第25話「重なる視界」
25話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
透明なシートの上を、黒い線が一本、ゆっくりと伸びていった。
定規の縁に沿って相良がペンを走らせる。
線は旧棟五階西側の廊下を横切り、五二〇号室の入口へ達したところで止まった。
「これが撮影位置の中心」
相良はそう言って、ペン先を数ミリ横へずらした。
「ただし、中心ってだけだ。写真一枚から撮影者の靴の位置まで決められるわけじゃない。床の目地、壁角、消火設備の位置、それとレンズの高さを合わせてる。誤差はこのくらい」
透明シートの上へ、細い楕円が描き足される。
点ではなく、範囲。
その下には拡大された旧棟五階の平面図が敷かれていた。
昨夜まで机の上に並んでいた十九日と二十一日の物品票は、今日は壁際へ追いやられている。
代わりに中央を占領しているのは、建築図面、工事写真、室内寸法表、それに半透明のフィルムが数枚。
病院の施設管理側から借りた会議室は、昨日より少し広い。
長机を二台端へ寄せ、床には養生用の細いテープが貼られていた。
五二〇の扉。
廊下側の壁。
入口。
部屋の奥行き。
現物には遠く及ばないが、紙の上だけで考えるよりは身体の感覚を使える。
窓の外はすでに暗い。
ガラスに映る蛍光灯の白が、夜景の上へ薄く重なっている。
廊下からは時折、ナースステーションらしい低い話し声と、台車の車輪が床を擦る音が届いた。
透真は平面図の横に置かれた問題写真を見る。
十年前。
旧棟五階。
白い服の女性。
十五歳の自分。
僅かに開いた五二〇。
見慣れたはずの一枚なのに、調べるものが変わるたび、写真の意味も少しずつ変わる。
「扉は?」
透真が訊いた。
相良は別の透明シートを重ねた。
「正確な開き角は出せない」
「それは昨日聞きました」
「なら最後まで聞け」
「聞いてます」
「口を挟んでるだろうが」
アリスが机の反対側で笑う。
「仲いいですね」
「どこがです?」
「どこがだ」
透真と相良の声がほとんど同時に返った。
アリスは満足そうに頷いた。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんですか」
「続けるぞ」
相良は露骨に話を切った。
「問題写真と、その直後に撮られた閉状態の写真。扉の厚み、取っ手の見え方、ラッチ側の暗部、それから既存の扉仕様。そこから最小と最大を出した」
透明シート上に、扉を示す二本の斜線が引かれる。
一方は開きが浅い。
もう一方は、それより少しだけ広い。
「この間に収まる可能性が高い」
「結構狭いですね」
アリスが言った。
「全開からは程遠い」
「もちろん誤差はある」
相良が念を押す。
「写真の歪み、撮影位置、レンズ。それに扉が完全な平面とも限らん。だが少なくとも、室内を丸ごと見渡せるほど開いていた可能性は低い」
透真は図面を見る。
五二〇は元一般病室だ。
入口から奥へ細長く伸びる長方形。
扉は廊下側から見て右側を支点に、室内へ向かって開く。
その扉自身が、開いた分だけ室内の一部を隠す。
「視界を引いてください」
「お前は人使いが荒いな」
「相良さんが一番定規の扱い慣れてるので」
「刑事を何だと思ってる」
「今日は製図担当」
「帰れ」
「終わったら」
相良は舌打ちだけして、本当に線を引き始めた。
最小開口。
最大開口。
入口の左右。
人物位置を置かない状態で、廊下側から室内へ通る視線の範囲。
透明シートの上に扇形のような領域が生まれていく。
ただし綺麗な扇ではない。
扉そのものに遮られる場所。
壁際。
入口脇。
室内奥。
見える場所と、見えない場所が明確に分かれる。
アリスが身体を少し前へ傾けた。
長いプラチナブロンドの髪が肩から流れ、薄青のパーカーの外側へ自然に落ちる。
「思ったより見えないですね」
「そうだな」
相良が答える。
「真正面に立って覗けば多少は増える。だが写真の人物位置は真正面じゃない」
「部屋の奥は?」
透真が訊いた。
「この開きならかなり厳しい。最大側で見積もっても、入口寄りから中央の一部までだ」
「扉の裏側は当然見えない」
「ああ」
「反対側の壁際も?」
「角度次第だが、大部分は死角になる」
透真はペンを受け取り、図面の奥側を薄く斜線で塗った。
「ここは候補から外せる」
「何の候補だ」
「誰かが廊下から見ていた対象の位置です」
「まだ誰かが室内の物を見てたとは言ってないぞ」
「なので候補です」
相良は一度だけ透真を見た。
「言い方だけは慎重になったな」
「相良さんが毎回止めるので」
「止めなきゃ勝手に進むだろうが」
「進んだ方が早いでしょう」
「間違ってなきゃな」
それはそうだ。
透真は反論しなかった。
