第21話「閉ざされた部屋」
21話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
午後六時四十七分。
大場泰然は、久世透真の机の上に置かれた紙袋を見て、しばらく何も言わなかった。
正確には、紙袋そのものを見ていたわけではない。
紙袋から半分だけ覗いている、コンビニのプリンを見ていた。
それから透真を見る。
もう一度プリンを見る。
「……久世」
「はい」
「俺は昨日、なんて送った?」
透真はパソコンの画面から目を離さなかった。
「いくつか来てましたね」
「都合の悪いメッセージを複数形にして薄めるな」
「便利なので」
「会社戻れるなら戻ってこい、って送ったよな?」
「見ました」
「既読ついてたから知ってる」
「じゃあ確認いらないじゃないですか」
「そういう話じゃねえ」
低い声だった。
大柄な身体と強面のせいで、知らない人間が聞けば怒鳴る直前に見える。
だが透真は気にせず、マウスを動かした。
昨日一日ほとんど手をつけられなかった広告案件の修正データが、モニターの中央に開かれている。
文字位置を二ミリ右へ。
画像を少し下へ。
クライアントから来た修正指示は全部で七つ。
そのうち五つまで終わっていた。
世界には、十年前の自分が知らない女と閉鎖予定の病院旧棟に立っていた理由より、今日中に二ミリ動かさなければならない文字が存在する。
それはそれで、妙に安心できた。
「で」
大場が言った。
「なんでプリン買ってきた?」
「昨日の件です」
「謝罪か?」
「口止め料です」
「安いな俺」
「二百三十八円です」
「具体的に言うな」
向かいの席から、小さな笑い声がした。
沙莉がパソコン越しに顔を出す。
「大場さん、それ結構いいやつですよ」
「問題は値段じゃねえんだよ」
「じゃあ私が食べます」
「なんでだよ」
「要らないんですよね?」
「要らないとは言ってない」
「面倒くさいですね」
「お前ら、最近俺に遠慮なくなってないか?」
「元からです」
透真が答えると、大場は数秒黙った。
「久世」
「はい」
「お前だけは本当に元からだな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
沙莉がまた笑った。
プリン一個を挟んで三人が話している。
電話が鳴る。
コピー機が紙を吐き出す。
空調の吹き出し口から乾いた風が流れてくる。
窓の外では、夕方の大阪が少しずつ夜へ変わり始めていた。
昨日、自分の十五歳の声を聞いた。
白い人です。
そこ。
誰もいないぞ。
十年前の自分が見ていたものと、現在の自分が見ているもの。
その間に十年という時間がある。
それでも会社へ来れば、昨日までと同じ仕事が机に積まれている。
透真はそのことを悪くないと思った。
「それで」
大場がプリンを手に取った。
結局食べるらしい。
「病院の方は?」
透真の指が、一瞬だけ止まった。
沙莉は何も聞かなかった。
大場も詳しい説明を求める顔ではなかった。
「調べてもらってます」
「今日も行くのか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「連絡待ちです」
「仕事は?」
「七時半までには終わります」
大場は壁の時計を見た。
「あと四十分だぞ」
「三十五分あれば終わります」
「五分余るじゃねえか」
「帰る準備があります」
「お前の鞄、そこに置いてるだけだろ」
透真は答えず、次の修正箇所をクリックした。
そのとき。
机の上のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、透真の手が止まる。
相良修司。
大場も気づいたらしい。
「行ってこい」
「まだ何も言ってませんけど」
「その顔で仕事の電話じゃねえことくらい分かる」
「どんな顔ですか」
「面倒事が向こうから走ってきた時の顔」
「いつもと同じですね」
「だから分かるんだよ」
透真はスマートフォンを取った。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『久世か』
