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第23話「鍵の範囲」

23話目になります。

よろしくお願いします。

『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。

本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。


 机の上に置かれた古い鍵は、昨日までより少しだけ違って見えた。


 もちろん、形が変わったわけではない。


 鈍くくすんだ金属の色も、角の丸くなった持ち手も、長い時間の中で削れたらしいメーカー刻印も、そのままだ。蛍光灯の白い光を受けても新品の鍵のようには反射せず、表面に残った細かな傷だけが角度によって薄く浮かぶ。


 変わったのは、その隣に置かれているものだった。


 旧棟五階西側建具設備台帳。


 錠前仕様一覧。


 シリンダー交換履歴。


 そして、旧棟閉鎖に伴う設備撤去記録。


 十年前に病院の中で使われていた鍵と錠前について記された資料が、施設管理室の長机を半分近く占領している。


 紙の端には黄色く変色したものもあれば、後年になって電子化された資料を印刷しただけの新しい紙もあった。書式も統一されていない。設備番号、部屋番号、建具番号、錠前メーカー、シリンダー系列。必要な情報が同じ場所に並んでいるわけでもないらしく、相良は三冊のファイルを開いたまま、そこへ一枚ずつコピーを差し込んでいた。


「これが、昨日言ってた鍵穴側だ」


 相良が言った。


 久世透真は椅子に座る前に、机の中央へ視線を落とした。


「ずいぶん出ましたね」


「出たんじゃない。出させた」


「言い方の問題では?」


「労力の問題だ」


「じゃあ、お疲れさまです」


「軽いな」


「重く言っても疲労は減らないので」


 相良が片目を細めた。


 怒ってはいない。


 たぶん。


 透真はそのまま長机の手前側へ回り、黒い鞄を椅子の脇へ置いた。隣の椅子を少しだけ引く。ほとんど意識せずにした動作だった。


「ありがとうございます」


 背後から声がした。


 振り向くと、白峰アリスがそこにいた。


「……いつからいました?」


「透真さんが『お疲れさまです』って言う前からです」


「なら言ってください」


「椅子を空けてくれるかなと思って」


「試されてたんですか、僕」


「確認です」


 アリスは楽しそうに笑って、透真が引いた椅子へ座った。


 白いシャツの上に薄い青のパーカー。長いプラチナブロンドの髪を肩の後ろへ払いながら、彼女はすでに机上の資料へ目を落としている。


「それで、ありました?」


 問いかけた先は透真ではなく、相良だった。


 相良は答える代わりに、一枚の紙を二人の前へ滑らせた。


「まず、ここだ」


 紙の上部には旧棟五階西側の建具番号が並んでいる。


 透真は520の数字を探した。


 すぐに見つかった。


 部屋番号の横に建具番号。その先に錠前のメーカーと型式らしき英数字が続いている。


「用途変更前ですか?」


「最初の登録はな。病室として使われていた時期の設備台帳だ」


 相良は別の紙を重ねた。


「こっちが用途変更後」


 透真は二枚を見比べた。


 部屋用途の欄が違う。


 一方には一般病室。


 もう一方には物品一時保管。


 けれど。


「錠前番号が同じですね」


「ああ」


「交換してない?」


「そこを確認した」


 相良の指が、今度は別の資料を叩いた。


 乾いた音が施設管理室に響く。


 時刻は午後七時を少し回ったところだった。通常業務を終えた施設管理室には彼ら以外ほとんど人がおらず、奥の机で病院の施設管理担当者がパソコンへ向かっている。空調の低い音と、時折聞こえるキーボードの打鍵音。それ以外は静かだった。


「520が病室から保管室へ変わった時期に、錠前一式を交換した記録はない。シリンダー交換記録もなし。用途変更に伴って追加されたのは、室名表示と管理区分。それと施錠運用の変更だ」


