第15話 逃げたものは、どこへ行く
15話目になります。
よろしくお願いします。
午後二時四十一分。
三光印刷の非常階段は、外よりも暑かった。
建物の裏側に取り付けられた鉄製の階段は、真夏の日差しを何時間も浴び続けている。足を置くたびに靴底から熱が伝わり、手すりの金属は触れれば火傷しそうなほど熱を持っていた。
下からは道路を走るトラックの音。
遠くで鳴るクラクション。
蝉。
工場の換気扇。
そして。
四人分の足音。
透真は先頭を走っていた。
一段。
二段。
三段。
いつもなら、もっと速い。
階段の角度。
踊り場までの距離。
足場。
障害物。
後方から追ってくるものがあるなら、その速度まで計算する。
逃げるという行為に関してだけなら、考えるより先に身体が答えを出す。
それなのに。
今日は遅い。
理由は分かっている。
右手。
アリスの左手を掴んでいる。
走る速度を合わせているからだ。
透真一人なら、もう一階まで降りている。
それでも。
手を離さなかった。
「透真さん」
後ろから声がした。
「何です」
「痛いです」
透真の足が止まった。
二階と一階の間。
踊り場。
振り返る。
アリスが自分の左手を見る。
透真も見る。
握っている。
かなり強く。
「……すみません」
すぐに離した。
アリスが左手を軽く振る。
「逃げる時って、いつもこんな感じなんですか?」
「一人なので知りません」
「じゃあ初めて?」
「何がです」
「誰かと逃げるの」
透真は答えなかった。
一段下。
蘭が足を止める。
そのさらに後ろ。
橋本が肩で息をしていた。
「ちょ……」
橋本が手すりへ身体を預ける。
「ちょっと待って……」
四十代。
普段は営業車で移動。
突然、意味の分からない扉から逃げろと言われ、真夏の非常階段を二階分走らされた。
無理もない。
「大丈夫ですか」
アリスが聞く。
「大丈夫じゃ……ない……」
「休みます?」
「いや……」
橋本が上を見る。
「それより……」
声を落とす。
「何なんですか、あれ」
誰も。
すぐには答えなかった。
透真も上を見る。
三階。
応接室。
今のところ。
何も追ってこない。
火も。
煙も。
十五歳の自分も。
女性も。
そして。
あの手も。
銀色の鎖。
「分かりません」
透真が答える。
橋本が透真を見る。
「分からない?」
「はい」
「いや、でも久世さん」
「はい」
「さっきから皆さん、分からないものへの対応に慣れすぎてません?」
透真は少し考えた。
「最近多いので」
「そんな理由あります?」
「私もないと思ってました」
橋本は何か言おうとして。
やめた。
代わりに。
蘭を見る。
「明日香さん、でしたっけ」
「はい」
「あなたは知ってるんですよね?」
蘭は。
答えなかった。
銀色の天秤。
今は。
水平。
さっきまでの激しい揺れが嘘のように。
静止している。
橋本が続ける。
「あの鎖を見た時」
蘭を見る。
「明らかに反応しましたよね」
透真も。
蘭を見る。
アリスも。
蘭は天秤へ視線を落とした。
「知っています」
初めて。
はっきり認めた。
透真の目が僅かに細くなる。
「何を」
「鎖を」
「見れば分かります」
「そうですね」
「では、あれは何です」
蘭は。
すぐには答えない。
風が。
非常階段を抜けた。
熱い風。
汗で張り付いたシャツの背中を撫でる。
「ここで話すことではありません」
透真が言う。
「それは逃げですか?」
蘭が聞いた。
「はい」
即答。
蘭の目が少し動く。
「珍しく認めますね」
「火事の扉が三階にあって、私たちは二階の非常階段にいます」
透真は上を見る。
「事情聴取には適してません」
「合理的ですね」
「褒めても何も出ません」
「褒めてません」
「そうですか」
透真は階段を降りる。
「とりあえず外へ」
アリス。
蘭。
橋本。
三人も続いた。
一階。
非常扉を開ける。
むっとする空気。
建物裏の細い路地。
室外機が並び、熱風を吐き出している。
透真は周囲を見る。
左。
道路。
右。
搬入口。
正面。
フェンス。
人影。
なし。
追跡者。
なし。
火災。
なし。
異常。
――なし。
「……何もない」
アリスが言った。
「ない方がいいでしょう」
透真は答える。
「そうなんですけど」
アリスが建物を見上げる。
三階。
普通の窓。
煙ひとつ出ていない。
「さっきまであそこに火事があったんですよね」
「見えていただけかもしれません」
「熱かったです」
「幻覚でも熱を感じることはあります」
「匂いも」
「脳は優秀です」
「透真さん」
「何です」
「信じたくないだけですよね」
透真は。
アリスを見る。
「何を」
「十年前の火事が、あの向こうにあったこと」
黒い瞳。
真っ直ぐ。
透真は数秒。
何も言わなかった。
「……そうですね」
アリスが少し目を見開いた。
透真は続ける。
「信じたくないです」
自分でも。
少し意外だった。
いつもなら。
別に。
分からない。
関係ない。
そう答える。
今日は。
そう言わなかった。
「だから」
透真はスマートフォンを取り出す。
「確認します」
大場。
着信履歴。
三件。
相良。
二件。
知らない番号。
一件。
透真は画面を見る。
「うわ」
「どうしました?」
アリス。
「現実が追ってきました」
「電話ですよね?」
「警察です」
「出てください」
「嫌です」
「出てください」
「今、精神的に」
「出てください」
透真は小さく息を吐いた。
相良へ折り返す。
一コール。
『久世!』
耳からスマートフォンを離した。
アリスが笑いそうになる。
「元気ですね」
「聞こえました?」
「はい」
透真はスマートフォンを戻す。
「もしもし」
『もしもしじゃねえ! 大場から聞いたぞ!』
「どこまで」
『お前が二人いるところまでだよ!』
「今はもっと増えました」
沈黙。
『……何が』
「扉」
『は?』
「火事」
『待て』
「十五歳の私」
『待てって言ってんだろ!』
「銀色の鎖」
『久世』
「あと明日香さんが何か知ってます」
蘭が透真を見る。
透真は気にしない。
電話の向こう。
相良が。
長く息を吐いた。
『お前ら』
「はい」
『何で俺がいない時だけ話を進めるんだ』
透真は少し考えた。
「タイミングですかね」
『ふざけんな』
「真面目です」
『今どこだ』
「三光印刷の裏」
『そこから動くな』
「嫌です」
『久世』
「暑いので」
『そういう意味じゃねえ!』
「では近くの日陰に」
『勝手に移動するな!』
透真は周囲を見る。
室外機。
アスファルト。
日陰。
ほぼない。
「熱中症になった場合、警察の指示が原因ということで」
『分かった! 日陰までは行け!』
「ありがとうございます」
『ただしそこから動くな!』
「善処します」
『約束しろ!』
「嫌です」
電話を切った。
アリスが。
じっと見ている。
「何です」
「相良さん、大変ですね」
「仕事です」
「透真さんのせいでは?」
「違います」
後ろで。
橋本が小さく呟いた。
「警察の人にもあんな感じなんだ……」
透真は聞かなかったことにした。
*
午後二時五十一分。
三光印刷から約百メートル。
道路沿いの小さなコンビニ。
店の横。
日陰。
透真たちは、そこで相良を待つことになった。
橋本には店内で休んでもらっている。
あれ以上巻き込む必要はない。
少なくとも。
透真はそう判断した。
自動販売機の前。
アリスが水を買う。
蘭は何も買わない。
透真はブラックコーヒーのボタンを押した。
がこん。
缶。
取り出す。
「暑いのにホットじゃないですよね?」
アリスが聞く。
「そこまでおかしくありません」
「最近基準が分からなくて」
「私を何だと思ってるんです」
「透真さんです」
「答えになってません」
「一番正確だと思います」
