箸を止める。
沙莉がサンドイッチを持ったまま固まる。
アリスが蘭を見る。
透真だけは。
冷やし中華を一口食べた。
「久世さん」
蘭が言う。
「何です」
「気づいてますよね」
「気づいてます」
「なぜ食べているんです?」
「伸びるので」
「冷やし中華ですよ」
「麺類です」
「そうですか」
蘭は納得したのかしていないのか分からない返事をした。
透真は箸を置く。
「それで」
天秤を見る。
右。
左。
どちらもほとんど水平。
ただ。
中央の針だけが。
僅かに震えている。
「今度は何です」
蘭が首を横へ振った。
「分かりません」
「その天秤、意外と役に立ちませんね」
「警報器ではないので」
「じゃあ何なんです」
「天秤です」
「見れば分かります」
午前中から似たような会話を何度しているのだろう。
蘭は天秤へ指先を近づける。
触れない。
そのまま。
動きを見る。
「ただ」
「はい」
「少し変です」
透真は嫌そうに目を細める。
「最近、その言葉を聞くとろくなことが起きないんですが」
「私のせいではありません」
アリスが横から言う。
「私のせいでもないですよ」
透真はアリスを見る。
「まだ何も言ってません」
「言いそうだったので」
「先回りしないでください」
その時。
固定電話が鳴った。
一回。
全員が見る。
二回。
誰も動かない。
三回。
沙莉がため息をついた。
「私、電話取るの怖くなってきたんですけど」
大場が言う。
「仕事だろ」
「社長取ってくださいよ」
「俺が出たら相手がびびる」
「電話で身長分かりませんよ」
「声がでけえ」
「自覚あるんですね」
四回目。
透真が言う。
「出ない方が怖いですよ」
「久世さん出てください」
「嫌です」
「ほら!」
五回目。
結局。
沙莉が受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。大場企画でございます」
一秒。
二秒。
普通。
沙莉が少し安心した顔をする。
「はい、いつもお世話になっております」
取引先らしい。
透真は冷やし中華へ視線を戻す。
蘭の天秤も。
動いていない。
気のせい。
ということにしたかった。
「はい」
沙莉の声。
「はい……」
少し間が空く。
「え?」
透真の箸が止まる。
大場も沙莉を見る。
「すみません、もう一度お願いできますか?」
沙莉の表情から。
笑みが消えている。
「はい」
数秒。
「……久世、ですか?」
透真は顔を上げた。
アリスも。
蘭も。
沙莉を見る。
沙莉が透真へ視線を向ける。
明らかに困惑している。
「少々お待ちください」
保留。
受話器を胸元へ下ろす。
「久世さん」
「何です」
「三光印刷さんです」
透真は記憶を辿る。
先ほど電話していた印刷会社。
付き合いは二年ほど。
特別珍しくない取引先だ。
「何かありました?」
沙莉は。
少し言いにくそうに答えた。
「久世さんが、今そっちに来てるって」
透真は。
動かなかった。
大場が眉を寄せる。
「何?」
沙莉は自分でも意味が分からないという顔をしている。
「だから……」
透真を見る。
「久世さんが、三光印刷さんにいるって」
事務所が静かになった。
冷房の音。
パソコンのファン。
外の蝉。
その全部が。
急に遠く感じる。
透真は時計を見る。
午後一時五十八分。
次に。
自分の身体を見る。
当然。
ここにいる。
「確認します」
透真は立ち上がった。
沙莉から受話器を受け取る。
保留を解除。
「お電話代わりました。久世です」
電話の向こう。
一瞬。
沈黙した。
『……え?』
男性の声。
三光印刷の営業担当。
橋本。
何度も会っている。
『久世さん?』
「はい」
『……久世さんですよね?』
「そうですが」
また。
沈黙。
『え?』
透真は目を閉じた。
「私も同じ気持ちです」
『いや、ちょっと待ってください』
向こうで足音が聞こえる。
誰かと話している声。
紙の擦れる音。
『久世さん、今どこです?』
「会社です」
『会社?』
「はい」
『大場企画さん?』
「他に私が働いている会社があるなら教えてください」
『いや……』
橋本の声が。
明らかに困惑している。
『じゃあ、さっきの……誰?』
透真の視線が。
蘭へ向く。
蘭は笑っていない。
天秤。
中央の針が。
ゆっくり。
揺れ始めている。
「橋本さん」
透真が聞く。
「落ち着いて聞きます」
『はい』
「私を見たんですね?」
『見ました』
即答。
「顔を?」
『はい』
「声も聞いた?」
『話しましたよ』
「どのくらい」
『十分……いや、十五分くらい』
透真は何も言わない。
電話の向こうで。
橋本が続ける。
『さっき来たじゃないですか。校正の件で』
「私は行ってません」
『でも』
「今日、会社から一度も出てません」
『……』
「ここに社長もいます。社員も。警察の方も少し前までいました」
大場が低く呟く。
「最後いらねえだろ」
透真は無視する。
「橋本さん」
『はい』
「その私は、今もそこにいます?」
電話の向こう。
また足音。
少し遠ざかる。
『いや』
数秒。
『いないです』
「いつ帰りました」
『十分くらい前かな』
透真は時計を見る。
一時五十九分。
逆算。
午後一時四十九分頃。
さっき。
蘭の天秤が鳴った時間と。
ほぼ一致する。
「何を話しました」
『何って……』
橋本が戸惑う。
『普通ですよ』
「普通?」
『再入稿のデータの話と、納期。それから……』
「それから?」
『印刷部数』
透真の眉が。
僅かに動いた。
「印刷部数は電話で話しました」
『え?』
「今日の十二時過ぎに」
『いや』
橋本が。
はっきりと言った。
『電話では話してないですよ』
透真は。
黙った。
記憶にある。
電話。
納期。
校正データ。
再入稿。
色味。
印刷部数。
確かに話した。
少なくとも。
透真はそう認識している。
「橋本さん」
『はい』
「午前中、私と電話しましたよね」
『しましたよ』
「その時、印刷部数の話をした」
『してないです』
迷いがない。
「本当に?」
『はい。再入稿と色味だけです。部数は確認して折り返すって話だったじゃないですか』
透真は。
自分のデスクを見る。
メモ。
電話中に書いたもの。
再入稿。
色味。
納期。
そして。
部数。
三千。
自分の字だ。
「……三千部」
透真が言う。
電話の向こう。
橋本が息を呑む。
『そうです』
「さっき来た私は、三千と言った?」
『はい』
「その数字を知っているのは?」
『うちでは担当と工場。それと、さっき久世さんに……』
橋本が止まる。
自分で言って。
矛盾に気づいたのだろう。
透真はメモを見る。
三千。
書いた記憶がある。
だが。
いつ書いた。
電話中。
本当に?