「つまり」


 アリスが紙へ顔を寄せた。


「病室だった頃の鍵穴を、そのまま使ってたんですか?」


「記録上はそうなる」


「記録上は?」


「交換したのに記録が残ってない可能性までゼロにはできん」


「でも、交換した記録はない」


「ああ。それに設備台帳の型式も前後で変わってない。少なくとも残ってる資料だけを見れば、わざわざ交換されたと考える理由はない」


 透真は二枚の紙を重ねた。


 用途だけが変わっている。


 病室から、物品を置くための部屋へ。


 扉も、錠も、鍵穴も、そのまま。


「じゃあ、十年前の八月二十日もこれだった可能性が高い」


「そう見ていい」


 相良はそこで言葉を切り、もう一枚の紙を引き寄せた。


「問題はここからだ」


 鍵穴の簡単な断面図と、いくつかの番号が並んでいる。


 専門的な図面らしく、透真にはすべての記号の意味までは分からない。ただ、昨日見た鍵の仕様資料と似ている部分がある。


「520のシリンダーは単独系統じゃなかった」


 相良が言った。


「単独?」


「520の個別鍵はある。その鍵なら当然520を開けられる。だが、それだけじゃない」


 相良の指が図面上の一本の線を辿った。


 520。


 そこから上へ。


 いくつかの部屋番号が、別の線を介して同じ記号へ繋がっている。


「旧棟五階西側は、一部の扉を上位の管理鍵で開けられるよう組まれてた。520もその中に入ってる」


 透真は黙って図を見た。


 隣でアリスも表情を変えずにいる。


 相良が続けた。


「つまり、520は520の個別鍵しか受け付けない部屋じゃなかった。個別鍵とは別に、五階西側の管理系統に属する鍵でも開けられた」


「……一本じゃなかったんですね」


 アリスが言った。


「ああ」


「520を開けられる鍵が」


「種類としてはな」


 相良はすぐに補足した。


「ここを雑に考えるなよ。520の個別鍵が何本複製されてたか、管理鍵が当日何本存在したか、それぞれ誰がいつ持っていたかは別の話だ。今言えるのは錠前の構造と管理系統の話だけだ」