透真は缶を開ける。
冷たい。
一口。
苦い。
普通。
今は。
普通のものがありがたい。
アリスが水を飲む。
その横。
蘭は。
道路を見ていた。
「明日香さん」
透真が呼ぶ。
「はい」
「ここなら話せますね」
「逃げ道もあります」
「重要です」
蘭が透真を見る。
「何から聞きます?」
透真は缶を持ったまま。
数秒考える。
聞きたいことは多い。
鎖。
天秤。
十年前。
扉。
もう一人の自分。
だが。
一番。
引っ掛かっている言葉。
「さっき」
透真が言う。
「あなたは言いましたね」
蘭は黙って聞く。
「選ばれなかった結果じゃない、と」
アリスの視線も蘭へ向く。
「はい」
「どういう意味です」
蘭は。
道路の向こうを見る。
信号。
赤。
人が待っている。
青。
歩き始める。
「久世さん」
「はい」
「あなたは、選択肢が二つある時」
蘭が言う。
「片方を選べば、もう片方は消えると思いますか?」
「普通は」
「普通は?」
「選ばなかっただけです」
「消えたわけではない?」
「過去の可能性としては残るでしょう」
「では」
蘭が透真を見る。
「その可能性が、こちらを選んだら?」
透真の手が。
止まった。
アリスも。
少し眉を寄せる。
「意味が分かりません」
「私も完全には分かりません」
「またそれですか」
「知らないことを知っているとは言えません」
「では知っている範囲で」
蘭は。
少し考える。
「私が見ているものは」
銀色の天秤を持ち上げる。
「正しいか、間違っているかではありません」
右。
左。
「二つが、同時に成立できるかどうかです」
透真は天秤を見る。
「両方共に」
アリスが言った。
蘭が頷く。
「はい」
「あなたの存在意義」
「そう呼ばれています」
透真はコーヒーを一口飲む。
「それと鎖に何の関係が」
蘭の指が。
天秤の中央。
細い鎖へ触れる。
「これは」
一拍。
「二つを繋ぐためのものです」
透真の目が。
僅かに細くなる。
「何と何を」
「それは」
蘭は答えかけて。
止まった。
「分かりません」
「今の間は何です」
「言葉を選びました」
「逃げました?」
「少し」
透真は蘭を見る。
蘭も。
逸らさない。
「珍しいですね」
「そうでしょうか」
「あなた、両方見るんでしょう」
「見ます」
「なのにさっきは」
透真の声が。
少し低くなる。
「逃げろと言った」
「はい」
「なぜ」
蘭は。
しばらく黙っていた。
コンビニの自動ドアが開く。
電子音。
高校生が二人出てくる。
アイス。
笑い声。
自転車。
何でもない夏休み。
その音が遠ざかってから。
蘭は言った。
「あの鎖は」
天秤を見る。
「私のものではありません」
透真は答えない。
「でも」
蘭の指が。
鎖から離れる。
「同じものです」
「矛盾してません?」
アリスが聞く。
「しています」
蘭は否定しない。
「だから怖かった」
透真が。
少しだけ眉を動かす。
怖い。
蘭が。
自分でそう言った。
初めて聞く。
「あなたも怖いんですね」
「人間なので」
「そうですか」
「残念でした?」
「少し」
「ひどいですね」
「もっと何でも分かる人かと」
「私は何でも分かる人ではありません」
蘭が言う。
「両方を見てしまうだけです」
透真は。
その言葉を聞く。
見てしまう。
見る、ではない。
「それ」
透真が言う。
「嫌なんですか」
蘭のゴールドの瞳が。
僅かに揺れた。
アリスも。
透真を見る。
蘭は。
すぐには答えなかった。
「久世さん」
「はい」
「あなたは逃げることが嫌ですか?」
「質問で返さないでください」
「答えに近いので」
透真は少し考える。
「嫌ではありません」
「では好きですか?」
「便利です」
「答えてません」
「あなたに言われたくないですね」
蘭が。
ほんの少し笑った。
「そうですね」
そこで。
会話が終わった。
蘭は。
結局。
自分が「両方を見る」ことを嫌なのか。
答えなかった。
透真も。
追わなかった。
ただ。
覚えておく。
その程度でいい。
今は。
「透真さん」
アリスが呼ぶ。
「何です」
「さっき」
嫌な予感がした。
「私の名前、呼びましたよね」
やっぱり。
「呼びました?」
「呼びました」
「気のせいでは」
「嘘です」
「便利ですね」
「アリスって」
透真はコーヒーを飲む。
「そうでした?」
「はい」
「緊急時なので」
「普段は白峰さんなのに」
「短い方が早いでしょう」
「二文字しか変わりません」
「緊急時の二文字は大きいです」
「じゃあ私も」
アリスが少し考える。
「透真」
透真の手が。
止まった。
蘭が。
横を向いた。
明らかに。
笑いを隠している。
「戻してください」
透真。
「どうしてです?」
「違和感があります」
「透真」
「白峰さん」
「透真」
「やめてください」
「透真」
「三回言わなくていいです」
アリスが笑う。
「嫌なんですか?」
「嫌というより」
透真は。
言葉を探した。
近い。
距離が。
一段。
勝手に縮んだような。
そんな感じ。
それを。
言うつもりはない。
「慣れません」
「じゃあ慣れればいいですね」
「なぜそうなるんです」
「解決策です」
「戻す方が簡単です」
「逃げます?」
「逃げます」
アリスがまた笑う。
透真は。
コーヒーを飲む。
視線を道路へ向ける。
だから。
アリスが。
そのあとほんの少しだけ嬉しそうに水のボトルを持ち直したことには。
気づかなかった。
あるいは。
気づかないことにした。
*
午後三時七分。
相良が来た。
覆面車。
助手席には。
見覚えのない若い刑事。
二人が降りる。
相良は。
透真を見るなり。
「お前なあ」
「第一声が説教なのやめません?」
「俺の立場になってみろ」
「嫌です」
「だろうな!」
若い刑事が。
少し困った顔をしている。
相良は額を押さえた。
「とりあえず」
三光印刷を見る。
「現場」
「三階です」
「案内しろ」
「嫌です」
「何でだ!」
「扉がまだあるかもしれない」
相良の表情が変わる。
「……危険か」
「分かりません」
「ならなおさら確認する」
「警察って大変ですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「犯人?」
「犯人がいるなら連れてこい」
「私が二人いるので、片方かもしれません」
相良が。
止まった。
「……その話」
声が低くなる。
「詳しく聞く」
「私も詳しく知りたいです」
相良は。
数秒透真を見て。
諦めたように息を吐いた。
「行くぞ」
全員で三光印刷へ戻る。
受付。
橋本。
事情説明。
三階。
応接室。
扉。
――ない。
普通の白い壁。
透真は。
立ち止まる。
さっき。
そこにあった。
黒い輪郭。
ノブ。
火。
手。
声。
全部。
消えている。
「ここです」
相良が壁を見る。
「何もねえぞ」
「知ってます」
「俺には壁にしか見えん」
「私にもです」
「じゃあ何でそんな普通なんだよ」
「壁なので」
「さっきまで扉だったんだろ!」
「はい」
「もっと驚け!」
「二回目なので」
相良が。
何かを諦めた。
若い刑事は。
まだ何も諦められていない顔をしている。
橋本が防犯映像を出す。
一時三十七分。
もう一人の透真。
相良の顔から。
冗談が消えた。
映像。
受付。
応接。
退出。
ノイズ。
外側。
誰も出てこない。
「もう一回」
相良。
再生。
もう一度。
相良は。
透真を見る。
画面。
透真。
画面。
透真。
「双子」
「いません」
「兄弟」
「いません」
「変装」
「私より本人らしいですね」
「ふざけるな」
「真面目です」
相良は画面へ近づく。
「顔認証は」
若い刑事が答える。
「映像データを持ち帰れば照合できます」
「やれ」
「はい」
透真は。
画面を見る。
