第16話 数え方を知らない
16話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
午前七時十三分。
目覚まし時計が鳴る一分前。
久世透真は、目を覚ました。
いつも通りだった。
天井。
白。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
遠くを走る車の音。
冷房の低い駆動音。
何も。
おかしくない。
透真は数秒、天井を見たまま動かなかった。
それから。
右手を持ち上げる。
手のひら。
指。
傷はない。
当然だ。
昨日、何かを掴んだわけでもない。
それなのに。
妙な感覚が残っていた。
鍵。
古い鍵。
自分と同じ顔をした男が持っていた。
実際に触ったわけではない。
防犯映像で見ただけ。
それでも。
知っている。
そんな気がする。
「……」
透真は右手を握る。
違う。
考える必要はない。
少なくとも。
朝から考えることではない。
逃げる。
布団からではない。
思考から。
透真は身体を起こした。
スマートフォン。
七時十三分。
通知。
ニュース。
メール。
メッセージ。
相良から。
午前五時四十八分。
『起きたら連絡しろ』
透真は画面を消した。
「まだ寝てます」
誰に言うでもなく呟く。
ベッドから降りる。
洗面。
歯磨き。
シャワー。
着替え。
白いシャツ。
濃紺のジャケット。
細身のスラックス。
鏡。
自分。
一人。
透真は。
少しだけ。
鏡を見る時間が長くなった。
昨日までなら。
そんなことはしなかった。
自分の顔。
アッシュグレーと黒の髪。
少し青みを含んだエメラルドの瞳。
見慣れている。
二十年以上。
毎日。
見ている。
なのに。
今は。
鏡の中の人間が。
本当に自分なのか。
一瞬だけ。
確認してしまう。
透真は視線を外した。
「馬鹿らしい」
玄関へ。
靴。
鞄。
鍵。
そこで。
手が止まった。
自宅の鍵。
金属。
普通の鍵。
持ち上げる。
昨日。
もう一人の自分が持っていたものとは違う。
形も。
色も。
大きさも。
違う。
「……」
透真は。
鍵をポケットへ入れた。
玄関を出る。
扉を閉める。
施錠。
一度。
引く。
確認。
いつも通り。
廊下を歩く。
エレベーター。
ボタン。
一階。
扉が閉まる。
鏡。
また。
自分。
透真は。
今度は見なかった。
*
午前八時三十一分。
大阪府警。
捜査一課。
相良修司は。
寝ていなかった。
机の上。
缶コーヒー。
三本。
灰皿はない。
数年前に禁煙した。
代わりに。
苛立つとボールペンを回す癖がついた。
今。
回していない。
それどころではなかった。
机の上には。
十年前の火災資料。
そして。
一枚のコピー。
『18:00以降、久世透真に近づけるな』
『六人目が来る』
自分の字。
何度見ても。
自分の字だった。
筆圧。
数字の癖。
「六」の最後を少し跳ねる癖まで。
相良は。
ボールペンを取る。
メモ用紙。
『六人目が来る』
書く。
見比べる。
ほぼ同じ。
「……俺だな」
認めたくない。
だが。
筆跡だけなら。
自分。
問題は。
書いた記憶がない。
相良は。
十年前の捜査記録をもう一度開く。
火災発生日。
八月。
通報。
十八時十二分。
現場到着。
十八時二十分。
救急搬送。
負傷者。
久世透真。
十五歳。
発見場所。
現場から南へ約三百メートル。
踏切付近。
そのページ。
相良の指が止まる。
昨日も読んだ。
何度も。
読んでいる。
だが。
今。
気づいた。
発見者。
空欄。
「……何でだ」
通常なら。
誰が見つけたか。
最低限。
記録される。
消防。
警察。
近隣住民。
通行人。
何か。
残る。
ない。
次。
救急搬送記録。
搬送時。
付き添い。
なし。
次。
事情聴取。
翌日。
担当。
相良修司。
もう一名。
名前。
黒く塗られている。
「……?」
相良が眉を寄せる。
個人情報保護のための処理ではない。
原本。
内部資料。
黒塗りにする理由がない。
相良は。
紙を光へ透かす。
見えない。
マジックではない。
印刷の段階で。
黒。
「誰だ」
記憶を探す。
十年前。
十五歳の久世透真。
病院。
白い部屋。
煤の残った少年。
右脚。
包帯。
目。
妙に冷静だった。
覚えている。
『何があった』
聞いた。
透真は。
『火事です』
と答えた。
『どうやって逃げた』
『分かりません』
『誰か一緒にいたか』
そこで。
少年は。
何と答えた。
相良の眉間に皺が寄る。
思い出せない。
いや。
違う。
その場面だけ。
ない。
映像を途中で切り取ったように。
質問した。
そこまでは覚えている。
答え。
次に覚えているのは。
病室を出たところ。
相良は立ち上がった。
保管されている事情聴取映像。
昨日。
透真にも言った。
「映像が残ってる」
確認すればいい。
資料端末。
検索。
十年前。
事件番号。
映像資料。
一件。
クリック。
再生。
病室。
十五歳の久世透真。
ベッド。
相良。
画面左。
もう一人。
画面右。
座っている。
顔。
映っていない。
フレームの外。
相良の呼吸が。
止まる。
「誰だ」
再生。
若い頃の自分の声。
『久世君』
十五歳の透真。
『はい』
『火が出た時、どこにいた?』
『二階です』
『一人だった?』
少し。
沈黙。
『分かりません』
『分からない?』
『覚えてません』
『どうやって外へ?』
『……』
少年。
黙る。
相良。
待つ。
『逃げました』
『どこから』
『分かりません』
『誰かに助けられた?』
その瞬間。
映像が。
乱れた。
相良の身体が止まる。
白いノイズ。
一秒。
二秒。
三秒。
映像。
戻る。
十五歳の透真。
同じ位置。
だが。
相良は。
立っていた。
『今日はここまでにしよう』
映像終了。
相良は。
再生時間を見る。
二十分四秒。
「……二十」
呟く。
映像は。
二十分四秒。
だが。
ファイル情報。
収録時間。
四十分四秒。
相良の目が。
細くなる。
「二十分……消えてる?」
二十分。
ちょうど。
映像データから。
抜け落ちている。
ノイズは。
三秒。
それなのに。
記録上は。
二十分。
相良は。
マウスを動かす。
詳細情報。
開始。
午前十時十二分。
終了。
午前十時五十二分。
四十分。
映像。
二十分。
差。
二十分。
「……」
相良は。
昨日の紙を思い出す。
『20』
偶然。
まだ。
そう言える。
そもそも。
相良は。
大場企画に残された二枚目の紙を知らない。
『5 / 6』
も。
『20』
も。
まだ。
知らない。
だから。
この数字に意味を持たせる理由は。
今の相良には。
なかった。
「データ破損か」
そう言った。
だが。
自分でも。
その言葉を信じていなかった。
そして。
もう一つ。
映像を戻す。
画面右。
顔の見えない。
もう一人。
相良以外の事情聴取者。
映像開始時。
いる。
ノイズ。
映像復帰後。
いない。
相良は。
停止した。
「……どこ行った」
退室する映像。
ない。
席だけ。
空。
まるで。
最初から。
そこに誰もいなかったように。
*
午前八時四十六分。
大場企画。
透真が。
事務所の扉を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
沙莉。
いつも通り。
大場。
デスク。
朝食。
おにぎり。
三個目。
「社長」
「おう」
「今日は少ないですね」
「もう四個食った」
「そうですか」
安心した。
何に安心したのかは。
分からない。
透真は自分のデスクへ向かう。
椅子。
パソコン。
書類。
そして。
紙。
ない。
昨日の『18:00』。
警察が持っていった。
当然。
透真は鞄を置く。
パソコン。
電源。
起動。
「久世さん」
沙莉。
「はい」
「昨日」
「どれです」
「どれって何ですか」
「昨日は色々ありすぎたので」
「紙です」
透真の指が。
止まる。
「十八時?」
「はい」
沙莉が。
少し困った顔をする。
「私、変なこと言っていいですか」
「内容によります」
「やっぱりやめます」
「気になりますね」
「聞きます?」
「聞きたくないです」
「どっちですか」
「仕事に関係あります?」
「ないです」
「じゃあ聞きません」
「そこまで言ったら聞いてくださいよ」
透真は。
小さく息を吐く。
「どうぞ」
沙莉が。
昨日。
紙があった場所を見る。
「今朝来た時」
「はい」
「一瞬だけ」
言う。
「まだ紙があるように見えたんです」
透真は。
答えなかった。
「一瞬?」
「はい」
「寝ぼけてたんじゃ」
「たぶん」
沙莉も笑う。
「昨日怖かったから」
「ならそうでしょう」
透真は。
モニターへ視線を戻す。
「で」
沙莉が続ける。
「見に行ったらなかったんですけど」
「はい」
「何か」
一拍。
「数字が増えてた気がして」
透真の手が。
止まった。
「何て」
「分からないです」