図面上では、五二〇という一つの部屋が二つに分かれていた。
室内として存在する場所。
そして、廊下から見える場所。
昨日までは同じものとして扱っていた。
何が置かれていたか。
ベッド。
点滴台。
可動棚。
カーテン。
サイドテーブル。
だが、扉が僅かにしか開いていなかったのなら、そこに存在したものすべてが、廊下の人物にとって同じ意味を持つわけではない。
「一つは潰れましたね」
透真が言う。
「何がです?」
アリスが問う。
「『部屋全体を見てた』」
アリスの黒い瞳が図面へ戻る。
相良は少し間を置いてから頷いた。
「少なくとも写真の瞬間、廊下から五二〇全体を見るのは無理だった。それは言っていい」
「じゃあ十五歳の僕が言った『部屋を見てました』は」
「日常語としての表現だろ」
相良が遮る。
「入口の方を見てれば『部屋を見てた』と言うことはある。中の何を見てたかまで、あの言葉だけじゃ決まらん」
「ですよね」
透真は、むしろその答えに満足した。
意味が減った。
以前は「部屋」という言葉が広すぎた。
五二〇全体。
扉。
室内。
中にいる何か。
全部が同じ袋へ入っていた。
今は違う。
少なくとも写真の瞬間、廊下から見えるのは限られた範囲だけだ。
なら、もしあの証言が写真と同じ状況を指しているなら。
見ることができた場所は、物理的に狭められる。
「次、人物位置」
相良が写真を手元へ引いた。
「白い女からやる」
写真上の女性は、五二〇の扉に近い。
真正面ではない。
肩の向きも、顔の角度も、画像だけでは確定できない。
相良は以前の位置推定資料を取り出した。
床目地。
壁際との距離。
ドア枠との位置関係。
写真内の見かけの身長。
白い女性の立ち位置も一点ではなく、小さな楕円で図面上へ落とされる。
「ここら辺」
「結構幅ありますね」
アリスが言う。
「人間は杭じゃないからな」
「少しくらい動きますよね」
「写真が切り取った一瞬の前後で歩いてた可能性もある」
「立ち止まってたとも限らない」
透真が言う。
「ああ」
相良は白い女性の位置から、室内へ複数の線を引いた。
近い。
扉に近い分だけ、開口部そのものは大きく見える。
だが近すぎるせいで、扉の板が邪魔になる角度もある。
アリスが線を追いながら、首を傾けた。
「近い方が全部見えるわけじゃないんですね」
「穴に顔を近づければ何でも見えるわけじゃないのと同じだ」
「例えがちょっと怖いです」
「普通の話だ」
「壁の穴を覗く相良さんを想像しました」
「するな」
「僕はしませんでした」
「透真さん今しましたよね?」
「してません」
「嘘です?」
「能力をこんなことで使わないでください」
「使ってませんよ」
「なら分からないでしょう」
「顔で分かります」
「それは能力より嫌ですね」
相良が定規を机へ置いた。
「お前ら、立て」
「はい?」
透真が顔を上げる。
「図面だけで分かりにくいんだろ。床に作ったやつ使うぞ」
会議室の床には、五二〇入口を模したテープが貼られていた。
扉位置。
廊下。
部屋の壁。
室内奥までは長さが足りないため縮尺は少し変えてあるが、入口周辺の角度確認には使える。
相良は壁際に置いてあった軽いパネルを持ち上げた。
「これが扉」
「そこまで準備したんですか」
透真が言う。
「昨日お前が言ったんだろうが」
「ちゃんとやるんですね」
「帰れ」
「褒めてます」
「聞こえん」
アリスが立ち上がった。
「私どこです?」
「白い女」
「役名みたいですね」
「実際そういう扱いだろ」
「白い女役、白峰アリスです」
「自己紹介いらん」
アリスは楽しそうに床の印へ向かう。
相良がテープ上の楕円を指した。
「この辺。正確な一点じゃない。前後十数センチ、横も少し動いていい」
「はい」
「身体は写真の向きに合わせろ。ただし顔向きは決めすぎるな」
「こうですか?」
アリスが立つ。
五二〇扉に近い位置。
身体をわずかに室内側へ向ける。
相良がパネルを写真の最小開口に近い角度へ立てた。
「見えるか」
アリスは少しだけ顎を動かした。
「入口の先は見えます。でも、右奥はほとんど隠れます」
「左は?」
「近いところなら。奥になるほど扉の端と入口の壁で切れます」
「身体を動かさず、目と首だけで見てみろ」
アリスの視線がゆっくり動く。
「これなら少し広いです」
「一歩寄るなよ」
「寄ってません」
「今つま先が動いた」
「二センチです」
「二センチも位置だ」
「細かい」
「その細かいのを調べてるんだろうが」
透真は机の上の図面とアリスを見比べた。
「アリス」
「はい?」
「少し左」
「私が?」
「はい」
彼女が一歩動こうとする。
「一歩じゃなくて、五センチくらい」
「細かいですね」
「相良さん方式です」
「俺を単位みたいに使うな」