もう一人。
自分。
何度見ても。
自分にしか見えない。
ただ。
右足。
ほんの僅か。
庇っている。
「久世」
相良が言う。
「十年前の怪我」
透真は相良を見る。
「知ってるんですか」
「火災の記録にある」
「どこまで」
「右脚に裂傷。軽度の熱傷」
透真は。
何も言わない。
相良が画面を見る。
「この歩き方」
気づいた。
「お前が当時、退院した後しばらくしてた歩き方に似てる」
透真の目が。
少しだけ細くなる。
「見たんですか」
相良が止まった。
一秒。
ほんの一秒。
「記録だ」
「歩き方まで?」
「事情聴取の映像が残ってる」
「そうですか」
相良は。
それ以上説明しなかった。
透真も。
それ以上聞かなかった。
ただ。
覚えた。
十年前。
相良は。
どこまで。
自分を知っている。
「名刺は?」
橋本が袋を出す。
相良が確認。
古い大場企画。
旧住所。
「指紋」
若い刑事。
「採取します」
透真が言う。
「私のが出たら?」
相良が見る。
「困る」
「でしょうね」
「でも比較する」
「どうぞ」
透真は。
自分の指を見る。
もし。
同じだったら。
何が証明される。
本人。
偽物。
別の結果。
可能性。
それとも。
何も証明されないのか。
「相良さん」
アリスが呼ぶ。
「何だ」
「さっきの扉」
「うん」
「向こうに十五歳の透真さんがいました」
相良の顔が。
変わった。
一瞬。
本当に。
一瞬だけ。
だが。
透真は見た。
驚きではない。
恐怖。
それに近かった。
「相良さん」
透真が言う。
相良はすぐに表情を戻す。
「何だ」
「今」
「何だ」
「知ってる顔しましたよ」
沈黙。
若い刑事が相良を見る。
橋本も。
蘭も。
アリスも。
相良は。
透真だけを見る。
「何を見た」
質問を変えた。
透真は答えない。
「十五歳のお前以外に」
相良の声。
低い。
「何がいた」
透真の中で。
一つ。
確信に近いものが生まれる。
相良は。
知っている。
全部ではない。
でも。
何かを。
「女性」
透真が言う。
相良の目が。
僅かに動く。
「顔は」
「見えません」
「声は」
「聞きました」
「何て」
透真は。
一度だけ。
呼吸を止めた。
もう逃げなくていいよ。
その言葉。
なぜか。
口に出したくなかった。
「私の名前を呼んでました」
嘘ではない。
全部でもない。
アリスが。
透真を見る。
何も言わない。
嘘だとも。
言わない。
相良は。
まだ待っている。
「それだけか」
「はい」
アリスの視線が。
一瞬。
透真から外れた。
透真は気づいた。
でも。
見なかったことにした。
相良は。
数秒黙った。
「他には」
蘭を見る。
「銀色の鎖」
蘭が答える。
相良の顔が。
今度こそ。
完全に止まった。
「……鎖?」
「はい」
「どんな」
「細い銀色。女性の手首に巻かれていました」
相良は。
何も言わない。
「知っていますか?」
蘭。
相良は。
すぐには答えなかった。
「知らん」
アリスが。
相良を見る。
「嘘です」
空気が。
止まった。
相良の目が。
アリスへ向く。
アリスは。
逸らさない。
「白峰」
「はい」
「今のは」
「嘘です」
透真が。
小さく息を吐く。
「便利ですね」
「今それ言います?」
「空気が重いので」
相良は。
透真を睨む。
「お前は黙ってろ」
「はい」
珍しく従った。
相良は。
壁を見る。
何もない。
白。
「……十年前」
相良が言った。
全員が。
聞く。
「火災現場から」
一拍。
「なくなったものがある」
透真の目が。
細くなる。
「鍵」
相良が透真を見る。
「それもだ」
透真の呼吸が。
止まる。
それも。
つまり。
他にもある。
「何が」
相良は。
答えなかった。
「相良さん」
「今は言えん」
「なぜ」
「確認が必要だ」
「十年前の話ですよ」
「だからだ」
相良の声が。
低くなる。
「十年前の記録と」
壁を見る。
「今起きてることが、本当に同じものなのか」
そして。
透真を見る。
「確認しないまま話す方が危険だ」
透真は。
納得していない。
だが。
理屈は分かる。
「いつ分かります」
「今日中に調べる」
「今日中」
「ああ」
「じゃあ夜に電話します」
「俺からする」
「何時です」
「分からん」
「では九時」
「勝手に決めるな」
「十時?」
「そういう意味じゃねえ」
アリスが。
小さく笑った。
緊張が。
ほんの少しだけ緩む。
その時。
若い刑事が。
パソコンの前で声を上げた。
「相良さん」
「何だ」
「映像」
全員が見る。
「どうした」
「さっきの続きなんですが」
防犯映像。
外側。
一時四十八分。
誰も出てこない。
そこまでは見た。
若い刑事が。
時間を進める。
一時五十分。
五十二分。
五十五分。
誰もいない。
二時。
二時五分。
そして。
二時十一分。
透真が会社を出た時間。
画面には。
三光印刷の前。
普通の歩道。
人。
車。
何もない。
二時十二分。
一人。
男が。
画面の端へ入ってきた。
透真の身体が。
止まった。
同じ顔。
もう一人の透真。
「こいつ」
相良が画面へ近づく。
男は。
三光印刷の前を通過する。
だが。
入らない。
歩道を。
ゆっくり歩いていく。
方向。
「どこへ向かってる」
相良。
橋本が言う。
「駅の方です」
映像。
男が。
画面から消える。
次。
近隣カメラはない。
「時間」
透真が言う。
若い刑事が確認。
「二時十二分三十八秒」
透真は。
スマートフォンを見る。
会社を出たのが。
二時十一分。
距離。
車で二十分以上。
徒歩なら。
もっと。
「同時に」
アリスが言う。
透真を見る。
「いたんですね」
大場企画を出た透真。
三光印刷の前を歩く透真。
同じ時間。
同じ大阪。
二人。
相良が。
低く呟く。
「こいつを追う」
若い刑事へ。
「周辺カメラ。駅。道路。全部当たれ」
「はい」
透真は。
画面を見る。
もう一人の自分。
歩いていく。
右足を。
僅かに庇いながら。
そして。
ふと思った。
「待って」
若い刑事が止める。
「何だ」
相良。
「拡大できます?」
「どこを」
「手」
映像。
男の右手。
拡大。
粗い。
さらに。
透真の目が。
細くなる。
「何か持ってる」
アリス。
小さい。
金属。
光。
鍵。
「例の鍵か」
相良が言う。
透真は。
答えない。
画面。
男は。
歩きながら。
鍵を。
一度だけ。
持ち上げている。
まるで。
何かを確認するように。
そして。
次の瞬間。
顔を上げた。
防犯カメラを。
見た。
全員が。
止まる。
偶然。
そう見えるだけかもしれない。
だが。
視線は。
明らかに。
カメラへ向いている。
そして。
男の口が。
動いた。
「音声は」
透真。
「ありません」
橋本。
「読めます?」
アリスが聞く。
誰も答えない。
透真は。
画面を見る。
自分の口。
自分なら。
分かるかもしれない。
再生。
口が動く。
短い。
三文字。
四文字。
「もう一度」
再生。
透真は。
眉を寄せる。
「何て?」
相良。
透真は。
すぐには答えなかった。
たぶん。
そう言っている。
でも。
意味が。
分からない。
「……六時」
「は?」
「たぶん」
画面を見る。
「六時、って言ってます」
相良が時計を見る。
午後三時十九分。
アリスも。
蘭も。
見る。
六時。
あと。
二時間四十一分。
「今日の?」
アリス。
「分かりません」
透真。
「場所は?」
相良。
「分かりません」
「何が六時なんだ」
「分かりません」
「何も分からねえな!」
「私に怒らないでください」
だが。
透真は。
画面から目を離せなかった。
六時。
ただの数字。
時間。
それだけ。
なのに。
妙に。
引っ掛かる。
十年前。
火災。
何時だった。
覚えている。
はず。
夜。