「数字」
「はい」
「何桁」
「そこまで覚えてません」
「色は」
「黒」
「場所は」
「昨日の十八時の下」
透真は。
沙莉を見る。
「何て書いてました」
「だから分からないですって」
「思い出せる範囲で」
沙莉が。
少し考える。
「斜線?」
「斜線」
「分数みたいな」
透真の目が。
僅かに細くなる。
「上と下に数字?」
「いや」
沙莉が。
空中へ指で書く。
「横です」
数字。
斜線。
数字。
「……五」
沙莉が言う。
「たぶん最初は五だった気がします」
透真は。
黙る。
「次は」
「分からないです」
「六?」
沙莉の指が。
止まった。
「……そうだったかも」
「五、斜線、六」
「たぶん」
「他には」
「何か下にもあったような」
「数字?」
「うーん」
沙莉が。
眉を寄せる。
「そこまで覚えてないです」
透真は。
机を見る。
何もない。
「夢じゃないです?」
沙莉が聞く。
「私に聞かないでください」
「久世さんなら分かるかなって」
「最近、周囲からの期待値がおかしいんですよ」
「逃げる専門家ですよね?」
「謎解きではありません」
「でも全部巻き込まれてるじゃないですか」
「そこは白峰さんの担当です」
言ってから。
透真は止まった。
沙莉も。
止まる。
そして。
笑った。
「何です」
「いや」
沙莉。
「自然に名前出るようになりましたね」
「誰の」
「白峰さん」
「関係ある話なので」
「そうですか」
「そうです」
透真は。
パソコンへ戻る。
メール。
一件目。
開く。
沙莉は。
まだ少し笑っている。
「仕事してください」
「してます」
「ならいいです」
「久世さん」
「何です」
「今日、白峰さん来ます?」
「知りません」
「来ると思います?」
「知りません」
「来たらどうします?」
「帰ってもらいます」
午前八時四十九分。
インターホン。
鳴った。
沙莉が。
透真を見る。
透真は。
モニターを見る。
「仕事してください」
「はい」
沙莉が受付へ。
『はい、大場企画です』
数秒。
沙莉が。
透真を見る。
笑っている。
「白峰さんです」
透真は。
目を閉じた。
三秒。
「帰ってもらいます?」
沙莉。
「……用件を聞いてください」
「はい」
インターホン。
『ご用件は?』
『朝ご飯持ってきました』
アリスの声。
沙莉が。
透真を見る。
「どうします?」
「何で私に聞くんです」
「久世さん宛てです」
「誰が言いました」
『透真さんにです』
インターホン越し。
聞こえた。
沙莉の笑みが。
大きくなる。
大場が。
おにぎりを食べながら顔を上げる。
「透真?」
「社長」
「お前」
「違います」
「まだ何も言ってねえ」
「言う前に否定しました」
大場が。
笑った。
「入れてやれ」
「会社ですよ」
「来客だ」
「朝ご飯持った来客って何ですか」
「新しいな」
「新しくなくていいです」
扉。
開く。
アリス。
紙袋。
白いシャツ。
薄青のパーカー。
黒のショートパンツ。
「おはようございます」
「おはようございます!」
沙莉。
「おう」
大場。
透真だけ。
何も言わない。
アリスが。
透真を見る。
「おはようございます、透真さん」
「……おはようございます」
一拍。
沙莉が。
透真を見る。
「何です」
「普通に返すんだなって」
「挨拶なので」
アリスが。
紙袋を透真の机へ置く。
「はい」
「何です」
「朝ご飯」
「食べました」
「何を?」
「コーヒー」
「それ朝ご飯じゃないです」
「液体です」
「知ってます」
紙袋。
パン。
サンドイッチ。
「食べてください」
「なぜ」
「昨日うどん食べた時」
アリス。
「透真さん、朝ほとんど食べないって言ってたので」
透真は。
昨日の会話を思い出す。
言った。
気がする。
「覚えてたんですか」
「はい」
「忘れてください」
「嫌です」
「なぜ」
「覚えてたいので」
透真は。
言葉を返そうとして。
やめた。
紙袋を見る。
サンドイッチ。
「……いくらでした」
「いいです」
「払います」
「いりません」
「借りを作りたくないので」
「じゃあ」
アリスが。
少し考える。
「今度、何か買ってください」
透真が。
止まる。
今度。
未来。
小さな約束。
それに気づいたのか。
気づいていないのか。
アリスは。
普通の顔をしている。
「金額が合わない可能性があります」
「細かいですね」
「重要です」
「じゃあ同じくらいで」
「レシートください」
「嫌です」
「なぜ」
「デートみたいじゃないですか」
事務所。
静かになった。
大場。
食べるのを止める。
沙莉。
完全にこちらを見る。
透真。
動かない。
アリスも。
一秒。
止まる。
「……」
「……」
アリスが。
先に。
顔を少し逸らした。
「今のなしで」
「はい」
透真。
即答。
「忘れてください」
「善処します」
「それ絶対忘れないやつですよね」
「便利な言葉なので」
沙莉が。
耐えられなくなった。
笑った。
大場も。
肩を揺らす。
「仕事してください」
透真。
「してるって」
大場。
「食べてるでしょう」
「朝飯も仕事だ」
「どういう会社ですか」
「俺の会社だ」
「最悪ですね」
いつもの。
朝。
少しだけ。
いつもと違う。
透真は。
紙袋を開いた。
サンドイッチ。
一つ。
取り出す。
「食べるんですね」
アリス。
「捨てるのはもったいないので」
「はい」
「それだけです」
「はい」
アリスは。
笑った。
透真は。
見ない。
一口。
普通に。
美味しかった。
*
午前九時二十分。
明日香蘭は。
来なかった。
透真は。
時計を見る。
九時二十分。
「……」
仕事。
メール。
「透真さん」
アリス。
「何です」
「明日香さん待ってます?」
「待ってません」
「時計見ましたよ」
「時間確認です」
「九時十八分にも見てました」
「よく見てますね」
「はい」
「仕事してください」
「私、社員じゃないです」
「帰ってください」
「嫌です」
昨日。
蘭は。
また明日。
そう言った。
来る。
勝手に。
そう思っていた。
来ないなら。
それでいい。
静かになる。
透真は。
メールを開く。
九時二十一分。
インターホン。
透真の目が。
一瞬だけ上がる。
アリスが。
笑う。
「待ってた」
「違います」
沙莉。
受付。
『はい、大場企画です』
返事。
沙莉の表情が。
変わった。
笑顔ではない。
「久世さん」
「明日香さん?」
「違います」
「では誰です」
「警察」
透真は。
露骨に嫌な顔をした。
扉。
相良。
入ってくる。
目の下。
薄い隈。
「おはようございます」
透真。
「お前、電話しろって言っただろ」
「寝てました」
「八時前に既読ついてんだよ」
「既読と覚醒は別です」
「便利な生き方してんな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
相良が。
紙袋。
アリス。
透真。
見る。
「何だ」
「何がです」
「いや」
相良。
「何でもない」
「なら見ないでください」
「お前、昨日より面倒くせえな」
「寝不足です」
「俺の顔見て言え」
「寝てください」
「誰のせいだ」
相良が。
鞄から資料を出す。
その瞬間。
透真の表情が変わった。
「何か分かったんですね」
「少しな」
相良が。
蘭を探す。
「明日香は?」
「まだです」
「来るのか」
「知りません」
アリスが。
「来るって言ってました」
透真が見る。
「私には言ってません」
「昨日、また明日って」
「社交辞令かもしれません」
「待ってたのに」
「待ってません」
相良が。
机を指で叩く。
「痴話喧嘩は後にしろ」
「違います」
二人。
同時。
相良が。
少しだけ眉を上げる。
「息合ってんな」
「帰ってください」
「警察に帰れって言うな」
相良は。
資料を広げる。
十年前。
事情聴取記録。
「久世」
「はい」
「十年前の事情聴取」
「覚えてます」
「どこまで」
「あなたがいた」
「他には」
透真は。
記憶を探す。
病院。
白。
消毒液。
窓。
夏。
蝉。
相良。
若い。
今より。
髪が多かった。
「失礼なこと考えてないか」
「考えてません」
「嘘です」
アリス。
「白峰!」
「すみません」
透真は。
少しだけ口元を動かす。
相良が睨む。
「で」
「あなた以外」
透真。
考える。
「……分かりません」
「いたと思うか」
「あなたが覚えてないんですか」
相良は。
答えない。
それが。
答えだった。
「映像が残ってた」
相良が。
タブレットを出す。
再生。
病室。
十五歳の透真。
若い相良。
そして。
画面右。
人。
顔。
見えない。
アリスが。
画面へ近づく。
「この人」
「分からん」
相良。
「警察?」
「記録上は担当者が二人いる」
「名前は」
「消されてる」
透真の目が。
細くなる。
「誰かが意図的に?」
「分からん」
映像。
進む。
質問。
火。
逃げた。
助けられた?
