第24話「空白の中身」
24話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
二枚の紙のあいだには、何も置かれていなかった。
八月十九日。
八月二十一日。
病院内の小会議室、その中央に寄せられた長机の上で、日付の違う二枚の物品移動票が左右に並んでいる。
間には、コピー用紙一枚分ほどの空白。
そこに本来あるはずの八月二十日の記録はない。
空調の低い唸りに混じって、廊下の向こうを台車が通り過ぎる音がした。硬い車輪が床の継ぎ目を踏むたび、規則正しい振動だけが扉越しに届く。
透真は十九日の紙へ目を落とした。
次に二十一日。
また十九日。
視線だけを左右へ動かす。
「とりあえず、分かるところからだ」
相良が言った。
机の端には追加で取り寄せた資料が重ねられている。物品移動票、一時保管票、旧棟閉鎖に伴う備品整理表。それから、辛うじて残っていた個別管理番号の一覧。
紙の種類も保存状態も揃っていない。
黄ばんだ原票のコピーもあれば、後年にスキャンされたものを再出力した真っ白な紙もある。
古い紙特有の乾いた匂いと、コピー機から出たばかりの紙の熱っぽい匂いが、狭い室内で妙に混ざっていた。
「十九日。旧棟五階西側からの一時退避分。行き先は五二〇」
相良の指が一覧を下へ滑る。
「ベッド二台。点滴台四本。可動棚二台。未使用カーテン一式。ほか、ベッドサイドテーブルと細かい備品が数点」
「細かい備品って便利な言葉ですね」
透真が言った。
「十年前の病院職員に言え」
「連絡先が分かれば」
「やめろ。増える」
向かいに座っていたアリスが小さく笑った。
透真は聞かなかったことにして、二十一日の票へ視線を移した。
「こっちは?」
「五二〇からの搬出。旧棟閉鎖に伴う再配置と廃棄予定品の振り分けだ」
「ベッド二台」
「合ってる」
「点滴台四本」
「それも」
「棚二台」
「ああ」
「カーテン一式」
「同じだ」
透真の視線が止まる。
「……普通ですね」
「今のところな」
相良が十九日の票を指先で軽く叩いた。
アリスが横から紙を覗き込む。
「普通なの、残念ですか?」
「どうしてです?」
「もっとこう、五二〇の中に誰にも知られてない秘密の――」
「ないです」
「まだ最後まで言ってません」
「言わなくていいです」
「巨大金庫とか」
「病院の備品倉庫に?」
「開けたらもう一個小さい金庫が」
「マトリョーシカにしないでください」
アリスは少し考え、
「じゃあプリン」
「十年前のプリンは調べなくていいです」
「賞味期限だけは事件ですね」
「それは事件じゃなくて廃棄です」
相良が額を押さえた。
「お前ら、やるなら続けろ」
「やってます」
二人の声がほとんど同時に重なった。
一瞬だけ、アリスが透真を見る。
透真も彼女を見た。
「真似しないでください」
「透真さんがです」
「僕が先でした」
「同時でしたよ」
「ならどっちでもいいでしょう」
「じゃあ私が先で」
「どっちでもいいの意味を考えてください」
相良は何も言わず、資料の束から一枚を抜いた。
紙の音だけで会話が終わった。
「で、こっちが物品管理票だ。移動票より細かい」
置かれた紙へ、透真とアリスの視線が同時に落ちる。
大分類だけが記された移動票と違い、こちらには管理対象になっていた備品の個別番号が並んでいた。
文字は小さい。
コピーを重ねたせいで数字の輪郭が潰れている箇所もある。
透真は自分の前にあった十九日の票を取ると、ほとんど意識せず斜めにずらした。
正面ではなく、隣のアリスからも読める角度へ。
アリスも何も言わなかった。
椅子を少しだけ寄せる。
二人の肩の距離が縮まったが、どちらもそこには触れず、紙の上の数字だけを追った。
「十九日に入った分と、二十一日に出た分を横にしてください」
「今やってる」
「大分類じゃなくて管理番号で」
「だから今やってる」
「急かしてません」
「急かしてるようにしか聞こえん」
相良が一枚ずつ資料を並べ替える。