煙。
炎。
時計。
どこかで。
見た。
「……十八時」
透真が呟く。
相良が見る。
「何だ」
「十年前の火事」
透真は。
記憶を探す。
「通報は」
相良が答える。
「十八時十二分」
透真の目が。
動く。
十八時十二分。
今。
画面の自分が。
六時。
と。
言った。
偶然。
それだけでは。
何も証明しない。
でも。
「十二分」
アリスが。
小さく言った。
透真を見る。
「何です」
「最初の日」
アリス。
「私が会社に行った日」
透真の眉が。
寄る。
「何時でした?」
アリスが聞く。
透真は。
答えなかった。
覚えている。
十八時十二分。
退社準備。
十八時十五分頃。
ノック。
アリス。
そして。
事件。
「……偶然です」
透真が言う。
アリスは。
何も言わない。
「時間なんて」
透真は続ける。
「いくらでも重なります」
蘭が。
天秤を見る。
動いていない。
「そうですね」
蘭が言う。
「偶然かもしれません」
透真は。
蘭を見る。
「含みがありますね」
「両方見ているだけです」
「便利な言葉ですね」
「久世さんほどではありません」
透真は。
もう一度。
画面を見る。
六時。
あと。
二時間半。
「相良さん」
「何だ」
「今日の十八時」
「動くな」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
「失礼ですね」
「お前は絶対何かする」
「仕事があります」
「会社戻る気か?」
「当たり前でしょう」
相良が。
信じられないものを見る顔をした。
「お前、自分が二人いるんだぞ」
「だから何です」
「仕事してる場合か」
「もう一人が仕事してくれるなら帰ります」
「そういう問題じゃねえ!」
透真は。
少し考えた。
「でも」
画面。
もう一人の自分。
三光印刷で。
普通に仕事をした。
部数を確認。
名刺。
納期。
もし。
本当に自分なら。
仕事をする理由はある。
「……会社」
透真が言った。
相良。
「何だ」
透真は。
画面を見る。
「こいつ」
もう一人の自分。
「会社の場所を知ってる」
空気が。
変わった。
アリスの顔から笑みが消える。
蘭も。
天秤を見る。
相良が。
すぐにスマートフォンを出した。
「大場に連絡」
透真も。
同時に。
電話。
大場。
一コール。
二コール。
三。
『おう』
出た。
「社長」
『どうした』
「会社に誰か来ました?」
『誰か?』
「私」
沈黙。
『お前は三光だろ』
「はい」
『何言ってんだ』
「私と同じ顔の人間」
大場の声が。
止まった。
『……まだ来てねえ』
透真は。
僅かに息を吐く。
「沙莉さんは」
『いる』
「扉は」
『出てねえ』
「何かあったら」
そこで。
透真は止まった。
何と言う。
逃げろ。
それでいい。
でも。
大場と沙莉。
二人。
逃げられるか。
自分は。
いない。
「久世?」
大場。
透真は。
答える。
「私が戻るまで」
一拍。
「知らない私を入れないでください」
大場が。
数秒黙った。
それから。
『了解』
「あと」
『何だ』
「私が戻ってきても」
透真は。
自分で言って。
妙な気分になった。
「確認してください」
『どうやって』
「……」
困る。
本人確認。
自分しか知らないこと。
大場と。
何がある。
「俺の朝飯」
大場が言った。
「は?」
『今朝何食った』
「米二合と目玉焼き四つ」
『よし』
「それでいいんですか」
『今日のお前しか知らねえ』
確かに。
透真は。
少しだけ笑った。
「分かりました」
『久世』
「はい」
『気をつけろ』
透真は。
返事をしようとして。
止まる。
いつもの。
善処します。
それでいい。
でも。
今日は。
「はい」
そう答えた。
電話を切る。
アリスが。
隣で見ていた。
「何です」
「ちゃんと返事するんですね」
「何が」
「気をつけろって言われて」
「普通でしょう」
「普通なんですね」
「何が言いたいんです」
アリスは。
少し笑った。
「別に」
透真は。
それ以上聞かなかった。
*
午後三時三十八分。
三光印刷を出る。
防犯映像は警察がコピー。
古い名刺も回収。
相良は周辺の捜査。
透真たちは。
会社へ戻ることになった。
「本当に戻るのか」
相良が最後まで言った。
「はい」
「十八時まで会社から出るな」
「努力します」
「約束しろ」
「嫌です」
「久世!」
「でも」
透真は。
少し考えて。
「十八時までは、なるべく会社にいます」
相良が止まる。
「……お前」
「何です」
「最近ちょっとだけ言うこと聞くようになったな」
「撤回します」
「するな」
アリスが笑う。
蘭も。
ほんの少し。
笑った。
車へ向かう。
透真。
蘭。
アリス。
来た時と同じ。
透真が運転席。
蘭が助手席。
アリスが後ろ。
エンジン。
冷房。
ナビ。
大場企画。
二十一分。
走り出す。
しばらく。
誰も話さなかった。
道路。
夏。
車。
信号。
普通の景色。
だが。
透真の頭の中では。
いくつものものが。
繋がりそうで。
繋がらない。
十五歳の自分。
女性。
銀色の鎖。
もう一人の自分。
古い鍵。
六時。
十八時十二分。
相良の反応。
蘭の恐怖。
そして。
自分の記憶。
何かが。
欠けている。
十年前。
自分は。
火から逃げた。
そう思っていた。
でも。
扉の向こうの自分は言った。
人から逃げた。
誰から。
「透真さん」
後ろ。
アリス。
「何です」
「さっき」
「今日はさっきが多いですね」
「大事なので」
「何です」
「相良さんに」
少し間。
「全部言わなかったですよね」
透真の指が。
ハンドルの上で止まった。
蘭は。
前を見たまま。
何も言わない。
「何の話です」
「女の人が言ったこと」
アリス。
「『もう逃げなくていいよ』」
透真は。
前を見る。
「言いませんでしたね」
「はい」
「どうして?」
「分かりません」
「嘘ではないです」
アリスは言った。
「でも、全部でもない」
透真は。
少しだけ。
バックミラーを見る。
アリス。
黒い瞳。
「言いたくなかった」
透真が答える。
アリスは。
黙る。
「理由は」
「分かりません」
「それも本当ですね」
「便利ですね」
「はい」
少しだけ。
沈黙。
「透真さん」
「何です」
「言わなくてもいいです」
透真の目が。
僅かに動く。
「でも」
アリスは。
窓の外を見る。
「言いたくなったら聞きます」
透真は。
返事をしなかった。
ありがとう。
とも。
分かりました。
とも。
言わない。
ただ。
赤信号で。
車を止めた。
後部座席。
アリスの水が。
ドリンクホルダーから少しずれている。
カーブで倒れそうだった。
透真は。
手を伸ばし。
正しい位置へ戻した。
それだけ。
信号が青になる。
車を出す。
蘭が。
横で。
見ていた。
「何です」
「何も」
「今何か考えましたよね」
「人間は面白いな、と」
「またですか」
「はい」
「帰ってください」
「今、車の中です」
「着いたら」
「嫌です」
透真は。
小さく息を吐いた。
*
午後四時三分。
大場企画。
エレベーター。
六階。
扉が開く。
透真は。
最初に廊下を見る。
誰もいない。
白い壁。
非常灯。
消火器。
いつも通り。
事務所。
扉。
インターホン。
透真が押す。
数秒。
『はい、大場企画です』
沙莉。
「久世です」
『……朝ご飯は?』
透真は。
一瞬。
黙った。
「そこまで共有したんですか」
『本人確認です』
「米二合、目玉焼き四つ」
『どうぞ』
鍵が開く。
事務所へ入る。
大場が。
自分のデスクから顔を上げた。
「おう」
「どうも」
「一人か?」
透真が。
アリスと蘭を見る。
「三人ですが」
「そういう意味じゃねえ」
「分かってます」
沙莉が。
少し不安そうに透真を見る。