「久世さん?」
アリスの声。
透真は返事をしない。
記憶を辿る。
午前中。
固定電話。
印刷会社。
受話器を受け取った。
納期。
校正。
再入稿。
色味。
そして。
そのあと。
自分は。
何を話した。
思い出せる。
はずなのに。
その部分だけ。
輪郭が薄い。
「橋本さん」
『はい』
「防犯カメラあります?」
大場が透真を見る。
橋本も一瞬黙る。
『ありますけど』
「入口と受付が映ってるもの」
『あります』
「今日の午後一時半から二時まで、映像を消さないでください」
『え』
「警察から確認が入る可能性があります」
『警察?』
「まだ事件ではありません」
透真は言ってから。
一拍置く。
「たぶん」
『たぶんって』
「私も困ってます」
本当に。
困っている。
「それと」
『はい』
「さっき来た私が何か置いていきませんでした?」
電話の向こうで。
橋本が止まった。
その沈黙。
透真は聞き逃さなかった。
「何かありますね」
『いや……』
「橋本さん」
『名刺』
透真の眉が寄る。
「名刺?」
『久世さんの名刺です』
「普通の?」
『いや』
橋本の声が。
少し低くなる。
『古いやつです』
「古い?」
『前のデザイン』
透真は自分の名刺入れを見る。
大場企画は一年前にロゴを変更した。
それ以前の名刺。
まだ数枚は会社のどこかに残っているかもしれない。
「どのくらい前のものです」
『住所が前の事務所になってます』
大場の表情が変わった。
沙莉は知らない。
アリスも。
蘭だけが。
静かに透真を見ている。
大場企画は。
三年前。
今の雑居ビルへ移転した。
「写真を送ってください」
『分かりました』
「あと、触らないで」
『もう触りましたけど』
「……ですよね」
当然だ。
普通の名刺だと思ったなら触る。
「袋か何かに入れて保管してください」
『分かりました』
「今から」
そこで。
透真は止まった。
今から行く。
そう言いかけた。
三光印刷までは車で二十分ほど。
確認するなら。
行った方が早い。
防犯映像。
名刺。
もう一人の自分。
今すぐ確認すべき。
合理的には。
そうなる。
でも。
透真の口は。
一度閉じた。
「久世さん?」
橋本が呼ぶ。
透真は。
アリスを見る。
アリスもこちらを見ていた。
何も言っていない。
行くとも。
行くなとも。
ただ。
待っている。
透真は視線を戻す。
「今から伺います」
電話を切った。
受話器を置く。
大場がすぐに言う。
「俺も行く」
「社長は残ってください」
「何でだ」
「会社なので」
「お前も社員だろ」
「私は当事者です」
「だったら余計に一人で行かせられるか」
「一人とは言ってません」
大場が止まる。
透真も。
止まった。
今。
自分は。
何と言った。
一人とは言っていない。
では。
誰を。
連れていくつもりだった。
視線が。
勝手に。
アリスへ向いていた。
アリスが目を瞬く。
透真は。
すぐに視線を外した。
「明日香さん」
蘭を見る。
「はい」
「来てください」
アリスが。
ほんの少しだけ。
表情を変えた。
それを。
透真は見なかった。
蘭は天秤を持ち上げる。
「いいですよ」
「理由を聞かないんですね」
「来てほしいんでしょう?」
「天秤が必要です」
「そういうことにしておきます」
「そういうことです」
蘭が立ち上がる。
その横で。
アリスも立った。
「私も行きます」
透真は即答した。
「駄目です」
「どうしてです?」
「危険かもしれない」
「明日香さんは?」
「危険を判断できる可能性がある」
「透真さんは?」
「私?」
「危険なんですよね?」
「当事者です」
「私もです」
透真の眉が寄る。
「どこが」
アリスは。
少しだけ考えた。
そして。
言った。
「扉の向こうにいたのは、私です」
透真は黙る。
「今度は透真さんが二人いる」
アリスは続ける。
「関係ないとは思えません」
「だからこそ」
「だからこそ行きます」
黒い瞳。
迷っていない。
透真は。
その目を知っている。
止めても。
たぶん来る。
勝手に。
以前なら。
それでも置いていった。
相手がどう思うかなど関係ない。
危険なら逃がす。
それでいい。
だが。
午前中。
アリス自身が言った。
できることと。
やることは。
同じではない。
透真は。
数秒。
何も言わなかった。
「危なくなったら」
口を開く。
「私の指示に従ってください」
アリスの目が少し大きくなる。
「いいんですか?」
「嫌なら置いていきます」
「行きます」
「即答ですね」
「透真さんに言われたくないです」
透真は小さく息を吐いた。
「じゃあ準備してください」
アリスが頷く。
「はい」
それだけ。
嬉しそうにもしない。
得意げにもならない。
ただ。
自分で選んだ。
透真はそれ以上何も言わなかった。
大場が。
そんな二人を見ていた。
「久世」
