↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/26

第18話「本人確認」

18話目になります。

よろしくお願いします。

『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。

本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。

早速15,000総再生突破!!

ありがとうございます。


翌朝、久世透真は目覚まし時計が鳴るより先に目を開けた。


午前六時四十八分。


カーテンの隙間から差し込む朝の光はまだ弱く、部屋の輪郭だけを薄く浮かび上がらせている。枕元に置いたスマートフォンには通知が二件。どちらも昨夜のうちに届いていた仕事関係のものだった。


透真はそれを開かず、画面上部の時刻だけを確認した。


昨日、病院を出たのは十九時を少し回った頃だった。


帰宅してからも、机の上には何も広げなかった。相良から共有された資料も見返していない。考え始めれば眠れなくなることくらい分かっていたし、何より、考えたところで手元にある情報は増えない。


だから寝た。


それはいつもの透真なら、たぶん正しい選択だった。


問題を明日に送る。


自分でどうにもならないものは、どうにかできる人間に任せる。


そのやり方で大抵のことは困らなかった。


ところが今朝は、目を覚ました瞬間から昨日の最後の一行が頭に残っていた。


『久世透真 内服確認 本人確認済』


透真は布団から出ると、冷蔵庫から水を取り出した。コップには移さず、ペットボトルのまま二口飲む。洗面所へ向かいながら、スマートフォンをもう一度見た。


相良からの連絡はない。


昨日の別れ際、相良は「病院側に確認しておく」と言っていた。


なら、待っていればいい。


透真は歯ブラシを口に入れたまま、鏡の中の自分を見た。


黒にアッシュグレーが混じった寝癖のついた髪。眠気の残る目。十年前とは当然違う顔をしている。


それでも十五歳の自分と、今の自分が同じ人間であることを証明しろと言われたら、何を使うのだろう。


名前。


生年月日。


住所。


家族。


傷。


記憶。


あるいは、本人しか知らない何か。


歯を磨き終えた透真は、タオルで口元を拭いた。


それから連絡先を開いた。


相良修司。


入力欄に指を置く。


『昨日の件、何時から調べます?』


そこまで打って、一度止まった。


別に自分が聞く必要はない。


相良から連絡が来てから動けばいい。昨日までなら、そうしていたはずだった。


透真は数秒だけ画面を見つめ、そのまま送信した。


送ってから、少し考える。


「……まあ、自分の人数を他人に決められるのも嫌だしな」


誰に聞かせるでもなく呟いて、スマートフォンを洗面台へ置いた。


それから着替えを始める。


会社には休むという連絡ではなく、午前中に私用があるため遅れる可能性がある、とだけ送った。大場から返ってきたのは、了解、という短い文字と、その後に続く『無理なら来なくていい』だった。


透真は『了解です』と返した。


行けるなら行くつもりだった。


病院へ行って、資料を見て、終わったら会社へ行く。


予定としては、それだけである。


玄関で靴を履いたところで、スマートフォンが震えた。


相良からだった。


『九時半。昨日の病院。高瀬さんにも来てもらう』


続けて、もう一件。


『お前から連絡してくるとは思わなかった』


透真は最後の一文をしばらく見た。


『昨日のままだと中途半端なので』


送信。


それ以上は書かなかった。


玄関を出てからエレベーターを待つ間、今度は別の連絡先を開く。


白峰アリス。


こちらは少しだけ迷った。


昨日、透真はアリスに「どうします?」と聞いた。


来てほしいとも、来なくていいとも言わなかった。


今日も同じでいい。


『昨日の続き、九時半から見るみたいです。行きます?』


送信して、一階へ降りる。


マンションを出て数十メートル歩いたところで返信が来た。


『行きます』


その下に、すぐ二通目が届く。


『私も確認したいです』


透真は画面を見て、小さく息を吐いた。


『駅で』


それだけ返した。



駅前のコンビニは、朝の通勤客で混んでいた。


レジへ向かう人間と商品棚へ向かう人間が狭い通路ですれ違い、入口の自動ドアはほとんど閉まる暇がない。コーヒーマシンの作動音と電子レンジの終了音が重なり、店員の声がその隙間を埋めていた。