「でも」


 透真は図面から目を上げた。


「520の扉が開いてたこと自体は、昨日より普通になりましたね」


 相良が頷く。


「そうだ」


 その答えは、妙にあっさりしていた。


 だからこそ重かった。


 写真に写った、僅かに開いた520号室の扉。


 昨日までは、その隙間の向こうに誰かの意図を探していた。


 誰が開けた。


 どの鍵を使った。


 なぜ記録がない。


 けれど、そもそもの前提が少し違っていた。


 520は、一人だけが一本の専用鍵を持って開けるような部屋ではなかった。


 病棟側の共通鍵。


 施設管理側の管理鍵。


 工事期間中に責任者へ貸し出されていた鍵。


 それらのすべてが520に対応していたわけではないとしても、少なくとも個別鍵以外に520を開けられる系統は存在していた。


 しかも、鍵の貸出記録は部屋ごとの使用履歴ではない。


 管理鍵を借りた人間が520を一度開けたとしても、それだけを示す記録が残らない可能性は十分にある。


「工事の人が開けた可能性もあるんですよね?」


 アリスが訊いた。


「ある。当日の責任者に貸し出されていた管理鍵が、520を含む系統に対応していたことは確認できた」


「病院の人も?」


「病棟側の常備鍵の中にも対応するものがあった。施設管理も同じだ」


「じゃあ、誰かが備品を見るために開けて、そのまま少しの間だけ扉を押さえてたとか」


「普通にあり得る」


「閉まりかけを写真に撮っただけとか」


「それもあり得る」


「記録は?」


「短時間の確認程度なら残らないこともある」


 アリスは小さく頷いた。


 机上の問題写真へ視線を移す。


 モニターにも同じ画像が表示されていた。


 十年前の旧棟五階西側。


 十五歳の透真。


 白い服の女性。


 520号室。


 僅かに開いていた扉。


 そして、女性の胸元から斜め下へ伸びる、銀色の細い線。


「ずいぶん普通になりましたね」


 アリスが言った。


「何がだ」


「扉が開いてたことです」


「そうだな」


「ちょっと残念です」


「何を期待してたんですか」


 透真が訊くと、アリスは少し考えた。


「誰にも開けられないはずの部屋が開いていた、とか」


「事件を増やさないでください」


「でも物語ならそっちの方が面白くないですか?」


「僕は登場人物側なので、面白くない方を希望します」


「確かに」


 あっさり納得してから、アリスはもう一度写真を見た。


「でも、普通になったなら、普通に考えられますね」


 その言葉に、透真は彼女を見る。


「何をです?」


「この人です」


 アリスの指が、画面には触れず、その少し手前で止まった。


 白い女性。


「この人が520を開けたって決める必要、なくなりましたよね」


 透真は写真へ視線を戻した。


「最初から決まってませんけど」


「そうなんですけど、なんとなく引っ張られてませんでした?」


「何に」


「立ってる場所に」


 アリスは自分の椅子を少し後ろへ引いた。


 写真全体を見るためだ。


「扉の近くに白い人がいる。胸元に銀色のものがある。扉が開いてる。鍵の話をしてる。そうすると、その人が鍵を持ってて開けたみたいに見えます」


「見えるだけだ」


 相良が言った。


「はい。だから、いったん全部外した方がいいと思います」


 アリスは指を一本ずつ折った。


「この人が職員かどうか分からない。銀色のものが鍵かどうかも分からない。この人が扉を開けたかも分からない。扉は別の人でも開けられる」


「そうだな」


「だったら、この人について確実なのって」


 アリスの指が止まる。


「その時、520の近くにいたことくらいですよね」


 相良はすぐには答えなかった。


 画面を見る。


 写真の女性は横顔すら明瞭ではない。白い衣服。身体の向き。胸元を走る細い銀色。


「写真から言える範囲ならな」


 やがて相良が答えた。


「それ以上は推測だ」


「じゃあ、それでいいです」


「何がだ?」


「今は」


 アリスは笑わなかった。


「普通にできるところは、普通にした方がいいです」


 透真は少しだけ眉を上げた。


 アリスがこちらを見る。


「透真さんもそう思いません?」


「珍しく同意見です」


「珍しく?」


「頻度の問題です」


「かなり高いと思いますけど」


「自己評価ですね」


「透真さん評価でも高いはずです」


「僕の評価を勝手に確定させないでください」


 そこで相良が深く息を吐いた。


「お前ら、それをやるなら外でやれ」


「調査中です」


「どこがだ」


「人間関係の事実確認を」


「いらん」


 アリスが声を殺して笑った。


 透真は机上の資料へ戻る。


 軽いやり取りの間にも、頭の片隅ではさっきの図が残っていた。


 一つの鍵。


 一つの鍵穴。


 一つの部屋。


 そういう単純な関係ではない。


 同じ扉を、違う鍵が開ける。


 個別鍵を持っていなくても、その上の系統に属する鍵を持っていれば入れる。


 なら。


「相良さん」


「なんだ」