「何です」
「お前」
「何です」
大場は少し考えて。
結局。
言わなかった。
「いや」
「気になるんですが」
「何でもねえ」
「なら呼ばないでください」
大場は笑った。
「はいはい」
沙莉が立ち上がる。
「私も?」
「残ってください」
透真。
「ですよね」
「会社を無人にするわけにはいかないので」
「最近、留守番の難易度高くないです?」
「扉が出たら開けないでください」
「普通の来客だったら?」
「インターホンで確認」
「宅配便は?」
「受け取ってください」
「白い扉は?」
「逃げてください」
「黒い扉は?」
透真が止まる。
沙莉も。
「あ」
「増やさないでください」
「すみません」
大場が立ち上がった。
「相良には俺から連絡しとく」
「お願いします」
「あと」
大場が透真を見る。
「勝手にどっか消えんなよ」
「子供じゃないんですが」
「そういう意味じゃねえ」
透真は。
返事をしなかった。
分かっている。
大場が言っているのは。
自分の能力。
逃避。
何か起きた時。
自分だけ消えるな。
そういう意味。
「善処します」
「約束しろ」
「嫌です」
即答。
大場の眉間に皺が寄る。
「お前な」
「できない約束はしない主義なので」
「逃げる気か?」
「必要なら」
大場は何か言おうとした。
だが。
アリスが先に口を開いた。
「それでいいと思います」
大場がアリスを見る。
透真も。
アリスは。
透真を見ていない。
自分の鞄を確認しながら言った。
「危なかったら、逃げた方がいいです」
大場が眉を寄せる。
「白峰ちゃんまでそんなこと言うのか」
「はい」
「こいつ、調子乗るぞ」
「乗りません」
透真。
アリスが少し笑う。
「でも」
鞄を肩へ掛ける。
それから。
透真を見る。
「逃げる時は教えてください」
透真は。
数秒。
何も言わなかった。
「なぜ」
「一緒に逃げるかどうか、自分で決めたいので」
蘭の。
ゴールドの瞳が。
静かにアリスへ向いた。
透真も。
アリスを見る。
逃がす。
ではない。
一緒に逃げるか。
自分で決める。
その言葉。
透真の中に。
妙に残った。
「……面倒ですね」
「透真さんに言われたくないです」
「最近それ多くないですか」
「透真さんが言わせてるんです」
「責任転嫁です」
「逃げます?」
「そこからは逃げます」
アリスが笑った。
透真は。
鞄を持った。
中身は。
ほとんど役に立たない。
古い本。
空のペットボトル。
雑多な物。
必要なものは。
いつも身体に付けている。
それでも。
鞄を持つ。
いつもの形。
いつもの自分。
そういうものは。
案外大切だった。
午後二時十一分。
三人は会社を出た。
廊下。
白い壁。
午前中。
朔燎が立っていた場所。
透真は。
足を止めた。
「どうしました?」
アリスが聞く。
「いえ」
壁を見る。
何もない。
白い壁。
非常灯。
消火器。
古い掲示板。
扉の痕跡など。
どこにもない。
「行きましょう」
エレベーターへ向かう。
蘭が最後尾を歩く。
手には銀色の天秤。
今は。
動いていない。
エレベーターの下降ボタンを押す。
数字が。
四。
五。
六。
扉が開く。
誰も乗っていない。
三人で入る。
一階。
ボタンを押す。
扉が閉じる。
箱が。
ゆっくり下がり始める。
五階。
四階。
三階。
その途中。
アリスが言った。
「透真さん」
「何です」
「もう一人の自分に会ったらどうします?」
透真は。
階数表示を見たまま答える。
「帰ってもらいます」
「普通ですね」
「会社員が二人いても給料が倍になるだけなので」
「仕事は倍できますよ」
「それを聞いたら絶対帰ってもらいます」
アリスが笑う。
蘭も少し笑った。
「では」
蘭が聞く。
「相手が帰りたくないと言ったら?」
透真は。
蘭を見る。
「何です、その質問」
「気になっただけです」
「私なら帰ります」
「今のあなたは?」
「はい」
「向こうも久世透真なら?」
透真は。
答えなかった。
二階。
電子音。
一階。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
外から。
夏の熱気が薄く流れ込んでくる。
透真は歩き出した。
「その時考えます」
蘭は。
それ以上聞かなかった。
ビルの外へ出る。
午後の大阪。
空は青い。
雲は少ない。
アスファルトから熱が立ち上がり、遠くの景色を僅かに歪ませている。
道路を走る車。
信号機。
自転車。
コンビニへ入る会社員。
日傘を差す女性。
全部。
普通だった。
その普通の中を。
透真。
アリス。
蘭。
三人が歩く。
駐車場までは二分。
透真は。
無意識に。
周囲を見る。
人。
車。
窓。
屋上。
路地。
出口。
逃走経路。
いつもの癖。
そして。
気づく。
一番最初に確認したのが。
出口ではなかった。