透真はサンドイッチを一つ取り、飲料棚の前で止まった。


無糖のコーヒー。


その隣から、もう一本取る。


取ってから手元を見た。


自分の分と、アリスが以前選んでいた紅茶。


「……」


棚へ戻そうかと思ったが、後ろから人が来たため、そのまま籠に入れた。


会計を終えて駅へ向かうと、改札の少し手前にアリスが立っていた。


プラチナブロンドの髪は朝の光の中ではほとんど白に見える。薄い青のパーカーに黒いショートパンツ。こちらを見つけると、アリスは小さく手を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


透真は袋から紅茶を取り出し、渡した。


アリスは受け取ったものと透真の顔を交互に見る。


「私のですか?」


「二本買ったので」


「なぜ二本買ったんですか?」


「……一人で二本飲む可能性もあります」


「嘘です」


即答だった。


透真はコーヒーの蓋を開けた。


「朝から能力を無駄遣いしないでください」


「使ってません」


「もっと悪いですね」


アリスは少しだけ笑った。


それから透真が持っているコンビニ袋を覗き込む。


「朝ご飯は?」


「あります」


「何ですか?」


「サンドイッチ」


「食べました?」


「今からです」


「ならいいです」


「何の確認ですか」


「本人確認です」


透真の手が、一瞬止まった。


アリスも言ってから気づいたらしい。笑っていた表情がわずかに消えた。


「……すみません」


「いや」


透真はサンドイッチの包装を開けた。


「たぶん今日、一番聞く言葉なので。先に一回消費したと思えば」


二人はホームへ向かった。


電車が到着するまでの数分、アリスは紅茶のキャップを開けずに持っていた。透真も特に話しかけなかった。周囲には学校へ向かう学生や会社員が並び、ホームのアナウンスがいつも通り流れている。


十年前の病院の記録について調べに行く朝としては、世界はあまりにも普通だった。


電車へ乗ってから、アリスが窓の外を見たまま言った。


「一つ考えていたことがあります」


「何です?」


「十年前、私はいなかったんですよね」


透真はサンドイッチを食べ終え、包装を小さく折り畳んだ。


「年齢的な意味なら」


「そうではなくて。少なくとも、あの病院で起きたことには関わっていません」


「そうですね」


「今起きている変なことに、私の混沌が関係している可能性はあると思っています。でも、十年前から似たようなことが起きていたなら……」


アリスはそこで言葉を選んだ。


「原因ではないのかもしれません」


「混沌が?」


「はい。何かを起こしているんじゃなくて、すでにある何かを引き寄せているとか」


透真はすぐには答えなかった。


電車が高架へ上がり、朝日に照らされたビルの窓が順番に流れていく。


「それだと、あまり嬉しくないですね」


「どうしてですか?」


「原因なら、原因を遠ざければ済むでしょう」


アリスがこちらを見る。


「引き寄せてるだけなら、元がどこかにある」


透真は窓へ視線を戻した。


「そっちの方が面倒です」


アリスはしばらく何も言わなかった。


やがて小さく、「そうですね」と答えた。



病院へ着いた時、相良はすでに一階ロビーにいた。


昨日と同じジャケットだった。


ただしシャツの襟がわずかに崩れ、目の下には薄い影がある。手には紙コップのコーヒーを持っているが、中身はほとんど減っていなかった。


透真は近づきながら言った。


「寝てないんですか?」


「寝た」


「何時間」


「警察官に睡眠時間を聞くな」


「寝てない人の答えですね」


相良は眉間に皺を寄せた。


「お前、朝からよく喋るな」


「昨日の続きなので」


その言葉に、相良は一瞬だけ透真を見る。


何か言いかけたようだったが、結局何も言わなかった。


「高瀬さんは上だ。病院側が当時の看護手順書を出してくれた。あと、薬剤関係の記録と病棟の申し送り。残ってるものだけだがな」


「十年前のものが、よく残ってますね」


アリスが言う。


「全部じゃない。火災と旧棟閉鎖が絡んでるせいで、一部が別保管されていたらしい。残ってるものと消えてるものの基準が滅茶苦茶だ」


相良は紙コップをゴミ箱へ捨てた。


「だからこそ、残ってる記録だけで話を作るな。今日はそれをやる」


エレベーターへ向かいながら、透真が聞く。


「普通に説明できる可能性を潰す?」


「そうだ」


相良は振り返らなかった。


「昨日の一分差だけで、お前が二人いたなんて馬鹿な結論には飛べん。十五時五十七分と五十八分。記録した時計が違えば終わりだ。後からまとめて書いた可能性もある。同じお前を別々の職員が見ただけかもしれん」