「この鍵、もう一回見てもいいですか」


「お前のだろ」


「比較する方です」


「ああ」


 相良が古い鍵の横へ透明な定規と、印刷した仕様図を置いた。


 透真は鍵を摘まむ。


 指先に冷たさはほとんどなかった。


 室温に馴染んだ金属は、むしろ自分の体温より少し低い程度だ。持ち手の縁には細かな摩耗があり、何度も何かに触れた跡がある。


 けれど、それが十年前についた傷なのか、もっと後なのかは分からない。


「昨日より分かること増えたんですよね?」


「ああ」


 相良は別の資料を開いた。


「施設側に残ってたメーカー資料と、撤去時の設備一覧を照合した。520に付いていたシリンダーの系列まではほぼ追えた」


「現物は?」


「残ってない」


 即答だった。


「旧棟解体時に撤去。少なくとも病院側の保管品にはない。撤去後の処理も通常の廃棄扱いだ。十年前の鍵穴そのものを持ってきて試す、ってのは無理だな」


「それは残念ですね」


「本当に残念そうに言え」


「十分残念です」


「顔に出せ」


「苦手なんです」


 相良は無視した。


「だから仕様で見る」


 古い鍵の横へ、一枚の拡大図が置かれる。


 鍵穴の輪郭。


 内部の細かな構造までは簡略化されているが、鍵の断面形状に対応する溝の位置が示されていた。


「キーウェイってやつですか」


「そうだ。鍵が物理的に入るかどうかを決める形の一つだと思えばいい」


 相良は古い鍵のブレードを指した。


「昨日見たのはメーカーと大まかな系列までだった。今日は520側の型式が絞れたから、もう少し深く比較できる」


「結果は?」


「急ぐな」


「もう資料あるなら早い方が」


「説明してるんだ」


「じゃあお願いします」


「腹立つな、お前」


 相良は鍵を受け取り、机上の白い紙へ置いた。


 ブレードの向きを図面と揃える。


「まず、幅は範囲内。厚みも仕様上は合う。肩の位置も大きく外れてない。溝の向きも同じ系列と見て矛盾しない」


「じゃあ入るんですか?」


 アリスが訊いた。


「可能性は高い」


「可能性?」


「現物のシリンダーがない。鍵も摩耗してる。図面と仕様だけで百パーセントとは言わん」


 相良はそこで古い鍵を持ち上げ、蛍光灯へかざした。


 削れた金属面に白い光が走る。


「だが少なくとも、520の鍵穴に形からして入らない鍵ではない」


 室内の空調音が、急に近く聞こえた。


 透真は相良の指先にある鍵を見る。


「……入る系列だった」


「そう見ていい」


「回るかは?」


「分からん」


「開くかも?」


「分からん」


「520専用鍵か?」


「それも分からん。むしろ」


 相良は鍵を机へ戻した。


 小さな金属音。


「専用鍵だと考える材料は、今のところ弱い」


 透真の視線が鍵に落ちる。


「弱くなった?」


「昨日までは比較対象が足りなかった。今日は520側の管理系統が分かった」


 相良は図面の別の部分を指した。


「同じキーウェイを使う鍵が、520だけじゃない」


 指が横へ動く。


 521。


 その先。


 さらに別の建具番号。


 すべてが完全に同一の個別鍵という意味ではない。


 だが、鍵穴へ入るための規格を共有する扉が複数ある。


「個別鍵は切り込みで区別される。だが上位の管理鍵は、同じ系統に組まれた複数のシリンダーを開けられるよう設定されてる」


「つまり、この鍵が520に入る形でも」


「520だけの鍵とは限らない」


「別の部屋の個別鍵かもしれない」


「ああ」


「同じ系列の管理鍵かもしれない」


「可能性としてはな」


「病院ですらないかもしれない」


「メーカーも規格も一般に使われてた。そこも消えてない」


 相良の答えは一つずつ慎重だった。


 何かを確定するたび、同じだけ境界線を引く。


 分かったこと。


 分からないこと。


 似ていること。


 同じだとは言えないこと。


 透真はそれを面倒だとは思わなかった。


 むしろ逆だった。


 曖昧なものを曖昧なまま置かれる方が、ずっと面倒だ。


「じゃあ」


 アリスが言った。


「探してたもの、ちょっと違ったんですね」


「何が?」


 透真が訊く。


「この鍵が520の鍵かどうか」


 アリスは古い鍵を指差した。


「それだけなら、520の個別鍵と同じか比べれば終わりです。でも、520って別の鍵でも開いたんですよね」


「そうですね」


「だったら、この鍵が何号室の鍵かより」


 彼女の黒い瞳が、机上の鍵から管理系統図へ移った。


「どういう人が持つ種類の鍵だったかの方が大事じゃないですか?」


 透真は答えず、相良を見る。


 相良もアリスを見ていた。


「管理鍵だったと決まったわけじゃないぞ」


「はい」


「この鍵の切り込みを見ただけで、管理鍵か個別鍵かを断定できる資料も今はない」


「はい」


「病院で使われた鍵だという証明もない」


「それも分かってます」


「ならいい」


 アリスは少し首を傾けた。


「でも、調べられます?」


「何をだ」