「本物ですよね?」
「たぶん」
「たぶんやめてください」
「自分が本物だと証明する方法って意外とないですよ」
「怖いこと言わないでください」
大場が腕を組む。
「で」
「長くなります」
「仕事は」
「もっと長くなります」
「先に話せ」
透真は。
鞄を置いた。
そして。
一瞬。
デスクを見る。
自分の椅子。
パソコン。
書類。
午前中。
ここで仕事をしていた。
その場所。
何も変わっていない。
はず。
透真は。
足を止めた。
「久世?」
大場。
返事をしない。
デスク。
メモ。
電話。
名刺入れ。
そして。
キーボードの横。
一枚。
紙が置かれている。
透真は。
近づく。
「これ」
沙莉が言う。
「何です?」
透真は。
紙を見る。
白。
A4。
会社のプリンターで出したような普通の紙。
中央。
一行。
印刷。
『18:00』
それだけ。
「いつからありました」
透真。
沙莉が首を傾げる。
「え?」
「この紙」
「さっきから?」
「誰が置いた」
「久世さんのじゃないんですか?」
「違います」
大場が立ち上がる。
「待て」
「何です」
「俺、それ見てねえぞ」
沙莉が大場を見る。
「え?」
「いつ置いた」
「いや」
沙莉も。
顔から笑みが消える。
「私も……」
紙を見る。
「いつからあったんだろ」
透真の目が。
細くなる。
「防犯カメラ」
大場企画の事務所内。
簡易的なもの。
入口。
受付周辺。
デスクの一部。
大場が映像を出す。
午後二時十一分。
透真たちが出る。
二時十二分。
沙莉。
大場。
普通。
二時半。
三時。
三時半。
誰も。
透真の机へ近づかない。
四時。
そして。
現在。
紙。
ある。
「戻して」
透真。
三時五十分。
ない。
三時五十五分。
ない。
三時五十八分。
ない。
三時五十九分。
映像が。
一瞬。
乱れた。
白。
次。
四時。
紙が。
ある。
誰も。
置いていない。
「……また」
アリス。
透真は。
画面を見る。
ノイズ。
一秒。
三光印刷と。
同じ。
「触らないでください」
蘭。
誰も触らない。
透真は。
紙を見る。
18:00。
あと。
二時間弱。
「相良さんに」
アリス。
「連絡します」
透真はスマートフォンを出す。
その時。
固定電話が。
鳴った。
全員が。
止まる。
一回。
二回。
沙莉が。
透真を見る。
「私?」
「嫌なら私が」
「久世さんが出てください」
「嫌です」
「こういう時くらい!」
三回。
大場が。
受話器を取った。
「大場企画」
低い声。
一秒。
大場の眉が寄る。
「誰だ」
透真を見る。
大場の表情が。
変わった。
「久世」
「何です」
大場が。
受話器を差し出す。
「お前だ」
透真は。
動かなかった。
アリスも。
蘭も。
沙莉も。
大場を見る。
「私?」
「声が」
大場。
「お前だ」
四秒。
透真は。
受話器を取った。
耳へ。
「もしもし」
沈黙。
ノイズ。
そして。
声。
『もしもし』
自分。
完全に。
自分の声。
透真は。
目を閉じない。
「久世透真です」
『知ってます』
三光印刷。
扉越し。
同じ会話。
「あなたは?」
『久世透真です』
透真は。
小さく息を吐いた。
「二回目ですね」
電話の向こう。
ほんの少し。
笑う気配。
『そうだな』
違う。
透真の目が。
僅かに変わる。
扉の向こうの十五歳。
声は自分だった。
だが。
今の相手。
口調。
呼吸。
間。
今の自分に。
近い。
「三光印刷に来たのはあなたですか」
『そう』
「古い名刺を渡した」
『そう』
「鍵を持っている」
沈黙。
『そう』
「どこにいます」
『逃げる?』
透真の眉が。
僅かに寄る。
「質問に答えてください」
『逃げるなら』
声。
『今だぞ』
「何から」
電話の向こう。
少しだけ。
風の音。
車。
遠く。
踏切。
『六時から』
透真の指が。
受話器を強く握る。
「何が起きる」
『知らない』
「ではなぜ六時だと」
『知ってるから』
「矛盾してます」
『してない』
透真は。
黙る。
『何が起きるかは知らない』
向こうの自分。
『でも』
一拍。
『六時に、お前が逃げることは知ってる』
事務所。
誰も。
動かない。
透真は。
何も言わない。
「どこから」
『そこから』
「会社?」
『違う』
「では」
向こうの声が。
言った。
『今のお前から』
透真の瞳が。
止まる。
アリスが。
透真の表情を見る。
蘭の天秤が。
ちん。
小さく鳴った。
「意味が分かりません」
『俺も分からなかった』
「過去形ですね」
沈黙。
『なあ』
声。
透真。
自分。
『お前、十年前』
風。
踏切。
カン。
カン。
カン。
『本当に自分で逃げたと思ってる?』
透真の呼吸が。
止まった。
一秒。
二秒。
「何が言いたい」
『六時』
「だから」
『待ってる』
「どこで」
『知ってるだろ』
電話。
切れた。
ツー。
ツー。
ツー。
透真は。
受話器を耳に当てたまま。
動かなかった。
「透真さん」
アリス。
透真は。
ゆっくり。
受話器を置いた。
「どこです」
蘭が聞く。
「分かりません」
「嘘です」
アリス。
透真は。
アリスを見る。
黒い瞳。
「知ってますよね」
透真は。
答えなかった。
知っている。
場所。
踏切。
風。
六時。
十年前。
火事。
家。
その近く。
一つ。
思い出した場所。
火災現場から。
三百メートルほど。
古い。
踏切。
自分が。
あの日。
最初に。
立ち止まった場所。
逃げた後。
なぜそこにいたのか。
覚えていない。
「透真さん」
アリスが。
もう一度呼ぶ。
透真は。
時計を見る。
午後四時十一分。
六時まで。
一時間四十九分。
「行きません」
全員が。
少し驚いた。
大場が言う。
「いいのか」
「罠でしょう」
「だろうな」
「なら行かない」
透真は。
椅子へ座る。
パソコンを起動する。
「仕事します」
沙莉が。
信じられないものを見る顔をした。
「できるんですか?」
「締切は逃げてくれません」
「今の状況で?」
「今の状況だからです」
メール。
未読。
十二件。
「六時に来いと言われて」
透真は。
マウスを動かす。
「素直に行く理由がありません」
アリスは。
透真を見る。
蘭も。
何も言わない。
大場は。
少しだけ笑った。
「お前らしいな」
「褒めても何も出ません」
「褒めてねえよ」
透真は。
メールを開く。
一件。
二件。
返信。
仕事。
普通。
日常。
自分で。
選ぶ。
行かない。
それでいい。
六時。
何かが起きると言われた。
なら。
そこから逃げる。
一番簡単な方法は。
その予定自体を無視すること。
透真は。
そう決めた。
午後四時十九分。
四時三十二分。
四時五十分。
時間が。
進む。
誰も。
透真を急かさない。
アリスは。
来客用テーブルでスマートフォンを触っている。
蘭は。
窓際。
天秤。
大場は仕事。
沙莉も。
電話。
普通の会社。
普通の夕方。
ただ。
机の上には。
『18:00』
と書かれた紙がある。
午後五時十三分。
相良から電話。
『絶対に動くな』
「分かりました」
『……素直だな』
「行かないことにしたので」
『本当に?』
「はい」
『何で』
「怪しいので」
『お前がまともなこと言うと不安になるな』
「切りますよ」
『待て。周辺のカメラでお前そっくりの男を追ってる』
透真の手が。
止まる。
「どこへ」
『南へ移動してる』
「南」
『ただ途中で何度か消える』
「消える?」
『カメラとカメラの間じゃない』
相良の声が。
低くなる。
『画面の中で消える』
透真は。
何も言わない。
『それから』
「はい」
『一つ変なことがある』
「何です」
『あいつ』
少し。
間。
『誰からも避けられてない』
「どういう意味です」