「人違いも」


「当然ある。同姓患者、呼び間違い、申し送りの勘違い。看護師の記憶なんて十年経てば証拠としては弱い。だから記憶じゃなく、当時どうやって患者を識別していたかから見る」


エレベーターの扉が閉まった。


相良は表示される階数を見ながら続けた。


「怪談を調べに来たんじゃない。間違いを探しに来たと思え」


透真は壁にもたれた。


「全部間違いなら楽ですね」


「俺もそう願ってるよ」


相良の声には、願っている人間特有の軽さがなかった。



昨日と同じ会議室には、高瀬が先に座っていた。


机の上には複数のファイルが積まれている。


高瀬は透真を見ると、昨日より少し長くその顔を見た。


「おはよう」


「おはようございます」


「来たのね」


「自分の記録なので」


「そう」


高瀬はそれ以上言わなかった。


相良が椅子を引き、全員が席につく。


最初に開かれたのは、十年前の病院で使われていた看護業務手順書だった。


黄ばんだ紙を複写したもので、患者確認に関する項目にはいくつもの付箋が貼られている。


相良が読み上げる。


「入院患者は原則として識別用リストバンドを装着。投薬時はリストバンド記載情報と投薬指示を照合。意識清明な患者には氏名を名乗らせ、二項目以上で確認」


アリスが尋ねた。


「二項目?」


高瀬が答える。


「名前と生年月日。場合によっては患者番号。病室だけでは本人確認にはしないわ。顔も補助にはなるけれど、顔だけで薬を渡すことはしない」


「じゃあ十六時五分の記録は普通じゃないですか」


透真が言った。


「内服確認なら、本人確認するでしょう」


「するわ」


高瀬は答えた。


「でも、書かない」


透真の視線が高瀬へ向く。


「本人確認したことを?」


「通常の手順として行った確認ならね」


高瀬は手順書の一箇所を指で押さえた。


「投薬記録に投薬済みと残せば、それ自体が所定の確認を行ったという意味になる。毎回『本人確認済』なんて書いていたら、記録がそれだけで埋まるでしょう」


相良が別の紙を机へ置いた。


十年前の同じ病棟で作成された、複数日の投薬記録だった。


「比較用だ。同じ職員が書いた記録もある」


透真は紙を手に取った。


患者名。


薬剤名。


時刻。


投与済。


拒否。


不在。


再訪。


必要な事項だけが簡潔に並んでいる。


何枚めくっても、『本人確認済』という言葉はなかった。


アリスも隣から覗き込む。


「高瀬さんの記録にも?」


「ない」


相良が答えた。


「確認できた範囲では、八月二十日の久世透真に対する一件だけだ」


高瀬の指先が、机の上で止まった。


透真は昨日見た記録をもう一度引き寄せる。


十六時五分。


『久世透真 内服確認 本人確認済』


たったそれだけの文字だった。


昨日までは、薬を渡す前に名前を確認したという程度にも読めた。


だが、同じ病棟、同じ時期、同じ看護師の記録と並べると、その一文だけが明らかに浮いている。


それは、通常の本人確認ではなかった。


会議室の空調音が急に耳についた。


透真は紙から目を離さずに尋ねる。


「じゃあ、高瀬さんは何を確認したんです?」


高瀬はすぐに答えなかった。


「……それを、昨日から考えてる」


「覚えてない?」


「断片だけ」


高瀬は自分の手を見るように視線を落とした。


「あなたが病室に戻ってきた。私は薬を持っていた。それから……普通の確認をした。リストバンドも見たと思う」


「普通の確認をした後に、さらに確認した?」


相良が聞いた。


高瀬はゆっくり頷いた。


「そうだった気がする」


相良は別の資料を開いた。


「リストバンドの記録は残ってる。久世透真。四〇七号室。患者番号もカルテと一致。十五歳。右脚負傷。ここまでは問題ない」


「つまり十六時五分にいた人は、僕のリストバンドをしてた」


透真が言う。


「少なくとも高瀬さんが照合したならな」


「他人がつけてた可能性は?」


「理屈の上ではある」


相良は即座に答えた。


「だからそれだけでは本人とは言えん」


透真は少しだけ口元を緩めた。


「徹底してますね」


「お前らがすぐ変な方へ行くからだ」


「まだ何も言ってません」


「顔に書いてある」


「顔で本人確認しないんじゃなかったですか」


相良が嫌そうな顔をした。


アリスが笑いを堪えている。


ほんの数秒だけ、会議室の空気が緩んだ。


しかし相良はすぐに次の資料へ移った。


「次。『久世君』という呼び方だ」


当時の看護記録と申し送りメモが机へ広げられる。


少年患者には名字に「君」、少女患者には「さん」。職員によって多少の差はあるが、日常の呼びかけではフルネームを使わないことが多かった。


記録にも同じ傾向があった。