十九日の搬入。
二十一日の搬出。
その下に個別管理票。
さらに、十九日以前から五二〇に置かれていた物を示す一時保管票。
机の上に、八月二十日の部屋が紙で組み上がっていく。
直接その日を記録した一覧ではない。
前の日に入ったもの。
次の日に出たもの。
その前から残っていたもの。
その後にも残されたもの。
両側から一日ずつ寄せていけば、空白の輪郭だけは作れる。
透真はペンを取った。
新しい紙の中央に縦線を一本引く。
左上へ「19」。
右上へ「21」。
真ん中には何も書かなかった。
アリスがその空白を見る。
「二十日は?」
「ないので」
「書かないんですか?」
「分かってないものを書くと、あるように見えるでしょう」
アリスの黒い瞳が、ほんの少し細くなる。
「なるほど」
「十九日にあって、二十一日にもある。なら少なくとも途中まで存在した可能性は高い」
透真は左のベッド二台から右のベッド二台へ細い線を引いた。
「ただし二十日に一度出して戻した可能性までは消えない」
「そうだ」
相良が頷く。
「移動票にない短時間の持ち出しや、現場判断で動かした可能性もある。だから『二十日ずっとそこにあった』とは言えん」
「でも、全部それを疑ったら何も作れません」
「ああ。だから他の票と突き合わせる」
点滴台。
四本。
管理番号も一致した。
ベッド。
二台。
これも一致。
ベッドサイドテーブル。
三台。
二十一日の搬出先は二か所に分かれていたが、個別番号を足せば三台とも対応した。
カーテン一式は個別番号ではなくロット単位で管理されていた。十九日に一式が入り、二十一日に同じ保管区分から一式が移されている。
相良は念のため別紙を確認した。
「カーテンは再利用分だな。二十一日に新棟側へ移動」
「じゃあ合ってる」
アリスが自分のメモへ小さく印を付ける。
「棚は?」
「後だ」
「どうしてです?」
「今、順番にやってる」
「怪しいから最後に残したとか」
「そういう演出はいらん」
「相良さん、たまにちゃんと刑事っぽいので」
「ずっと刑事だ」
透真は口元だけで笑いかけたが、すぐ紙へ戻った。
照合は思ったより地味だった。
そして、地味であるほど意味があった。
一つずつ線が繋がる。
十九日の左側から、二十一日の右側へ。
備品名。
数量。
管理番号。
移動先。
処分区分。
大半が、何の抵抗もなく繋がっていく。
十九日の午後、五二〇へ入れられた物。
二十一日に、そこから運び出された物。
それ以前から一時的に置かれていた備品も、別の保管票で追うことができた。
使われなくなった旧式のサイドテーブル。
交換予定だったカーテンレールの部材。
空の収納ケース。
いずれも病院にあって不思議ではないものばかりだった。
秘密もない。
特殊な機械もない。
用途不明の物品もない。
旧棟の閉鎖に伴って行き場を失った備品を、一時的に詰め込んだ部屋。
記録を信じる限り、五二〇は本当にそれ以上でも以下でもなかった。
四十分ほど経った頃。
透真はペンを置いた。
机の上には、左右を結ぶ細い線がいくつも並んでいる。
「ほぼ作れますね」
「ああ」
相良も背もたれへ体重を預けた。
「少なくとも残ってる記録の範囲なら、八月二十日の五二〇は普通の物品一時保管室だったと考えていい」
「全部じゃないですよね?」
アリスが訊く。
「全部とは言わん。二十日に一時的に何かを持ち込んだり出したりして、記録を残さず戻した可能性までは潰せん。小物なんかはそもそも個別管理されてないものもある」
「でも」
アリスは机の紙を見渡した。
「少なくとも、部屋の中が丸ごと記録と違ってた、みたいな感じではない」
「そういうことだ」
相良が答える。
透真は中央の空白を見た。
八月二十日。
そこには依然として何も書かれていない。
だが、最初とは違う。
何も分からないから空白なのではない。
左右から線を伸ばした結果、その日の中身の大半が見えるところまで来ている。
「普通の部屋だった」
透真が呟いた。
「記録上はな」
「なら、それでいいです」