右斜め後ろ。
アリス。
その位置だった。
透真は。
何も言わない。
歩く速度も変えない。
ただ。
次に出口を確認した。
蘭は。
少し後ろを歩いている。
気づいているかもしれない。
それでも。
何も言わなかった。
駐車場へ着く。
車に乗る。
透真が運転席。
アリスが助手席へ行こうとして。
透真が言った。
「後ろで」
「どうしてです?」
「明日香さんが道を確認するので」
蘭が首を傾げる。
「私、場所知りませんよ」
透真は蘭を見る。
「今から知ってください」
「便利に使いますね」
「来てもらう理由が必要なので」
「素直じゃないですね」
「帰ります?」
「嫌です」
結局。
蘭が助手席。
アリスが後部座席。
エンジンを掛ける。
冷房。
熱の籠もった車内へ。
冷たい風が流れ始める。
透真はスマートフォンをホルダーへ固定した。
三光印刷。
ナビ。
二十二分。
「近いですね」
アリスが後ろから言う。
「遠かったら行きません」
「逃げます?」
「メールで済ませます」
「仕事の話ですか?」
「仕事の話です」
車を出す。
道路へ。
午後の大阪。
交通量は多い。
信号。
交差点。
バス。
トラック。
透真は運転しながら。
何度も。
さっきの電話を思い返していた。
もう一人の自分。
三年前の名刺。
知らないはずの印刷部数。
そして。
自分の記憶。
三千。
なぜ。
知っている。
電話で聞いた。
そう思っていた。
でも。
相手は言っていない。
なら。
自分は。
どこからその数字を知った。
「久世さん」
蘭の声。
透真は前を見たまま答える。
「何です」
「考えすぎると事故りますよ」
「考えなくても運転できます」
「それは危ない人の言い方です」
「前は見てます」
赤信号。
車を止める。
蘭が横から透真を見る。
「怖いですか?」
「何が」
「もう一人の自分」
「別に」
後部座席。
アリスの声。
「嘘です」
透真は。
バックミラーを見る。
黒い瞳。
こちらを見ている。
「呼んでません」
「でも嘘です」
「便利ですね、本当に」
アリスは少しだけ笑った。
透真は前を見る。
信号はまだ赤。
「怖いというより」
言う。
そこで。
少し止まる。
何が嫌なのか。
自分でも。
まだ上手く言葉にならない。
「気持ち悪いです」
「どうして?」
蘭。
透真はハンドルへ置いた指を。
一度だけ動かした。
「自分が逃げた後に」
信号が。
青へ変わる。
車を出す。
「何かが残ってるかもしれないっていうのが」
蘭は答えない。
アリスも。
黙っている。
透真は続けた。
「私は」
前を見る。
「逃げたら終わりだと思ってました」
火から。
死から。
責任から。
人から。
出来事から。
結果から。
逃げる。
自分から外れる。
それで。
終わる。
「でも」
透真の声は。
普段と変わらない。
「終わってなかったなら」
そこで。
言葉を切った。
後ろ。
アリスが。
小さく尋ねる。
「何が嫌なんです?」
透真は。
答えなかった。
本当は。
いくつか浮かんでいた。
逃げた結果が。
どこかで続いていること。
自分が捨てたものを。
別の自分が背負っているかもしれないこと。
そして。
もし。
自分が逃げたせいで。
誰かが。
そこに残されていたなら。
それを。
知ること。
「分かりません」
結局。
そう答えた。
アリスは。
嘘だとは言わなかった。
完全には分かっていない。
それも。
たぶん事実だった。
車は。
大阪の街を進む。
十五分。
二十分。
そして。
午後二時三十四分。
三光印刷へ到着した。
古い三階建ての建物。
一階が受付と事務所。
奥に工場。
入口を開ける前から。
印刷機の低い駆動音が聞こえている。
インクと紙。
少し独特な匂い。
透真にとっては。
何度も来たことのある場所だった。
だからこそ。
入口の前で。
一度だけ。
足が止まった。
「透真さん?」
アリス。
「何でもありません」
自動ドアが開く。
冷房の風。
受付。
そして。
「あ」
男性が。
こちらを見る。
四十代。
作業着。
橋本。
その顔が。
一瞬で固まった。
「……久世さん」
「どうも」
透真は普通に挨拶する。
橋本は。
透真を見る。
次に。
後ろのアリス。
蘭。
そして。
もう一度。
透真。
「本当に」
「はい」
「会社にいたんですか」
「いました」
「じゃあ」
橋本が。
受付の奥を見る。
「さっきの……」
透真も。
そちらを見る。
「防犯映像」
「残してます」
「見せてもらえます?」
「はい」
橋本は。
まだ混乱している。
当然だ。
十分前まで話していた人間が。
別の場所から電話してきて。
今度は車で現れた。
普通なら。
悪戯を疑う。
双子。
そっくりな別人。
何か。
合理的な説明を探す。
だが。
橋本は。
透真を二年以上知っている。
「その前に」
透真が言う。
「名刺を」
「ああ」