アリスが足先を滑らせるように少しだけ位置を変えた。
「そこからどう見えます?」
透真が訊く。
アリスは一度パネル越しに室内側を確認する。
「さっきより入口の正面側が見えます。代わりに扉の裏側はもっと見えません」
「逆に右へ」
「注文が多い」
「白い女性の位置誤差です」
「なら仕方ないですね」
アリスは素直に動いた。
透真は図面へ印を書き足す。
白い女性の視界。
広く取った場合。
狭く取った場合。
どちらでも見える場所。
条件次第で見える場所。
まず一つの範囲ができた。
「次、お前」
相良が透真を見る。
「僕ですか」
「十五歳のお前の位置を確認するんだろ」
「今の僕とは身長が違いますよ」
「分かってる。頭の位置は補正する」
「脚も」
「それもだ」
透真は床の印へ歩いた。
白い女性より数歩離れた場所。
写真の十五歳の自分がいたと推定される範囲。
そこへ立った瞬間、特別な感覚は何もなかった。
記憶が戻るでもない。
胸騒ぎもしない。
ただ、床に貼られたテープが足元にあるだけ。
十年前の自分を再現しているという事実に感傷を抱くには、あまりに会議室が普通だった。
蛍光灯。
机。
コピー用紙。
相良が持つパネル。
アリスが横で図面を見ている。
「今の透真さん、十五歳より高いんですよね」
「さすがに」
「どのくらい?」
「正確には覚えてません」
「身長も?」
「毎年測った数字まで覚えてる人の方が少ないでしょう」
「私は覚えてます」
「そうですか」
「興味なさそう」
「十五歳のアリスの身長を聞いても今の調査に使えないので」
「じゃあ今のは?」
「使えます」
透真はアリスを見る。
「白い女性、あなたより少し高い想定ですよね」
「はい」
「なら視点も少し上」
アリスが一瞬だけ黙る。
「今、普通に私を物差しにしましたね」
「近い身長の人がいるので」
「便利です?」
「かなり」
「褒められてる気がしません」
「褒めてません」
「そこは嘘でも褒めてください」
「事実を扱ってる最中なので」
「そういうところですよ」
相良がパネルの向こうから言った。
「何がだ」
「いえ、相良さんには関係ないです」
「なら俺を巻き込むな」
透真は床の印へ戻った。
十五歳の自分の目線高さを相良がメジャーで概算し、今の透真より少し低い位置に指を置く。
「この辺が当時の目線として見る」
「右脚は?」
アリスが訊いた。
相良が写真へ目を向ける。
「負傷してたのは事実だ。ただ施工業者側には『右脚を庇う様子なし』って記録もある。写真だけで立ち方を決める材料にはしにくい」
「でも完全に無視もしない?」
「ああ。痛みの程度や、その瞬間だけ普通に立ってた可能性もある。だから姿勢の幅を少し広く見る」
透真は右足へ一度体重を移した。
次に左。
どちらも、当然ながら今の自分には違和感がない。
「これで視線まで決めるのは無理ですね」
「そういうことだ」
「なら位置だけ」
相良が頷く。
十五歳の透真の位置は、白い女性より入口から遠い。
その分、開口部は小さく見える。
だが少し離れたことで、扉全体と入口周辺の関係は捉えやすい。
「こっちの方が広く見える場所もありますね」
アリスが言った。
透真はパネル越しに五二〇内部を模した床を見る。
「入口の正面寄りは」
「そうだ」
相良が答える。
「白い女は近い分、角度がつく。十五歳のお前は距離があるから、入口中心方向はむしろ見通しが取りやすい」
「ただし奥は見えない」
「ああ」
「扉の裏も」
「当然」
透真は位置を数センチずらした。
「ここなら?」
「動くなと言う前に自分から動くな」
「誤差確認です」
「先に言え」
「今言いました」
「後だ」
アリスが机に戻り、透明シートを一枚取った。
「二人分、重ねてみません?」
相良が彼女を見る。
「今やる」
「色分けした方が見やすいです」
「色はない」
「鉛筆で薄く塗り分ければ」
透真が床から戻る。
「白い女性の範囲を斜線。十五歳の僕を点でいいんじゃないですか」
「点?」
「点描」
「地味ですね」
「調査なので」
「でも分かりやすそう」
アリスが椅子へ座る。
相良が一枚目のシートに白い女性の視認範囲。
別のシートに十五歳の透真の視認範囲。
それを平面図の上で重ねる。
三人が同時に机へ寄った。
誰かの肩が触れるほどではない。
けれど以前なら透真は、見えづらければ自分だけ位置を変えていた。
今は違った。
「アリス、こっちからどう見えます?」
言ってから、自分が先に彼女へ訊いたことに気づく。
気づいただけだった。
アリスも特別な反応はしない。
「こっちの方が分かりやすいです」
彼女は透真の反対側からシートを押さえた。
「白い人だけ見えるのは、この扉側」
「十五歳の僕だけなら、入口正面寄り」
「はい。でも」
アリスの指が止まる。
二人が同時に見られる場所。