『歩道を歩いてる。人とすれ違う。肩が当たりそうになる』
相良。
『でも誰も避けない』
透真の目が。
細くなる。
「見えてない?」
『分からん』
「ぶつかっては」
『ない』
「なら」
透真は。
考える。
人が。
避けない。
でも。
ぶつからない。
まるで。
最初から。
そこにいないように。
「相良さん」
『何だ』
「今どこです」
『お前の会社へ向かってる』
「来なくていいです」
『行く』
「仕事があります」
『知らん』
「横暴ですね」
『六時までに着く』
電話が切れた。
透真は。
スマートフォンを見る。
「警察も来るんですか?」
アリス。
「らしいです」
「賑やかですね」
「帰りたいです」
「ここ会社ですよ」
「家に」
「逃げます?」
透真は。
時計を見る。
午後五時二十一分。
「六時を過ぎたら」
言う。
「帰ります」
アリスは。
少しだけ笑った。
「はい」
なぜ。
自分が帰ることに。
アリスが返事をしたのか。
透真は。
聞かなかった。
*
午後五時五十六分。
相良が到着。
事務所。
大場。
沙莉。
透真。
アリス。
蘭。
相良。
六人。
時計。
秒針。
カチ。
カチ。
カチ。
誰も。
それを見ないふりをしている。
「あと四分」
沙莉が言った。
「言わなくていいです」
透真。
「気になるじゃないですか」
「言うと余計に」
「久世さんも見てるじゃないですか」
「時計なので」
午後五時五十七分。
何もない。
五十八分。
何もない。
五十九分。
相良が。
立ったまま。
壁を見る。
蘭。
天秤。
水平。
アリス。
透真の斜め前。
大場。
入口。
沙莉。
自分のデスク。
そして。
透真。
椅子。
座ったまま。
「久世」
相良。
「何です」
「何か感じるか」
「帰りたいです」
「それはいつもだろ」
「はい」
五十九分。
四十秒。
四十五。
五十。
アリスが。
透真を見る。
透真は。
時計を見る。
五十五。
五十六。
五十七。
五十八。
五十九。
午後六時。
何も。
起きなかった。
全員。
数秒。
動かない。
「……何もないですね」
沙莉。
透真は。
息を吐いた。
「でしょうね」
立ち上がる。
「帰ります」
相良が。
呆れた顔をする。
「お前な」
「六時過ぎました」
「一分くらい待て」
「嫌です」
鞄。
持つ。
アリスも。
立つ。
透真が見る。
「なぜ」
「帰るので」
「どこへ」
「透真さんと同じ方向です」
「そうですか」
「はい」
蘭も。
天秤を持ち上げる。
「私も帰ります」
大場が。
大きく息を吐く。
「結局何だったんだよ」
透真は。
机。
18:00。
紙。
見る。
「脅しでしょう」
そう言った。
その瞬間。
天秤が。
鳴った。
ちん。
蘭が。
止まる。
透真も。
「何です」
蘭は。
天秤を見る。
右。
左。
動いていない。
なのに。
音だけ。
鳴った。
「……分かりません」
「最近本当に役に立ちませんね」
「すみません」
「謝られると困ります」
透真は。
鞄を肩へ掛ける。
その時。
アリスが。
言った。
「透真さん」
「何です」
「時計」
壁。
全員が見る。
午後六時。
一分。
いや。
秒針。
動いていない。
十二。
停止。
「電池?」
沙莉。
透真は。
スマートフォンを見る。
18:00。
画面。
変わらない。
相良も。
自分のスマートフォンを見る。
「……おい」
18:00。
大場。
18:00。
沙莉。
18:00。
アリス。
18:00。
蘭。
18:00。
全部。
止まっている。
「停電?」
大場。
「スマホは関係ないでしょう」
透真。
パソコン。
右下。
18:00。
秒。
進まない。
冷房。
動いている。
照明。
点いている。
外。
車。
走っている。
人。
歩いている。
蝉。
鳴いている。
世界は。
動いている。
時間だけ。
六時。
「……来た」
相良が呟く。
「何がです」
透真。
誰も答えない。
その時。
固定電話。
鳴った。
一回。
透真は。
受話器を見る。
二回。
三回。
「出るな」
相良。
透真は。
手を伸ばした。
「久世」
「私宛でしょう」
「だからだ」
四回。
透真は。
受話器を取る。
「もしもし」
声。
『逃げなかったな』
透真。
自分。
「行かなかっただけです」
『同じだと思う?』
「違うんですか」
『さあ』
「何の用です」
電話の向こう。
風。
踏切。
カン。
カン。
カン。
『俺は来た』
透真の目が。
細くなる。
「どこへ」
『あの日』
「十年前?」
『うん』
口調。
今の自分。
でも。
時々。
十五歳の自分。
混ざっている。
『俺は逃げた』
「私もです」
『違う』
「何が」
『お前は』
声。
『逃げさせられた』
透真の呼吸が。
止まった。
アリスが。
透真を見る。
「誰に」
沈黙。
『思い出せよ』
「答えてください」
『無理だ』
「なぜ」
『お前が逃げてるから』
透真の目が。
僅かに動く。
「何から」
向こうの自分。
静かに。
答えた。
『思い出すことから』
その瞬間。
頭。
痛み。
鋭い。
透真が。
机へ手をついた。
「透真さん!」
アリスが近づく。
「来ないで」
反射。
声。
アリスが止まる。
透真は。
額を押さえる。
映像。
一瞬。
火。
玄関。
十五歳。
誰か。
女性。
銀。
鍵。
そして。
声。
『逃げて』
違う。
『逃げなくていい』
違う。
二つ。
同時。
誰が。
どちらを。
言った。
分からない。
「久世!」
相良。
透真は。
受話器を離さない。
「あなたは」
息を整える。
「何者です」
向こう。
沈黙。
『久世透真』
「それ以外」
『それ以外なんてある?』
「あります」
透真は。
低く言う。
「私は私です」
向こうの声が。
止まった。
「名前が同じでも」
呼吸。
「顔が同じでも」
透真。
「記憶が同じでも」
一拍。
「私ではない」
電話の向こう。
しばらく。
何も聞こえなかった。
そして。
笑った。
小さく。
『そうか』
「何です」
『じゃあ』
声。
『証明してみろよ』
電話。
切れる。
同時に。
時計が。
動いた。
18:00:01。
秒針。
カチ。
スマートフォン。
18:00。
一秒。
二秒。
三秒。
時間が。
戻る。
いや。
進み始める。
誰も。
すぐには動かなかった。
透真は。
受話器を置く。
頭痛。
消えている。
「大丈夫ですか」
アリス。
透真は。
答える。
「はい」
「嘘です」
「少し痛かっただけです」
「今は?」
「大丈夫です」
アリスは。
数秒見て。
頷いた。
「ならいいです」
近づかない。
触らない。
本人が。
大丈夫と言ったから。
それ以上。
奪わない。
透真は。
そのことに。
気づいた。
「久世」
相良。
「今の会話」
「録音できました?」
「当然だ」
「良かった」
「お前」
相良が。
透真を見る。
「何を思い出した」
透真は。
答えない。
思い出していない。
断片。
ただ。
一つ。
今までと違う。
十年前。
自分は。
火から逃げた。
そう思っていた。
今日。
人から逃げた。
と言われた。
そして今。
逃げさせられた。
と言われた。
三つ。
どれが。
正しい。
もしかすると。
全部。
正しい。
蘭が。
天秤を見る。
「久世さん」
「何です」
「さっき」
「はい」
「あなたが『私は私です』と言った時」
蘭は。
天秤を持ち上げる。
「これ」
右皿。
左皿。
中央。
「初めて」
言う。
「どちらにも動きませんでした」
透真は。
天秤を見る。
「それまでは?」
「ずっと」
蘭。
「揺れていました」
「いつから」
蘭は。
透真を見る。
「あなたに会った時から」
透真の目が。
僅かに細くなる。
初対面。
午前中。
いや。
蘭が。
会社へ来た時。
最初から。
天秤は。
透真を。
何か。
二つとして。
見ていた?