橋本は受付の引き出しを開けた。
透明なチャック付きの袋。
その中。
一枚の名刺。
透真は。
手に取らなかった。
袋越しに見る。
大場企画。
久世透真。
電話番号。
メール。
そして。
住所。
三年前まで使っていた。
前事務所。
間違いない。
「本物ですか?」
アリスが聞く。
「たぶん」
透真は見る。
紙質。
デザイン。
フォント。
覚えている。
「私が昔使っていたものです」
「持ってるんですか?」
「会社に残ってる可能性はあります」
橋本が言う。
「でも」
透真を見る。
「これ、さっき久世さんが自分の名刺入れから出しましたよ」
「名刺入れ」
「はい」
「どんな」
「黒い」
透真は。
自分のポケットから名刺入れを出した。
黒。
橋本の顔が。
少し青くなる。
「それ」
「同じ?」
「たぶん」
透真は名刺入れを開く。
現在の名刺。
十数枚。
古い名刺は。
ない。
「防犯映像を」
橋本が頷く。
事務所の奥。
小さな応接スペース。
パソコン。
防犯カメラの映像。
橋本が時間を指定する。
午後一時三十四分。
再生。
受付。
誰もいない。
一時三十七分。
自動ドアが開いた。
一人。
男が入ってくる。
アリスの呼吸が。
小さく止まった。
蘭の天秤が。
ちん。
音を立てる。
画面の中。
黒髪。
白いシャツ。
濃紺のジャケット。
細身のスラックス。
黒い鞄。
久世透真。
だった。
顔も。
体格も。
歩き方も。
ほとんど同じ。
「……透真さん」
アリスが。
小さく呼ぶ。
透真は返事をしない。
画面を見る。
自分が。
受付へ歩いていく。
橋本が出てくる。
会話。
名刺。
奥へ。
映像が切り替わる。
応接。
座る。
話す。
笑ってはいない。
いつもの。
自分。
ただ。
透真は。
一つ。
違和感を覚えた。
「戻してください」
橋本が止める。
「どこです?」
「入ってきたところ」
巻き戻す。
再生。
自動ドア。
男。
歩く。
「もう一度」
再生。
「もう一度」
アリスが透真を見る。
橋本も。
蘭だけが。
映像を見ている。
三回目。
透真は言った。
「止めて」
静止。
画面。
入口。
もう一人の透真。
右足。
左足。
鞄。
顔。
「何かあります?」
橋本。
透真は。
答えない。
分かる。
自分だから。
分かる。
「歩き方が違う」
アリスが透真を見る。
「え?」
「少しだけ」
透真は画面へ近づく。
「右足」
昔。
怪我をした。
十年前。
火災。
その後。
しばらく。
右足を庇って歩いていた。
今は。
もう治っている。
癖も。
ほとんど残っていない。
だが。
画面の中の自分は。
ほんの僅かに。
右足を庇っている。
「昔の」
透真が呟く。
「私の歩き方です」
誰も。
すぐには言葉を返さなかった。
蘭の天秤。
右の皿が。
少しだけ下がる。
アリスが。
画面を見る。
「十年前?」
透真は。
答えない。
可能性。
まだ。
断定できない。
服装は今。
顔も今。
なのに。
歩き方だけ。
昔。
「続きを」
映像を進める。
会話。
五分。
十分。
そして。
一時四十八分。
画面の中の透真が。
立ち上がる。
橋本へ頭を下げる。
受付へ。
自動ドア。
外へ。
「ここです」
橋本が言う。
「このあと電話が来ました」
透真は。
映像を見る。
自動ドアの向こう。
夏の光。
画面の中の自分が。
外へ出る。
そして。
その瞬間。
映像が。
一度だけ。
乱れた。
ほんの一秒。
ノイズ。
白。
黒。
次の瞬間。
誰もいない。
透真の目が細くなる。
「もう一度」
巻き戻す。
再生。
自分が出る。
ノイズ。
消える。
「外のカメラは?」
「あります」
切り替える。
建物正面。
歩道。
車。
自転車。
一時四十八分。
自動ドアが開く。
誰も。
出てこない。
アリスが。
画面へ少し近づいた。
「いない」
橋本の顔が。
完全に青くなる。
「いや」
「出ましたよね」
「出ました」
「私、見送りました」
「でも」
画面には。
誰もいない。
内側のカメラ。
透真が出る。
外側のカメラ。
誰も出てこない。
蘭が。
ゆっくり。
天秤を見る。
右の皿。
下。
左の皿。
上。
そして。
また。
中央へ戻ろうとしている。
「明日香さん」
透真が呼ぶ。
「はい」
「何が分かります」
蘭は。
しばらく答えなかった。
「一つだけ」
「何です」
「さっきまで」
天秤を見る。
「ここにいた久世さんは」
透真を見る。
「存在していました」
橋本が困惑する。
「どういう……」
透真は黙っている。
アリスも。
「偽物ではない?」
透真。
蘭は。
少しだけ首を傾げた。
「偽物という言葉が」
静かに。
「たぶん、もう合っていません」
透真は。
画面を見る。
自分。
自分ではない。
でも。
偽物でもない。
アリスと。
同じ。
扉の向こうにいた。
傷ついたアリス。
本人ではない。
でも。