重なる領域。
思っていたより狭い。
五二〇の入口から、室内中央へ少し入った帯状の範囲。
扉の裏ではない。
奥でもない。
壁際でもない。
「ここだけですか?」
「開き角を最大側へ取ればもう少し広がる」
相良がシートをずらす。
「人物位置も誤差の外側へ寄せれば、この辺まで」
「でもどの条件でも共通する場所は?」
透真が訊く。
相良は定規の先で中央寄りの領域を囲った。
「狭く取ればここ」
透真はその形を見る。
小さい。
部屋全体から見れば、ほんの一部だ。
「もし」
アリスが言った。
「二人が同じものを見てたなら」
「前提付きだぞ」
相良が即座に言う。
「はい。もし同じものを見てたなら」
アリスは囲われた領域を見つめる。
「少なくとも、部屋の奥にあるものじゃない可能性が高い」
「そうなる」
「扉の裏も違う」
「写真の瞬間に限ればな」
「入口から見える、この辺」
透真が指を伸ばす。
アリスも同じ場所へ指を伸ばした。
二人の指先が図面上でぶつかりそうになり、アリスが少しだけ止めた。
透真は何も言わず、自分の指を一センチほど横へずらす。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
アリスが共通視界の中心を軽く叩く。
「ここに何があった可能性があるか」
「昨日の続きですね」
透真が言う。
「やっと物に戻るのか」
相良が椅子へ座り直す。
「ただし配置図はない」
「なので作業順」
透真は壁際へ追いやられていた十九日の作業資料を取った。
相良が眉間へ皺を寄せる。
「勝手に触るな」
「昨日も触ってます」
「慣れるな」
「共有資料じゃないんですか」
「俺が集めた資料だ」
「でも見るために集めたんですよね」
「屁理屈だけは一人前だな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
十九日の作業日報。
個別の時刻までは残っていない。
ただ、作業区分と班ごとの順番は一部記載されている。
大型備品。
病室内備品。
小型可動品。
カーテン関連。
一括搬入ではなく、旧棟五階の複数室から順番に運ばれている。
「五二〇の搬入だけ切れます?」
「ここ」
相良が指を差す。
書き方は粗い。
だが作業班の記録と移動票を照合すると、おおよその流れは読める。
まず大型物。
ベッド。
次にサイドテーブル。
可動棚。
点滴台やカーテン類はその後。
「ベッド先」
透真が言う。
「そりゃそうするだろうな」
相良が答える。
「棚を先に入口へ置いたらベッドが通しにくい」
「ベッドは奥へ?」
「普通ならな」
「普通なら」
「そこを忘れるな」
「忘れてません」
アリスが平面図を見ながら訊く。
「ベッド二台を奥に入れたら、どのくらい場所使います?」
相良が寸法表を取る。
当時の標準的な病床ベッドの外寸。
五二〇の室内寸法。
そこへ厳密な家具配置をする必要はない。
二台を完全に横並びにしたか。
縦にずらしたか。
壁寄せしたか。
それは不明。
だが、搬入経路を塞がず、後から他の物を入れるなら、入口を空ける必要がある。
「ベッド二台を最初に入れたなら、少なくとも入口直後へ固定する可能性は低い」
相良が言った。
「後続の物が入らなくなる」
「じゃあ奥側」
「奥寄り、だな。断定はするな」
「相良さん、僕より先に言うようになりましたね」
「お前が言わせるからだ」
透真は透明シート上へ、ベッドの仮配置を薄く描いた。
「この辺」
「それも候補だ」
「はい」
「返事だけはいいな」
「実際分かってるので」
次にサイドテーブル。
小型。
可動。
壁際へ寄せられる。
点滴台はさらに場所を取らない。
カーテン一式や部材はまとめて置ける。
問題は可動棚だった。
二台。
ベッドほど大きくない。
しかしサイドテーブルよりは占有する。
棚そのものの寸法資料は管理台帳に残っていた。
「このサイズなら」
透真は紙片を棚の大きさに切り、図面上へ置いた。
入口脇。
中央寄り。
奥。
三か所。
「奥でも入りますね」
「入るだけならな」
相良が言う。
「搬入した後にどこへ寄せたかは分からん」
「入口脇でも」
「通路幅を確保できる位置なら」
アリスが紙片を一つ動かした。
「ここは?」
「扉に近すぎる」
透真が即座に言う。
「開けた時ぶつかる」
「じゃあ少し内側」
「そこなら」
相良が図面を見る。
「置けなくはない」
「見えます?」
アリスが共通視界のシートを重ねる。
紙の棚が、その斜線の端へかかる。
「一部なら」
透真が言った。
「全部じゃなくて?」
「位置によります」
「向きもだ」
相良が追加する。
「棚の正面をどっちへ向けたかで見える面積は変わる」
「でも」
アリスは紙片を少し回転させた。