ノイズ。
復帰。
一人。
いなくなる。
アリスが。
画面を見る。
「消えた」
「二十分」
相良が言う。
透真が。
相良を見る。
「何が」
「映像から」
相良。
「二十分分、消えてる」
空気が。
少し変わった。
透真は。
数字を見る。
再生時間。
20:04。
「二十分」
「ああ」
「ちょうど?」
「ほぼ」
「ほぼ?」
「二十分きっかり欠けてる」
透真は。
画面を見る。
「偶然では」
「俺もそう思いたい」
「何かあるんですか」
相良は。
一瞬。
止まる。
「いや」
アリスが。
相良を見る。
「今の」
「嘘じゃねえ」
アリス。
少し考える。
「本当でもないです」
相良が。
嫌そうな顔をする。
「お前のそれ、警察に向いてるな」
「就職しません」
「そうしてくれ」
透真が。
資料を見る。
「何を隠してます」
「確定してねえ」
「昨日も聞きました」
「だから調べてる」
相良は。
そこで。
紙。
自分の手書きメモ。
出すか。
迷った。
透真は。
その動きを見た。
「それ」
相良の手が止まる。
「何です」
「何でもねえ」
「嘘です」
アリス。
相良が。
天井を見る。
「白峰」
「はい」
「ちょっと黙っててくれ」
「嫌です」
「何でお前ら全員嫌ですって言うんだよ」
「流行ってるんじゃないですか」
透真。
「お前が発生源だろ」
その時。
インターホン。
鳴った。
沙莉が。
「はい」
応答。
数秒。
「明日香さんです」
透真が。
時計を見る。
午前九時三十六分。
蘭。
事務所へ入る。
「おはようございます」
「遅いです」
透真。
蘭が。
止まった。
「待っていたんですか?」
「待ってません」
アリスが。
「待ってました」
「白峰さん」
「はい」
「帰ってください」
「嫌です」
蘭が。
少し笑う。
「すみません。寄るところがあったので」
「どこです」
「病院です」
透真の表情から。
僅かに力が抜ける。
「体調悪いんですか」
聞いた。
自然に。
蘭が。
一瞬。
透真を見る。
アリスも。
相良も。
「違います」
蘭。
「人に会いに」
「そうですか」
透真は。
それ以上聞かない。
だが。
蘭が。
紙袋を持っていることに気づいた。
透明な袋。
中。
古い。
写真。
一枚。
「それ」
蘭は。
写真を見る。
「これですか」
「はい」
「その人から借りました」
「誰」
蘭は。
少しだけ。
間を置いた。
「十年前」
言う。
「久世さんを診た人です」
事務所から。
音が消えた。
相良が。
立ち上がる。
「誰だ」
「元看護師です」
「名前」
「その前に」
蘭は。
写真を机へ置いた。
十年前。
病院。
廊下。
数人。
看護師。
医師。
患者。
そして。
十五歳の久世透真。
車椅子。
右脚。
包帯。
透真は。
写真を見る。
「私ですね」
「そうです」
アリスが。
隣から見る。
「若い」
「十五歳なので」
「可愛いですね」
「帰ってください」
「嫌です」
だが。
蘭は。
透真ではなく。
写真の端を指した。
「ここ」
全員。
見る。
廊下。
奥。
人影。
白。
女性。
顔。
光で飛んでいる。
手首。
見えない。
ただ。
その横。
壁。
病室番号。
『520』
透真が。
目を細くする。
「五二〇?」
「病室?」
アリス。
相良が。
写真を持ち上げる。
「待て」
「何です」
「この病院」
相良。
「五階は当時使われてない」
透真が。
相良を見る。
「なぜ」
「改修中だった」
「でも」
アリスが写真を見る。
「五二〇って」
「そう見える」
相良。
蘭が。
静かに言う。
「元看護師の人も」
写真を見る。
「そこを覚えていませんでした」
「写真を撮ったこと?」
「違います」
蘭。
「五二〇号室です」
「存在しない?」
「本人はそう言いました」
透真は。
写真を見る。
520。
五。
二十。
そう分けようと思えば。
分けられる。
だが。
数字など。
どこにでもある。
「偶然でしょう」
透真が言う。
相良が。
透真を見る。
「何で今、偶然って言った」
「病室番号なので」
「俺はまだ何も言ってねえぞ」
透真は。
黙る。
相良。
「何か知ってるな」
「知りません」
「白峰」
「嘘じゃないです」
「じゃあ何だ」
アリスが。
透真を見る。
「何か思い当たっただけだと思います」
透真は。
写真を見る。
520。
「昨日」
言うか。
一瞬。
迷った。
机。
紙。
警察が回収した。
18:00。
それだけ。
自分が知っているのも。
それだけ。
「何でもありません」
透真は言った。
アリスは。
何も言わない。
蘭。
天秤。
ちん。
小さく。
鳴った。
全員。
そちらを見る。
「今度は何です」
透真。
「分かりません」
「便利ですね」
「すみません」
「謝らないでください」
蘭は。
写真を見る。
そして。
天秤。
右。
左。
水平。
「ただ」
蘭が言う。
「一つだけ」
「何です」
「この写真」
蘭。
「私は」
少し。
眉を寄せる。
「六人いるように見えます」
透真が。
写真を見る。
数える。
十五歳の透真。
看護師。
医師。
患者。
廊下奥の女性。
そして。
もう一人。
清掃員。
「六人ですね」
アリス。
蘭は。
首を振った。
「違います」
「何が」
「今、白峰さんが数えたのは」
蘭。
写真へ指を置く。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
「六人です」
「はい」
「でも」
蘭の指が。
止まる。
何もない。
廊下。
窓。
壁。
その間。
誰もいない場所。
「ここも」
言う。
「一人として数えられる」
誰も。
すぐには答えなかった。
「何もいませんよ」
透真。
「はい」
「じゃあなぜ」
「分かりません」
「感覚?」
「違います」
蘭は。
天秤を見る。
「両方にいるんです」
透真の眉が。
寄る。
「誰が」
蘭は。
答えようとして。
止まった。
そして。
初めて。
少し困った顔をした。
「……数えられない」
「さっき六人って」
「六人です」
「写真には六人いる」
「はい」
「さらに一人感じるなら七人でしょう」
「そうなんです」
蘭。
「でも」
ゴールドの瞳。
写真。
「六人なんです」
沈黙。
相良が。
低く言った。
「どういうことだ」
「だから」
蘭。
「分からないんです」
透真は。
写真を見る。
六人。
いる。
なのに。
もう一人。
いて。
それでも。
六人。
「数え方が」
アリスが。
小さく言った。
透真が見る。
「何です」
「私たちが思ってるのと」
アリス。
写真を見る。
「違うのかも」
誰も。
答えなかった。
*
午前十時十二分。
相良のスマートフォンが鳴った。
若い刑事。
昨日。
一緒に三光印刷へ来た男。
『相良さん』
「どうした」
『昨日の男、追えました』
相良の表情が変わる。
「どこだ」
全員。
相良を見る。
『大阪駅周辺です』
「今?」
『いえ。昨夜の映像です』
「その後は」
『それが』
刑事。
少し戸惑う。
『消えました』
「またか」
『はい。ただ』
「何だ」
『最後に入った場所があります』
「どこ」
相良は。
メモ。
『コインロッカーです』
透真の目が。
僅かに動く。
「番号は」
相良。
電話の向こう。
『二十番です』
透真が。
顔を上げた。
アリスも。
蘭も。
相良を見る。
相良は。
ゆっくり。
透真を見る。
二十。
二十分。
病室。
520。
そして。
コインロッカー。
20。
「中身は」
相良。
『まだ確認してません』
「触るな」
『はい』
「現場押さえろ」
『了解です』
電話。
切れる。
相良は。
数秒。
何も言わなかった。
透真が。
先に口を開く。
「偶然ですね」
「お前」
相良。
「それ本気で言ってるか」
「数字ですから」
「三回目だぞ」
「世の中には二十なんて数字いくらでもあります」
「そうだな」
相良。
「だから確認する」
「行くんですか」
「当たり前だ」
「頑張ってください」
「お前も来い」
「嫌です」
「何でだ!」
「仕事があります」
「お前の顔した男が使ったロッカーだぞ!」
「警察が調べればいいでしょう」
「本人確認がいる」
「本人じゃありません」
「それを調べるんだよ!」
透真は。
考える。
行く理由。
ない。
警察。
相良。
十分。
危険なら。
なおさら。
自分が行く必要はない。
「行きません」
相良が。
透真を見る。
「本気か」
「はい」
「気にならねえのか」
「気になります」
「じゃあ」
「気になることと」
透真。
「行くことは別です」
相良は。
黙った。
透真は。
昨日。
六時。
行かなかった。
行けと言われた場所へ。
自分で。
行かないと決めた。
今回も。
同じ。
「警察の仕事でしょう」
透真。
「私は仕事します」
相良は。
数秒。
透真を見る。
それから。
「分かった」
意外だった。
「いいんですか」
「来るな」
「はい」
「気が変わっても来るな」
「そこまで言われると行きたくなりますね」
「来るな!」
アリスが。
笑う。
相良は。
写真と資料をまとめる。
蘭へ。
「お前は?」
「行きません」
「白峰」
「行きません」
透真が。
アリスを見る。
「なぜ」
「透真さんが行かないので」
即答。
透真は。
一瞬。
止まった。
「私に合わせなくていいですよ」
アリスの表情が。
少し変わる。
笑わない。
怒らない。
「合わせてません」
「では」
「私が決めました」
透真は。
言葉を止めた。
アリス。
黒い瞳。
「行きたくなったら行きます」
「危険かもしれません」
「はい」
「なら」
「でも」
アリス。
「行かないのも私が決めます」
透真は。
何も言わなかった。
逃がす。
安全な場所へ。
自分なら。
できる。
たぶん。
アリスが。
どこへ行こうとしていても。
危険から。
結果から。
逃がす。
でも。
それは。
彼女が決めたことではない。
「……そうですか」
透真は。
それだけ答えた。
アリスが。
ほんの少し。
笑う。
「はい」
蘭は。
二人を見ていた。
何も。
言わなかった。
天秤も。
鳴らなかった。
*
午前十一時三十七分。
大阪駅。
地下。
コインロッカー。
二十番。
相良は。
若い刑事と立っていた。
周囲。
規制。
駅員。
防犯担当。
ロッカー。
20。
銀色。
普通。
鍵式ではない。
暗証番号。
「履歴は」
「昨日十九時四十二分に使用開始」
「支払い」
「現金です」
「映像」
「あります」
タブレット。
防犯カメラ。
十九時四十二分。
男。
久世透真。
同じ顔。
ロッカー。
20。
前。
立つ。
扉。
開く。
何か。
入れる。
「拡大」
若い刑事。
操作。
男の手。
古い鍵。
それを。
ロッカーへ。
入れる。
扉。
閉める。
相良の目が。
細くなる。
「鍵か」
「例のものですかね」
「分からん」
映像。
男は。
そのまま立っている。
十秒。
二十秒。
そして。
カメラを見る。
また。
口が動く。
相良。
「読めるか」
若い刑事。
「……」
再生。
男。
口。
短い。
二回。
「何て言ってる」
「たぶん」
刑事。
眉を寄せる。
「『来ない』」
相良の目が。
動く。
もう一度。
『来ない』
そう見える。
男は。
少しだけ。
笑った。
そして。
画面から。
消えた。
ノイズ。
一秒。
戻る。
いない。
相良は。
ロッカーを見る。
「開けるぞ」
手袋。
駅員。
マスター操作。
電子音。
ロック解除。
扉。
開く。
中。
相良は。
動かなかった。
「……何だこれ」
鍵。
ない。
代わりに。
一枚。
写真。
相良が。
慎重に取り出す。
古い写真。
十年前。
火災現場。
踏切。
十五歳の久世透真。
毛布。
右脚。
血。
相良が。
昨日見たものと。
ほぼ同じ。
だが。
違う。
「相良さん」
若い刑事。
「これ」
写真。
十五歳の透真。
その横。
女性。
白い服。
今回は。
顔まで。
写っている。
相良の呼吸が。
止まる。
知っている。
「……嘘だろ」
若い刑事が。
相良を見る。
「知ってる人ですか」
相良は。
答えない。
女性。
二十代。
あるいは。
三十代。
長い髪。
穏やかな顔。
そして。
手首。
銀色の鎖。
相良は。
写真を持つ手に。
力が入る。
「相良さん」
「……」
「誰です」
相良は。
口を開く。
名前。
出そうとして。
止まった。
分からない。
知っている。
顔を。
知っている。
絶対に。
知っている。
なのに。
名前だけ。
出ない。
「くそ……」
額を押さえる。
頭痛。
一瞬。
火。
煙。
十五歳の透真。
女性。
そして。
自分。
『近づけるな』
誰の声。
自分。
『六人目が来る』
違う。
自分ではない。
『二十分だけ』
誰だ。
『この子を――』
そこで。
消えた。
「相良さん!」
相良が。
ロッカーへ手をつく。
呼吸。
整える。
「大丈夫だ」
「救急」
「いらん」
「でも」
「大丈夫だ」
相良は。
写真を見る。
女性。
そして。
気づく。
写真の裏。
文字。
手書き。
裏返す。
一行。
『来なかった』
その下。
もう一行。
『だから、残った』
相良は。
動かなかった。
何が。
来なかった。
誰が。
残った。
そして。
右下。
小さく。
数字。
『5 / 6』
相良の目が。
細くなる。
初めて。
見る。
数字。
五。
六。
「何だ」
若い刑事。
相良は。
答えない。
その瞬間。
スマートフォン。
着信。
久世透真。
相良は。
画面を見る。
「……来ないって言ったくせに」
通話。
「何だ」
『相良さん』
透真。
「どうした」
『確認したいことがあります』
「何だ」
電話の向こう。
少し。
間。
『十年前』
透真。
『私が入院してた病室』
相良の目が。
写真へ向く。
「それがどうした」
『何号室でした?』
相良は。
黙った。
調べた。
昨日。
記録。
久世透真。
病室。
四階。
四〇七。
「四〇七だ」
『五二〇ではない?』
「違う」
電話の向こう。
沈黙。
「久世」
『はい』
「何で五二〇なんだ」
『明日香さんが持ってきた写真』
透真。
『私の後ろに、五二〇号室が写ってました』
相良の顔が。
変わる。
「写真を送れ」
『嫌です』
「何でだ!」
『明日香さんの写真なので』
「本人に許可取れ!」
『分かりました』
「すぐ送れ」
『善処します』
「今取れ!」
電話の向こう。
アリスの笑い声。
相良は。
頭を押さえた。
「久世」
『何です』
相良は。
言うか。
迷う。
ロッカー。
写真。
女性。
5 / 6。
だが。
まだ。
確認できていない。
「……いや」
『何です』
「何でもねえ」
『嘘です』
遠く。
アリスの声。
相良。
「お前に聞いてねえ!」
電話の向こう。
笑い。
一瞬。
普通。
その普通が。
相良には。
妙に遠く感じた。
「久世」
『はい』
「今日は」
相良。
写真を見る。
『来なかった』
『だから、残った』
「一人になるな」
電話の向こう。
透真。
黙る。
『なぜ』
「理由は後で話す」
『嫌です』
「お前な!」
『理由がない指示には従いません』
「危険かもしれない」
『何が』
相良は。
答えられない。
写真。
女性。
銀色の鎖。
5 / 6。
「分からん」
正直に。
言った。
電話の向こう。
少し。
沈黙。
『そうですか』
透真。
『では』
相良は。
次に。
いつもの。
善処します。
が来ると思った。
だが。
『今日は、なるべく一人にならないようにします』
相良は。
何も言わなかった。
「……そうしろ」
『はい』
電話。
切れる。
相良は。
スマートフォンを見る。
昨日。
気をつけろ。
と言った時も。
透真は。
はい。
と答えた。
少しずつ。
変わっている。
だが。
その変化が。
本人のものなのか。
何かに。
そうさせられているのか。
相良には。
分からなかった。
*
午後零時二十分。
大場企画。
昼。
大場が。
立ち上がる。
「飯行くぞ」
透真。
「嫌です」
「即答すんな」
「仕事があります」
「昼休みだ」
「休みます」
「飯食え」
「朝食べました」
大場が。
アリスを見る。
「こいつに食わせたのか」
「はい」
「よくやった」
「社長」
「何だ」
「誰の上司ですか」
「お前」
「では味方してください」
「飯食わねえ部下の味方はしねえ」
透真は。
逃げ道を探す。
仕事。
電話。
メール。
どれも。
弱い。
アリス。
「行きましょう」
「白峰さんまで」
「相良さんにも一人になるなって言われたんですよね」
「聞いてたんですか」
「隣にいたので」
「プライバシーが」
「スピーカーでした」
「相良さんのせいですね」
「違うと思います」
蘭も。
「私も行きます」
「なぜ」
「昼なので」
「普通ですね」
「はい」
沙莉。
「私も」
大場。
「じゃあ全員だな」
透真は。
事務所を見る。
一人になる。
選択肢。
なくなった。
いや。
ある。
行かない。
ここに残る。
一人。
相良は。
一人になるなと言った。
危険。
理由不明。
透真は。
数秒。
考える。
「……何食べます」
アリスが。
笑った。
「逃げなかった」
「昼食から逃げるほど暇ではありません」
「逆じゃないです?」
「行きますよ」
五人。
事務所を出る。
大場。
沙莉。
透真。
アリス。
蘭。
エレベーター。
透真が。
ボタンを押す。
扉。
閉じる。
下降。
六階。
五。
四。
三。
二。
そこで。
エレベーターが。
止まった。
「誰か乗る?」
沙莉。
扉。
開く。
二階。
廊下。
誰もいない。
「押した人いませんね」
アリス。
「降りたんでしょう」
透真。
扉。
閉じようとする。
その時。
蘭が。
「待ってください」
透真。
停止ボタン。
「何です」
蘭は。
廊下を見る。
「……」
誰も。
いない。
「明日香さん?」
「今」
蘭。
ゆっくり。
「六人でした」
透真の指が。
止まる。
「何が」
「エレベーター」
蘭。
「六人乗っていました」
沙莉が。
周囲を見る。
大場。
沙莉。
透真。
アリス。
蘭。
五人。
「五人ですよ?」
蘭。
頷く。
「はい」
「じゃあ」
「今は五人です」
透真が。
二階の廊下を見る。
誰もいない。
「降りた?」
アリス。
「見てません」
沙莉。
「私も」
大場。
透真は。
開いた扉。
廊下。
見る。
右。
左。
非常階段。
事務所。
人影。
なし。
「閉めます」
透真。
アリスが。
透真を見る。
「確認しないんですか」
「何を」
「六人目」
透真は。
蘭を見る。
「見えたんですか」
「いいえ」
「気配?」
「違います」
「じゃあ」
蘭は。
少し困る。
「五人を見た時に」
言う。
「六人だと思いました」
「数え間違いでは」
「かもしれません」
透真は。
扉を閉める。
一階。
下降。
「追わないんですね」
アリス。
「何を追うんです」
「六人目」
「いない人間は追えません」
「いたかもしれない」
「かもしれないもの全部追ってたら人生終わります」
「逃げます?」
「はい」
扉。
一階。
開く。
大場が。
先に出る。
沙莉。
蘭。
透真。
アリス。
透真は。
最後に。
一度だけ。
エレベーターの鏡を見る。
五人。
映っている。
大場。
沙莉。
蘭。
アリス。
自分。
五人。
扉が。
閉じる。
その直前。
鏡の奥。
透真とアリスの間。
ほんの一瞬。
空いているはずの場所に。
影。
透真は。
目を動かした。
扉。
閉じた。
「透真さん?」
アリス。
「何でもありません」
「嘘です」
「……」
「何見ました?」
透真は。
閉じた扉を見る。
「見間違いです」
「嘘じゃない」
アリス。
「でも」
透真を見る。
「そう思いたい?」
透真は。
歩き出す。
「昼食にしましょう」
答えなかった。
アリスは。
追及しない。
その代わり。
隣へ。
並んだ。
*
午後零時二十八分。
五人が。
ビルを出る。
誰も。
気づかなかった。
二階。
エレベーターホール。
閉じた扉。
表示。
『1』
その横。
防犯カメラ。
赤いランプ。
録画中。
映像には。
十二時二十分。
六階から降りてきたエレベーターが。
二階で止まる。
扉。
開く。
五人。
乗っている。
大場。
沙莉。
透真。
アリス。
蘭。
五人。
誰も降りない。
扉。
閉じる。
一階へ。
普通。
何も。
おかしくない。
ただ。
映像の右下。
自動人数計測。
ビル管理用の簡易表示。
人型マーク。
その横。
『6』
扉が閉じる。
表示。
『5』
一秒。
『6』
一秒。
『5』
そして。
映像。
ほんの僅か。
遅れる。
時計。
12:20:19。
次。
12:20:20。
次。
もう一度。
12:20:20。
同じ一秒が。
二回。
記録されていた。
その二回目の。
十二時二十分二十秒。
エレベーターの鏡。
透真とアリスの間。
誰もいない場所。
そこに。
人影が。
立っている。
顔。
映らない。
手。
何も持っていない。
昨日。
大場企画の黒いモニターに映ったものと。
同じ。
六人目。
その人物は。
透真を見ていない。
アリスも。
見ていない。
蘭でもない。
大場でも。
沙莉でもない。
鏡越し。
カメラを。
見ていた。
そして。
口を動かす。
音声はない。
唇。
短い。
二文字。
――まだ。
次のフレーム。
消える。
人数表示。
『5』
時刻。
12:20:21。
世界は。
何事もなかったように。
一秒先へ進んだ。
*
午後零時三十三分。
透真たちは。
近くの定食屋へ向かっていた。
夏。
熱い。
蝉。
車。
アスファルトから上がる熱。
大場が前。
沙莉と蘭。
少し後ろ。
透真。
アリス。
最後。
「透真さん」
「何です」
「何食べます?」
「冷たいもの」
「昨日もうどんでしたよ」
「今日は蕎麦にします」
「似てません?」
「違います」
「じゃあ私も」
「合わせなくていいですよ」
透真が言った。
アリスは。
少し。
透真を見る。
昨日。
行かない。
自分で決める。
その話。
「合わせてません」
アリス。
「食べたいので」
透真は。
一拍。
「そうですか」
「はい」
歩く。
横断歩道。
赤。
五人。
止まる。
透真は。
何となく。
ショーウィンドウを見る。
反射。
大場。
沙莉。
蘭。
アリス。
自分。
五人。
今度は。
何もいない。
透真は。
視線を戻した。
青。
歩き出す。
「透真さん」
アリス。
「何です」
「今」
「はい」
「人数数えました?」
透真の足が。
ほんの少し。
遅れた。
「数えてません」
「嘘です」
「便利ですね」
「はい」
「五人でした」
アリスが。
笑う。
「数えてるじゃないですか」
透真は。
何も言わない。
アリスが。
少し前を歩く。
二歩。
それから。
振り返る。
「ちゃんと五人ですよ」
透真は。
アリスを見る。
「そうですね」
「安心しました?」
「別に」
答えた。
ただ。
そのあと。
信号を渡り切るまで。
透真は。
一度も。
後ろを振り返らなかった。
振り返る必要が。
なかったから。
五人。
大場。
沙莉。
蘭。
アリス。
自分。
全員。
位置を。
頭の中で把握していた。
以前なら。
そんなことはしなかった。
自分の逃走経路だけ。
分かればよかった。
今は。
違う。
そのことに。
透真自身は。
まだ。
気づいていなかった。
*
同時刻。
大阪駅。
コインロッカー。
相良は。
まだ。
写真を見ていた。
『来なかった』
『だから、残った』
『5 / 6』
意味。
分からない。
だが。
一つ。
引っ掛かる。
来なかった。
誰が。
何に。
相良は。
十年前の記録を。
スマートフォンで開く。
事件当日。
火災。
十八時十二分。
そして。
三日後。
銀色の鎖。
紛失。
さらに。
事情聴取。
欠落。
二十分。
相良は。
検索。
当時の署内記録。
自分の勤務。
火災翌日。
午前。
病院。
午後。
署。
普通。
その次の日。
普通。
三日目。
銀色の鎖が紛失した日。
相良の指が。
止まる。
勤務記録。
空欄。
「……?」
若い刑事。
「どうしました」
「俺」
相良。
画面を見る。
「この日」
「はい」
「勤務してねえ」
「休みだったんですか?」
「違う」
相良は。
当時。
覚えている。
三日間。
休んでいない。
火災。
少年。
消えた鍵。
ずっと。
調べていた。
はず。
なのに。
勤務記録。
一日。
丸ごと。
ない。
日付。
八月二十日。
相良の呼吸が。
止まる。
二十日。
「……二十」
若い刑事が。
相良を見る。
「またですね」
相良は。
答えなかった。
二十分。
二十番。
八月二十日。
そして。
写真。
520。
数字。
五。
二十。
「五……」
相良は。
写真の裏。
『5 / 6』
見る。
その時。
若い刑事が。
言った。
「相良さん」
「何だ」
「この写真」
「うん」
「変じゃないですか」
相良が。
見る。
「どこが」
刑事。
写真。
十五歳の透真。
女性。
踏切。
そして。
背景。
駅前の時計。
小さい。
だが。
時刻。
見える。
十八時。
十二分。
「火災の通報と同じ時刻ですね」
相良。
黙る。
それも。
変だ。
火災現場から。
三百メートル。
通報が。
十八時十二分。
写真。
同時刻。
透真は。
すでに踏切にいる。
それだけなら。
あり得る。
火災発生。
逃走。
通報。
だが。
相良は。
別の記録を見る。
消防への通報内容。
『二階に子供がいる』
通報者。
匿名。
時刻。
十八時十二分。
相良の目が。
細くなる。
「……待て」
「何です」
「十八時十二分に」
相良。
「こいつはここにいる」
写真。
踏切。
「はい」
「なのに」
通報。
「同じ時刻に」
二階。
子供。
久世透真。
「家の中にもいる」
若い刑事の顔が。
変わる。
「それ」
一拍。
「昨日と同じじゃないですか」
相良は。
何も言わなかった。
昨日。
二人の久世透真。
十年前。
も。
二人。
いた?
そんな。
馬鹿な。
相良は。
写真を見る。
十五歳。
一人。
火災現場。
もう一人。
「……」
そこで。
ある可能性。
浮かぶ。
違う。
二人いた。
とは限らない。
通報者が。
嘘をついた。
あるいは。
時間が。
ずれている。
あるいは。
記録が。
間違っている。
どれでもいい。
まだ。
決めるな。
相良は。
自分へ言い聞かせる。
「確認するぞ」
「何を」
「通報音声」
相良。
「十八時十二分」
立ち上がる。
「誰が」
声。
「二階に久世透真がいると言ったのか」
歩き出す。
若い刑事が。
後ろから続く。
そして。
相良は。
まだ知らない。
その通報音声が。
十年間。
一度も再生されていないことを。
記録上。
最後に。
その音声を確認した人間。
担当者。
相良修司。
確認時刻。
十八時三十二分。
通報から。
二十分後。
そして。
その確認をした記憶も。
相良には。
なかった。
*
午後零時四十一分。
定食屋。
透真の前。
冷たい蕎麦。
アリス。
同じ。
大場。
唐揚げ定食。
ご飯大盛り。
沙莉。
生姜焼き。
蘭。
焼き魚。
「明日香さん」
透真。
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「六人目」
箸。
蘭。
止まる。
「はい」
「あなたは」
透真。
「見たんですか」
「いいえ」
「では」
「数えただけです」
「何を」
蘭は。
少し考える。
「そこにいる人を」
「五人なのに」
「六人」
「はい」
「写真も」
「はい」
「存在意義?」
「分かりません」
「天秤は」
蘭。
テーブル横。
鞄。
中。
「今は何も」
「じゃあ」
透真。
蕎麦。
一口。
「気のせいですね」
蘭は。
否定しなかった。
「そうかもしれません」
アリスが。
蕎麦を食べながら。
「でも」
「何です」
透真。
「六人目って」
アリス。
「一人増えるって意味なんですかね」
透真が。
箸を止める。
「どういう意味です」
「五人いて」
アリス。
「六人目が来る」
「普通はそうでしょう」
「でも」
アリス。
「六人になる、とは言ってない」
蘭の目が。
僅かに動く。
透真も。
アリスを見る。
「言葉遊びですか」
「何となく」
「六人目が来れば六人でしょう」
「普通なら」
「普通じゃない可能性を考えると終わりませんよ」
「そうですね」
アリスは。
あっさり引いた。
透真は。
蕎麦へ戻る。
だが。
頭。
残る。
六人目が来る。
六人になる。
同じ。
はず。
本当に?
「久世」
大場。
「何です」
「飯くらい普通に食え」
「食べてます」
「顔が仕事してる」
「どういう顔ですか」
「面倒くせえこと考えてる顔」
「社長に言われたくありません」
「俺は何も考えてねえ」
「それはそれで問題です」
沙莉が。
笑う。
普通。
昼食。
その普通が。
今は。
ありがたい。
透真は。
蕎麦を食べる。
アリス。
横。
蘭。
向かい。
大場。
沙莉。
五人。
六人目。
いない。
それでいい。
来なくていい。
透真は。
そう思った。
そして。
その時。
店員が。
水を持ってきた。
「失礼します」
コップ。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
そして。
六つ目。
空いている席へ。
置いた。
透真が。
止まる。
「すみません」
店員。
「はい?」
「水」
透真。
六つ目。
指す。
「一つ多いです」
店員が。
見る。
六個。
「あれ?」
首を傾げる。
「すみません」
一つ。
持ち上げる。
「六名様かと思って」
「五人です」
「ですよね」
店員は。
少し困った顔で笑った。
「何でだろ」
そのまま。
去る。
誰も。
しばらく。
何も言わなかった。
大場が。
唐揚げを食べる。
「数え間違いだろ」
「でしょうね」
透真。
即答。
沙莉も。
「よくありますよ」
「はい」
蘭は。
何も言わない。
アリスも。
六つ目の水が。
置かれていた場所を見る。
空席。
椅子。
誰もいない。
透真は。
蕎麦を食べる。
見ない。
考えない。
追わない。
それで。
いい。
ただ。
店を出る時。
透真は。
レジ横。
伝票を見た。
人数。
『6名』
店員が。
入力を間違えた。
それだけ。
その下。
伝票番号。
『0020』
透真は。
一秒。
止まった。
「透真さん?」
アリス。
「何でもありません」
店を出る。
外。
夏。
暑い。
透真は。
振り返らなかった。
だから。
見なかった。
五人が出た後。
店員が。
テーブルを片付ける。
コップ。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
そして。
店員が。
首を傾げた。
「……あれ?」
六つ目。
戻したはずの水。
空席の前。
また。
置かれていた。
水面。
僅かに。
揺れている。
誰も。
触れていない。
そして。
コップの外側。
結露。
その水滴の中に。
一本だけ。
指でなぞったような跡。
数字。
『20』
数秒後。
水滴が流れ。
消えた。
*
午後一時二分。
大場企画へ戻る。
エレベーター。
五人。
透真は。
鏡を見なかった。
今度は。
数えない。
六階。
扉。
開く。
事務所。
沙莉が。
最初に入る。
そして。
止まった。
「……久世さん」
「何です」
「机」
透真が。
見る。
自分のデスク。
朝。
何もなかった。
そこに。
一枚。
白い紙。
透真は。
動かない。
大場。
「またか」
アリス。
「触らない方が」
「はい」
蘭。
天秤。
持つ。
ちん。
一度。
鳴る。
紙。
中央。
文字。
『5 / 6』
その下。
『20』
昨日。
誰も見ていなかった紙。
同じ。
そして。
もう一行。
『逃げるな』
透真は。
数秒。
見る。
「防犯カメラ」
大場。
すぐ。
映像。
五人が。
事務所を出る。
十二時二十一分。
机。
何もない。
十二時三十分。
何もない。
十二時四十分。
何もない。
十二時五十分。
何もない。
午後一時。
映像。
一瞬。
乱れる。
一秒。
戻る。
紙。
ある。
「同じですね」
アリス。
透真は。
画面。
停止。
ノイズ。
一秒。
「昨日も」
「はい」
「一秒」
蘭。
天秤。
見る。
透真が。
紙を見る。
『逃げるな』
「命令されると」
透真。
小さく。
「逃げたくなりますね」
アリスが。
少し笑う。
「透真さんらしいです」
「褒めてます?」
「はい」
「そうですか」
透真は。
紙に。
触れない。
逃げるな。
誰が。
何から。
なぜ。
五。
六。
二十。
分からない。
でも。
一つ。
昨日とは。
違う。
昨日。
六時。
行けと言われた。
行かなかった。
今日。
逃げるな。
と。
言われた。
なら。
逃げればいい。
簡単。
それなのに。
透真は。
紙の前から。
動かなかった。
「透真さん」
アリス。
「何です」
「逃げないんですか」
透真は。
紙を見る。
「今は」
一拍。
「まだ決めてません」
アリスの目が。
僅かに変わる。
逃げない。
ではない。
逃げる。
でもない。
決めていない。
透真は。
スマートフォンを出す。
相良。
発信。
「警察呼びます」
大場が。
笑った。
「珍しいな」
「何がです」
「自分から」
「証拠なので」
「そうか」
「はい」
透真は。
電話が繋がるのを待つ。
一コール。
二コール。
その間。
アリスが。
紙を見る。
『逃げるな』
そして。
透真を見る。
何も。
言わない。
三コール。
相良。
出ない。
四。
五。
透真が。
眉を寄せる。
「出ません」
「捜査中じゃないですか」
アリス。
「でしょうね」
切ろうとする。
その瞬間。
通話。
繋がった。
『久世』
相良。
声。
少し。
違う。
「相良さん」
『ちょうどよかった』
「何です」
『お前』
息。
『十年前の十八時十二分』
透真の表情が。
変わる。
『どこにいた』
「火事の家です」
『本当に?』
透真の指が。
止まる。
昨日。
もう一人の自分。
本当に自分で逃げたと思ってる?
同じ。
問い方。
「何が分かったんです」
『十八時十二分』
相良。
『火災の通報が入った』
「知ってます」
『通報者は』
相良。
一拍。
『二階に、お前がいると言ってる』
透真は。
答えない。
『でも』
相良。
『同じ十八時十二分』
声。
『踏切で撮られた写真にも、お前がいる』
事務所。
静か。
透真の呼吸。
一度。
止まる。
昨日。
二人。
今日。
ではない。
十年前。
すでに。
二人。
「写真の時刻が間違ってる可能性は」
『ある』
「通報者が間違ってる」
『ある』
「記録が」
『それもある』
相良。
「だから確認する」
透真は。
紙を見る。
5 / 6。
20。
逃げるな。
「相良さん」
『何だ』
「もう一人の私」
『うん』
「昨日、初めて現れたんじゃ」
一拍。
「ないのかもしれませんね」
電話の向こう。
相良。
何も言わない。
透真は。
目を閉じなかった。
十年前。
火。
十五歳。
逃げた。
逃げさせられた。
人から逃げた。
三つ。
そして。
もう一人。
もし。
あの日から。
いたのなら。
自分は。
どちらだ。
逃げた方。
残った方。
それとも。
その数え方自体が。
違う。
『久世』
相良。
「はい」
『もう一つある』
「何です」
『事情聴取の映像』
「はい」
『二十分消えてる』
透真の目が。
紙へ向く。
20。
『それから』
相良。
『俺の勤務記録も一日消えてる』
「いつ」
沈黙。
『八月二十日』
透真は。
何も言わない。
偶然。
一回。
二回。
三回。
四回。
数字。
二十。
「相良さん」
『何だ』
「今日」
透真。
紙。
見る。
「何日でしたっけ」
電話の向こう。
沈黙。
アリスが。
スマートフォンを見る。
蘭も。
大場も。
沙莉も。
そして。
透真。
画面。
日付。
八月十六日。
相良が。
答える。
『十六日だ』
「そうですか」
あと。
四日。
八月二十日。
透真は。
紙を見る。
『20』
意味。
日付。
時間。
人数。
何かの番号。
二十分。
分からない。
だから。
決めない。
まだ。
「久世」
『はい』
「その紙」
相良。
「何で知ってるんです」
電話の向こう。
止まった。
『……紙?』
透真も。
止まる。
「今」
『俺は紙なんて言ってない』
空気が。
変わった。
確かに。
透真は。
まだ。
紙の話を。
していない。
なのに。
なぜ。
相良が。
紙。
と言った?
「相良さん」
電話。
ノイズ。
『久世』
声。
遠い。
『待て』
「何です」
『今』
相良。
『俺』
一拍。
『誰と話してる』
透真の目が。
細くなる。
「私ですが」
『違う』
「何が」
電話の向こう。
相良の呼吸。
『俺のスマホ』
声。
『発信中になってる』
透真は。
動かなかった。
「誰に」
『お前にだ』
「でも」
透真。
自分の画面。
通話中。
相良修司。
「私から掛けました」
『俺からも掛けてる』
沈黙。
同時。
互いに。
発信。
そんな。
通話。
成立しない。
ノイズ。
強くなる。
『久世』
「はい」
『切れ』
「なぜ」
『いいから』
透真は。
画面を見る。
切る。
指。
動かす。
その瞬間。
電話の向こう。
別の声。
重なった。
自分。
久世透真。
『逃げるの?』
透真の指が。
止まる。
アリスが。
透真を見る。
蘭の天秤。
激しく。
揺れた。
「……あなた」
透真。
『切れば?』
自分の声。
『得意だろ』
「どこにいる」
『どっちに聞いてる?』
透真の目が。
僅かに細くなる。
相良。
『久世! 切れ!』
もう一人。
『久世』
二つ。
同じ通話。
「……」
透真は。
通話終了。
押した。
音。
消える。
事務所。
静寂。
透真は。
スマートフォンを見る。
通話履歴。
相良修司。
着信。
発信。
二件。
同じ時刻。
13:02。
通話時間。
どちらも。
『00:20』
二十秒。
透真は。
画面を見たまま。
何も言わない。
アリスが。
覗く。
「二十秒」
「はい」
蘭。
天秤。
止まらない。
右。
左。
右。
左。
そして。
突然。
水平。
ちん。
一度。
音。
透真は。
机。
紙。
見る。
5 / 6。
20。
逃げるな。
その時。
紙の文字。
変わった。
全員。
見ている前で。
『逃げるな』
黒。
滲む。
一文字。
消える。
また。
一文字。
最後。
別の文章。
『まだ逃げるな』
透真の目が。
僅かに動く。
意味が。
変わった。
逃げるな。
命令。
まだ逃げるな。
待て。
今ではない。
何を。
待つ。
誰を。
六人目。
二十日。
もう一人の自分。
「透真さん」
アリス。
透真は。
紙を見る。
逃げられる。
この場から。
紙から。
電話から。
八月二十日から。
何かが起きるなら。
その日そのものから。
逃げればいい。
できるかもしれない。
自分なら。
それすら。
だが。
透真は。
すぐには。
動かなかった。
「久世」
大場。
「どうする」
透真は。
時計を見る。
午後一時三分。
普通に。
進んでいる。
一秒。
二秒。
三秒。
止まらない。
「仕事します」
沙莉が。
「え?」
「まだ昼休みですけど」
大場。
「じゃあ休みます」
「そうじゃねえ」
透真は。
椅子へ座る。
アリス。
「逃げないんですか」
透真は。
モニターを見る。
「違います」
「何が」
「逃げるかどうかを」
一拍。
「知らない誰かに決められるのが嫌なだけです」
アリスは。
何も言わなかった。
透真は。
パソコンを起動する。
「逃げるなと言われたから残るのも」
キーボード。
指。
「逃げろと言われたから逃げるのも」
画面。
仕事。
「どっちも同じでしょう」
蘭の。
天秤。
ほんの僅か。
動いた。
右でも。
左でもない。
中央。
鎖だけが。
小さく。
震えた。
蘭は。
それを見た。
だが。
何も言わなかった。
アリスが。
来客用の椅子へ戻る。
透真は。
一瞬。
その位置を確認した。
いる。
それで。
仕事へ戻った。
*
午後一時二十分。
大阪市内。
人混み。
久世透真と。
同じ顔をした男が。
歩いていた。
誰も。
避けない。
誰も。
ぶつからない。
誰も。
見ない。
男は。
信号で止まる。
赤。
横。
大型ビジョン。
日付。
8月16日。
天気。
気温。
ニュース。
男は。
日付を見る。
そして。
ポケットへ手を入れる。
古い鍵。
ない。
ロッカーへ。
置いた。
はず。
男は。
空の手を出す。
その掌。
一本。
細い。
銀色の鎖。
男は。
それを見る。
「……まだか」
誰に言うでもなく。
呟く。
信号。
青。
人が。
歩き始める。
男も。
歩く。
その時。
向かいから。
一人。
歩いてきた。
男は。
初めて。
足を止めた。
人混み。
誰も。
その人物を避けない。
誰も。
ぶつからない。
同じ。
男と。
同じ。
世界から。
僅かに。
ずれている。
顔。
見えない。
年齢。
分からない。
性別すら。
人混みに隠れる。
ただ。
その人物が。
男の前で。
止まった。
もう一人の透真が。
初めて。
少し。
警戒する。
「誰」
人物は。
答えない。
男の手。
銀色の鎖。
見る。
そして。
久世透真と同じ顔を。
見る。
数秒。
沈黙。
やがて。
その人物が。
口を開いた。
「違う」
男の眉が。
僅かに動く。
「何が」
「まだ」
人物。
静かに。
「お前じゃない」
人。
車。
夏。
信号。
世界。
全部。
動いている。
二人の周囲だけ。
ほんの僅かに。
遅れて。
「何の話」
もう一人の透真。
人物は。
答えない。
代わりに。
右手を。
持ち上げる。
何も。
持っていない。
指。
五本。
開く。
そして。
一本。
折る。
四。
もう一本。
折る。
三。
もう一本。
二。
もう一本。
一。
最後。
拳。
ゼロ。
男は。
それを見る。
「カウントダウン?」
人物。
首を振る。
「違う」
「じゃあ」
一拍。
「数えてる」
「何を」
人物は。
男を見る。
そして。
初めて。
少しだけ。
笑った。
「逃げたもの」
もう一人の透真の表情が。
止まる。
人物は。
すれ違う。
「待って」
男が。
振り返る。
いない。
人混み。
誰も。
いない。
男は。
しばらく。
その場に立っていた。
それから。
自分の左手を見る。
銀色の鎖。
一本。
その鎖の端。
今まで。
何もなかった。
そこに。
小さな。
金属板。
数字。
刻印。
『20』
男は。
初めて。
笑わなかった。
*
午後一時二十分。
大場企画。
透真は。
突然。
右手を止めた。
キーボード。
指。
「透真さん?」
アリス。
「何です」
「今」
「はい」
「どうしました?」
「何も」
本当に。
何も。
ない。
痛み。
ない。
声。
聞こえない。
映像。
見えない。
ただ。
一瞬。
何か。
落としたような。
感覚。
透真は。
自分の右手を見る。
空。
当然。
「……」
アリスが。
近づこうとして。
止まる。
昨日。
透真が。
来ないで。
と言った。
覚えている。
だから。
距離。
そのまま。
「大丈夫ですか」
「はい」
アリス。
数秒。
透真を見る。
「嘘じゃないですね」
「はい」
「なら」
自分の席へ。
戻る。
透真は。
その背中を見る。
呼び止める理由。
ない。
だから。
呼ばない。
ただ。
机。
紙。
『まだ逃げるな』
見る。
そして。
時計。
13:20。
一秒。
二秒。
三秒。
透真は。
何となく。
思った。
二十。
数字。
今。
時間にも。
ある。
そんなもの。
探せば。
いくらでも。
見つかる。
人間は。
意味を探し始めると。
何にでも。
意味を見つける。
だから。
考えすぎない方がいい。
透真は。
画面へ戻る。
仕事。
一行。
入力。
その時。
パソコンの右下。
時刻。
13:20。
一瞬。
数字が。
変わった。
13:20。
ではない。
『5:20』
透真の指が。
止まる。
瞬き。
13:20。
戻っている。
「……」
見間違い。
そう思う。
そう思うことを。
選ぶ。
少なくとも。
今は。
そして。
透真は。
仕事を続けた。
*
同じ頃。
大阪府警。
十年前の通報音声が。
再生準備を終えていた。
相良が。
ヘッドホンを着ける。
若い刑事。
隣。
画面。
火災通報。
18:12。
再生時間。
00:20。
二十秒。
相良は。
嫌な予感を覚えた。
再生。
ノイズ。
電話。
オペレーター。
『火事ですか、救急ですか』
声。
『火事です』
相良の指が。
止まる。
若い。
声。
男。
『場所を教えてください』
住所。
火災現場。
正しい。
『中に人はいますか』
一拍。
『います』
『何人ですか』
電話の向こう。
沈黙。
相良は。
画面を見る。
残り。
八秒。
声。
『一人』
『どこに』
『二階』
『お名前は分かりますか』
そして。
最後。
声。
『久世透真』
音声。
終了。
相良は。
動かなかった。
若い刑事が。
「誰ですか」
相良は。
答えない。
声。
知っている。
昨日。
何度も。
聞いた。
十年前。
十五歳。
だが。
声は。
十五歳ではない。
今。
二十五歳の。
久世透真。
相良は。
ゆっくり。
ヘッドホンを外した。
「……久世」
若い刑事。
「本人ですか?」
相良は。
画面を見る。
十年前。
十八時十二分。
通報者。
久世透真。
そして。
同時刻。
踏切にいる。
十五歳の。
久世透真。
相良は。
自分の手を見る。
微かに。
震えていた。
その時。
音声ファイル。
画面。
再生時間。
00:20。
一瞬。
表示が。
変わった。
00:21。
相良が。
目を細くする。
「待て」
再生。
もう一度。
二十秒。
終了。
だが。
最後。
本来。
何もないはずの。
二十一秒目。
一秒。
音。
入っている。
小さい。
声。
相良は。
音量を上げる。
再生。
『久世透真』
通話終了。
そして。
一秒。
誰か。
囁く。
『まだ五人』
相良の身体が。
止まった。
若い刑事も。
聞いた。
「……今」
「ああ」
「何ですか」
相良は。
答えられない。
まだ五人。
昨日。
自分の知らない場所で。
同じ言葉が。
発せられていたことを。
相良は知らない。
大場企画。
午前零時。
黒い画面。
六人目。
――まだ、五人。
そして。
今。
十年前の音声。
同じ。
言葉。
相良は。
ファイル情報を見る。
作成。
十年前。
更新。
なし。
改変履歴。
なし。
二十一秒目。
最初から。
あった。
では。
なぜ。
今まで。
誰も。
気づかなかった。
いや。
違う。
相良は。
自分の手書きメモを思い出す。
『六人目が来る』
自分は。
聞いたのではないか。
十年前。
この声を。
そして。
何かを。
知った。
だから。
書いた。
その後。
忘れた。
忘れさせられた?
違う。
相良は。
そこまで考えて。
止めた。
まだ。
決めるな。
証拠がない。
だが。
一つだけ。
確か。
十年前から。
誰かが。
数えている。
何を。
誰を。
五人。
六人。
存在意義。
それとも。
別の何か。
相良は。
スマートフォンを取る。
久世透真。
発信。
一コール。
その瞬間。
画面。
『通話中』
相良の眉が。
寄る。
「誰と話してんだ」
一度。
切る。
もう一度。
発信。
『通話中』
相良は。
嫌な感覚を覚えた。
そして。
大阪市内。
大場企画。
透真のスマートフォンは。
机の上。
誰とも。
通話していなかった。
*
午後一時二十二分。
透真は。
仕事をしていた。
アリスは。
少し離れた場所。
蘭は。
窓際。
大場。
電話。
沙莉。
書類。
五人。
普通。
透真のスマートフォン。
画面。
消灯。
その黒い画面に。
一瞬。
着信表示。
相良修司。
しかし。
音は。
鳴らなかった。
振動も。
しなかった。
表示だけ。
一秒。
消える。
誰も。
気づかない。
ただ。
蘭の天秤。
中央。
銀色の鎖。
ほんの僅か。
震えた。
蘭が。
見る。
右皿。
左皿。
水平。
中央。
その影。
机の上。
光。
影。
一。
二。
蘭の目が。
細くなる。
天秤には。
皿が。
二つ。
当たり前。
右。
左。
両方。
その間。
中央。
今まで。
蘭は。
右と左を見ていた。
二つ。
両方。
だが。
初めて。
思った。
両方。
という言葉は。
二つある。
という意味ではない。
右と左。
その両方。
では。
その間は。
どちらに入る。
蘭は。
透真を見る。
仕事をしている。
アリス。
その少し先。
二人。
そして。
机。
紙。
『5 / 6』
蘭は。
何も言わなかった。
まだ。
言葉にできない。
言葉にした瞬間。
どちらかへ。
寄ってしまう気がした。
だから。
黙る。
その選択を。
した。
窓の外。
大阪。
夏。
世界。
普通に。
動いている。
そのどこかで。
誰かが。
五人を数えている。
六人目を待っている。
二十という数字を。
残している。
そして。
誰も。
まだ知らない。
六人目が。
「まだ来ていない」
という前提そのものが。
正しいのかどうか。
透真は。
キーボードを打つ。
アリスが。
ペットボトルの水を飲む。
大場が。
電話を切る。
沙莉が。
書類を揃える。
蘭が。
天秤を見る。
五人。
その時。
事務所の時計。
13:23。
一秒。
進む。
13:23。
もう一度。
同じ時刻。
誰も。
気づかない。
次。
13:24。
世界は。
何事もなかったように。
進んだ。
ただ。
久世透真だけが。
ほんの一瞬。
キーボードから。
指を離した。
理由は。
分からない。
何かを。
避けた。
ような。
そんな感覚。
でも。
何から逃げたのか。
分からない。
透真は。
右手を見る。
何もない。
そして。
仕事へ戻る。
今は。
それでいい。
逃げるか。
逃げないか。
まだ。
決めない。
少なくとも。
その選択まで。
誰かに。
先に決められるつもりはなかった。
机の上。
白い紙。
『5 / 6』
『20』
『まだ逃げるな』
その三行は。
午後の日差しの中で。
静かに。
そこにあった。
四日後。
八月二十日。
何かが起きる。
そう読むことも。
できる。
二十分。
何かが消える。
そう読むことも。
できる。
二十番。
何かが置かれる。
そう読むことも。
できる。
五と二十。
そう分けることも。
できる。
だが。
この時点では。
どれも。
答えではない。
ただの。
数字。
ただの。
違和感。
そして。
久世透真は。
まだ知らない。
十年前。
八月二十日。
記録から消えた一日の中で。
相良修司が。
一度だけ。
十五歳の透真へ。
こう質問していたことを。
――君は、何人いる?
そして。
十五歳の透真が。
二十分の欠落の直前。
その質問に。
何と答えたのかも。
まだ。
誰も。
思い出していない。
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