偽物でもない。
そして。
今回は。
扉の向こうではない。
こちら側。
同じ大阪。
同じ時間。
同じ印刷会社。
普通の人間と話し。
名刺を渡し。
仕事をしている。
「……出てきてる」
アリスが言った。
透真が見る。
アリスは。
画面を見たままだった。
「何が」
「向こう側が」
その言葉。
誰も。
すぐには否定できなかった。
白い扉。
あれは。
こちらから向こうを見るものだと思っていた。
もし。
違うなら。
扉は。
入口であると同時に。
出口でもある。
「橋本さん」
透真が言う。
「今日の映像、全部保存してください」
「分かりました」
「この名刺も」
「はい」
「あと」
透真は。
少し考える。
「今日のことは、できるだけ他の人には話さないでください」
橋本は苦い顔をする。
「もう受付の二人には見られてます」
「ですよね」
遅い。
普通の会社で。
人が二人になった。
それを。
完全に隠すことなど。
もうできない。
相良に連絡。
警察。
説明。
事情聴取。
また。
仕事が止まる。
「最悪ですね」
透真が呟く。
アリスが横を見る。
「何がです?」
「仕事です」
「そこなんですね」
「重要です」
蘭が。
小さく笑った。
だが。
その直後。
笑みが消えた。
天秤。
右皿が。
突然。
大きく下がった。
ちん。
強い音。
全員が見る。
「何です」
透真。
蘭は。
答えない。
天秤を見る。
今までとは違う。
右皿が。
完全に下がっている。
左は上。
「明日香さん」
アリスが呼ぶ。
蘭のゴールドの瞳が。
ゆっくり。
動く。
パソコン。
ではない。
名刺。
でもない。
受付。
でもない。
視線は。
透真へ。
向いた。
「久世さん」
「何です」
蘭は。
透真を見る。
それから。
少し離れた。
壁を見る。
白い壁。
ポスター。
棚。
何もない。
「そこから」
蘭が言う。
「離れてください」
透真は。
理由を聞かなかった。
一歩。
アリスの腕を取る。
自分の側へ。
同時に。
蘭も下がる。
橋本も。
意味が分からないまま後退する。
次の瞬間。
壁に。
線が入った。
黒。
細い。
縦。
一メートル。
二メートル。
そして。
横。
扉。
「……また」
アリスの声。
白い壁の中。
黒い輪郭。
昨日。
会社に現れたものと。
同じ。
ただし。
今回は。
少し違う。
ノブが。
ある。
黒い。
丸い。
ドアノブ。
透真の呼吸が。
僅かに変わる。
「触らないで」
蘭。
「言われなくても」
透真は答える。
扉。
動かない。
数秒。
何も起きない。
十秒。
十五秒。
橋本が。
震えた声で聞く。
「何なんです、これ」
誰も。
答えられない。
その時。
こん。
音。
扉の。
向こう。
全員が。
止まる。
こん。
二回目。
ノック。
アリスの黒い瞳が。
扉を見る。
透真は。
無意識に。
アリスより半歩前へ出ていた。
「透真さん」
「何です」
「前」
「分かってます」
「私も前に出られます」
「今はいいです」
「どうして」
「扉が開いた時、後ろの方が逃げやすい」
「透真さんは?」
「私はどこでも逃げられます」
アリスは。
何も言わなかった。
納得したわけではない。
でも。
今は。
動かなかった。
こん。
三回目。
そして。
扉の向こうから。
声。
『すみません』
透真の。
背中に。
冷たいものが走った。
聞き覚えがある。
というより。
毎日。
聞いている。
自分の声。
『誰か』
扉の向こう。
『いますか』
橋本が。
透真を見る。
アリスも。
蘭も。
透真は。
扉だけを見る。
向こうに。
いる。
自分。
少なくとも。
声は。
「開けます?」
アリスが。
小さく聞く。
透真は。
すぐには答えなかった。
開ける。
開けない。
昨日なら。
たぶん。
開けなかった。
危険。
未知。
自分に関係がある。
逃げる。
それでいい。
だが。
今日。
もう一人の自分が。
こちら側へ出てきた。
普通の人間と話した。
仕事をした。
名刺を残した。
自分が。
知らないところで。
自分として。
生き始めている。
無視すれば。
どうなる。
逃げれば。
終わるのか。
本当に。
「久世さん」
蘭が。
静かに言った。
「逃げてもいいですよ」
透真の目が。
少しだけ動く。
蘭は続けない。
アリスも。
何も言わない。
逃げてもいい。
朔燎なら。
たぶん。
同じことを言う。
逃げればいい。
残りたければ。
残ればいい。
透真は。
扉を見る。
『誰かいませんか』
自分の声。
透真は。
一歩。
前へ出た。
「透真さん」
アリス。
「開けません」
透真が言う。
アリスが目を瞬く。
蘭も。
「でも」
透真は。
扉の前。
一メートル。
そこで。
止まった。
「逃げもしません」
何もしない。
ただ。
そこにいる。
扉の向こうの自分。
こちら側の自分。
壁一枚。
本当に。