「この辺に置かれてたら、二人から見える可能性はある」
「ある」
相良が認める。
その一言の後、誰もすぐには喋らなかった。
空調が一定の音を立てている。
廊下の向こうから、誰かが小走りで通り過ぎる足音がした。
机の上には、透明なシートが三枚重なっている。
五二〇の室内。
白い女性の視界。
十五歳の透真の視界。
そして一枚の小さな紙片。
ただの可動棚。
「でも、これが不一致の棚とは限らない」
透真が自分から言った。
「その通り」
相良が答える。
「十九日に入った二台のどっちがどこへ置かれたかは分からん」
「そもそも写真の時点まで同じ位置にあったとも限らない」
「そうだ」
「二十日の撮影より前に動かされてるかもしれない」
「ああ」
「棚じゃなくてサイドテーブルを見てた可能性もある」
アリスが言う。
「点滴台でも」
「扉そのものでも」
透真が続ける。
「中に誰かいた可能性まで完全には消えてない?」
アリスが相良を見る。
「記録上、誰かがいた証拠はない。だから今の材料でわざわざ人を置く理由もない」
「なるほど」
「存在しないものを増やすな」
「相良さん、私まで透真さんと同じ扱いしてません?」
「最近似てきた」
アリスが透真を見る。
「だそうです」
「困りますね」
「なんでです?」
「二人いたら相良さんが大変でしょう」
「そこか」
相良が低く呟いた。
透真は気にせず、二十一日の搬出記録を開いた。
「逆からも見ましょう」
「二十一日?」
「入口側から出してるなら、配置の参考になるかもしれない」
「搬出順=配置じゃないぞ」
「分かってます」
「ならいい」
二十一日の作業記録も十九日ほど細かくはない。
だが作業班のチェック欄から、大まかな順序は追える。
小型可動品。
可動棚。
サイドテーブル。
ベッド。
分類単位で前後している部分はある。
完全な順番ではない。
それでも、大型ベッドが比較的後ろにある。
「入口から出しやすい物を先に出したようには見えますね」
アリスが言う。
「そう見えるだけだ」
相良が返す。
「作業班を分けてた可能性もあるし、搬出先の都合で順番を変えた可能性もある」
「でもベッドが奥だった可能性とは矛盾しない」
透真が言う。
「矛盾はしない」
「棚が手前寄りだった可能性とも」
「それも」
相良は認めながらも、紙の端を指で叩いた。
「ただし補強止まりだ。十九日の搬入順も二十一日の搬出順も、最終配置を証明する資料じゃない」
「十分です」
「何が」
「絶対に奥にしかなかった、は消せる」
透真は紙片の棚を、共通視界の中へもう一度置いた。
「入口から見えない位置にしか置けなかったわけじゃない」
「それは言っていい」
「むしろ通常の作業順を考えると、少なくとも一台が手前寄りだった可能性はある」
「可能性ならな」
「なら残る」
「何がです?」
アリスが訊く。
「棚」
透真が答える。
「見てた対象の候補として」
相良がすぐ口を挟む。
「候補の一つだ」
「はい」
「そこだけ切り取って『二人は棚を見ていた』にするな」
「しません」
「お前ならやりかねん」
「僕を何だと思ってるんです?」
「面倒な一般人」
「一般人は合ってます」
「そこしか否定しないんですね」
アリスが笑う。
透真は返事をせず、問題写真へ目を落とした。
白い女性。
十五歳の自分。
写真の中で、二人は向かい合っていない。
同じものを見ているとも断言できない。
ただ、五二〇側へ注意を向けている可能性がある。
以前はそれ以上、進めなかった。
写真に写るのは廊下側だけだったからだ。
だが今は、見えないはずの室内側へ薄い輪郭ができている。
ベッドは奥寄りだった可能性が高い。
入口付近には可動品があった可能性がある。
そして白い女性と十五歳の自分が、もし同じ対象を見ていたなら。
その対象が存在できる場所は、五二〇全体ではない。
「これ」
アリスが透明シートを指した。
「思ったより小さいですね」
「何が」
「二人が両方見られる場所」
透真も見る。
「そうですね」
「最初は部屋全部だったのに」
「最初から部屋全部が見えてたわけじゃないです」
「意味の話です」
アリスは写真へ視線を移した。
「『部屋を見てました』って聞いた時、私は勝手に五二〇全体を想像してました」
「僕も似たようなものです」
透真は認めた。
アリスが少しだけ目を見開く。
「今、普通に認めました?」
「何を」
「自分も思い込みがあったって」
「思い込みというか、情報不足です」
「そういう言い換えすると思いました」
「実際そうでしょう」
「はいはい」
相良が写真を指で押さえた。
「音声の言葉はこれ以上広げるなよ」
「広げません」
透真は言う。
「逆です」
「逆?」
「狭めます」
机の上の図面を見る。
「十五歳の僕が言った『部屋』が、写真と同じ状況を指してたと仮定する」