相良が眉を上げる。
「ずいぶんあっさりだな」
「普通だったなら、五二〇全体を疑わなくて済むので」
「お前、最初からそれを期待してたのか?」
「怪しい部屋を増やして何が楽しいんです?」
透真は真顔で返した。
「一個減る方がいいでしょう」
「透真さんらしいですね」
アリスが言った。
「褒めてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「秘密です」
「増やさないでください」
アリスが小さく笑う。
空調の風が机上のコピー用紙の角を揺らした。
そのとき、透真の視線が一か所で止まった。
まだ線を引いていない項目があった。
「相良さん」
「ん?」
「棚、まだですよね」
「ああ」
相良が資料を引き寄せる。
「可動棚二台。十九日の搬入票も二台。二十一日の搬出票も二台。数量は一致してる」
「管理番号は?」
「今見る」
相良の指が十九日の個別管理票をなぞった。
可動棚。
二台。
その横に、それぞれ別の管理番号。
透真は自分のメモへ書き写した。
一台目。
二台目。
次に二十一日。
同じ「可動棚 二台」。
数字だけを見れば、何も問題はない。
相良が一台目の番号を読み上げる。
透真が左側の数字と見比べた。
「同じです」
「ああ」
二台目。
相良が読み上げる。
透真のペンが止まった。
アリスも同じ箇所を見ていた。
「……違いますね」
彼女が言った。
相良が黙って十九日の票へ戻る。
もう一度確認する。
二十一日。
十九日。
数字の潰れた箇所へ顔を近づけ、別のコピーも引き出した。
「読み違いじゃないな」
低く言う。
透真は左右の紙を自分の前へ寄せた。
十九日。
可動棚二台。
そのうち一台は二十一日にも同じ管理番号で搬出されている。
もう一台は違った。
大分類では同じ。
数量も同じ。
可動棚二台が入り、可動棚二台が出た。
それだけを見れば完全に一致している。
だが個別番号で追うと、一台だけ繋がらない。
「十九日に入った棚が一台、二十一日の搬出側にいない」
アリスが言う。
「逆に」
透真は二十一日の番号をペン先で示した。
「こっちの一台は、十九日の搬入側にいない」
短い沈黙が落ちた。
廊下のどこかで自動扉が開き、電子音が一度だけ鳴る。
相良はすぐには何も言わなかった。
資料を二枚入れ替える。
さらに一時保管票を引く。
「待て。十九日以前から置かれてた棚かもしれん」
「その場合、十九日に入った方は?」
「二十日か二十一日の搬出記録前に別へ動いた可能性がある」
「記録なしで?」
「だから確認する」
相良の声は変わらない。
違いを見つけても、そこへ意味を与えるより先に、意味を消せる資料を探す。
別の保管票。
旧棟五階の備品一覧。
廃棄予定品リスト。
新棟側への再配置票。
一枚ずつ紙が増えていく。
アリスが机の端に寄りかけた一枚を押さえた。
「これ、二十一日の棚ですよね?」
「ああ」
「移動先が書いてあります」
相良が見る。
「新棟地下の一時保管区画」
「そっちの受け取り記録は?」
透真が訊いた。
「ある。待て」
資料の束がめくられる。
紙と紙が擦れる乾いた音が続いた。
相良が一枚抜き、二十一日の番号と照合する。
「……受け側も同じ番号だ」
「じゃあ二十一日に出た棚は、番号の書き間違いじゃない可能性が高い」
「少なくとも搬出側と受け側が同じ番号を書いてる。二か所で同じ誤記をした可能性は下がるな」
「十九日の方は?」
「搬入元を追う」
十九日の可動棚。
元の場所は旧棟五階の別区画だった。
そちらの搬出票にも管理番号が残っている。
相良が確認する。
十九日の五二〇搬入票と一致した。
「こっちも合ってる」
アリスの表情から笑みが消えた。
怖がっているわけではない。
ただ、紙の上の小さな差へ集中している。
「じゃあ十九日に入った棚も、番号を書き間違えた可能性は低くなった?」
「低くはなる」
相良が答える。
「ゼロにはならん。元票を転記しただけなら、同じ間違いが引き継がれることもある」
「管理番号の更新は?」
透真が訊く。
「修理とか再登録で変わることは?」
「ある。だからそれも見る」
相良は別の管理台帳を開いた。
該当する二つの番号を追う。
廃棄。
修理。
再登録。
部署移管。
番号変更。
それらしい処理がないか。
数分間、誰も喋らなかった。
紙をめくる音。
透真のペン先が管理番号を写す音。
アリスが資料を見やすい方向へ九十度回す音。
壁の時計の秒針だけが、やけに近く聞こえる。
「ないな」
相良が言った。
「少なくとも残ってる台帳上、十九日に入った棚の管理番号が二十一日までに変更された記録はない。修理扱いも廃棄扱いもなし」
「別室への移動は?」
「今のところ見つからん」
「二十一日に出てきた方は?」
「こっちは別の場所にいた記録がある」
透真が顔を上げた。
「いつまで?」
「十九日の午前までは、旧棟五階東側の備品置場に記載がある」
「その後は?」
「次に確実に出るのが二十一日の五二〇搬出」
アリスが二枚の紙を見比べる。
「十九日の午前は別の場所。二十一日は五二〇から出てる」
「ああ」
「その間に五二〇へ入った記録は?」
相良は首を横に振った。
「今見てる範囲ではない」
透真は椅子へ深く座り直した。
視線だけは紙から離さない。
十九日に五二〇へ入った棚。
二十一日に五二〇から出た棚。
分類は同じ。
数量も同じ。
だが、一台だけ番号が違う。
そして二十一日に出た方は、少なくとも十九日午前までは別の場所にいた。
何かが入れ替わった。
そう言ってしまうのは簡単だった。
だからこそ、透真は言わなかった。
「時間の幅は?」
代わりに訊いた。
相良が彼を見る。
「何のだ」
「この差ができた可能性のある幅です」
相良は少し考え、資料へ目を落とした。
「十九日の搬入記録が確定した時点から、二十一日の搬出確認まで。今言えるのはそこまでだ」
「二十日とは限らない」
「限らん。十九日の記録後かもしれんし、二十一日の搬出前かもしれん。二十日の写真の時間帯に動いた証拠なんかない」
「ですよね」
「それに、まだ記録漏れが一番つまらなくて一番現実的だ」
「別室から棚を持ってきて、代わりに一台出したけど書かなかった」
アリスが言う。
「あり得る?」
「現場判断で一時的に交換したならな。特に閉鎖前で物を動かしてる時期だ。管理が普段より雑になることもある」
「じゃあ普通に説明できるかもしれない」
「ああ」
相良は即答した。
「今の段階なら十分にな」
透真はペンを指の間で一度回した。
事件ではない。
異常でもない。
棚が一台違う。
それだけだ。
しかも、十年前の閉鎖作業中の病院。
大量の備品が移動していた。
記録漏れ。
現場での交換。
分類上は同じだから、数量だけ合わせて処理した。
どれも不自然ではない。
「なら、これだけですね」
透真が言った。
「何がだ」
「繋がってないの」
彼は机上の紙を見渡した。
ベッド。
点滴台。
カーテン。
サイドテーブル。
その他の管理対象備品。
左右に引かれた線は、そのほとんどが十九日から二十一日へ届いている。
一か所だけ。
可動棚の線だけが途中で切れていた。
「五二〇全部じゃない」
透真は言った。
「今の資料で見る限り、分からないのは棚一台の扱いだけです」
相良が目を細めた。
「小物や記録対象外品まで含めれば他にもあるぞ」
「管理対象になってる範囲の話です」
「ならそうだな」
「だったら、全部調べ直す必要ないでしょう」
「お前は本当に範囲を減らすのが好きだな」
「増やして得する人います?」
「刑事はたまに増やさないと仕事にならん」
「大変ですね」
「他人事みたいに言うな」
「他人事なので」
「ここまで首突っ込んどいてよく言う」
透真は返事をしなかった。
アリスが笑いを堪えるように口元へ指を当てる。
相良が彼女を見る。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「相良さんの方が、透真さんの扱いに慣れてきたなって」
「嬉しくない」
「僕もです」
「お前には聞いてない」
短い笑いが落ちた。
張り詰めていたわけではない。
それでも、数字を追い続けていた目と頭には、その数秒がちょうどよかった。
透真は机から離れ、窓際まで歩いた。
外はもう暗い。
現在の病院棟の窓に、室内の蛍光灯が薄く映っている。
下の道路を救急車が一台通り過ぎたが、サイレンは鳴らしていなかった。
背後で紙が動く。
振り返ると、アリスが旧棟五階の簡易平面図を広げていた。
透真は数秒それを見て、
「何見てます?」
「五二〇です」
「それは見れば分かります」
「じゃあ聞かなくてもよかったですね」
「そういう意味じゃなくて」
アリスは平面図の五二〇付近を指先で押さえた。
「棚って、どこに置いてたんでしょう」
相良が資料から顔を上げる。
「配置か?」
「はい」
アリスは十九日と二十一日の票を見た。
「中に何があったかは、だいたい分かったんですよね」
「ああ」
「でも、部屋にベッドが二台あって、棚が二台あって、点滴台が四本あったって分かっても」
彼女の指が、平面図上の扉へ移る。
「どこにあったかは分からない」
透真が窓際から戻る。
「配置図は?」
「探したが、今のところ正確な室内配置図は出てない」
相良が答えた。
「元は病室だから、病室時代の標準配置図ならある。ただし物品保管室になってから、そこへ何をどう置いたかまでは別だ」
「搬入順は?」
透真が訊く。
「作業記録に残ってないですか」
「時刻単位まではない。班ごとの作業区分と大まかな順番ならあるかもしれん」
「写真は?」
アリスが言った。
相良と透真が同時に彼女を見る。
「工事の写真です」
アリスは机の端に置かれていたファイルへ手を伸ばした。
相良より先に、透真が何を探すか分かったらしい。
問題写真のプリントを抜き出し、透真の前へ置く。
説明はなかった。
透真も礼を言うより先に受け取った。
それが自然だった。
旧棟五階西側の廊下。
作業前状況として撮影された一枚。
十五歳の自分。
白い服の女性。
そして五二〇。
扉は完全には閉じていない。
これまで何度も見た写真だった。
だが、今見るべき場所は変わっている。
鍵ではない。
扉が開いていたかどうかでもない。
その向こう。
「これだけしか開いてないんですよね」
アリスが写真の扉を指す。
「推定ではな」
相良が答える。
「正確な角度までは出せん。画像の歪みもある」
「でも、全開ではない」
「それはそうだ」
「だったら」
アリスは平面図と写真を並べた。
紙の向きを少しずつ変える。
「廊下から部屋全部を見るのは無理ですよね」
透真は写真へ顔を近づけた。
僅かな隙間。
扉は内側へ開く。
写真の撮影位置。
白い女性の立ち位置。
少し離れた十五歳の自分。
「見えるとしても、入口から限られた範囲」
「そうだろうな」
相良が言った。
「ただし、扉の開き角度も室内配置も正確には分からん。そこから先は推定だ」
「推定でも」
アリスが黒い瞳を写真へ落としたまま言う。
「見えない場所は分かるかもしれませんよね」
透真が彼女を見る。
「どういう意味です?」
「例えばですけど」
アリスは平面図の入口から指を伸ばす。
「扉がこのくらいしか開いてなかったとして、棚が部屋の一番奥にあったら、廊下から見えないかもしれない」
「逆に入口付近なら見える」
「はい」
「配置が分かれば、ですけど」
「だから配置を調べるんじゃないですか?」
透真は一瞬黙った。
アリスがこちらを見る。
「違います?」
「……いえ」
透真は椅子へ戻った。
アリスの横。
二人の間に写真を置く。
「相良さん」
「嫌な予感がするな」
「まだ何も言ってません」
「言う前から増えそうなんだよ」
「今回は増やしません」
「信用できん」
「むしろ減らします」
「もっと信用できん」
透真は平面図を指した。
「十九日に入れた物の搬入順、残ってる範囲で出せません?」
相良の表情が少し変わる。
「何に使う」
「置いた位置そのものが残ってないなら、作業順から候補を作るしかないでしょう」
「後から動かしてるかもしれんぞ」
「もちろん」
「病室時代の標準配置も、保管室になった後には当てにならん」
「それも分かってます」
透真は問題写真を平面図の横へ移した。
「確定させなくていいです」
「じゃあ何を出す」
「見える可能性がある場所と、見えない可能性が高い場所」
相良が黙る。
透真は続けた。
「扉の開き方。写真を撮った位置。白い女性が立ってる位置。十五歳の僕がいる位置。そこに五二〇の室内寸法を重ねる」
「配置が不明なら、物までは置けんぞ」
「だから先に空間だけです」
透真はペン先で五二〇の入口を示した。
「この隙間から、どこまでなら見えるのか」
アリスがすぐに続ける。
「白い人の位置と、透真さんの位置だと、見える範囲も違いますよね」
「距離も角度も違うからな」
「同じものを見てたとは限らない」
透真が言った。
「はい」
アリスは頷いた。
「でも、同じ場所を見られたかどうかは調べられる」
室内が静かになった。
相良が椅子の背へ寄りかかり、腕を組む。
その視線が問題写真へ落ちた。
「……『部屋を見てました』か」
低い声だった。
透真は答えなかった。
十年前の音声。
十五歳の自分の声。
白い人は先にいた。
女の人だと思う。
そして――部屋を見ていた。
当時の自分が何を意味してそう言ったのか、今の透真には分からない。
新しい記憶もない。
思い出しかける感覚さえなかった。
ただ、以前までの「部屋」は輪郭のない言葉だった。
五二〇。
閉じていると思われていた場所。
その前に誰かが立っていた。
それだけだった。
今は違う。
扉は僅かに開いていた。
その内部の大部分も、前後の記録から形になった。
ベッド二台。
点滴台四本。
可動棚二台。
カーテン。
サイドテーブル。
その他の一般備品。
少なくとも、記録上そこに巨大な秘密はない。
普通の病院の、普通の一時保管室だった。
だからこそ。
透真の視線が、二枚の管理票へ戻る。
一台だけ。
棚の番号が繋がっていない。
「でも勘違いするなよ」
相良が言った。
「その棚と写真を結びつける証拠はない」
「分かってます」
「白い女が棚を見てたとも言えん」
「はい」
「十五歳のお前が見てたとも言えん。棚が入れ替わったとして、それが二十日とも限らん」
「それも」
「だったら何を見る」
透真は少し考えた。
答えは、もう机の上にあった。
「外せるものです」
「外せる?」
「棚が入口から絶対見えない位置にしか置けなかったなら、少なくとも『あの二人が棚を見ていた』って仮説は弱くなる」
「逆に見える位置だったら?」
アリスが訊いた。
「候補に残るだけです」
「それだけ?」
「それ以上、今は言えないでしょう」
アリスは数秒透真を見て、それから笑った。
「はい。それでいいと思います」
相良が鼻から息を吐く。
「やることは増えたじゃねえか」
「範囲は減ってます」
「作業量の話をしてる」
「それは相良さんの問題です」
「帰れ」
「終わったら」
「帰れと言われて終わらない奴が一番面倒なんだよ」
「奇遇ですね。僕も面倒なのは嫌いです」
「知ってる」
相良はそう言いながらも、平面図を自分の側へ引き寄せた。
古い建築図面の縮尺を見る。
次に問題写真。
さらに工事写真の撮影位置を以前推定した資料を探し始める。
結局やるらしい。
透真は何も言わなかった。
言えば追い出されそうだった。
隣でアリスが自分のメモ帳を開く。
そこにはいつの間にか、五二〇の簡単な四角形と扉の位置が描かれていた。
絵としてはかなり雑だった。
「……それ五二〇ですか?」
「そうですよ」
「四角ですね」
「部屋なので」
「もう少し何かあるでしょう」
「透真さん描いてください」
差し出されたペンを、透真は受け取った。
「なんで僕が」
言いながら、アリスのメモ帳を自分との間へ寄せる。
平面図を見て、壁の位置を直す。
扉の向き。
廊下。
写真の撮影位置。
白い女性の位置。
十五歳の自分の位置。
正確ではない。
だから、点ではなく小さな範囲で描いた。
「このくらい」
「私の四角とそんなに変わらないです」
「情報量が違います」
「四角なのは同じです」
「部屋なので」
今度はアリスが笑った。
透真はペンを返さず、そのまま彼女のメモ帳の端に短く書き足した。
――視認範囲。
それを見たアリスが、少しだけ表情を変える。
何か言うかと思ったが、言わなかった。
代わりに自分のメモ帳なのに当然のように透真の手元へ置いたまま、十九日の物品票を取った。
「じゃあ私、搬入順になりそうなの探します」
「相良さんが探してますよ」
「三人で探した方が早いです」
「それはそうですね」
「今、普通に認めましたね」
「早いので」
「はいはい」
相良が資料の向こうから顔を上げる。
「お前ら、人の仕事を勝手に分担するな」
「じゃあ相良さんは工事記録お願いします」
アリスが即答した。
「聞けよ」
「聞きました」
「許可を取れ」
「お願いします」
「順番が逆だ」
また紙の音が戻る。
夜の病院。
低い空調。
遠くの足音。
机の上には十年前の日付が並び、その中央にだけ一日の空白がある。
八月十九日。
八月二十一日。
その間。
見えなかった八月二十日は、もう完全な空白ではなかった。
五二〇の中にあったものの大部分は分かった。
普通の備品だった。
普通の保管室だった。
そして、普通に並んでいたはずの記録の中で、一台の可動棚だけが前後を繋げなかった。
それが記録漏れなのか。
現場での単純な交換なのか。
別の日に行われた通常業務なのか。
まだ分からない。
八月二十日に起きたとさえ言えない。
けれど、分からない場所はもう部屋全体ではなかった。
一つだけだった。
透真は問題写真をもう一度見る。
白い女性。
十五歳の自分。
僅かに開いた五二〇の扉。
写真の中の二人が何を見ていたのかは、今も分からない。
同じものを見ていたかさえ分からない。
ただ。
あの隙間から何が見えたのか。
それなら、記憶がなくても調べられる。
「相良さん」
「今度は何だ」
資料をめくったまま、相良が答える。
「室内寸法、これで正確ですよね」
「建築図面が正しければな」
「じゃあ、写真から出せる扉の開き方と重ねてください」
「誤差は出るぞ」
「構いません」
透真は、アリスのメモ帳に描いた五二〇の入口をペン先で軽く叩いた。
「入口から見える範囲だけ出ればいいです」
「棚の位置は分からんぞ」
「十九日の搬入順と、二十一日の搬出順も見ます」
「それでも確定はできん」
「確定させなくていいです」
相良が手を止めた。
透真は写真へ視線を落としたまま続ける。
「見えない場所なら外せるので」
アリスが隣で、問題写真を平面図のすぐ横へ移した。
二人の間に説明はなかった。
ただ次に比べるものが、自然に同じ場所へ揃った。
透真はそれを特に意識しないまま、写真の中の細い扉の隙間を見つめる。
十年前の自分は言った。
部屋を見ていた、と。
なら次に見るべきなのは、部屋ではない。
その言葉が指していた範囲だ。
五二〇の中身の大半は、もう分かった。
だから残った一か所だけを見ればいい。
何があったのかではなく。
あの場所から――何が見えたのか。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
コメント、高評価よろしくお願いします。
YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。
今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。
▼YouTube Shortsはこちら
【YouTubeのURL】
https://youtube.com/channel/UCKWGBcfVzGly66ocn66qdsw?si=HehsNKGWu4fcWrui
続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。