「意味は」
「分かりません」
透真は。
息を吐く。
「本当に役に立ちませんね」
「すみません」
「だから謝らないでください」
アリスが。
小さく笑う。
透真も。
ほんの少し。
口元が緩んだ。
それを。
誰も指摘しなかった。
*
午後六時二十七分。
相良は。
録音と資料を持って警察へ戻った。
「今日はもう動くな」
最後に。
そう言った。
透真は。
「善処します」
と答えた。
大場も。
「今日は帰れ」
と言った。
珍しい。
透真は。
素直に従った。
仕事が嫌だからではない。
たぶん。
今日は。
十分だった。
会社を出る。
エレベーター。
一階。
外。
夕方。
まだ明るい。
夏の空。
西。
少しだけ。
オレンジ。
道路。
人。
帰宅。
買い物。
自転車。
普通。
透真は。
歩き出す。
横。
アリス。
「……なぜいるんです」
「帰る方向が同じなので」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は」
「秘密です」
透真は。
聞かない。
後ろ。
蘭。
「明日香さんは?」
「私は駅です」
「そうですか」
三人。
歩く。
交差点。
信号。
赤。
止まる。
透真は。
反対側を見る。
人。
何人か。
会社員。
学生。
老人。
そして。
一瞬。
見えた。
自分。
反対側。
人混みの中。
久世透真。
同じ顔。
男は。
こちらを見ていた。
透真は。
動かなかった。
アリスが。
視線に気づく。
「どうしました?」
「……」
信号。
青。
人が。
歩き始める。
反対側。
こちらへ。
透真も。
歩く。
距離。
十五メートル。
十。
八。
人。
すれ違う。
男。
いない。
透真は。
立ち止まらない。
振り返らない。
「透真さん?」
「何でもありません」
嘘。
アリスは。
何も言わなかった。
ただ。
透真の。
少し近くを歩いた。
肩が。
触れない程度。
一人分。
それまでより。
少しだけ。
近い。
透真は。
離れなかった。
*
午後六時四十四分。
駅前。
蘭と別れる。
「では」
蘭。
「また明日」
透真が。
止まる。
「来るんですか」
「はい」
「会社なんですが」
「知っています」
「仕事は」
「ありません」
「じゃあ来ないでください」
「嫌です」
「なぜ」
蘭は。
少し考えた。
「見届けたいので」
「何を」
蘭は。
透真を見る。
右。
アリス。
左。
駅。
そして。
銀色の天秤。
「どちらを選ぶのか」
透真の眉が。
僅かに寄る。
「何の話です」
「まだ分かりません」
「またそれですか」
蘭は。
ほんの少し笑う。
「また明日」
歩いていく。
人混み。
消える。
透真は。
見送る。
その横。
アリス。
「透真さん」
「何です」
「ご飯食べません?」
透真は。
アリスを見る。
「なぜ」
「お腹空きました」
「家で食べれば」
「一人なんです」
透真は。
駅。
帰路。
アリス。
見る。
断る理由。
いくらでもある。
疲れた。
帰りたい。
今日は色々ありすぎた。
一人になりたい。
「何食べます」
アリスの目が。
少しだけ大きくなる。
「いいんですか?」
「嫌なら帰ります」
「食べます」
「何を」
「うどん」
「昨日も食べてません?」
「昨日は食べてません」
「そうでした?」
「記憶から逃げました?」
透真の足が。
ほんの一瞬。
止まる。
アリスも。
気づく。
「あ」
「……」
「すみません」
「別に」
透真は。
歩き出す。
数歩。
「うどんでいいです」
アリスが。
追いつく。
「はい」
並ぶ。
今度は。
さっきより。
少し近い。
透真は。
離れなかった。
*
同時刻。
大阪府警。
資料保管室。
相良修司は。
一人。
古いファイルを開いていた。
十年前。
住宅火災。
死亡者。
負傷者。
生存者。
久世透真。
十五歳。
相良は。
ページをめくる。
当時の写真。
焼けた家。
道路。
救急車。
そして。
一枚。
火災現場から。
三百メートル。
踏切。
十五歳の透真。
毛布を掛けられ。
地面に座っている。
右脚。
血。
顔。
煤。
相良は。
写真を見る。
その横。
誰かが。
立っている。
警察官ではない。
消防でもない。
救急でもない。
白い服。
女性。
顔は。
写真の端。
切れている。
手だけ。
写っている。
手首。
銀色。
細い鎖。
相良は。
目を閉じた。
「やっぱりか」
小さく。
呟く。
そして。
次のページ。
当時の押収品。
鍵。
一個。
時計。
一個。
携帯電話。
一台。
銀色の鎖。
――一本。
相良の指が。
止まる。
「……」
記録。
銀色の鎖。
保管。
その横。
赤い文字。
紛失。
日付。
火災から。
三日後。
相良は。
眉を寄せる。
おかしい。
覚えている。
鍵は消えた。
だから。
十年間。
追っていた。
だが。
鎖。
そんなものまで。
なくなっていた?