「仮定な」
「分かってます」
「なら続けろ」
「その時、白い女性が見られたのはこの範囲」
透真は斜線の一つを示す。
「十五歳の僕が見られたのはこっち」
次。
「両方が見られたのはここ」
最後に重なる領域。
「もし同じものを見てたなら、この中」
室内全体から見れば狭い。
数歩の幅。
入口寄り。
中央より手前。
「ただし同じ物を見ていた根拠はない」
相良が言う。
「はい」
「白い女が棚を見てた証拠もない」
「はい」
「棚が写真の時刻にそこにあった証拠もない」
「はい」
「気持ち悪いくらい素直だな」
「相良さんが全部言ってくれるので」
「お前が先走らないようにな」
「助かります」
「絶対そう思ってないだろ」
「半分くらいは」
アリスが吹き出した。
「それ私のやつです」
「何が?」
「この前の『半分くらい』」
「借りました」
「返してください」
「減るものじゃないでしょう」
「じゃあ利子つけて」
「何の利子ですか」
「プリン」
「結局そこですか」
「静かにしろ」
相良が言った。
しかし声には、もう本気の苛立ちはなかった。
透真は一度椅子から離れた。
床のテープを見る。
五二〇の入口。
白い女性の位置。
十五歳の自分の位置。
ほんの数メートル。
十年前、そこに実際に立っていた。
らしい。
それでも記憶は戻らない。
足元の感触。
空調の匂い。
廊下の明るさ。
白い女性の声。
何一つ浮かばない。
それに対して焦りもなかった。
思い出せないものを無理に思い出そうとするより、残った記録を使った方が早い。
だからここにいる。
そう考えたところで、透真は一瞬だけ眉を寄せた。
――ここにいる。
以前なら。
相良が調べると言えば、任せていた。
アリスが来ると言えば、好きにすればいいと思っていた。
資料を数時間追い続けるくらいなら、結果だけ聞く方が楽だった。
それなのに今は、床にテープまで貼って視界を測っている。
しかも自分から。
「透真さん?」
アリスの声で思考が途切れた。
「何です?」
「止まってたので」
「考えてただけです」
「思い出しました?」
「いいえ」
「そっか」
それだけだった。
残念そうな声でもない。
期待させるような声でもない。
アリスは透真が思い出せないことを、そのまま受け取った。
「じゃあ」
彼女は床の白い女性位置へ戻った。
「もう一回だけいいです?」
「何を?」
「立つ向き」
相良が見る。
「まだ何かあるか?」
「図面で視界を出す時って、顔が入口を向いてる前提ですよね」
「正確には、その方向を見た場合の視界だ」
「ですよね」
アリスは問題写真を見た。
「でも人って、見たいものがあっても身体全部をそっちに向けるとは限らないです」
「それは分かってる」
「逆もありますよね」
「逆?」
透真が訊く。
「身体が部屋の方を向いてても、目は別のところ」
アリスは自分の身体を五二〇方向へ少し向けたまま、顔だけ透真へ向ける。
「こう」
「普通ですね」
「でしょう?」
「白い女性もそうだった可能性はある」
「はい」
「写真一枚で視線は確定しない」
「そうです」
アリスは次に顔だけ五二〇の方へ戻した。
「でも、もし何かが気になって少し長く見てたなら、肩とか足も少しはそっちに寄ることが多い」
「人によるぞ」
相良が言う。
「はい。だから証拠じゃないです」
「なら何が言いたい」
「写真の二人って」
アリスは少し考える。
「少なくとも、五二〇と完全に無関係な方向を向いてるようには見えないですよね」
相良は写真を見た。
「そこは以前からそう見てる。ただし精度は高くない」
「はい」
「で?」
「二人とも五二〇側に注意を向けてた可能性がある。でも同じ物を見てたかは分からない」
「そうだ」
「なら」
アリスが透明シートの二つの視界を見る。
「同じ物を見てた場合と、別々の物を見てた場合、両方残した方がいいですよね」
透真は彼女を見る。
「当然でしょう」
「でもさっきから共通部分ばっかり見てます」
一瞬。
透真は黙った。
相良が小さく鼻を鳴らす。
「その通りだな」
「……共通部分を出すのが目的だったので」
「目的に引っ張られてるぞ」
相良が言う。
「二人が同じ対象だったと仮定した時の場所を絞る。それはできた」
「はい」
「だが別々のものを見てたなら、白い女にしか見えない範囲も、十五歳のお前にしか見えない範囲も残る」
透真は図面を見る。
確かに。
謎を狭めることばかり考えていた。
同じものを見ていた可能性があるなら、共通範囲を出せばいい。
効率がいい。
だがその仮定自体が正しいとは限らない。
透真はペンを取った。
「なら三つに分ければいい」
「三つ?」
アリスが近づく。
「白い女性だけが見える場所」
一つ目。
「十五歳の僕だけが見える場所」