「当時の管理鍵って、見た目で何か違ったんですか?」


 相良は施設管理担当者の方を見た。


 奥の机にいた男性が、話を聞いていたらしく椅子を回す。


「見た目、というと?」


「持ち方です」


 アリスは自分の胸元から腰のあたりへ指を動かした。


「鍵だけポケットに入れてたのか、何かにつけてたのか」


 透真はそこで、彼女が何を見ているのか理解した。


 モニター。


 白い女性。


 胸元から斜め下へ伸びる銀色の線。


 施設管理担当者は少し考え、机の脇に積まれた資料へ手を伸ばした。


「管理鍵は紛失防止のため、リングやチェーンを使うことはありました。ただ、全員が同じ方法というわけではありません。病棟側はまた管理が違いますし」


「十年前もですか?」


「少なくとも、当時の施設管理の手順書には記載があります」


 相良が眉を寄せる。


「あるのか?」


「携行方法の写真までは分かりませんが、管理鍵の持ち出し時に落下・紛失防止具を使用する、という文言なら」


 男性はファイルを一冊取り出した。


 ページをめくる音が続く。


 古い紙の匂いがわずかに漂った。


 数十秒後、開かれたページが机へ置かれる。


 そこにあったのは短い規定文だった。


 管理鍵を携行する際の注意。


 鍵束。


 キーリング。


 紛失防止具。


 それだけ。


 写真の銀色の線と直接結びつくものではない。


「チェーン限定じゃないですね」


 透真が言った。


「そうです。リングの場合もありますし、伸縮式のホルダーを使う人もいました。個人で用意したものまで含めれば統一されていません」


 施設管理担当者が答える。


 アリスはモニターへ近づいた。


 白い女性の胸元。


 保存画像でも、銀色の線の先は見えない。


 首元から胸を通り、斜め下へ消えている。


「長さは……合いますか?」


「何にだ」


 相良が訊く。


「鍵を持つなら、です」


「分からん」


「ですよね」


「材質も分からん。チェーンかどうかすら分からん。名札の紐かもしれんし、装飾品かもしれん」


「服についてるものかもしれませんね」


「そうだ」


「そもそも、この人がつけてるものじゃない可能性も」


「画像だけなら残る」


 アリスは頷いた。


 そして、何も足さなかった。


 銀色の線は銀色の線のままだ。


 鍵にはならない。


 白い女性も職員にはならない。


 ただ、十年前の病院で管理鍵をチェーンやリングに繋いで携行すること自体は、特別な行為ではなかった。


 それだけが増えた。


「でも」


 透真は写真を見たまま言った。


「この人が管理鍵を持ってたとしても、不自然ではなくなった」


「持ってたならな」


 相良が訂正する。


「仮定を抜くな」


「分かってます」


「お前はたまに分かってる顔で飛ばすから言ってる」


「便利なので」


「捜査でやるな」


「僕、捜査員じゃないです」


「余計にやるな」


 アリスがまた小さく笑う。


 そのあと、彼女は自分の椅子へ戻らなかった。


 透真の隣に立ったまま、机の上の管理系統図を覗き込む。


「これ、もしこの鍵が管理鍵だったら」


 彼女の指が古い鍵を示した。


「520だけじゃないんですよね?」


「ああ」


「何部屋くらいですか?」


「そこは鍵の階層による」


 相良は資料を寄せた。


「五階西側の一部だけを開ける系統もあれば、それより上位の管理区分もある。ただし、この古い鍵がどの階層に当たるかは分からん」


「じゃあ、520専用鍵の可能性と、別室の個別鍵の可能性と、複数室を開ける鍵の可能性がある」


「大きく分ければな」


「全部、同じ鍵穴の規格に入る可能性がある?」


「同じ系列の範囲なら」


「……なるほど」


 アリスは納得したように呟いた。


 透真は逆に、少しだけ面倒になった。


「範囲が広がりましたね」


「そう見えるか?」


 相良が訊いた。


「違うんですか」


「部屋を当てようとするなら広がった。鍵の意味を調べるなら、むしろ絞れた」


 透真は相良を見る。


「この鍵が520専用かどうかを追う必要は薄くなった。520を開けられる系列に入る可能性がある。そこまでは今日進んだ」


「でも実際に開けられるかは分からない」


「ああ」


「管理鍵かも分からない」


「ああ」


「じゃあ次は」


 透真はそこで言葉を止めた。


 机の上には、十年前の病院が細かく分解されている。


 扉。


 鍵穴。


 鍵。


 管理番号。


 貸出記録。


 工事写真。


 それらを一つずつ追ってきた。


 けれど、鍵だけを見ても限界があると言ったのは自分だ。


 だから鍵穴を見た。


 その結果分かったのは、一本の鍵と一つの部屋を結びつけること自体が、最初から正しい考え方ではなかった可能性だった。


「この鍵を持てた人を調べた方が早い?」


 アリスが先に言った。


「それもありますね」


「それも?」


 透真は相良へ訊いた。


「当時の管理鍵の割当って、どこまで残ってます?」


「貸出簿はある。昨日まで見てたものより細かい管理番号まで追える可能性はある。予備鍵一覧も一部残ってる」