正式なカルテや投薬記録ではフルネーム。


病棟内の連絡メモや申し送りでは名字だけ。


「つまり」


相良が一本のペンを手に取った。


「十五時五十七分の『久世君』も、五十八分の『久世君』も、それだけでは本人確認をした証拠にはならない」


アリスが紙を見る。


「顔を見て久世君と呼んだ可能性もある」


「ある。服装で判断した可能性も、病室から出てきたところを見てそう呼んだ可能性もある」


「でも同姓の患者は?」


透真が聞く。


「いなかった」


相良は答えた。


「少なくともその日の入院患者に、久世姓はお前だけだ」


一つ消えた。


だが、それだけだった。


相良はペン先で二つの記録を順に示す。


「次は時刻だ。ここを勘違いするな。一分差なんて証拠にならん」


十五時五十七分。


旧棟側。


『久世君、相良刑事と五階階段前』


十五時五十八分。


四階側。


『久世君、四階廊下にて確認済』


「一つ目は旧棟側の改修業者対応記録。二つ目は病棟側の申し送り。記録した人間も、使った時計も違う」


相良は資料を裏返した。


「当時の時計管理記録を確認した。病棟の壁時計は定期点検されてるが、旧棟側は改修中で統一されていなかった。最大で数分程度ずれていた可能性がある」


透真は椅子の背にもたれた。


「じゃあ、一分差は消える」


「消せる」


相良は言った。


「同じお前が旧棟から四階へ移動した可能性は残る」


アリスが旧棟の図面を引き寄せた。


「どれくらいかかります?」


「普通に歩けば数分。急げば短縮できる」


「車椅子なら?」


相良が透真を見る。


「そこだ」


机の上に、別の薄い紙が置かれた。


車椅子の貸出台帳だった。


透真は少し身を起こした。


「僕、使ってたんですよね」


「右脚を痛めていた。常時ではない。短距離なら歩行許可は出ている。ただし、医師の指示は『移動時原則車椅子』だ」


「原則」


「絶対じゃない。だから、歩いてたというだけでは別人にはならん」


相良は先回りして釘を刺した。


「痛みを我慢して歩いた可能性もある。十五歳なら、看護師の言うことを聞かず勝手に歩くこともある」


「僕ならやりそうですか?」


「今のお前を見る限り、やりそうだ」


「否定できませんね」


高瀬がわずかに笑った。


「やってたわよ」


透真が見る。


「歩いてた?」


「何度か。注意した記憶がある」


「じゃあ、それも普通に説明できる」


「そうだ」


相良は答えた。


普通の説明が一つずつ残っていく。


むしろ昨日より謎が薄くなっているようにも見えた。


一分差は時計のずれで説明できる。


車椅子を使っていなくてもおかしくない。


「久世君」という呼び方も、正式な本人確認ではない。


透真はその流れに奇妙な安心を覚えていた。


全部が記録上の誤差なら、それでいい。


十年前の自分が一人で、病院の人間が少し雑な記録を残し、相良が何かを見間違えた。


その方が世界は簡単だった。


相良はさらに資料をめくった。


「ただし」


その声で、透真の安心は長く続かなかった。


「一個、残る」


相良が取り出したのは、病棟の申し送り記録だった。


「十五時五十八分の四階側の記録。これを書いた職員は、単に廊下でお前を見たわけじゃない」


高瀬が顔を上げる。


「どういうこと?」


「前後が残ってた」


相良は該当箇所を指でなぞった。


「四〇七号室の患者が不在だったため捜索。四階廊下で『久世君』を確認。病室へ戻るよう声掛け」


透真が眉を寄せる。


「四〇七号室から僕がいなくなってた?」


「そういうことになる」


「旧棟にいたなら普通では?」


「そこまではな」


相良は次の行へ指を移した。


「問題は、職員がその『久世君』に声をかけてることだ。返事もしてる」


アリスの表情が変わった。


「何て?」


「内容まではない。『了承』とだけ書かれてる」


「顔だけじゃない」


アリスが呟いた。


相良は頷く。


「少なくとも呼びかけに反応している。自分が『久世君』と呼ばれていることを理解していた可能性が高い」


透真は紙を見つめた。


単純な人違いなら、名字を呼ばれて反応しない可能性が高い。


もちろん偶然はある。


聞き間違いもある。


別の人間が振り返っただけかもしれない。


相良はそれすら否定しなかった。


「まだ本人とは言わん。職員が返事だと思っただけかもしれん」


「徹底してますね、本当に」


「だから警察やってんだよ」


相良は疲れたように額を押さえた。


その時、高瀬が小さく息を吸った。


全員の視線が向く。


高瀬は何かを思い出そうとするように、遠くを見る目をしていた。


「……声」


「何です?」


アリスが尋ねる。


「誰かが呼んでた」