「いや」
相良が呟く。
「違う」
自分が。
忘れていた。
なぜ。
相良は。
ファイルを閉じない。
もう一度。
読む。
銀色の鎖。
一本。
証拠番号。
S-12。
その下。
担当者。
相良修司。
相良の呼吸が。
止まった。
「俺が……?」
自分の名前。
間違いない。
でも。
記憶にない。
鎖を。
押収した記憶。
保管した記憶。
紛失届を書いた記憶。
何も。
ない。
相良は。
椅子から立ち上がる。
ファイルを持つ。
その時。
一枚の紙が。
床へ落ちた。
古い。
コピー。
相良が拾う。
裏返す。
手書き。
自分の字。
十年前。
一行。
『18:00以降、久世透真に近づけるな』
相良は。
動かなかった。
自分の字。
だが。
書いた覚えがない。
その下。
もう一行。
『六人目が来る』
相良の顔から。
血の気が引いた。
*
午後七時二分。
大阪市内。
小さなうどん店。
透真は。
冷たいうどん。
アリスは。
温かいうどん。
「暑くないです?」
透真が聞く。
「店内涼しいので」
「そういう問題です?」
「美味しいですよ」
「そうですか」
アリスが。
うどんを食べる。
透真も。
食べる。
普通。
静か。
隣の席。
家族。
奥。
会社員。
テレビ。
ニュース。
今日の大阪。
交通情報。
天気。
何も。
世界が二人の久世透真を抱えているとは言わない。
「透真さん」
「何です」
「今日」
アリスは。
箸を止める。
「私の手」
透真も。
止まる。
「痛かったですか」
「少し」
「すみません」
「もう大丈夫です」
「そうですか」
透真は。
うどんへ戻る。
数秒。
「でも」
アリス。
「何です」
「離さなかったですね」
透真は。
麺を持ち上げたまま。
止まった。
「逃げる時」
アリスは。
透真を見ない。
自分の器を見る。
「ずっと」
透真は。
何も言わない。
言えることはある。
危険だったから。
迷子になると困るから。
効率。
合理性。
一緒に逃げると言ったから。
理由なら。
いくらでも。
作れる。
「……そうですね」
それだけ。
アリスが。
少しだけ。
顔を上げる。
透真は。
うどんを食べる。
「理由は?」
聞かれた。
透真は。
咀嚼。
飲み込む。
水。
一口。
「忘れました」
アリスが。
じっと見る。
「嘘です」
「便利ですね」
「はい」
「じゃあ聞かないでください」
「分かりました」
本当に。
それ以上。
聞かなかった。
透真は。
少しだけ。
困った。
追及されない方が。
逃げにくい。
そのことを。
口にはしなかった。
*
午後七時十九分。
店を出る。
夜。
まだ。
空に少し明るさが残る。
アリスと。
駅まで歩く。
透真のスマートフォン。
振動。
知らない番号。
画面を見る。
「出ないんですか?」
アリス。
「知らない番号です」
「今日いっぱい来ますね」
「出たくない」
「逃げます?」
透真は。
少し考える。
「今日は」
スマートフォンを見る。
「出ます」
通話。
「もしもし」
沈黙。
知らない。
声。
男性。
低い。
『久世透真さんですね』
「違います」
アリスが。
横で吹き出しそうになる。
電話の向こう。
沈黙。
『……番号を間違えましたか』
「用件によります」
『久世さんで合ってますね』
「はい」
アリスが。
口元を押さえる。
透真は無視。
「どちら様です」
電話の向こう。
一拍。
『十年前の件で』
透真の足が。
止まった。
アリスも。
止まる。
『話があります』
「誰です」
『今は言えません』
「では切ります」
『待ってください』
「知らない人から十年前の話をされる趣味はないので」
『あなたは』
声。
『今日、もう一人の自分に会いましたね』
透真の表情が。
変わる。
「誰です」
『そして』
相手は続ける。
『明日香蘭にも会った』
透真は。
答えない。
『白峰アリスもいる』
アリスの顔から。
笑みが消える。
「どこから見てる」
透真の声。
低い。
相手は。
答えない。
『久世さん』
「はい」
『あなたたちは今』
少し。
ノイズ。
『五人です』
透真の目が。
細くなる。
「何の話です」
電話の向こう。
長い沈黙。
そして。
『まだ』
声。
『一人足りない』
通話が。
切れた。
透真は。
スマートフォンを見る。
アリスが。
隣で聞く。
「五人?」
「……」
透真。
アリス。
蘭。
朔燎。
もう一人の透真。
五人。
数え方が。
それで正しいのかは分からない。
大場。
相良。
沙莉。
なぜ入らない。
存在意義。
持つ者だけ。
だとすれば。
もう一人の透真も。
数えられている。
そして。
六人目。
透真は。
知らない。
大阪府警。
相良の手元。
十年前の自筆メモ。
『六人目が来る』
まだ。
透真は。
それを知らない。
アリスが。
スマートフォンを見る。
「誰だったんです?」
「分かりません」
「嘘?」
「本当です」
「じゃあ」
アリスは。
少しだけ。
透真へ近づく。
「どうします?」
透真は。
夜の街を見る。
人。
車。
信号。
店。
駅。
どこへでも。
逃げられる。
知らない電話から。
十年前から。
もう一人の自分から。
六人目から。
アリスから。
全部。
逃げようと思えば。
たぶん。
逃げられる。
「今日は」
透真は。
歩き出した。
「帰ります」
アリスが。
一拍遅れて。
笑う。
「はい」
追いつく。
二人。
並ぶ。
透真は。
一度だけ。
周囲を見る。
出口。
人。
車。
路地。
駅。
そして。
アリス。
今回は。
自分でも。
気づいた。
最初に確認したのが。
彼女だった。
透真は。
何も言わない。
ただ。
歩く。
*
午後十一時五十八分。
大場企画。
無人の事務所。
照明。
消灯。
パソコン。
停止。
冷房。
停止。
外。
大阪の夜景。
机。
久世透真のデスク。
そこに。
まだ。
一枚。
紙が残っていた。
『18:00』
警察が回収した。
はずだった。
だが。
同じものが。
もう一枚。
置かれている。
誰も。
いない。
時計。
23:58。
秒針。
進む。
23:59。
そして。
日付が変わる。
午前零時。
その瞬間。
紙に。
文字が増えた。
印刷でも。
手書きでもない。
滲むように。
黒。
一文字。
また。
一文字。
『18:00』
その下。
『5 / 6』
そして。
さらに。
もう一行。
『20』
数秒。
何も起きない。
最後に。
文字が。
一つだけ。
増えた。
『逃げるな』
誰も。
それを見ていなかった。
少なくとも。
この時点では。
そして。
その紙の横。
透真のパソコン。
電源は。
落ちている。
黒い画面。
そこに。
一瞬だけ。
人影が映った。
久世透真。
ではない。
白峰アリス。
でもない。
明日香蘭。
朔燎。
相良修司。
大場泰然。
廉沙莉。
その誰でもない。
六人目。
顔は。
暗くて見えない。
ただ。
その人物の右手には。
何もなかった。
左手にも。
何もない。
それなのに。
その人物が立っている場所だけ。
世界が。
ほんの僅かに。
遅れて動いていた。
一秒にも満たない。
わずかな遅れ。
人影は。
黒い画面の向こうから。
透真の空席を見る。
そして。
口を動かした。
音はない。
誰も聞いていない。
それでも。
唇は。
確かに。
こう動いた。
――まだ、五人。
画面が消える。
完全な暗闇。
時計だけが。
午前零時一分へ進んだ。
机の上。
『5 / 6』
そして。
『20』
その数字が何を意味するのか。
まだ。
誰も知らない。
十年前。
相良が残した。
『六人目が来る』
という言葉とも。
今日。
知らない男が言った。
『まだ一人足りない』
という言葉とも。
この時点では。
繋がらない。
ただ。
一つだけ。
確かなことがある。
久世透真は。
今日。
逃げた。
扉から。
過去から。
十五歳の自分から。
それでも。
一人では逃げなかった。
そして。
六時。
行けと言われた場所からは。
逃げることを選んだ。
行かなかった。
誰かに決められた未来へ。
自分から向かわなかった。
その選択が。
正しかったのか。
間違っていたのか。
まだ。
分からない。
ただ。
世界のどこかで。
久世透真と同じ顔をした男は。
古い鍵を持ったまま。
夜の大阪を歩いている。
そして。
誰も知らない六人目は。
すでに。
こちら側を見ている。
コメント、高評価よろしくお願いします。