「この鍵の番号は?」


 相良が古い鍵を裏返した。


 摩耗した刻印。


 メーカー名の一部は読める。


 その近くに、何か別の刻印があったらしい痕跡。


 けれど数字なのか文字なのか、今となっては判別しづらい。


「ここが読めれば話は早かったんだがな」


「削れてますね」


「ああ。照明変えて撮影して、画像処理で拾えるかはやってみる。ただし、削れたものを都合よく復元できるとは思うな」


「そこまでは期待してません」


「顔が期待してる」


「顔に出ないってさっき言ったじゃないですか」


「じゃあ俺の気のせいだ」


 透真は鍵を受け取った。


 掌の中央へ置く。


 小さい。


 これまで、その小ささに引っ張られていたのかもしれない。


 一つの鍵なら、一つの鍵穴。


 一つの鍵穴なら、一つの扉。


 そういう分かりやすい答えを、無意識に想定していた。


 だが病院の鍵は、人間の都合で階層化されていた。


 一人の患者が使う扉。


 病棟職員が使う扉。


 施設管理が扱う扉。


 工事中だけ別の人間が触れられる扉。


 同じ520号室でも、誰が立つかによって、そこへ入る方法は一つではない。


「鍵って」


 アリスが言った。


「部屋のものじゃないんですね」


「急に哲学ですか?」


「違います」


 彼女は古い鍵ではなく、管理系統図を見ていた。


「透真さん、この鍵がどの部屋のものかずっと気にしてたじゃないですか」


「ずっとではないです」


「最近ずっと」


「範囲を狭めましたね」


「でも、管理鍵だったら、部屋じゃなくて人のものですよね」


 透真は黙る。


「この部屋を開ける鍵、じゃなくて」


 アリスの指が、図面の複数の扉をなぞった。


「この人なら、ここまで開けていいっていう鍵」


 相良が腕を組んだ。


「言い方は雑だが、考え方としては近い。管理権限を物理的な鍵で分けてる」


「じゃあ探すのは、鍵がどこに刺さるかだけじゃなくて」


「誰に割り当てられる種類だったか、か」


 透真が言った。


 アリスがこちらを向く。


「はい」


「先に言おうとしてました?」


「ちょっとだけ」


「残念でしたね」


「透真さんが言うならそれでいいです」


 あっさり引かれて、透真の方が返事に困った。


 数秒の沈黙。


 相良がそれを無視して資料をまとめ始める。


「割当はこっちで追う。管理番号の体系も確認する。古い鍵の摩耗した刻印と比較できるところまではやる」


「お願いします」


 透真は自然に答えてから、机の上の写真を手に取った。


 以前なら、隣にいるアリスへ説明してから見せていたかもしれない。


 今はそのまま差し出す。


 アリスも何も訊かず受け取った。


 二人で何度も見た写真だった。


 けれど、知っていることが増えるたびに、同じ一枚の意味が少しずつ変わる。


 十五歳の自分。


 白い女性。


 520。


 僅かに開いた扉。


 昨日までは、開いていることが異常だった。


 今日、それはかなり普通になった。


 520は専用鍵一本だけで守られた部屋ではなかった。


 管理系統に属する鍵を持つ人間なら、通常の業務の中で開けられた。


 病棟職員かもしれない。


 施設管理担当かもしれない。


 工事責任者かもしれない。


 誰かが備品を確認するために数十秒だけ開けたとしても、それ自体は特別な出来事ではない。


 なら、写真の扉の隙間だけを異常視する理由は薄くなった。


 白い女性がそこに立っていたことも、仮に病院や工事に関係する人間だったなら説明はできる。


 銀色の線も、仮に管理鍵の携行具だったとしても病院の運用から外れない。


 仮定はいくつも必要だ。


 それでも、普通の範囲に収める道筋はできた。


 だから。


「……白い人は先にいました」


 透真が呟いた。


 アリスが写真から顔を上げる。


 相良も資料をまとめる手を止めた。


「音声か」


「はい」


 十年前。


 十五歳の自分が残した声。


 長く思い出す必要はない。


 もう何度も聞いた。


『部屋を見てました』


 白い人は先にいた。


 そして部屋を見ていた。


 閉じた扉ではなかった可能性が高い。


 僅かに開いた520。


 さらに今日、その扉は限られた管理系統の鍵を持つ人間なら、普通に開けることができたと分かった。


「この人の方は」


 透真はアリスが持つ写真の白い女性を見た。


「まだ普通にできますね」


「できるかもしれません」


 アリスが答える。


「職員なら?」


「可能性はあります」


「施設管理なら?」


「あります」


「工事関係者でも?」


「白い服が標準の作業着とは合わないって話はありましたけど、関係者全部を否定できたわけじゃないです」


「誰かが開けた後に来ただけでもいい」


「はい」


 相良が口を挟む。


「忘れるな。写真の女と音声の『白い人』が同一人物だという確定もまだない」


「分かってます」


 透真は答えた。


 そして、写真のもう一人を見る。