壁なのかも分からない。
「話します」
透真は言った。
蘭の。
天秤が。
僅かに揺れる。
アリスは。
透真の背中を見る。
「扉越しに?」
「はい」
「何を聞くんです?」
透真は。
数秒。
考えた。
聞きたいことは。
山ほどある。
誰だ。
どこから来た。
なぜ自分なのか。
十年前と関係があるのか。
扉とは何か。
逃げた結果とは何か。
だが。
最初に聞くべきこと。
それは。
たぶん。
もっと単純だった。
透真は。
扉へ向かって言った。
「久世透真です」
扉の向こう。
沈黙。
橋本が。
小さく息を呑む。
アリスも。
動かない。
蘭の天秤だけが。
静かに揺れている。
三秒。
五秒。
そして。
向こうから。
声。
『……知ってます』
透真の目が。
僅かに細くなる。
「あなたは?」
また。
沈黙。
『久世透真です』
同じ名前。
同じ声。
「そうですか」
透真は。
意外なほど普通に答えた。
「困りましたね」
向こうから。
ほんの僅かに。
笑う気配がした。
『そうですね』
それも。
自分に似ている。
アリスが。
透真を見る。
蘭も。
扉を見る。
透真は続ける。
「一つ聞きます」
『どうぞ』
「あなたは」
ほんの一拍。
「どこから来たんです」
長い。
沈黙。
十秒。
返事がない。
透真は。
待つ。
逃げない。
急かさない。
そして。
向こうの自分が。
ようやく答えた。
『分かりません』
透真の眉が。
僅かに動く。
「分からない?」
『はい』
「では、最後に覚えている場所は?」
また。
沈黙。
今度は。
先ほどより長い。
十五秒。
二十秒。
扉の向こうで。
微かに。
呼吸。
そして。
『火事です』
透真の身体が。
止まった。
アリスの表情が変わる。
蘭の天秤。
右。
左。
激しく揺れる。
『家が』
声。
同じ声なのに。
少し。
違う。
『燃えてました』
透真は。
瞬きをしなかった。
十年前。
炎。
煙。
熱。
崩れる天井。
誰かの声。
そして。
逃げた。
自分。
「何歳です」
透真が聞く。
返事。
『十五です』
透真は。
息をしなかった。
一秒。
二秒。
それから。
ゆっくり。
息を吐く。
画面の中。
今の自分の姿をしていた男。
古い名刺。
昔の歩き方。
そして。
扉の向こう。
十五歳。
「あなた」
透真は。
低い声で聞く。
「火事から逃げました?」
扉の向こう。
返事がない。
透真の右手が。
僅かに握られる。
アリスが。
その手を見る。
そして。
声。
『逃げました』
透真の瞳が。
僅かに揺れた。
予想と。
違った。
逃げなかった自分ではない。
逃げた。
なら。
何が違う。
「何から」
透真が聞く。
『え?』
「火から?」
沈黙。
『違います』
透真の呼吸が。
止まる。
扉の向こう。
十五歳の。
久世透真。
その声が。
震えた。
初めて。
明確に。
恐怖が混じった。
『人から』
透真の頭の中。
何かが。
引っ掛かった。
人。
誰。
「誰から」
答えは。
すぐには来ない。
代わりに。
扉の向こう。
何かが。
鳴った。
金属。
落ちた。
ような。
音。
そして。
遠くから。
誰かの声。
『透真!』
透真の目が。
大きく開く。
知っている。
声。
でも。
思い出せない。
いや。
違う。
思い出そうとすると。
何かが。
そこから。
滑る。
逃げる。
記憶。
自分が。
十年前。
逃げたもの。
『透真! 開けて!』
女性の声。
アリスが。
透真を見る。
透真は。
動かない。
扉の向こう。
十五歳の自分が。
荒い呼吸をする。
『来た』
「誰です」
『駄目だ』
「誰が来た」
『開けないで』
「名前は」
『絶対に』
声が。
近づく。
『透真!』
扉のノブが。
向こう側から。
回った。
透真の身体が。
反応する。
「下がって!」
初めて。
声を張った。
アリス。
蘭。
橋本。
全員が下がる。
ノブ。
回る。
扉。
数ミリ。
開く。
その隙間から。
熱。
一気に。
流れ込んだ。
夏の暑さではない。
火。
煙。
焦げた木。
焼けた布。
十年前。
透真が。
知っている匂い。
「閉めろ!」
透真が。
扉へ手を伸ばす。
その瞬間。
向こうから。
十五歳の自分の声。
『逃げて!』
透真の手が。
止まった。
一秒。
その一秒で。
扉の隙間から。
手が。
出た。
細い。
白い。
女性の手。
指先。
火傷。
血。
そして。
その手首には。
何かが。
巻かれていた。
細い。
銀色の。
鎖。
透真の瞳が。
止まる。
蘭も。
止まった。
彼女の手。
銀色の天秤。
その中央から伸びる。
鎖と。
よく似ている。
「明日香さん」
透真が呼ぶ。
だが。
蘭は。
答えなかった。
初めて。
その顔から。
完全に。
笑みが消えていた。
「それ」
透真が言う。
「知ってますね」
蘭の。
ゴールドの瞳。
扉。
手。
銀色の鎖。
そして。
透真。
天秤が。