「はい」
相良の声の向こうで紙を動かす音がした。
『昨日言ってた五二〇だが、いくつか出た』
透真は椅子の背から身体を離した。
「何がです?」
『電話で説明すると余計ややこしい』
「嫌な言い方ですね」
『俺もそう思う』
数秒の間。
『今から来られるか』
透真は時計を見た。
午後六時五十三分。
パソコンを見る。
残り二箇所。
「一時間くらいなら」
大場が横から言った。
「二時間でも三時間でも行ってこい」
透真はスマートフォンの送話口を手で塞いだ。
「社長、そういうこと言うと本当に帰ってきませんよ」
「昨日で分かってる」
「じゃあ学習してください」
「お前が言うな」
電話の向こうで相良が咳払いした。
『話、まとまったか』
「まとまってませんけど行きます」
『病院の資料室だ。昨日と同じところじゃない。正面で連絡しろ』
「分かりました」
通話を切る。
透真がスマートフォンを机へ置くより先に、沙莉が訊いた。
「何か分かったんですか?」
「まだ分かりません」
「でも行くんですよね」
「行かないと何が分かったのか分からないので」
「普通のこと言ってるのに、久世さんが言うと珍しく聞こえますね」
透真は沙莉を見た。
「失礼ですね」
「褒めてます」
「大場さんと同じこと言ってますよ」
「じゃあ褒めてないな」
大場がプリンの蓋を開けながら言った。
透真は小さく息を吐いた。
スマートフォンを持ち上げる。
メッセージアプリを開いた。
白峰アリスとの画面。
昨日までなら、少し考えたかもしれない。
来るかどうか。
伝える必要があるか。
そもそも自分から連絡する必要があるのか。
今日はほとんど考えなかった。
『相良さんから連絡ありました。520の資料が出たそうです。今から病院行きます』
送信。
数秒後。
既読。
さらに数秒。
『私も行きます』
透真は画面を見た。
『正面玄関』
それだけ返した。
「……自然になったな」
大場が言った。
透真は顔を上げた。
「何がです?」
「いや」
大場はプリンを一口食べた。
「こっちの話だ」
「そうですか」
透真は追及しなかった。
残り二箇所の修正を終わらせる。
三十四分後。
予定より一分早かった。
*
午後八時十二分。
病院の資料室には、古い紙特有の匂いがあった。
現在使用されている病棟から渡り廊下を一本隔てた管理区域。
窓は小さく、天井には白色灯が並んでいる。
金属製の棚。
保存箱。
ファイル。
製本された図面。
十年前の病院が、紙という形に変わってここへ積み上げられているようだった。
透真が到着した時、アリスはすでに正面玄関の脇に立っていた。
先に来ていた理由を訊くと、
「近かったので」
と答えた。
たぶん本当だった。
それ以上は聞かなかった。
今は二人並んで長机の前に座っている。
正面には相良。
その隣には病院の施設管理担当者がいる。
昨日まで見ていた資料より、一回り大きな青焼きの図面が机いっぱいに広げられていた。
相良が指で一箇所を叩いた。
「ここだ」
旧棟五階。
廊下。
病室。
倉庫。
スタッフ用スペース。
そして。
廊下の端に近い場所に記された数字。
520。
透真は図面へ身体を寄せた。
写真の中では、背景の一部に過ぎなかった数字。
今は違う。
壁の厚さがある。
扉の位置がある。
廊下からの距離がある。
隣室との境界がある。
五二〇号室は、初めて具体的な広さを持った。
「普通の病室ですか」
透真が訊いた。
施設管理担当者が古い台帳を開いた。
「元々は、です」
「元々?」
「旧棟がまだ通常運用されていた時期は一般病室です。ただ、閉鎖前に用途が変わっています」
相良が別の紙を透真の前へ滑らせた。
「これが病室用途変更台帳」
透真は文字を追った。
旧棟五階。
520。
一般病室。
その横に、変更を示す線。
「……物品一時保管室」
アリスが読み上げた。
「そうです」
施設管理担当者が頷く。
「旧棟の段階的な閉鎖に伴って、空いた病室へ備品を集めていたようです。ベッドの一部、点滴台、未使用の収納棚、カーテン類。そういうものですね」
透真は図面へ視線を戻した。
「じゃあ患者はいなかった」