 十五歳の久世透真。


 右脚を負傷していたはずの少年。


 旧棟五階へ向かった経路の一部を覚えていなかった少年。


 写真の中では、白い女性から数歩離れた場所にいる。


 互いを見てはいない。


 ただ、520側へ注意を向けているように見える。


「こっちは?」


 アリスが訊いた。


 透真は答えなかった。


「白い人が病院の人だったとして」


 彼女は静かに続ける。


「扉を開けられる人だったとして。普通に仕事で520を開けてただけだったとして」


 写真の端を持つアリスの指が、ほんの少し位置を変えた。


「十五歳の透真さんは、どうしてそこにいたんでしょう」


 新しい疑問ではなかった。


 むしろ最初からあった。


 ただ、周囲に絡みついていたものが一つずつ剥がれて、輪郭が見え始めただけだ。


 誰にも開けられない部屋ではない。


 あり得ない扉の状態でもない。


 存在しない鍵を使う必要もない。


 普通の病院の、普通の設備で説明できる。


 だからこそ。


 そこへ十五歳の自分がいた理由だけが、普通の説明から少しずつ取り残されていく。


「僕がこの鍵を持ってたとは限りませんよ」


 透真は言った。


「はい」


「この鍵が十年前に520で使われたとも限らない」


「はい」


「そもそも病院の鍵かどうかも確定してない」


「それも」


「なら、鍵から僕を繋ぐのはまだ早いです」


「そうですね」


 アリスは素直に頷いた。


 否定もしない。


 無理に繋ごうともしない。


 その反応に、透真はわずかに視線を止めた。


「なんです?」


「いえ」


「何か言いたそうです」


「気のせいです」


「嘘です」


「便利ですね、それ」


「便利です」


 アリスは少し笑った。


「でも言わなくていいです」


「なら最初から判定しないでください」


「分かるのと聞くのは別なので」


「面倒な能力ですね」


「透真さんに言われたくないです」


 反論できなくはなかった。


 けれど、するほどでもなかった。


 透真は写真をアリスから受け取り、机へ戻した。


 相良がファイルを閉じる。


「今日はここまでだな」


「そうですね」


 透真は腕時計を見た。


 午後八時を過ぎている。


 施設管理室の奥では、先ほどまで残っていた職員も帰る準備を始めていた。廊下の向こうから清掃用カートの車輪が転がる音が聞こえる。


 アリスが椅子の背へ掛けていた薄いバッグを取った。


 透真も黒い鞄を持ち上げる。


 そのまま二人で出口へ向かいかけて。


「相良さん」


 透真は足を止めた。


「まだあるのか」


「一個だけ」


「お前の一個は信用してない」


「じゃあ二個になる前に聞きます」


 相良が露骨に嫌そうな顔をした。


「なんだ」


 透真は机へ戻らなかった。


 写真も鍵も見ない。


 頭の中に残っていたのは、520の扉だった。


 開いていた。


 けれど、開けること自体は普通にできた。


 誰が開けられたかも、ある程度は分かった。


 なら次に見る場所は、鍵ではない。


「十九日と二十一日の物品移動記録」


「ああ」


「何を動かしたかまで残ってます?」


 相良の表情が少し変わった。


 アリスも透真を見る。


「品目か?」


「はい」


「一部は残ってるはずだ。ベッドだの棚だの、大分類だったと思うが」


「十九日に入れたものと、二十一日に出したもの。比較できます?」


「できるかもしれん」


「じゃあ、それお願いします」


「理由は」


 透真は少し考えた。


 説明するほど複雑ではない。


「開けられたなら、次は中を見た方が早いので」


 相良は黙っている。


「八月二十日に搬入出記録がないのは分かってます。でも十九日と二十一日があるなら、その間に何が520に置かれてたか、ある程度は出せますよね」


「記録が十分ならな」


「全部じゃなくていいです」


「何を探す?」


 その問いに、透真はすぐには答えなかった。


 何か特別なものを探したいわけではない。


 秘密の物。


 異常な物。


 そんなものがあると決める理由はない。


 むしろ逆だ。


「違いです」


「違い?」


「十九日に入ったものと、二十一日に出たものが同じなら、それでいいです」


 透真は言った。


「普通に備品を置いて、普通に出しただけって分かるので」


「違ったら?」


「その時考えます」


 相良が片目を閉じた。


 いつもの癖。


 余計なものを視界から減らすように、数秒だけ透真を見ている。


「……分かった」


 やがて相良は答えた。


「移動記録と、可能なら当時の物品管理票も当たる。二十日の時点で520に何が入っていたか、前後から再構成できるか確認する」


「お願いします」


「また増えたな」


「鍵だけ見てもこれ以上進まないので」


「昨日も似たようなこと言ってたな」


「同じ理由が二日続いただけです」


「そういうことにしといてやる」


 透真は今度こそ出口へ向かった。


 アリスも当然のように隣を歩く。