激しく。
揺れる。
右。
左。
どちらにも。
決まらない。
「明日香さん」
もう一度。
呼ぶ。
蘭は。
ようやく。
口を開いた。
「久世さん」
声が。
いつもより。
低い。
「今すぐ」
一歩。
前へ。
「その扉から逃げてください」
透真の目が。
細くなる。
午前中。
蘭は。
問いを投げるだけだった。
どちらも見る。
決めつけない。
正しい答えを。
押し付けない。
その蘭が。
今。
初めて。
明確に。
一つを選んだ。
逃げろ。
「理由は」
透真が聞く。
蘭は。
扉を見る。
その向こう。
炎。
十五歳の透真。
誰かの手。
銀色の鎖。
「その向こうにあるのは」
蘭が言う。
「選ばれなかった結果じゃありません」
透真の瞳が。
止まる。
アリスも。
息を呑む。
「では」
透真。
「何です」
蘭は。
答えようとした。
その瞬間。
扉の向こう。
女性の声。
今までより。
はっきりと。
聞こえた。
『透真』
優しい。
声。
透真の。
身体が。
動かなくなる。
知らない。
はずなのに。
知っている。
『もう』
その声が。
言った。
『逃げなくていいよ』
透真の右手が。
僅かに震えた。
そして。
扉が。
大きく。
開き始めた。
蘭が叫ぶ。
「久世さん!」
アリスが。
透真の腕を掴んだ。
その瞬間。
透真は。
考えるより先に。
アリスの手首を掴み返していた。
逃げる。
何から。
扉から。
火から。
声から。
過去から。
それとも。
自分自身から。
分からない。
ただ。
一つだけ。
透真は。
その瞬間。
自分一人だけを。
逃がそうとはしなかった。
「アリス」
初めて。
考えるより先に。
名前だけを呼んだ。
アリスの黒い瞳が。
大きく開く。
「走って」
「はい!」
透真は。
アリスの手を掴んだまま。
扉へ背を向けた。
蘭も。
橋本を押すようにして走る。
その背後。
白い壁。
開きかけた扉。
炎。
煙。
そして。
その向こう。
十五歳の久世透真が。
一人。
こちらを見ていた。
顔は。
見えない。
炎に隠れている。
ただ。
その少年は。
逃げなかった。
こちら側の透真だけが。
逃げた。
三人と。
一人を連れて。
部屋の外へ。
廊下。
非常口。
階段。
透真は。
一度も。
振り返らなかった。
振り返れば。
何を見るのか。
分からなかったから。
それでいい。
今は。
逃げる。
逃げることを。
自分で選んだ。
ただ。
階段を降りながら。
透真は。
気づいていた。
右手。
自分が掴んでいる。
アリスの手。
逃げるためなら。
本当は。
離した方が速い。
一人なら。
もっと簡単に逃げられる。
それでも。
離さなかった。
理由は。
考えなかった。
考えれば。
今は。
別のものから。
逃げられなくなる気がした。
そして。
三光印刷の応接室。
誰もいなくなった部屋。
壁の扉は。
完全に開いた。
炎は。
出てこなかった。
煙も。
出てこなかった。
向こう側には。
もう。
火事の家も。
十五歳の透真も。
いない。
ただ。
一人。
立っていた。
男。
現在の久世透真と。
同じ顔。
同じ身長。
同じ髪。
同じ瞳。
三光印刷へ。
一時間ほど前に現れた男。
その手には。
古い名刺。
男は。
誰もいない応接室へ。
ゆっくり。
足を踏み入れた。
右足を。
僅かに庇いながら。
一歩。
こちら側へ。
そして。
机の上。
防犯カメラの映像が映ったままのモニターを見る。
画面には。
少し前。
自分がこの会社へ入ってきた姿。
男は。
しばらく。
それを見ていた。
それから。
自分の右手を見る。
指。
掌。
傷はない。
火傷もない。
十五歳ではない。
今の身体。
男は。
静かに呟いた。
「また」
その声は。
透真と。
まったく同じだった。
「逃げた」
責める声ではない。
怒ってもいない。
悲しんでもいない。
ただ。
事実を。
確認するように。
男は。
開いた扉の向こうを見る。
そこには。
もう何もない。
白い壁。
普通の壁。
扉は。
消えている。
男は。
少しだけ。
目を閉じた。
そして。
ポケットから。
一つ。
取り出した。
古い。
鍵。
十年前。
火災現場から消え。
警察の証拠保管室からも消えた。
あの鍵。
男は。
それを。
掌の上で。
一度だけ。
転がした。
「今回は」
小さく。
呟く。
「どっちが逃げたんだろうな」
誰も。
答えない。
男は。
鍵をポケットへ戻す。
そして。
応接室を出た。
廊下。
受付。
自動ドア。
外。
真夏の大阪。
人。
車。
蝉。
信号。
普通の世界。
男は。
その中へ。
歩いていく。
誰も。
振り返らない。
誰も。
気づかない。
久世透真が。
この世界に。
二人いることに。
そして。
その頃。
本物の久世透真は。
まだ。
アリスの手を。
握ったままだった。
コメント、高評価よろしくお願いします。