二つ目。
「両方見える場所」
三つ目。
透真は透明シートの端にそれぞれ印を書いた。
「同じ対象なら三つ目。別なら一つ目と二つ目も残す」
「全部残ったじゃないですか」
アリスが言う。
「部屋全体よりは狭いです」
「そういう話です?」
「そういう話です」
相良が笑いを噛み殺したような息を吐いた。
「結局減らすんだな」
「減らせるなら」
「徹底してるな」
「増えるよりいいです」
透真は椅子へ戻った。
しばらく三人で、各領域と仮配置を照合した。
ベッドは奥寄り。
点滴台は複数あり、位置特定には向かない。
サイドテーブルは小さく、どこにでも置ける。
カーテン類は畳まれていた可能性が高く、視界対象として扱うには材料が弱い。
可動棚は二台。
そのうち少なくとも一台が入口寄りに置かれていた可能性は、搬入順と搬出順の双方から否定しにくい。
ただし二台のどちらかは分からない。
十九日と二十一日で管理番号が繋がらなかった一台かどうかも分からない。
それでも。
昨日まで「棚が一台合わない」だけだった情報が、今日は初めて空間の中へ置けるようになった。
「ここまでですね」
透真が言った。
相良が腕時計を見る。
「珍しく自分から終わるのか」
「この先は同じ資料見ても増えません」
「今度は増やすのが目的みたいに言うな」
「情報の話です」
「分かってる」
アリスはまだ平面図を見ている。
「棚が見えたかもしれない」
「可能性は」
透真が訂正する。
「はい。可能性は」
「不一致の棚かは不明」
「はい」
「二人が棚を見てたとも不明」
「それも」
「ちゃんと覚えてるじゃないですか」
「相良さんが横にいるので」
「俺は注意書きか」
「便利です」
「帰れ」
アリスが声を立てずに笑う。
透真は透明シートを一枚ずつ外していった。
白い女性。
十五歳の自分。
共通視界。
最後に残るのは旧棟五階の平面図だけ。
何も重ねなければ、ただの部屋だ。
四角い病室。
入口。
廊下。
十年前にはそこに備品が詰め込まれていた。
大部分は普通だった。
一台だけ記録が繋がらない。
そして、その棚が入口から見える位置に置かれていた可能性は消えなかった。
「相良さん」
「今度は何だ」
「十九日の搬入班」
相良の表情が変わる。
「何だ」
「記録、残ってるんですよね」
「作業班の区分はある。個人名までどこまで出るかはまだ見てない」
「配置を決めた人は?」
「それも不明」
「現場判断なら班長か工事責任者?」
「病院側の指示だった可能性もある」
「施設管理?」
「あり得る」
「じゃあそこ」
透真が言った。
「どこだ」
「次に見るところです」
相良が目を細める。
「棚じゃなく?」
「棚の場所が分からないなら、置いた側を見た方が早いでしょう」
「十年前だぞ。覚えてる保証はない」
「聞くとは言ってません」
「じゃあ?」
「記録です」
透真は十九日の作業日報を指した。
「誰がどの班で、誰の指示で五二〇へ入れたか。配置ルールがあったか。作業後に確認した人がいたか」
「また増えたな」
「一個です」
「三つ言ったぞ」
「全部『誰が配置を作ったか』の中です」
「まとめ方が雑だ」
「大分類です」
相良が一瞬黙った。
アリスが耐えきれずに笑った。
「第24話の仕返しです?」
「何が?」
「大分類」
「たまたまです」
「絶対たまたまじゃない」
「証明できます?」
「そうやって私の能力使わせようとするのずるいです」
「使わなくていいです」
相良が資料を一つ閉じた。
薄い紙が重なる音が、静かな会議室へ小さく響く。
「分かった」
透真が見る。
「何がです?」
「十九日の作業班と指示系統。病院側の立会いがあったか。配置確認が残ってるか。そこまで見る」
「ありがとうございます」
「素直に礼言うと気味悪いな」
「じゃあ撤回します」
「しなくていい」
アリスが透真を見る。
「透真さん」
「何です?」
「人、探すんですね」
「記録です」
「でも、その先に人がいますよね」
「当時の人が見つかれば」
「会います?」
透真は少し考えた。
以前なら、即座に相良へ任せると言っていたかもしれない。
十年前の作業員。
病院職員。
施設管理。
わざわざ会う理由はない。
記録で済めばその方がいい。
「必要なら」
透真は答えた。
アリスが目を細める。
「へえ」
「何です?」
「いえ」
「言いたいなら言ってください」
「透真さん、前だったら『相良さんが聞けばいいでしょう』って言いそうだなって」
透真は黙った。
相良が横から口を挟む。
「今でも言いそうだぞ」
「言いますよ」
「言うんだ」
アリスが笑う。
「でも」
透真は平面図を畳みながら続けた。
「僕がいた方が確認しやすい内容なら行きます」
「例えば?」
「十五歳の僕の位置とか、音声の言い方とか。途中で説明し直す方が面倒なので」