 施設管理室を出ると、病院の廊下は昼間より暗かった。照明そのものは同じはずなのに、人の少なさだけで空間が広く感じる。


 二人は並んでエレベーターへ向かった。


「透真さん」


「なんです?」


「今日、私に聞きませんでしたね」


「何を」


「帰るかどうか」


 透真は足を止めなかった。


「まだ帰らない予定だったんですか?」


「帰ります」


「なら問題ないですね」


「そうじゃなくて」


 アリスが半歩だけ前へ出て、横から透真の顔を見る。


「同じエレベーター乗るの、最初から決まってるみたいでした」


「出口が同じなので」


「そういうことにしておきます」


「相良さんみたいなこと言わないでください」


「似てました?」


「今のはかなり」


 エレベーターの到着音が鳴った。


 扉が開く。


 アリスが先に乗り、透真が続く。


 誰もいない箱の中で、アリスが一階のボタンを押した。


 透真は何も言わなかった。


 自分が押すつもりだったことにも。


 彼女が当然のように一階を選んだことにも。


 扉が閉じる。


 鏡面仕上げの壁に、二人の姿が並んで映った。


「鍵、結局なんだったんでしょうね」


 アリスが言う。


「まだ分かりません」


「520の鍵じゃない?」


「それも分かりません」


「管理鍵?」


「分かりません」


「別の部屋?」


「分かりません」


「病院と関係ない?」


「それも残ってます」


「分からないこと多いですね」


「でも」


 透真は一度言葉を切った。


 エレベーターの階数表示が、一つずつ下がっていく。


「昨日よりは減りましたよ」


 アリスが鏡越しにこちらを見る。


「そうですね」


 その声は、少しだけ嬉しそうだった。


 透真は視線を正面へ戻した。


 古い鍵が520専用鍵である可能性は、むしろ薄くなった。


 けれど、520との関係まで薄くなったわけではない。


 十年前の520に付いていたシリンダーは、個別鍵一本だけを受け入れるものではなかった。


 520は旧棟五階西側の管理系統に組み込まれ、上位の鍵でも開けることができた。


 そして、手元にある古い鍵は、その520の鍵穴へ物理的に入る規格と矛盾しない。


 入ることと、回ることは違う。


 回ることと、開くことも違う。


 それでも。


 少なくとも、比較する意味のない鍵ではなくなった。


 一方で、520の扉が開いていたことは、昨日よりずっと普通の出来事になった。


 管理鍵を持つ職員が開けた。


 工事責任者が確認した。


 病棟職員が備品を見た。


 記録を残すほどでもない短い時間だけ扉を開けた。


 どれもあり得る。


 超常的な何かを持ち出す必要はない。


 白い女性がそこにいたことさえ、彼女が何らかの関係者だったなら説明はできるかもしれない。


 胸元の銀色の線も、鍵とは限らない。


 仮に鍵を繋ぐものだったとしても、それ自体は病院の通常運用から外れていない。


 普通にできるものが増えた。


 だから残ったものが、前よりよく見える。


 十五歳の自分。


 なぜ旧棟五階へ行ったのか。


 なぜ520の前にいたのか。


 なぜ、そこに先にいた白い人を見たのか。


 そして。


 僅かに開いていた520の、その向こうに。


 あの時、何があったのか。


 エレベーターが一階へ到着した。


 扉が左右へ開く。


 アリスが歩き出し、透真もその隣へ出た。


 十年前から残っていた古い鍵は、520号室だけを指し示す鍵ではないのかもしれない。


 けれど、それはもう問題ではなかった。


 鍵が示していたのは、一つの扉ではない。


 その扉を開けることのできた範囲だった。


 そして、開けること自体が特別ではなかったのなら。


 次に確認すべきなのは、もう鍵穴ではない。


 八月二十日。


 写真が撮られた午後。


 僅かに開いた520号室の中に、何が置かれていたのか。


 透真は病院の自動扉を抜けながら、ポケット越しに古い鍵の硬い輪郭へ一度だけ指を触れた。


 確かめたいわけではない。


 そこにあることは分かっている。


 ただ、ここまで来て中途半端に残す方が面倒だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

コメント、高評価よろしくお願いします。


YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。

今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。


▼YouTube Shortsはこちら

【YouTubeのURL】

https://youtube.com/channel/UCKWGBcfVzGly66ocn66qdsw?si=HehsNKGWu4fcWrui



続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。

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