高瀬は目を閉じた。


「久世君って」


相良の姿勢が変わる。


「いつです?」


「分からない。でも、あの日」


「場所は?」


「四階……たぶん。私が薬を持って……」


高瀬の眉間に皺が寄る。


記憶を無理に引き出そうとしているのが分かった。


相良は急かさなかった。


「高瀬さん。映像だけでいい。意味をつけなくていいです」


高瀬は小さく頷いた。


「廊下にいた。誰かが『久世君』って呼んだ。少年が振り返った」


透真は黙って聞いていた。


「それから?」


「……もう一度、聞いた気がする」


「何を?」


「同じ呼び方」


高瀬は目を開けた。


「でも……反応が違った」


相良の指が止まった。


「違った?」


「一度目は、普通に振り返った。二度目は……」


高瀬は首を振る。


「分からない。そこから先がない」


「無理に作らなくていい」


相良は静かに言った。


「今ので十分です」


透真は相良を見た。


相良の顔色が少し変わっていた。


「相良さん?」


返事がない。


相良は四階の平面図を見ていた。


その視線が、廊下から階段へ動く。


そして旧棟へ。


「足音……」


低い声だった。


「何です?」


「俺も、聞いた」


相良は椅子から少し離れるように身体を引いた。


「旧棟の階段だ。お前がいた」


透真は何も言わない。


相良の視線は今の透真を見ているようで、実際には別の時間を見ていた。


「十五歳のお前。階段のところに立ってた。右脚……いや、そこは分からん。姿勢までは思い出せない」


相良は目を閉じた。


「俺はお前に何か聞いた。お前は答えた」


「何を?」


「分からん」


相良の呼吸が少しだけ深くなる。


「その後、下から足音がした」


高瀬が息を止めた。


「誰の?」


「分からない」


相良は即答した。


「人影も思い出せん。ただ、俺は足音の方を見た。それから……」


沈黙が落ちる。


廊下をワゴンが通る音が、閉じた扉越しに聞こえた。


相良は片手で額を押さえた。


「声だ」


「高瀬さん?」


アリスが聞く。


「たぶん」


相良は高瀬を見る。


「『久世君』って声がした」


高瀬の顔から血の気が引いた。


相良は続ける。


「俺の目の前に、お前がいた」


透真の指先が、机の端に触れた。


「なのに、別の方向から『久世君』って呼ぶ声がした」


「それで二人いると思った?」


透真が尋ねる。


「違う」


相良はすぐに否定した。


その否定だけは、異様なほどはっきりしていた。


「違うんだ」


相良はしばらく言葉を探した。


「俺は……人数を数えたかったんじゃない」


透真もアリスも口を挟まない。


「同じ顔が二つあったから、『何人いる』って聞いたんじゃない。少なくとも、今戻った感覚はそうじゃない」


「じゃあ、何を聞こうとしたんです?」


相良は透真を見る。


「同じ人間として扱っていいのか」


その言葉だけが、会議室の中に残った。


相良自身も、それを口にして初めて気づいたようだった。


「……たぶんな」


透真は目を細めた。


「意味が分かりませんね」


「俺も分からん」


「僕が僕かどうか聞きたかった?」


「それとも、目の前にいるお前と、俺が知ってる『久世透真』を同じものとして扱っていいのか。それすら分からん」


相良は自嘲するように息を吐いた。


「だからあんな馬鹿な聞き方になったのかもしれん」


君は、何人いる?


透真はその言葉を頭の中で繰り返した。


人数を尋ねる質問だと思っていた。


だが、もし相良が知りたかったのが人数ではなかったのなら。


「六人目も」


アリスが小さく言った。


透真が横を見る。


アリスは机の上の記録を見たままだった。


「ずっと、誰かが一人増える話だと思っていました」


「違うと?」


「分かりません。でも……久世君が二人いた、と考えたら、人数は一人増えます。でも今の話は、増えたというより」


アリスは言葉を探した。


「数え直している感じがします」


相良が眉を寄せる。


「数え直す?」


「同じ一人として数えていいのか。それとも別々に数えるのか」


アリスは透真を見る。


「そういう問題なら、『六人目』も必ずしも六番目に現れた誰か、という意味じゃないのかもしれません」


透真は答えなかった。


答えようがなかった。


ただ、これまで頭の中で別々に置いていた言葉が、少しだけ近づいた気がした。


人数。


本人。


同じ人間。


そして、確認。


その時、会議室の扉が開いた。


遅れて入ってきた明日香蘭は、室内の空気を一度見回した後、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。


「すみません。仕事の連絡が長引きました」


相良が時計を見る。


「ちょうどいい。今、一番面倒なところだ」


「では、ちょうど悪かったかもしれませんね」


蘭は空いている椅子へ座った。


簡単に状況を聞いた後も、すぐには意見を言わなかった。


十五時五十七分。


十五時五十八分。


十六時五分。


三枚の記録を順番に読む。


そして最後に、『本人確認済』という文字へ視線を止めた。


「皆さんは今、二つに分けています?」


相良が顔を上げる。


「何をだ」


「久世さん本人か、別人か」


「普通そうだろ」


「なぜその二択なんでしょう」


蘭は穏やかな口調のまま言った。


相良の眉がわずかに動く。


「本人じゃなければ別人だ」


「言葉としてはそうですね」


蘭は否定しない。


「でも当時の相良さんも、高瀬さんも、本人かどうかをわざわざ確認しようとしている」


高瀬が蘭を見る。


「それが?」


「顔が違えば確認する必要はありません。知らない人なら別人です。顔が同じだけなら、双子や似た人という可能性を考えるでしょう」


蘭は『本人確認済』の文字を指した。


「でも高瀬さんは、患者識別までした後に、さらに本人確認をしている」


相良が腕を組む。


「何が言いたい」


「分かりません」


蘭はあっさり答えた。


「だから二択にしない方がいいと思っただけです。本人か、別人か。その二つで説明できるものなら、十年前の皆さんも、もう少し普通の言葉を使ったんじゃないでしょうか」


透真は蘭の横顔を見る。


蘭は答えを出していない。


ただ、線を一本消しただけだった。


本人。


別人。


その間には何もないと思っていた。


だが、十年前の相良も高瀬も、その境界で立ち止まっている。


「まず十六時五分を固めよう」


相良が言った。


「そこだけは記録が一番強い」


高瀬の前へ、投薬記録、看護記録、リストバンド情報が並べられた。


薬剤管理記録には、十六時五分前後に久世透真用として準備された内服薬が病棟へ出され、投与済みとして処理されている。


患者番号は一致。


病室も一致。


リストバンドも確認された可能性が高い。


それでも高瀬は、さらに何かを確認した。


「高瀬さん」


相良が静かに尋ねる。


「その時、久世に何を聞きました?」


高瀬は紙を見つめた。


「名前じゃない」


しばらくして、そう答えた。


「それは分かる」


「なぜ?」


「名前を聞いた後だったから」


高瀬の指が、自分のこめかみに触れる。


「名前と生年月日を言わせて、バンドを見た。それでも私は……納得してなかった」


透真の背中に、わずかな冷たさが走った。


「何でです?」


「分からない」


高瀬は首を振る。


「何かがおかしかった。でも、顔がおかしいとか、声がおかしいとかじゃない。あなたを見て、あなたじゃないと思ったわけでもない」


「じゃあ何を」


「確認したかった」


高瀬は自分の言葉を確かめるように繰り返した。


「この子が、本当に久世透真なのか」


アリスの手が、膝の上で僅かに握られる。


相良は高瀬から視線を逸らさなかった。


「それで、何を聞いた?」


長い沈黙の後、高瀬の唇が動いた。


「右脚」


透真が目を上げる。


「右脚?」


「そう……あなた、右脚を怪我してた」


高瀬は少しずつ言葉を拾っていく。


「包帯もしていた。歩けないほどじゃない。でも痛みがあって、移動は車椅子を使うように言われていた」


「それは記録と一致してる」


相良が言う。


「ええ」


「何を聞いたんです?」


透真が尋ねた。


高瀬は透真を見る。


今の二十五歳の透真ではなく、その奥にいる十五歳の少年を探すような目だった。


「『右脚、痛む?』」


それだけだった。


誰でも答えられる質問に聞こえた。


だが高瀬は続ける。


「たぶん、それだけじゃない」


「続きがある?」


「ある。でも思い出せない」


高瀬は目を閉じた。


「私は右脚のことを聞いて……それから、何か別のことを聞いた。あなたしか知らないはずのこと」


「僕しか?」


「少なくとも、その時の私はそう思ってた」


「答えたんですか、僕は」


高瀬は目を開ける。


「答えた」


透真の喉が僅かに動いた。


「正解だった?」


高瀬は机の上の記録を見る。


『本人確認済』


「私は、そう判断した」


誰もすぐには言葉を発さなかった。


十年前の八月二十日、十六時五分。


高瀬は目の前にいた少年へ、通常の氏名確認を行った。


名前。


生年月日。


患者識別バンド。


それだけでは足りないと感じた。


さらに右脚の状態を確かめ、そして本人しか答えられないと考えた何かを質問した。


少年は答えた。


その結果、高瀬は記録へ残した。


『久世透真 内服確認 本人確認済』


少なくとも、その少年については。


当時の高瀬は、久世透真本人だと判断した。


昨日まで存在していなかった足場が、初めて一つできた。


透真は椅子へ深く座り直した。


安心したわけではない。


むしろ逆だった。


一人だけでも確定すれば、残りが簡単になると思っていた。


だが十六時五分の少年を本人として固定した瞬間、その直前に残された二つの『久世君』が、今までより曖昧になった。


十五時五十七分。


旧棟側。


相良と一緒にいた少年。


十五時五十八分。


四階廊下。


職員から『久世君』と呼ばれ、反応した少年。


そして十六時五分。


高瀬が通常以上の確認を行い、本人と判断した少年。


「どっちから戻ったんでしょうね」


透真が言った。


相良が見る。


「何が」


「十六時五分の僕です」


透真は二枚の記録を指した。


「旧棟にいた方か。四階にいた方か」


相良は答えなかった。


答えられる材料がない。


時計のずれを考慮すれば、一人の少年が移動した可能性はまだある。


記録時刻が実際の目撃時刻と完全に一致していた保証もない。


だが、そこに相良自身の記憶と、高瀬の異例な本人確認が加わる。


ただの一分差ではなくなっていた。


相良はもう一度、旧棟側の資料を手に取った。


「待て」


紙を読む目が止まる。


透真はその変化に気づいた。


「何です?」


「昨日、ここは時刻しか見てなかった」


相良は資料を机へ置き直した。


改修業者側の対応記録。


十五時五十七分。


『久世君、相良刑事と五階階段前』


その前後には、旧棟内で作業員が誰と接触したか、通路確保のために誰をどこへ誘導したかが簡潔に書かれている。


相良の指が、一行下へ移った。


「これ」


高瀬が身を乗り出す。


「何?」


相良は読まずに、まず透真を見た。


それからもう一度紙へ視線を戻した。


「旧棟から病棟側へ移動する人間について、作業員が書いてる」


「僕?」


「『久世君』だ」


アリスも立ち上がるようにして紙を覗き込んだ。


記録の端。


昨日は誰も重要視しなかった短い補足。


そこには、患者の状態を説明するためではなく、工事中の通路を歩かせて問題がなかったことを残すための文言があった。


『久世君、歩行にて移動。介助不要』


相良は黙った。


透真も何も言わない。


それだけなら、おかしくはない。


透真には短距離の歩行許可が出ていた。


車椅子を使わず歩くこともあった。


高瀬自身がそう証言している。


相良はさらにその横にある、薄く擦れた鉛筆書きへ目を近づけた。


「……これ、昨日のコピーじゃ潰れてたな」


病院側が今朝取り直した原本の複写だった。


透真は紙を自分の方へ引き寄せる。


小さな字だった。


作業員が、歩行状態について補足している。


『右脚庇う様子なし』


アリスの呼吸が止まった。


高瀬は何も言わなかった。


透真はその一文を、二度読んだ。


右脚を怪我していたからといって、常に庇って歩くとは限らない。


痛みが弱かったのかもしれない。


無理をしていたのかもしれない。


作業員が見落とした可能性もある。


観察時間が短ければ、いくらでも説明はつく。


相良も、それを分かっていた。


だから「ありえない」とは言わなかった。


ただ紙を持つ指に、少しだけ力が入った。


「これだけじゃ証拠にはならん」


誰に言うでもなく、相良が言った。


「歩けた。痛みの程度も一定じゃない。作業員は医療職でもない。右脚を庇ってなかったから別人だなんて話にはならん」


「はい」


アリスが静かに答える。


「でも」


相良はそこで言葉を切った。


机の上には、もう一枚の紙がある。


十六時五分。


高瀬の記録。


本人確認済。


そして高瀬が、今ようやく取り戻した記憶。


『右脚、痛む?』


透真は二枚を並べた。


旧棟側で相良と一緒にいた『久世君』。


右脚を庇う様子なく歩いていた少年。


その少し後、高瀬が本人であることを確かめるため、わざわざ右脚について尋ねた少年。


「高瀬さん」


透真が紙から目を上げずに言った。


「僕、何て答えたんでしょうね」


高瀬は返事をしなかった。


思い出せないのではなく、思い出そうとしている顔だった。


やがて高瀬の唇がわずかに動く。


「……違う」


相良が顔を上げた。


「何が?」


「右脚の質問は、本人確認の最初じゃない」


高瀬はゆっくりと首を振った。


「その前に、私……あなたに何か聞いてる」


透真を見る。


高瀬の目には、昨日までなかった確かな恐れが浮かんでいた。


「名前じゃない。生年月日でもない」


「何を?」


高瀬はすぐには答えなかった。


記憶の奥に残っている言葉を、形を壊さないよう慎重に持ち上げるような沈黙だった。


そして。


「『さっき、誰といた?』」


高瀬は言った。


相良の表情が変わった。


透真も、アリスも、蘭も何も言わない。


高瀬はその先を探すように目を閉じた。


「あなたは答えた」


透真の指先が止まる。


「相良さん?」


高瀬は目を開けた。


それから、相良を見た。


「……違う」


会議室の空調が低く鳴っていた。


相良の前には、十五時五十七分の記録がある。


『久世君、相良刑事と五階階段前』


そして十六時五分。


高瀬が本人だと判断した少年は、その直前に誰といたのかを聞かれた。


その少年は答えた。


相良ではない誰かを。


高瀬はそこから先を思い出せなかった。


けれど透真は、もう紙から目を逸らさなかった。


十六時五分の少年は、久世透真本人として確認されている。


なら。


十五時五十七分、相良修司の隣にいた『久世君』は――誰だったのか。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

コメント、高評価よろしくお願いします。


YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。

今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。


▼YouTube Shortsはこちら

【YouTubeのURL】

https://youtube.com/channel/UCKWGBcfVzGly66ocn66qdsw?si=HehsNKGWu4fcWrui



続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。