「はいはい」
「何ですその返事」
「別に」
「何か含みあります?」
「ありません」
「嘘です?」
「能力を逆に使おうとしないでください」
「僕には使えません」
「残念でした」
透真はそれ以上追わなかった。
資料をまとめる。
相良が透明シートを重ねてファイルへ戻す。
アリスは床に貼られたテープを見ていた。
「これ、剥がします?」
「明日も使うかもしれん」
相良が答える。
「じゃあ残すんですね」
「ああ」
「五二〇が一晩ここに残る」
「言い方が怖いんですよ」
透真が言う。
「ただのテープでしょう」
「雰囲気です」
「病院でそういう雰囲気作らないでください」
「透真さん怖いんです?」
「面倒なのが嫌なだけです」
「幽霊出たら?」
「帰ります」
「逃げるんだ」
「当然でしょう」
アリスは少し笑った。
その返事には、何もおかしいところはない。
透真にとって逃げることは、今も特別なことではない。
面倒なら離れる。
危険なら避ける。
必要がなければ関わらない。
それでいい。
ただ。
机の上には、自分で書き込んだ線が残っている。
白い女性の視界。
十五歳の自分の視界。
二人が共有できたかもしれない狭い範囲。
逃げるなら。
この時点で相良へ全部渡して帰ればいい。
それでも透真は、次に調べるべきものを決めていた。
自分の意思で。
その事実をわざわざ言葉にする理由はなかった。
理由をつけるなら簡単だ。
ここまで調べて、配置を作った側だけ残す方が面倒だから。
それだけで十分だった。
相良が会議室の照明を一列消した。
蛍光灯の数が減り、机の上の紙が少し暗くなる。
透真は最後に問題写真を手に取った。
白い女性。
十五歳の自分。
僅かに開いた五二〇の扉。
十年前の自分の声が、短く脳裏を通る。
――部屋を見てました。
以前は、その「部屋」が何を指すのか分からなかった。
今も、完全には分からない。
けれど少なくとも。
写真の瞬間。
白い女性から見えた場所。
十五歳の自分から見えた場所。
両方から見えた場所。
それらはもう、部屋全体ではない。
透真は写真をファイルへ戻した。
「相良さん」
「まだあるのか」
「十九日の作業班」
「ああ」
「個人名より先に、指示系統からお願いします」
「何でだ」
「十年前の記憶を頼るより、当時の運用を見た方が早いので」
相良は少しだけ考えた。
「配置を現場が勝手に決めたのか、病院側が指定したのか」
「はい」
「指定があったなら記録が残ってる可能性がある」
「残ってなくても、誰が決める運用だったかは分かるかもしれない」
「で、その次に人」
「必要なら」
相良はため息をついた。
「分かった」
透真は頷いた。
アリスが隣から訊く。
「じゃあ次は、人ですか?」
「まだです」
「まだ?」
「人の前に」
透真は閉じられた作業日報を指した。
「誰が人を動かしてたかです」
アリスは一瞬考え、それから笑った。
「細かいですね」
「範囲を減らしてるので」
「またそれ」
「便利でしょう」
「かなり」
今度はアリスが同じ言葉を返した。
透真は少しだけ口元を緩める。
会議室の外で、遠くエレベーターの到着音が鳴った。
夜の病院は静かだった。
十年前の五二〇も、おそらく特別な部屋ではなかった。
中にあったものの大半は分かった。
廊下から見える場所も分かり始めた。
白い女性と十五歳の透真。
二人が同じものを見ていたかどうかは、まだ分からない。
けれど。
もし同じものを見ていたなら。
その場所は、もう五二〇全体ではない。
入口から数歩先。
二人の視界が重なる、限られた範囲。
そしてそこには、普通の備品が置かれていた可能性がある。
ただ一台。
前後の記録が繋がらない可動棚も、その候補からは消えなかった。
それ以上は、まだ言えない。
だから次に見るべきなのは棚そのものではない。
棚をそこへ置いた可能性のある側。
十年前。
八月十九日。
五二〇の中へ物を運び込み、その部屋の形を作った人間たち。
見えなかった場所は、また一つ狭くなった。
なら、その次も同じだ。
全部を追う必要はない。
残った場所だけを見ればいい。
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YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。
今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。
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続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。