「八月二十日の時点では、少なくとも入院患者を置く病室としては使用されていません」
相良が言った。
「そこは複数の記録で一致した」
一枚目。
病床管理記録。
二枚目。
看護側の病室運用表。
三枚目。
旧棟閉鎖に伴う移動計画。
どれにも520へ患者名はない。
空床。
患者配置なし。
用途変更済。
三つの資料が、同じ事実を示していた。
透真はしばらく紙を見た。
十年前。
自分はそこへ行った。
白い人は、自分より先にいた。
部屋を見ていた。
だがその部屋は、その日。
誰かが治療を受けている場所ではなかった。
「一つ確定だ」
相良が言った。
「八月二十日、五二〇は患者用の病室じゃない。患者の入室記録もない。病院側では物品一時保管室として扱われてた」
透真は椅子へ背を戻した。
普通だった。
少なくとも、説明だけを聞けば。
閉鎖予定の病棟。
使わなくなった病室。
そこへ不要になる備品を集める。
珍しくもない。
「じゃあ」
アリスが写真のコピーを取り出した。
昨日、透真が相良から受け取ったものと同じ写真だった。
「ここにいたこと自体は、不自然じゃないんですか?」
相良が眉を寄せる。
「誰がだ」
「この女性です」
「だから同一人物とは――」
「分かっています」
アリスは静かに遮った。
「白い人と、この写真の女性が同じ人だとは決めてません」
相良が黙る。
アリスは写真を指先で押さえた。
「写真に写っている人が、ここにいた理由です」
施設管理担当者が写真を見る。
「職員なら、あり得なくはないですね。備品確認なら」
「白衣の人も?」
「看護師が物品確認に入ることはあります。ただ……」
担当者は写真へ顔を近づけた。
「これ、白衣ですか?」
透真も見る。
何度も見た写真。
白い服。
女性。
胸元から垂れているように見える銀色。
白衣だと思えば白衣に見える。
だが輪郭は粗い。
十年前の写真をさらにコピーしたものだ。
「私服にも見えますね」
アリスが言った。
「そうなんです。丈も、この画質だと分からない」
相良が腕を組んだ。
「だから服装から職種は絞れん。白い服を着てる。それ以上は今のところ言えない」
「工事の人は?」
透真が訊いた。
「制服が違う」
相良が答えた。
「当日の業者は会社ごと確認した。少なくとも現場へ入ってた主要業者の標準服に、こういう白い服はない。ただし私服で来た人間や、病院側の人間まで否定はできん」
「患者」
アリスが言う。
「可能性はある。付き添いもな。ただ、旧棟五階へ自由に行けたかは別問題だ」
相良はそこで別のファイルを開いた。
「で、次が鍵だ」
紙をめくる音が、資料室に乾いて響いた。
透真は無意識に姿勢を直した。
相良がそれに気づいたのかどうかは分からない。
「五二〇は物品保管へ用途変更された時点で、常時施錠対象になってる」
「常時?」
「原則だ」
施設管理担当者が補足する。
「患者さんが入る必要のない部屋でしたから。転倒や備品の持ち出し防止もあります。特に閉鎖準備中の区域では、使っていない部屋を開けたままにしない運用だったようです」
透真は写真を見た。
写真では扉の全体が鮮明ではない。
「鍵は誰が持ってたんです?」
「そこが少し面倒だ」
相良が鍵管理表を出した。
旧棟五階。
共通管理鍵。
個別鍵。
貸出。
返却。
いくつもの欄がある。
「病院の鍵ってのは、ホテルみたいに一部屋一本をフロントで管理してるわけじゃない。部署用の共通鍵もあれば、施設管理が持ってるものもある。工事期間中は業者へ一時貸出することもある」
「じゃあ誰でも開けられた可能性がある?」
「逆だ。誰でもじゃない。開けられる人間が複数いた可能性がある」
相良は指で欄をなぞった。
「だから、鍵が掛かっていたから誰も入れない、とは言えない」
透真は小さく頷いた。
普通の説明が、また一つ残った。
白い女性が病院関係者だった。
520の備品を確認しに来た。
鍵を持っていた。
十五歳の透真が偶然そこへ来た。
それだけなら、何もおかしくない。
相良がそう考えるのも分かる。
むしろ、その方がいい。
十年前の自分が誰もいない場所で存在しない人間と会話していた、などという話より、遥かに扱いやすい。
「当日の貸出は?」
透真が訊いた。
相良は答えず、施設管理担当者を見た。
担当者が一冊の薄いファイルを開いた。
「八月二十日分は残っています」
透真とアリスが同時にそちらを見る。
「ただし、520専用という記録ではありません。五階西側区画の管理鍵としての貸出です」
「誰に?」
「施設管理担当と、工事責任者です」
「看護側は?」
「病棟用の共通鍵を持っていた可能性があります。当時の運用規程ではそうなっています」
相良が言った。
「つまり鍵だけじゃ人間を特定できん」
「便利じゃないですね」
透真が言う。
「捜査ってのは大体そういうもんだ」
「ドラマと違いますね」
「お前、俺に何を期待してた」
「別に」
「腹立つな」
アリスが小さく笑った。
その音で、張っていた空気が少しだけ緩んだ。
透真は時計を見る。
午後八時四十一分。
会社を出てから何も食べていないことに気づいた。
同時に、机の端に置かれた小さな紙袋が目に入る。
自分が持ってきたものではない。
「白峰さん」
「はい」
「それ何です?」
「パンです」
「いつ買ったんですか」
「来る途中です」
「またですか」
「また?」
「昨日も飲み物買ってたので」
アリスは少し考えた。
「今日は久世さんの分じゃないですよ」
「そうですか」
「私のです」
「じゃあ聞かなければよかったです」
「でも二つあります」
透真は彼女を見る。
アリスは何でもないような顔で紙袋を開いた。
「一つ食べます?」
「自分のじゃないんですよね」
「今から一つは久世さんのです」
「所有権ってそんな簡単に移るんですね」
「嫌なら食べませんけど」
透真は二秒考えた。
「食べます」
相良が呆れた顔をした。
「お前ら、ここ資料室だぞ」
「食べちゃ駄目なんですか?」
「紙の上で食うな」
「そこは気をつけます」
透真は図面を避けて、端の空いた場所へパンを置いた。
アリスが渡したのは、小さなクロワッサンサンドだった。
「昨日は私が買ったので」
アリスが言う。
「今日は別にいいですけど」
透真は財布を出した。
「いくらです?」
「いりません」
「じゃあ次は僕が買います」
言ってから。
透真自身が一瞬止まった。
アリスも、ほんの少しだけ目を動かした。
「……はい」
それだけだった。
相良は聞こえなかったふりをして資料をめくっている。
透真はパンを一口食べた。
余計なことを言った気がした。
だが訂正するほどのことでもない。
それより。
「写真の時間は?」
透真が訊いた。
相良の手が止まった。
「そこまで戻るか」
「戻ってません。昨日頼んだ順番です」
「食いながら言うな」
透真は咀嚼して飲み込んだ。
「写真の時間は?」
「しつこいな」
「自分が写ってるので」
相良は溜息をついた。
だが、その口元が僅かに動いた。
「正確な時刻は残ってない」
透真は黙って待った。
「ただし、かなり絞れた」
相良が透明なファイルから三枚の写真を出した。
透真が見たことのない写真だった。
新しい謎ではない。
同じ記録写真の前後。
一枚目。
旧棟五階の廊下。
工事用の養生シート。
二枚目。
壁際に置かれた資材。
三枚目。
見覚えのある写真。
十五歳の透真。
白い服の女性。
銀色の鎖。
そして520。
「連番だった」
相良が言う。
「元写真そのものに時刻データは残ってない。デジタルデータも現存してない。ただ、工事会社の写真台帳に管理番号がある」
相良は別紙を置いた。
写真番号。
撮影区画。
作業内容。
「前の写真が、五階西側廊下の養生確認」
指が一段下へ動く。
「問題の写真が、同じ区画の作業前状況」
さらに下。
「次が五二〇前の資材移動後」
透真は顔を上げた。
「じゃあ、この写真は僕らを撮ったんじゃない?」
「少なくとも台帳上は違う」
相良が答えた。
「人物を撮影する目的じゃない。工事前の廊下状況を残すための記録写真だ」
アリスが写真を手に取った。
「だから二人ともカメラを見てない」
「可能性はある」
相良がすぐに釘を刺す。
「工事記録なら、撮影されてることに気づいてなかっただけでも説明できる。視線だけで何を見てるかは断定するな」
「時間帯は?」
透真が訊いた。
「作業日報と照合した」
相良が紙を一枚出した。
「この区画で作業前確認を始めたのが午後二時台。資材移動の開始記録がその後にある。前後の写真番号と作業順が一致してる」
「何時から何時くらいです?」
「広く取って、午後二時十分から二時五十分」
透真の手が止まった。
午後二時台。
十五歳の自分が旧棟五階にいた時間帯。
相良と接触する前後。
あの聞き取りへ繋がる出来事と、切り離された写真ではない可能性が高くなった。
十年前の同じ日の、どこか別の時間。
そういう逃げ道が狭くなった。
「完全には確定できない」
相良が言う。
「写真番号が撮影順通りに付けられた前提だ。後から整理した可能性もゼロじゃない」
「その可能性は?」
「業者に確認した。通常は現場で連番撮影して、後で台帳に貼る。同じ区画の写真が順番通り並んでる。少なくとも、夕方撮った写真を午後の束へ適当に突っ込んだ可能性は低い」
透真は三枚を順番に並べた。
一枚目。
廊下。
二枚目。
自分と女性。
三枚目。
資材。
写真の主役は人ではなかった。
廊下だった。
工事前の状態だった。
だから、二人がそこに写ったこと自体は偶然だった可能性が高い。
その再解釈は小さい。
だが重要だった。
誰かが十五歳の透真と白い女性を意図して撮影したのではない。
少なくとも現存する記録上は。
写真は二人を追っていたのではなく。
二人が、記録される場所にいた。
「これ」
アリスが言った。
写真を平面図の横へ移す。
「位置、分かりませんか?」
相良が見る。
「何の位置だ」
「撮った人です」
相良の眉が動いた。
アリスは写真の左端を指した。
「この壁と、ここに少しだけ写ってる扉」
次に平面図。
「廊下の形が同じなら、撮影した人はこの辺りですよね」
施設管理担当者が身体を寄せた。
「……そうですね」
相良はすぐには同意しなかった。
「待て。図面と写真じゃ縮尺が違う」
「分かっています」
「レンズの歪みもある」
「はい」
「壁の改修が途中で入ってた可能性もある」
「それも確認できますか?」
相良がアリスを見る。
アリスはただ待っている。
数秒後。
「できる」
相良は施設管理担当者へ向いた。
「改修図、旧図と変更図あります?」
「あります。少し待ってください」
担当者が棚へ向かう。
相良はアリスを見る。
「写真だけで決めるなと言っただろ」
「だから図面を見ています」
「……そうだな」
透真は少しだけ口元を緩めた。
「相良さん、負けました?」
「何にだ」
「別に」
「お前今日ちょいちょい腹立つな」
数分後。
二種類の図面が並んだ。
旧棟閉鎖前。
改修準備時。
壁位置に大きな変更はない。
扉位置も一致している。
写真に写った壁の継ぎ目。
廊下の角。
消火設備の箱。
それらを一つずつ照合する。
相良は定規まで持ち出した。
「撮影者は……この範囲だな」
平面図上の一点ではない。
幅のある範囲。
廊下の中央より少し東側。
「そこから撮ると」
アリスが写真を見る。
「520は正面じゃない」
透真も気づいた。
写真だけを見ていた時。
520という数字が目立った。
だから、そこが写真の中心に近いように感じていた。
だが図面上で撮影位置を置くと違う。
520の扉は、廊下に対して少し斜めに写り込んでいる。
白い女性はその手前。
十五歳の透真はさらに数歩離れた位置。
「二人とも、520の前に立ってるわけじゃない」
透真が言った。
「そうだな」
相良が答える。
「少なくともお前は離れてる」
「女性は?」
「扉の横だ」
アリスが写真を見つめた。
「……横」
その声が少しだけ変わった。
透真が彼女を見る。
アリスは写真から目を離さない。
「どうしました?」
「久世さん」
「はい」
「この人、本当に扉を見てます?」
相良がすぐに言った。
「また視線か」
「視線だけじゃないです」
アリスは女性の肩を指した。
「身体の向きです」
透真は写真を受け取った。
白い女性。
顔は鮮明ではない。
横顔に近い。
肩。
胴体。
身体の軸。
520の扉に対して、完全な正面ではない。
少しずれている。
「扉の横……?」
透真が呟いた。
相良は平面図を見た。
「図面じゃ分からんぞ。壁しかない」
「写真を拡大できます?」
透真が訊いた。
「元データがないって言っただろ」
「コピーじゃなくて、現存する一番原本に近い写真です」
相良が黙った。
「ありますよね?」
「ある」
「見せてください」
「今ここにはない」
「どこです?」
「県警の保管資料だ」
「じゃあ――」
「明日だ」
透真は口を閉じた。
相良が先回りした。
「今から取りに行ける時間じゃない」
「そうですか」
「露骨に嫌そうな顔するな」
「明日また来るの面倒なので」
「知らん」
アリスが写真を見ながら言った。
「でも、その前に確認できることがあります」
「何だ?」
「520の扉の横って、当時何があったんですか?」
施設管理担当者が図面を覗き込む。
「廊下側ですか?」
「はい」
「今の図面だと……特に設備表記はないですね」
「十年前の写真では?」
三枚を並べる。
問題の写真。
前の写真。
後ろの写真。
透真も見る。
壁。
扉。
部屋番号表示。
養生。
薄い影。
だがコピーでは潰れている。
「分かりませんね」
担当者が言った。
相良も頷く。
「拡大しないと無理だ」
透真は写真を置いた。
少しだけ苛立った。
答えが出ないからではない。
確認する方法があるのに、今できないからだ。
以前なら。
そこで終わっていたかもしれない。
相良が調べる。
結果が出れば聞く。
出なければ、それまで。
自分から一つ一つ追う理由などない。
十年前のことだ。
忘れているなら、忘れたままでも生きていける。
実際、十年間そうしてきた。
透真は椅子へ深く座った。
その時。
施設管理担当者が鍵管理表を閉じようとして、手を止めた。
「あれ」
相良が顔を上げる。
「どうしました?」
「いや……」
担当者はもう一度表を開いた。
「五二〇、常時施錠って言いましたよね」
「言いましたね」
「これ、病棟運用規程です」
別の冊子を引き寄せる。
ページをめくる。
「物品一時保管室へ用途変更した部屋は、原則施錠。これは間違いないです」
「例外は?」
相良が訊く。
「搬入、搬出、棚卸し、施設点検。その間は当然開けます」
「八月二十日は?」
「物品移動記録を見れば……」
担当者が別ファイルを開く。
紙を一枚ずつ確認する。
その動きが途中で遅くなった。
「ないですね」
「何が」
「五二〇への搬入出」
資料室が静かになった。
「当日?」
透真が訊いた。
「はい。八月十九日に一度あります。二十一日にもある。でも二十日はない」
相良がすぐに言う。
「記録漏れは?」
「あり得ます」
担当者は即答した。
「十年前ですし、閉鎖作業中です。全作業が完全に残っているとは言えません」
相良が頷く。
「点検は?」
「施設点検表を確認します」
また紙。
今度は相良も手伝った。
数分間、誰も喋らなかった。
紙の擦れる音だけが続く。
空調が一度止まり。
部屋が妙に静かになった。
やがて相良が一枚を抜いた。
「五階西側、午後」
施設管理担当者が確認する。
「廊下設備ですね。室内点検ではないです」
「じゃあ五二〇を開ける理由にはならない」
「記録上は」
相良がその言葉を拾った。
「そこ大事だな。記録上は、だ」
「はい」
透真は写真を見た。
520。
扉。
白い女性。
十五歳の自分。
「施錠されていた?」
「待て」
相良が言った。
「そこまでまだ言えん」
透真を見る。
「原則施錠。二十日に開けた記録が今のところ見つからない。だからといって、写真撮影時に確実に施錠されてたとは限らん」
「誰かが鍵を持ってたかもしれない」
アリスが言った。
「そうだ。看護師、施設管理、業者。開けられる人間はいた。記録なしで短時間開けた可能性もある」
「閉め忘れ」
透真が言う。
「ある」
「記録漏れ」
「ある」
「誰かが勝手に開けた」
「可能性としてはある」
「鍵を持ってる人が520を見てた」
「それも可能性だ」
「じゃあ普通に説明できますね」
相良は少しだけ目を細めた。
「今のところはな」
普通に説明できる。
その言葉は、安心できるはずだった。
なのに。
アリスは写真から目を離していなかった。
「でも」
「何です?」
透真が訊く。
「開いてるんですか?」
透真は彼女を見る。
「何が」
「扉です」
相良も写真を見る。
「このコピーじゃ分からん」
「完全に開いてるかどうかじゃなくて」
アリスは指先を写真へ近づけた。
触れない程度で止める。
「扉の位置です」
透真も顔を寄せた。
520の扉。
古い病院でよく見る、片開きの扉。
廊下側から見える縁。
枠。
影。
写真が粗いため、これまで誰もそこを重要視していなかった。
数字の520。
女性。
銀色の鎖。
十五歳の透真。
目立つものばかりを見ていた。
だが。
「図面」
透真が言った。
相良が平面図を寄せる。
「扉、どっちに開きます?」
施設管理担当者が図面記号を見る。
「室内側ですね」
透真は写真を見る。
もう一度図面。
「この黒い部分」
「影かもしれん」
相良が言う。
「扉と枠の隙間にも見えます」
アリスが言った。
「コピーじゃ決められない」
「だから原本が必要」
透真が言った。
相良は返事をしなかった。
否定できないのだろう。
透真は三枚の写真を並べ直した。
前。
問題の写真。
後。
そこで、別のことに気づいた。
「相良さん」
「何だ」
「この次の写真」
「資材移動後だ」
「520の扉、写ってますよね」
全員の視線が三枚目へ移った。
写真の端。
520。
一部だけ。
人はいない。
資材が移動され、廊下が少し広く見える。
透真は問題の写真と三枚目を交互に見る。
「同じじゃない」
相良が身を乗り出した。
「何がだ」
「扉の見え方」
二枚を隣り合わせる。
撮影位置は完全には同じではない。
角度も違う。
だから単純比較はできない。
それでも。
問題の写真では、扉の縁に細い暗部がある。
後の写真では、それがほとんど見えない。
「角度だ」
相良が言った。
「その可能性はあります」
透真は答えた。
「光も」
「あります」
「写真の劣化も」
「あります」
透真は相良を見る。
「だから原本で確認した方が早いですね」
相良は何も言わなかった。
数秒後。
「……明日手配する」
「お願いします」
即答した透真を、相良が見た。
「来る気か?」
「何がです?」
「原本確認」
「来ますけど」
「仕事は」
「終わらせます」
「昨日も今日も病院だぞ」
「知ってます」
「面倒なんじゃなかったのか」
透真は写真へ視線を戻した。
「面倒ですよ」
白い服の女性。
十五歳の自分。
520。
「でも、同じ写真をまた明後日見る方が面倒なので」
相良はしばらく透真を見ていた。
やがて何も言わず、資料をまとめ始めた。
アリスだけが少し笑った。
「何です?」
透真が訊く。
「何でもないです」
「最近それ多くないですか」
「久世さんもよく言います」
「そうでした?」
「はい」
透真は覚えていなかった。
時計は午後九時を過ぎていた。
施設管理担当者が資料を片づけ始める。
今日分かったことは、派手ではない。
520号室は存在した。
十年前の八月二十日。
そこは患者用病室ではなかった。
旧棟閉鎖に伴う物品一時保管室。
原則施錠。
その日の患者使用記録はない。
搬入出記録もない。
そして写真は、人物を目的に撮影されたものではなかった可能性が高い。
工事前状況を残すための記録写真。
午後二時台。
十年前の自分と白い女性は。
撮られるために、そこにいたわけではない。
ただ。
そこにいた。
透真は椅子から立った。
写真のコピーを手に取る。
昨日まで、この写真を見る時。
最初に女性を見ていた。
次に自分。
それから520。
今は逆だった。
520を見る。
扉を見る。
その横を見る。
最後に、二人を見る。
「白峰さん」
「はい」
「昨日の音声」
アリスが透真を見る。
「白い人、何て言ってましたっけ」
相良が顔を上げた。
「お前が言ったんだろ」
「言葉を確認したいだけです」
アリスは少し考えた。
「『部屋を見てました』」
「扉を見てた、じゃない」
「はい」
「中を見てた、とも言ってない」
「言ってません」
相良が腕を組む。
「十五歳のお前が、そう表現しただけだ。そこから細かい意味を拾いすