第17話 その日、ここにいた
16話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
午後一時二十七分。
大場企画の事務所には、いつもの音が戻っていた。
コピー機が低い駆動音を立て、窓の外では車の走行音に混じって蝉の声が続いている。大場は取引先と電話をしながら片手で資料をめくり、沙莉は午前中に届いた書類をファイルへ綴じていた。
ほんの少し前まで、十年前の火災や、現在の久世透真と同じ声で行われた通報について話していたとは思えない。
透真も仕事へ戻っていた。
少なくとも、戻ろうとはしていた。
モニターには広告案件の修正依頼が表示されている。先方から指定された文言を直し、画像差し替えの確認をして、返信用のメールを作成する。普段なら十分も掛からない仕事だった。
それなのに、同じ一文を三度読んでいる。
『納期につきましては――』
そこまで読んで、透真は一度だけ目を閉じた。
考える必要はない。
少なくとも、今は。
十年前の八月二十日。
相良の勤務記録が一日だけ存在しない。
事情聴取映像から消えた時間。
現在の自分と同じ声。
机の端には、警察が来るまで誰も触れないように透明なクリアファイルを被せた紙が置かれている。
『5 / 6』
『20』
『まだ逃げるな』
視界に入るだけで、考えることを要求してくる。
だから透真は見なかった。
キーボードへ指を置き、修正文を入力する。
「気になります?」
斜め向かいから声がした。
透真は画面を見たまま答えた。
「何がです」
「分からないふりするんですね」
白峰アリスは来客用の椅子に座り、飲みかけのペットボトルを両手で持っていた。朝からほとんど同じ場所にいるが、さすがに退屈したのか、先ほどから沙莉に借りた雑誌を読んでいる。
今は閉じていた。
「仕事中なので」
「さっきから同じ場所直してますよ」
透真の指が止まる。
「見てたんですか」
「たまたま」
「何回」
「三回」
「見すぎでは」
「透真さんも三回読んでました」
透真はようやくアリスを見る。
黒い瞳。
いつものように少し楽しそうではあるが、からかっているだけではないことくらいは分かる。
「気になってないとは言ってません」
「じゃあ気になってるんですね」
「仕事を止めるほどではないです」
「なるほど」
アリスはペットボトルへ口をつける。
それ以上は聞かなかった。
透真も画面へ戻る。
以前なら、この辺りで「帰ってください」と言っていたかもしれない。
今も言おうと思えば言える。
口には出さなかった。
理由を考える必要もなかった。
その時、窓際にいた蘭が小さく息を吐いた。
テーブルの上には、午前中に持ってきた古い写真が置かれている。十五歳の透真が車椅子に乗り、その奥に存在しないはずの『520』号室が写っている写真だった。
蘭は何度か写真を裏返していた。
「明日香さん」
透真が声を掛ける。
蘭が顔を上げた。
「はい」
「まだ何かあります?」
「何か、というのは?」
「さっきから写真を見てるので」
蘭は少し考え、それから写真を机へ戻した。
「違和感はあります」
「六人?」
「それとは少し違います」
透真が椅子からわずかに身体を向ける。
アリスも雑誌を閉じた。
蘭は写真を指先で押さえながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「この写真を見た時、私は最初、そこにいる人を数えようとしました」
「五人とか六人とか」
アリスが言う。
「はい。でも、今考えていたのは人数ではありません」
「何を?」
「分け方です」
透真の眉が少し寄る。
蘭は机の端に置いていた小さな天秤を見た。
右皿と左皿。
その間を一本の支柱が繋いでいる。
「いるか、いないか。来たか、来なかったか。逃げたか、残ったか。私たちはずっと二つに分けようとしている気がします」
「普通はそうでしょう」
透真が答える。
「いるか、いないかの間に第三の状態があるとは思えません」
「そうですね」
蘭は否定しなかった。
「でも、両方が同時に正しい場合は?」
「矛盾します」
「はい」
「じゃあどちらかが間違ってる」
「普通なら」
蘭の返しに、透真が黙る。
アリスが少しだけ笑った。
「私と同じこと言いましたね」
「嫌な流行ですね」
「嫌なんですか?」
「面倒なので」
蘭は二人のやり取りを聞きながら、写真を透明な袋へ戻した。
「今は答えを出せないので、それ以上は考えないようにします」
透真が蘭を見る。
「珍しいですね」
「何がです?」
「明日香さんなら考え続けるのかと思ってました」
「考えることと、決めることは違いますから」
蘭は袋の口を閉じた。
「分からない時に、分からないまま置いておくことも必要だと思います」
透真は少しだけ視線を止めた。
それから画面へ戻った。
「それには賛成です」
アリスがすぐ横から言う。
「透真さんの場合、分からないもの全部置いて逃げますけどね」
「効率的です」
「はいはい」
「雑ですね」
そんな会話が続いている間も、机の端の紙は動かなかった。
文字も増えない。
時計も普通に進んでいる。
それだけで、事務所の空気は少しずつ日常へ戻っていった。
*
午後一時四十一分。
大阪府警。
相良修司は、十年前の勤務記録を並べていた。
電子記録。
紙の出勤簿。
捜査車両の運行記録。
庁舎への入退館記録。
電話履歴。
使えるものは全部確認した。
だが、八月二十日だけは異様なほど何もない。
「休暇申請もなし」
若い刑事が端末を操作しながら言った。
「欠勤扱いでもないです」
「そうなんだよ」
相良は椅子の背へ身体を預けた。
勤務していないのなら、何らかの処理が残る。
有給。
公休。
病休。
無断欠勤。
出張。
研修。
何でもいい。
だが、その日は日付だけが抜けている。
前日の勤務。
翌日の勤務。
その間に、一枚白紙が挟まっているようだった。
「システム移行の時に消えたとか」
若い刑事が言う。
「紙もない」
「じゃあ当時の担当が記入忘れた」
「車両記録も?」
「それは……」
「庁舎の出入りもない。内線の履歴もない。捜査日誌にも俺の名前がない。こんだけ全部同じ日に抜けるか?」
若い刑事は答えなかった。
相良も、超常現象などという言葉を使うつもりはない。
使った瞬間、調べる意味がなくなる。
まず普通の可能性を潰す。
記録ミス。
資料紛失。
データ移行時の欠損。
誰かによる改ざん。
そして、自分自身の記憶違い。
「病院の方は?」
相良が聞く。
若い刑事が別の画面を開いた。
「当時の病院、建物自体は残ってます。ただし五階は改修後に全部作り直されてます」
「記録は」
「診療記録はあります。久世透真、四〇七号室。八月二十日も入院中です」
「それは昨日見た」
「あと、看護記録」
若い刑事がマウスを動かす。
「デジタル化されてない資料が一部残ってるそうです」
相良の目が上がる。
「どこに」
「病院の倉庫です。十年前の病棟業務日誌とか、当直記録とか。保存期限過ぎてるんですけど、建て替えの時にまとめて保管した箱が残ってるらしくて」
「見られるか」
「警察照会入れれば」
「今やれ」
「はい」
若い刑事が電話を取る。
相良は机の上の写真へ視線を落とした。
十五歳の透真。
隣の女性。
銀色の鎖。
裏面には、
『来なかった』
『だから、残った』
『5 / 6』
相良は文字を指でなぞらず、その手前で止めた。
誰が書いた。
いつ。
何のために。
問題は山ほどある。
だが、今追うべきものは一つ。
八月二十日。
それ以外は後でいい。
数分後、若い刑事が受話器を置いた。
「見られます」
「行くぞ」
相良が立ち上がる。
「今からですか」
「明日にする理由あるか?」
「ないです」
若い刑事も椅子から立った。
相良は資料を鞄へ入れながら、一瞬だけ手を止める。
久世透真へ連絡するか。
必要ない。
まだ何も確定していない。
無関係かもしれない古い業務日誌を確認するだけだ。
透真を呼ぶ理由はない。
それでいい。
相良は鞄を閉じた。
*
午後二時十六分。
大場企画。
透真はようやく修正案件を一つ終えた。
メールを送信し、椅子の背へ軽く身体を預ける。
「終わりました?」
アリスが聞く。
「見張ってるんですか」
「暇なので」
「帰れば暇じゃなくなりますよ」
「家でも暇です」
「では働いてください」
「ここで?」
「困ります」
「じゃあどうすれば」
「知りません」
アリスは頬を膨らませるような仕草をして、それから沙莉の方を見る。
「沙莉さん、何か手伝うことあります?」
「え、本当に?」
「はい」
「じゃあ、この資料のホチキスお願いしていいですか?」
「任せてください」
アリスが立ち上がる。
透真は、その様子を目で追ってからモニターへ戻った。
沙莉の机の横へ移動したアリスが、紙の向きを何度も確認している。
「これ、左上でいいですか?」
「左上です」
「斜め?」
「普通で大丈夫です」
「普通のホチキスってどういう角度です?」
「そこ気にするんですか?」
「綺麗にしたいので」
「白峰さん」
透真が口を挟む。
「何です?」
「ホチキスに正解はほぼありません」
「じゃあ透真さんの書類、全部バラバラに留めますね」
「やめてください」
沙莉が笑う。
「久世さん、ちゃんと気にするんですね」
「資料が揃わないと困るので」
「几帳面」
「普通です」
「普通好きですね」
アリス。
「あなたに言われたくないです」
大場が電話を切りながら笑った。
「お前ら、仕事してんのか遊んでんのか分かんねえな」
「社長が言わないでください」
「俺は仕事してるぞ」
「さっき十五分競馬の話してましたよね」
「営業だ」
「誰に何を売るんです」
「夢」
「一番信用できない商品ですね」
事務所に笑いが起こる。
その時だった。
透真のスマートフォンが机の上で振動した。
相良。
画面を見た瞬間、笑い声の外側へ意識が戻る。
透真は二度目の振動で電話を取った。
「はい」
『久世』
「今度は普通に繋がってます?」
電話の向こうで相良が一瞬黙った。
『多分な』
「多分ですか」
『お前の画面、発信と着信両方になってないだろうな』
透真は確認する。
着信。
一件。
「普通です」
『ならいい』
相良の声の後ろで、車の走行音が聞こえる。
「どこですか」
『病院に向かってる』
透真の目が僅かに動いた。
「十年前の?」
『ああ』
アリスが、少し離れた場所からこちらを見る。
沙莉と話していた手が止まっている。
相良が続けた。
『当時の紙資料がまだ残ってた。八月二十日の病棟記録を確認する』
透真は何も言わなかった。
『一応知らせただけだ。お前は仕事してろ』
「はい」
即答。
相良が少し間を置く。
『……何だよ』
「何がです」
『いや』
「行くなって言わないんですね」
『来いって言ったら来ねえだろ』
「よく分かってきましたね」
『十年付き合ってる気分だよ』
「実際十年前から知り合いみたいですけど」
電話の向こうが静かになる。
透真も、口にしてから少しだけ視線を落とした。
相良はその日を覚えていない。
自分も覚えていない。
それでも、何かがあった可能性だけは高くなっている。
『何か出たら連絡する』
「お願いします」
『じゃあな』
「はい」
通話を切る。
透真はスマートフォンを机へ置いた。
アリスがホチキスを持ったまま近づいてくる。
「行かないんですか?」
「誰がです」
「透真さん」
「仕事があります」
「そうですか」
アリスはそれだけ言って、沙莉のところへ戻ろうとした。
「白峰さん」
呼んだ。
アリスが振り返る。
透真は自分でも、何を言うつもりだったのか一瞬分からなかった。
相良が調べる。
警察の仕事だ。
自分が行く必要はない。
十年前の資料を見るだけなら、なおさら。
そう考えれば終わる。
いつもなら終わっていた。
「……どう思います」
アリスが首を傾げる。
「何をですか?」
「行った方がいいと思います?」
聞いてから、少し違うと思った。
また他人に決めさせている。
「いえ」
透真はすぐに言い直した。
「違いました」
「何が?」
「今のなしで」
アリスが笑う。
「善処します」
「使わないでください、その言葉」
「透真さんが教えました」
透真は椅子から立った。
机の上に散らばっていた資料を揃える。
大場がこちらを見る。
「どこ行く」
「病院です」
「仕事は?」
「今日中の分は終わってます」
「誰かに呼ばれたのか」
透真の手が、鞄のファスナーに触れたところで止まった。
「呼ばれてません」
大場が眉を上げる。
沙莉も見る。
アリスは何も言わない。
透真は鞄を持ち上げた。
「確認した方が早そうなので」
大場が数秒、透真を見る。
それから椅子の背へ戻った。
「行ってこい」
「いいんですか」
「有給にするぞ」
「じゃあやめます」
「冗談だ」
「今のは笑えません」
「お前が金に細かすぎるんだよ」
透真は小さく息を吐き、それから蘭を見る。
蘭は窓際でこちらを見ていた。
「明日香さんは」
「私は行きます」
即答だった。
「聞く前に決めましたね」
「元看護師の方に連絡したのが私なので」
「なるほど」
そして。
透真はアリスを見る。
ここで「来ないでください」と言うのは簡単だった。
危険かもしれない。
何があるか分からない。
十年前から続く異常の中心に近づく可能性がある。
遠ざける理由はいくらでも出せる。
アリスは何も言わず、透真の言葉を待っていた。
透真は一度だけ鞄の持ち手を握り直した。
「白峰さん」
「はい」
「どうします?」
アリスの表情が、ほんの僅かに変わった。
すぐに笑わなかった。
「私が決めていいんですか?」
「あなたのことなので」
「危ないかもしれませんよ」
「知ってます」
「じゃあ止めないんですか?」
「今聞いてるのは、行くか行かないかです」
アリスは数秒考える。
その時間を、透真は急かさなかった。
やがてアリスは沙莉の机へ戻り、途中まで留めていた資料を綺麗に揃えた。
「これ、先に終わらせます」
沙莉が目を丸くする。
「え?」
「頼まれたので」
「別に後で大丈夫ですよ」
「途中で置いていくの嫌なので」
アリスは残りの書類へホチキスを留めていく。
一枚。
二枚。
三枚。
透真は黙って待った。
以前なら「早くしてください」と言っていたかもしれない。
あるいは、先に行っていた。
今は何も言わない。
最後の一部を留め終えたアリスが、ホチキスを沙莉へ返した。
「終わりました」
「ありがとうございます」
「いえ」
アリスは透真の前まで戻る。
「行きます」
「そうですか」
「はい」
「じゃあ行きましょう」
その会話を聞いていた大場が、何となく面白そうな顔をした。
透真は見なかったことにした。
*
午後三時八分。
十年前に透真が入院していた病院は、大阪市内の大通りから一本入った場所にあった。
建物の外観は十年前から何度か改修されているらしく、正面玄関のガラス張りの部分だけが新しい。自動ドアが開くと、冷房の冷たい空気と消毒液の匂いが外の熱気を押し戻した。
透真は一歩中へ入ったところで、足を止める。
記憶。
何かが戻ったわけではない。
ただ、匂いだけは知っていた。
病院ならどこでも同じ。
そう思える程度のものだった。
「大丈夫ですか?」
アリスが隣から聞く。
「はい」
「嘘じゃない」
「本当に大丈夫です」
「ならよかったです」
それ以上近寄らない。
透真はその距離に気づいたが、何も言わなかった。
ロビーの奥から相良が歩いてくる。
「何で来た」
第一声だった。
「歓迎されてないですね」
「来るなとは言ってないけど、来いとも言ってねえぞ」
「自分で来ました」
相良の足が少しだけ止まった。
透真は受付の案内板を見る。
「資料は?」
「これから倉庫だ」
「なら間に合いましたね」
「誰が教えた」
「あなたです」
相良が嫌そうに顔をしかめる。
「余計な電話だったな」
「今後も共有してください」
「どっちなんだよ」
「共有された情報を使うかどうかは私が決めます」
相良は何か言い返しかけたが、やめた。
代わりにアリスを見る。
「お前も来たのか」
「自分で決めました」
「流行ってんのか、それ」
「大事なことなので」
後ろから蘭もやって来る。
「相良さん」
「お前もか」
「はい」
「今日は人数増やすなよ」
「私に言われても困ります」
相良は額を押さえた。
「何で俺だけ疲れてんだ」
「寝てないからでしょう」
透真。
「誰のせいだと思ってんだ」
「十年前の相良さんでは」
「ややこしい言い方すんな」
少しだけ、空気が緩む。
そのやり取りの直後、年配の女性が廊下の奥から歩いてきた。
蘭が午前中に会った元看護師だった。
髪には白いものが混じり、歩く速度もゆっくりしている。ただ、透真を見た瞬間だけ、その目がはっきりと変わった。
「ああ……」
女性が足を止める。
透真も止まった。
「久世君?」
十年前の呼び方。
透真は少しだけ戸惑いながら頭を下げた。
「久世透真です」
「大きくなったね」
「十年経ってますから」
「そうね」
女性は笑った。
その笑顔には懐かしさがあった。
それが、透真には少し不思議だった。
自分は覚えていない。
相手だけが知っている。
そんな関係が、最近急に増えた。
「私は高瀬です。当時、四階にいました」
「覚えてなくてすみません」
「いいのよ。十五歳で、あんなことがあった後だもの」
高瀬は首を振る。
「むしろ、覚えてない方がいいこともあるわ」
相良の目が僅かに細くなる。
「八月二十日も勤務してましたか」
高瀬が相良を見る。
「その話ね」
「はい」
「いたと思う。でも、全部は覚えてない」
「勤務記録は?」
「病院側にはあるはずよ。私たちは交代制だったから」
相良が頷く。
「古い病棟日誌を見せてもらいます」
「私も一緒に行きます」
五人は、病院職員の案内で地下の資料保管室へ向かった。
*
倉庫は病院の新しい部分から少し離れた旧棟の地下にあった。
金属製の扉を開くと、冷房の効いたロビーとは違う、乾いた紙と埃の匂いがする。天井の蛍光灯は白いが、棚の奥までは十分に光が届かない。
年代ごとに段ボール箱が並べられていた。
病棟日誌。
看護引継ぎ。
備品管理。
車椅子貸出。
当直記録。
相良は手袋を着け、若い刑事と一緒に箱を開け始める。
「こういうの苦手なんですよね」
透真が言った。
相良が顔も上げずに答える。
「何が」
「古い紙を探す作業」
「帰るか?」
「まだ探してません」
「じゃあ黙って手伝え」
「警察の捜査ですよね」
「見に来たのお前だろ」
正論だった。
透真は少し嫌そうな顔をしながら手袋を受け取る。
アリスが笑う。
「珍しい」
「何がです」
「ちゃんと手伝うんですね」
「早く終わらせたいので」
「はいはい」
「その返事やめません?」
「嫌です」
透真は棚へ向かった。
高瀬の記憶によれば、当時の四階病棟では患者が病室外へ出る際、必要に応じて簡単な記録を残していたという。未成年患者で、しかも火災による負傷直後だった透真の場合、外出や他部署への移動は看護師が確認していた可能性が高い。
問題は、何が残っているかだった。
一時間近く。
目立ったものは出なかった。
八月十九日。
普通。
八月二十一日。
普通。
その間の八月二十日も、病棟日誌自体は残っている。
異常など見当たらない。
透真の名前もある。
朝の検温。
食事。
処置。
投薬。
「普通ですね」
アリスが透真の横から覗き込む。
「普通で困ることもあるんですね」
「本来はいいことです」
透真はページをめくる。
八月二十日。
午後。
処置記録。
異常なし。
「私、普通に入院してますね」
「そう見えるな」
相良が別の冊子を確認しながら言う。
「勤務記録の方が消えてる俺より、お前の方がちゃんと存在してる」
「変な安心の仕方ですね」
「うるせえ」
蘭は高瀬と一緒に、別の箱を確認していた。
その時、高瀬が小さな声を出した。
「あら」
全員の視線が向く。
高瀬は薄い大学ノートのような冊子を持っていた。
表紙には、
『四階病棟 臨時連絡』
と書かれている。
「これ、まだ残ってたのね」
相良が近づく。
「何です?」
「正式な看護記録じゃないの。申し送りの補助みたいなもの。電話があったとか、家族が来たとか、ちょっとしたことを書くノート」
ページをめくる。
日付。
八月二十日。
高瀬の指が、一行で止まった。
表情が変わる。
「……これ」
相良が覗く。
透真もその横へ立った。
青いボールペン。
少し丸い字。
『15:35 久世君、刑事さんと旧棟側へ。本人希望とのこと。戻り確認必要』
相良の呼吸が止まる。
「刑事」
若い刑事が言う。
「名前は?」
「書いてない」
相良はページへ顔を近づける。
高瀬が小さく言った。
「これ、私の字です」
相良が高瀬を見る。
「覚えてますか」
「……少しだけ」
高瀬は自分の指先を見た。
「久世君が、誰かと話したがってたような気がする。でも……誰だったか」
「刑事と書いてる」
「ええ」
「俺ですか」
高瀬は相良の顔を見る。
長く。
昔の顔と重ねるように。
「多分」
「多分?」
「あなたは病院に来ていた」
相良の目が僅かに動く。
「それは覚えてるんですか」
「顔を見て思い出したというより……」
高瀬は額へ手を当てる。
「階段の前で、あなたと話した気がする」
「何を?」
「分からない」
「場所は?」
「旧棟へ繋がる廊下」
透真が写真のことを思い出す。
存在しない『520』。
使われていなかった五階。
相良はすぐに問いを重ねた。
「八月二十日ですか」
「そこまでは……」
高瀬が言葉を切る。
だが。
紙は残っている。
八月二十日。
十五時三十五分。
久世透真。
刑事。
旧棟側。
相良の勤務記録には何もない。
それでも、少なくとも刑事と十五歳の透真が一緒に動いていた。
「これだけじゃ俺とは限らん」
相良が低く言う。
透真が相良を見る。
「現実的ですね」
「当たり前だ」
相良はノートから視線を上げない。
「刑事なんて俺以外にもいる。名前もない。俺だと決めるな」
「では他の記録を探します?」
透真が聞く。
「当然だ」
その答えを待っていたように、蘭が別の箱から声を上げた。
「相良さん」
全員が振り返る。
蘭は一冊の薄いファイルを持っていた。
「これは?」
病院職員が表紙を見る。
「旧棟立入記録ですね。改修中の区域に入る時のものだと思います」
相良が受け取る。
八月二十日。
名前が数人。
施工業者。
設備担当。
病院職員。
その下。
入館者。
『相良修司』
相良は動かなかった。
所属。
大阪府警。
入棟理由。
『患者確認』
時刻。
十五時四十二分。
若い刑事が息を呑む。
誰も、すぐには口を開かなかった。
相良は紙を持つ指へ僅かに力を入れた。
筆跡は相良のものではない。
受付担当者が記入したものだろう。
それでも名前はある。
所属もある。
勤務記録上は、その日、相良修司という警察官は勤務していない。
だが病院側には残っていた。
相良は、その日ここにいた。
透真は紙から相良へ視線を移した。
「確定ですね」
相良は答えない。
「少なくとも」
透真が続ける。
「八月二十日に、あなたがこの病院へ来たことは」
相良はゆっくり息を吐いた。
「……そうだな」
その一言を言うまでに、少し時間が掛かった。
十年間、自分の中から消えていた一日。
何もなかったのではない。
何かはあった。
少なくとも。
八月二十日。
相良修司はここへ来ている。
そして、同じ日の連絡ノートには、十五歳の透真が「刑事さん」と旧棟側へ向かったと記録されている。
若い刑事が言う。
「じゃあ二人が一緒だった可能性はかなり高いですね」
「可能性だ」
相良が即座に訂正する。
「確定は俺がここに来たことだけ。久世と一緒だった刑事が俺とはまだ限らん」
「でも」
アリスが旧棟立入記録を覗く。
「時間が近いですね」
十五時三十五分。
久世透真が刑事と旧棟側へ。
十五時四十二分。
相良修司が旧棟へ入棟。
七分差。
相良が腕を組む。
「七分あれば別の刑事が先に入って、俺が後から来た可能性もある」
「相良さん」
透真。
「何だ」
「往生際悪いですね」
「捜査ってのはそういうもんだ」
「そうですか」
「お前もすぐ超常現象に逃げるな」
透真の目が少し細くなる。
「逃げるという言葉を雑に使わないでください」
「そこ気にするのかよ」
少しだけ場が緩んだ。
だが高瀬だけは笑っていなかった。
旧棟立入記録を見たまま、何かを探すように視線を動かしている。
「高瀬さん?」
蘭が声を掛けた。
高瀬はゆっくり顔を上げる。
「思い出したわけじゃないんだけど」
「はい」
「その日」
高瀬は透真を見る。
「久世君、変なことを言っていた気がする」
倉庫の空気が静かになる。
相良が一歩近づいた。
「何を」
「言葉までは出てこない」
高瀬は目を閉じる。
「でも、あなたが」
今度は相良を見る。
「すごく困った顔をしていた」
相良の眉が寄る。
「俺が?」
「怒ってるんじゃなくて……分からないものを見た人の顔」
相良は何も言わない。
その表現だけは妙に具体的だった。
「何を見てた?」
「久世君」
高瀬は答える。
「多分、久世君を見てた」
相良の喉が僅かに動く。
その瞬間。
匂い。
消毒液。
古い廊下。
夏なのに、改修中の旧棟は冷えていた。
蛍光灯。
一つ切れている。
少年。
十五歳。
壁際。
そして。
声。
『刑事さん』
相良の視界が一瞬だけ揺れた。
「相良さん?」
若い刑事が声を掛ける。
相良は片手を上げる。
「待て」
記憶を追う。
無理に掴もうとすると消える。
廊下。
少年。
久世透真。
その向こう。
何か。
見た。
人?
違う。
顔が出てこない。
ただ。
自分が少年へ言った。
『動くな』
なぜ。
『そこにいろ』
誰に。
少年?
それとも。
別の。
何か。
そして。
一瞬だけ。
二つ。
同じ。
声。
相良の眉間に深く皺が寄る。
「……くそ」
頭痛。
今度は、すぐに消えなかった。
「相良さん」
透真が呼ぶ。
相良は目を開けた。
透真が見ている。
二十五歳。
今の久世透真。
だが、一瞬。
十五歳の少年と重なった。
『君は――』
相良の呼吸が止まる。
そこまで。
続き。
質問。
知っている。
「君は、何人いる?」
口から出た。
誰も動かなかった。
相良自身が一番驚いたように、口元へ手を当てる。
透真がゆっくり相良を見る。
「今」
「ああ」
相良は額を押さえた。
「思い出したんですか」
「全部じゃない」
「何を見たんです」
「分からん」
「でも、その質問は」
「ああ」
相良は苦い顔で頷いた。
「何かを見た後だ」
それだけは、確信に近かった。
突然思いついたわけではない。
意味不明な質問をしたのでもない。
何かを見て。
何かを確認して。
それでも理解できなかったから。
十五歳の少年へ聞いた。
――君は、何人いる?
「何を見ました」
アリスが静かに聞く。
相良は目を閉じる。
「出てこねえ」
「人?」
「分からん」
「もう一人の透真さん?」
「決めつけるな」
相良はすぐに否定した。
「見たものが人だったかどうかすら分からん。今の記憶を都合よく繋げるな」
アリスは頷いた。
「はい」
「ただ」
相良は透真を見る。
「お前に質問した。その前に何かを見た。それは多分間違いない」
透真は何も言わなかった。
怖い。
とは言わない。
混乱している。
とも言わない。
ただ、視線が一度だけ旧棟立入記録へ戻った。
八月二十日。
相良修司。
患者確認。
そして連絡ノート。
久世君、刑事さんと旧棟側へ。
そこまで。
一つ進んだ。
十年前、確かに何かがあった。
その日を誰も覚えていないだけで、何もなかったわけではない。
*
午後四時五十六分。
資料確認を終え、五人は病院一階の小さな喫茶スペースにいた。
相良はブラックコーヒー。
若い刑事はアイスコーヒー。
蘭は紅茶。
アリスはオレンジジュース。
透真だけ何も買っていなかった。
「何も飲まないんですか?」
アリスが聞く。
「いりません」
「喉渇きません?」
「さっき水飲みました」
「いつ?」
「会社で」
「三時間前ですよ」
「人間は三時間で干からびません」
アリスは自分のオレンジジュースを透真の方へ少し押した。
「飲みます?」
「いりません」
「一口」
「なぜ共有しようとするんです」
「嫌ですか?」
透真がコップを見る。
ストロー。
アリス。
またコップ。
「別に嫌では」
そこで止まる。
相良がコーヒーを飲みながらこちらを見る。
蘭も見る。
透真はすぐに言い直した。
「自分で買います」
「逃げましたね」
「何からです」
「知りません」
「便利ですね」
透真は立ち上がり、自販機へ向かった。
背後でアリスが笑っている。
普通の会話。
十年前の自分が何人いたかもしれない、などという話の後にする会話ではない気もする。
でも透真には、その方が楽だった。
水を一本買い、戻る。
相良は先ほどコピーした資料をテーブルへ並べていた。
「まだ見るんですか」
透真が言う。
「お前が来る前から俺は仕事してんだよ」
「寝てください」
「今日帰ったら寝る」
「昨日も言ってませんでした?」
「言ってねえ」
アリスが相良を見る。
「嘘です」
「お前な」
「冗談です」
「能力の悪用すんな」
少し笑いが起こる。
その間、透真は立ったまま資料を見る。
帰ってもいい。
会社へ戻る必要もない。
今日の仕事は終わっている。
これ以上は警察に任せればいい。
そう思った。
それでも椅子へ座る。
相良が気づく。
「まだいるのか」
「帰ってほしいんですか」
「いや」
「ではいます」
「理由は?」
透真はペットボトルの蓋を開けた。
「一つ確認したら帰ります」
「何だ」
透真は旧棟立入記録を見る。
そして連絡ノート。
「八月二十日、私は四〇七号室に入院してたんですよね」
「ああ」
「外出記録は?」
「今のところない」
「旧棟へ行った記録はあります」
「連絡ノートだけな」
「なら」
透真は少し考える。
「病室側の記録をもう一度見たいです」
相良が眉を寄せる。
「何で」
「私が旧棟へ行ってたなら、その時間、病室にはいないはずなので」
相良の表情が変わる。
若い刑事も顔を上げた。
「さっき見た看護記録」
透真が言う。
「午後も処置されてましたよね」
相良はすぐに資料を探す。
コピーしてきた四階病棟の看護記録。
八月二十日。
午後。
相良の指が止まる。
十五時。
体温。
脈拍。
処置。
次。
十六時。
投薬確認。
「時間が被ってない」
若い刑事が言う。
「十五時の処置の後に出た可能性があります」
「そうですね」
透真は頷く。
「じゃあ問題ない」
相良が言う。
透真は少しだけ考えた。
「でも、連絡ノートに『戻り確認必要』ってありますよね」
「だから?」
「戻った確認は?」
誰も答えなかった。
相良がページをめくる。
連絡ノート。
その後。
記載なし。
「書き忘れじゃねえか」
「あり得ます」
透真は否定しない。
「でも、一応確認したいです」
相良が透真を見る。
「今日はやけに食いつくな」
「自分の入院記録なので」
「昨日まで警察に任せるって言ってた奴が?」
透真はペットボトルを口へ運ぶ。
「気が変わりました」
アリスが少しだけ透真を見る。
透真は視線を返さない。
「高瀬さんに聞きます?」
蘭が提案する。
「戻り確認をしていたか」
相良が立ち上がろうとする。
その前に。
アリスが、看護記録のコピーを見ていた。
「これ」
全員が止まる。
相良が聞く。
「何だ」
「十六時のところ」
アリスが指す。
投薬記録。
『16:05 久世透真 内服確認』
担当者のサイン。
高瀬。
透真が見る。
「戻ってたんでしょう」
「そうですね」
アリスは頷く。
「でも」
その指が、そのすぐ下へ移る。
備考。
小さい字。
『本人確認済』
相良の眉が寄る。
「何でわざわざ本人確認って書く」
若い刑事も覗く。
「薬の飲み間違い防止じゃないですか?」
「普通なら名前確認しますよね」
アリス。
「でも他の人には書いてない」
相良は前後の患者記録を見る。
確かに。
内服確認。
投薬。
食事量。
そうした記録だけ。
『本人確認済』
という補足が付いているのは、透真だけだった。
蘭が静かに言う。
「高瀬さんに聞いてみますか」
相良が頷いた。
再び高瀬を呼んだ。
*
午後五時十二分。
高瀬はコピーされた記録を見て、長い間黙っていた。
「私の字です」
それはすぐに分かった。
相良が聞く。
「どうして本人確認済って書いたんです?」
「……分からない」
「普段からこういう書き方を?」
「しません」
高瀬は他の記録を見る。
「少なくとも、こんな書き方はしないと思う」
「じゃあ何か理由があった」
「そうでしょうね」
透真が高瀬を見る。
「何を確認したんですか」
高瀬は困ったように眉を寄せる。
「名前を聞いたのかもしれない」
「私に?」
「ええ」
「病室の患者に毎回名前聞きます?」
「場合によっては」
「でも備考に残すほど?」
高瀬は答えない。
思い出そうとしている。
その様子を見て、相良が少し声を落とした。
「無理に思い出さなくていいです」
意外そうに透真が相良を見る。
相良は気づいていない。
高瀬は目を閉じた。
しばらくして、小さく首を振る。
「ごめんなさい」
「いえ」
透真が答える。
「十年前なので」
高瀬は記録を返そうとする。
その時。
指が止まった。
「待って」
相良が顔を上げる。
「何です」
高瀬は『本人確認済』という文字を見たまま動かない。
「私」
ゆっくり。
「名前を聞いたんじゃない」
倉庫で聞いた時とは違う。
今度は、少しずつ輪郭がある声だった。
「じゃあ何を?」
アリスが聞く。
高瀬は透真を見る。
「顔を見た」
「顔?」
「そう」
「患者確認なら普通では」
「違うの」
高瀬の呼吸が少し浅くなる。
「顔を確認したの」
透真は黙る。
高瀬の視線が、現在の透真の顔をなぞる。
アッシュグレーと黒の髪。
エメラルドの瞳。
十年前とは違う。
それでも。
「その前に」
高瀬が言う。
「私は久世君を見ていた」
相良の目が細くなる。
「どこで」
「旧棟」
誰も動かなかった。
「刑事さんと一緒に」
相良が机へ手を置く。
「その後、四〇七に戻った?」
「違う」
高瀬は首を振る。
「私が先に戻った」
「じゃあ」
「四階へ戻って」
高瀬の顔から血の気が少し引く。
「四〇七号室を見た」
透真は、何も言わなかった。
高瀬の声が続く。
「久世君がいた」
沈黙。
誰かが飲み物の氷を動かした音だけが、妙に大きく聞こえた。
高瀬は自分で言った言葉を理解できていないような顔をしている。
「でも……おかしいのよ」
相良が低く聞く。
「何が」
「だって私は、その少し前に」
高瀬。
相良。
透真。
順番に見る。
「旧棟側で、相良さんと一緒にいる久世君を見てる」
アリスが唇を僅かに開く。
蘭は何も言わない。
透真も動かない。
相良はすぐに口を開いた。
「時間がずれてる可能性がある」
現実的な説明を先に置く。
「旧棟で見た後、久世が俺より先に四階へ戻った」
「そうかもしれません」
高瀬は答える。
「でも」
「何です」
「私」
高瀬の目が、看護記録へ落ちる。
「戻った時に、確かめたんです」
「何を」
「本人かどうか」
だから。
『本人確認済』
透真は自分の手元のペットボトルを見る。
指先には力が入っていない。
「どうやって確認したんですか」
聞いた。
声も普段と変わらない。
高瀬は透真を見る。
「名前を聞いたんじゃない」
「では」
「質問した」
「何を」
高瀬の眉間に皺が寄る。
そこだけ。
思い出せない。
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
透真はすぐに答えた。
相良が看護記録を見つめている。
八月二十日。
久世透真。
本人確認済。
その日。
相良は旧棟へ入っている。
同じ頃。
透真は刑事と旧棟側へ向かったと記録されている。
それだけでも、一つの事実は確定した。
十年前の八月二十日。
相良と透真は、少なくとも同じ病院の旧棟付近で接触していた可能性が極めて高い。
相良の質問。
――君は、何人いる?
それも、その日に何かを見た結果だった。
ここまでは進んだ。
だが。
新しく見えてきたものは、それより少し厄介だった。
*
午後六時三分。
病院を出る頃には、夏の日差しが少しだけ傾いていた。
道路の向こうでは車のフロントガラスが西日を反射し、歩道には建物の影が長く伸びている。
相良と若い刑事は、追加で確認する資料があると言って病院に残った。
蘭も高瀬ともう少し話をすると言った。
正面玄関の前に出たのは透真とアリスだけだった。
「帰ります?」
アリスが聞く。
「帰ります」
「会社?」
「今日はもう戻りません」
「珍しい」
「社長が戻ってくるなと言ったので」
「言ってませんよね」
「雰囲気です」
「便利ですね」
透真が歩き出す。
アリスも隣に並ぶ。
数十メートル。
二人とも話さなかった。
駅へ向かう人。
自転車。
信号。
コンビニ。
普通の夕方だった。
アリスが先に口を開く。
「透真さん」
「何です」
「大丈夫ですか」
「はい」
「嘘じゃないですね」
「はい」
アリスは少し考える。
「じゃあ」
「何です」
「怖くないんですか?」
透真は歩きながら前を見る。
「分かりません」
「分からない?」
「怖いと判断する材料が足りないので」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってます」
信号。
赤。
二人が止まる。
透真は道路の反対側を見る。
「怖いかどうか考えても、過去は変わらないでしょう」
「逃げれば?」
「何から」
「過去から」
透真は少しだけアリスを見る。
「できるかもしれません」
アリスは冗談で言ったわけではない。
透真も冗談では返さない。
十年前。
八月二十日。
記録。
記憶。
その出来事から逃げる。
存在そのものから離れる。
自分なら。
いつか、本当にできるのかもしれない。
「でも」
透真は信号を見る。
まだ赤。
「今はいいです」
アリスは横顔を見る。
「逃げない?」
「違います」
透真はすぐに答えた。
「まだ調べた方が早いので」
アリスの口元が少しだけ上がる。
「合理的だから?」
「はい」
「そうですか」
青。
二人が歩き出す。
横断歩道の中ほどで、透真が言った。
「白峰さん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「十年前」
「はい」
「あなた、私と会ってませんよね」
アリスが足を僅かに遅らせた。
「会ってません」
「確実に?」
「はい」
「十五歳の時?」
「その頃は別の場所にいました」
「そうですか」
透真は前を向く。
アリスが少し首を傾げる。
「何でです?」
「いえ」
「混沌?」
透真が見る。
アリスは自分から言った。
「最近のこと、私がいるから起きてる可能性を考えてるんですよね」
透真はすぐに否定しなかった。
「可能性としては」
「でも十年前は、私はいなかった」
「はい」
「じゃあ全部私のせいではない」
「少なくとも単純には説明できません」
アリスは少しだけ笑った。
「よかった」
透真の足が止まりかける。
「何がです」
「全部私のせいだったら嫌なので」
声は軽い。
でも、笑い方が少しだけ違った。
透真は何か言おうとした。
大丈夫です。
違います。
あなたのせいでは。
どれも言うには早い。
何も分かっていない。
だから。
「まだ分かりません」
そう答えた。
アリスが透真を見る。
一秒。
それから笑う。
「はい」
否定されるより。
妙に安心した顔だった。
透真はそれ以上言わなかった。
*
午後六時四十七分。
大阪府警へ戻る車内で、相良は助手席に座ったまま、一枚のコピーを見ていた。
旧棟立入記録。
八月二十日。
相良修司。
その名前だけで十分だった。
その日、自分はここにいた。
記憶がない。
勤務記録もない。
それでも病院側の記録には残っている。
一つ。
確定した。
若い刑事が運転しながら言う。
「相良さん」
「ん?」
「今日は寝てくださいよ」
「帰れたらな」
「また調べるんですか」
「一つだけ」
「何を?」
相良は看護記録を見た。
『本人確認済』
高瀬。
そして。
自分の記憶。
『君は、何人いる?』
「質問だ」
「質問?」
「俺も高瀬さんも」
相良は窓の外を見る。
「久世が本人かどうか確かめようとしてる」
若い刑事が黙る。
「俺は何人いるって聞いた。高瀬さんも、何か質問して本人確認してる」
「同じものを見た?」
「分からん」
「でも」
「ああ」
相良は資料を閉じる。
「その日、久世を見て何かがおかしいと思った人間が、少なくとも二人いる」
車内にエアコンの風が流れる。
相良は目を閉じなかった。
今眠れば。
何か思い出しそうな気もする。
逆に。
何かをまた失いそうな気もした。
「四〇七の記録」
相良が言う。
「もう一回全部洗うぞ」
「今日?」
「署に戻ってから」
「寝てくださいって」
「終わったらな」
若い刑事がため息をつく。
「何見るんです」
相良は少し考える。
「高瀬さんが四〇七で見た久世が、本当に病室から動いてないのか」
「でも投薬記録はあります」
「人がいたことは分かる」
相良が窓の外へ視線を戻す。
「それが誰だったかは別だ」
若い刑事は何も言わなかった。
*
午後七時二十九分。
透真は自宅へ戻っていた。
シャワーもまだ。
着替えもしていない。
ジャケットだけを椅子へ掛け、白いシャツの袖を肘まで捲っている。
テーブルにはコンビニで買った水。
スマートフォン。
そして。
相良から送られてきた写真。
旧棟立入記録。
八月二十日。
相良修司。
透真は画面を拡大する。
見ても変わらない。
相良はいた。
自分もいた可能性が高い。
そこまで。
それ以上は決めない。
スマートフォンを伏せる。
夕食。
作る気はない。
買いに行くのも面倒。
透真は冷蔵庫を開ける。
ほとんど何もない。
水。
調味料。
卵。
昨日買ったもの。
「……」
閉める。
スマートフォンが鳴った。
アリス。
メッセージ。
『ちゃんとご飯食べてください』
透真は画面を見る。
なぜ分かった。
考えて。
返信。
『今から食べます』
三秒。
『嘘です』
透真の目が細くなる。
『メッセージでも分かるんですか』
すぐに返る。
『何となくです』
『能力の意味がないですね』
『何食べます?』
透真は冷蔵庫を見る。
『未定』
『何もない?』
『卵があります』
『卵だけ?』
『水もあります』
少し間。
『それご飯じゃないです』
透真は笑いそうになって、やめた。
『コンビニ行きます』
『行ってらっしゃい』
そこで会話は終わる。
透真はスマートフォンをポケットへ入れる。
靴を履こうとして。
一度だけ止まった。
相良から送られた写真。
もう一度見る。
何か。
引っ掛かる。
旧棟立入記録ではない。
看護記録。
相良が最後に送った方。
八月二十日。
午後。
十五時。
十六時。
本人確認済。
透真は画像を拡大する。
高瀬の記録。
そのすぐ上。
別の看護師の記載。
十五時五十八分。
『407 久世君不在。処置延期』
透真の目が止まった。
初めて見る。
相良も気づいたかもしれない。
不在。
十五時五十八分。
なら。
旧棟へ行っていた。
矛盾しない。
むしろ自然。
だが。
十六時五分。
七分後。
『久世透真 内服確認 本人確認済』
戻った。
そう考えれば終わる。
透真は画面を消そうとした。
止める。
もう一度。
十五時五十八分。
不在。
その横。
小さな追記。
『四階廊下にて確認済』
透真の指が止まった。
不在なのに。
廊下で確認?
旧棟にいたのでは。
画面をさらに拡大する。
字が潰れる。
それでも読める。
『407 久世君不在。処置延期』
その下。
別筆跡。
『四階廊下にて確認済』
そして十六時五分。
『久世透真 内服確認 本人確認済』
透真はしばらく画面を見ていた。
三つ。
同じ時間帯。
旧棟へ向かった久世透真。
四階廊下で確認された久世透真。
四〇七号室へ戻り、本人確認をされた久世透真。
時間差。
移動すれば。
説明できる。
まだ。
できる。
透真は地図を開いた。
十年前の旧棟配置図は相良から送られていた資料の中にある。
四階病棟から旧棟側の該当区画まで。
廊下。
階段。
改修区域。
当時は一部通行止め。
歩いて。
最低でも。
高瀬の証言を含めれば。
透真は指を止めた。
分からない。
決めつけるな。
相良の言葉を思い出す。
スマートフォンが再び鳴った。
相良。
今度はメッセージだった。
『気づいたか』
透真は画面を見る。
返信する。
『何にです』
数秒。
画像。
同じ看護記録。
赤い丸。
十五時五十八分。
『四階廊下にて確認済』
次。
十五時四十二分。
旧棟立入記録。
相良修司。
そして。
十五時三十五分。
『久世君、刑事さんと旧棟側へ』
相良から短い文章。
『距離的に、全部同じ久世なら動きが変だ』
透真は返信しない。
相良から続く。
『それだけじゃない』
新しい画像。
透真の目が細くなる。
旧棟側の看護補助記録。
今日確認した箱の中に、後から若い刑事が見つけたらしい。
時刻。
十五時五十七分。
たった一行。
『久世君、相良刑事と五階階段前』
透真の呼吸が、ほんの少しだけ止まった。
十五時五十七分。
旧棟。
十五時五十八分。
四階廊下。
一分。
距離。
どう考えても。
普通には間に合わない。
相良から最後のメッセージ。
『俺は、この一分を見て質問したのかもしれない』
透真は画面を見たまま動かなかった。
――君は、何人いる?
質問の意味が。
少しだけ。
変わる。
訳の分からない問いではなかった。
相良は。
数えようとした。
そこにいる久世透真を。
透真は椅子へ座った。
コンビニへ行くために履こうとしていた靴は、玄関に片方だけ残っている。
食事。
忘れていた。
スマートフォンをテーブルへ置く。
一つ分かった。
八月二十日。
相良と自分は、確かに接触していた。
相良はその日、何かを見た。
だから十五歳の自分へ、
「君は、何人いる?」
と聞いた。
そこまでは。
前へ進んだ。
透真は水を一口飲む。
そして。
もう一度。
記録を見る。
十五時五十七分。
旧棟。
十五時五十八分。
四階。
もし。
相良が旧棟で見た自分が。
本当に自分なら。
四階で確認されたのは誰だ。
逆なら。
相良といたのは誰だ。
二人。
そう考えるのは簡単だった。
だが。
アリスの言葉を思い出す。
六人目が来る。
六人になる。
同じ意味とは限らない。
蘭の言葉も。
いる。
いない。
両方。
二つに分けること自体が正しいとは限らない。
透真は画面を伏せた。
今は答えを決めない。
決めないが。
一つだけ。
以前とは違った。
この記録を見なかったことにはしなかった。
スマートフォンを手に取る。
相良へ打つ。
『明日、続きを見ます』
送信。
すぐに既読。
『お前から言うとはな』
透真は少し考えた。
『後で面倒になるので』
数秒。
『はいはい』
その返事を見て。
透真は少し眉を寄せる。
『白峰さんみたいな返事やめてください』
相良から。
『知らん』
透真は画面を消した。
今度こそコンビニへ行く。
玄関。
靴。
鍵。
扉を開ける。
その前に。
もう一度だけ振り返った。
誰もいない部屋。
鏡。
一人。
それを確認してから。
透真は外へ出た。
そして。
この時点で。
誰もまだ気づいていなかった。
十年前の八月二十日。
十五時五十七分。
旧棟で相良修司と一緒にいた久世透真。
十五時五十八分。
四階廊下で確認された久世透真。
二つの記録。
問題は。
一分で移動できないことではなかった。
もっと単純なところにあった。
旧棟側の記録には、
『久世君、相良刑事と五階階段前』
と書かれている。
四階側の記録には、
『久世君、四階廊下にて確認済』
と書かれている。
どちらも。
「久世透真」とは書かれていない。
名前をフルネームで確認しているのは。
十六時五分。
高瀬が残した。
たった一つの記録だけ。
『久世透真 内服確認 本人確認済』
では。
その七分前まで。
病院の人間たちは。
一体。
誰を。
「久世君」と呼んでいたのか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。
今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。
▼YouTube Shortsはこちら
【YouTubeのURL】
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続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。




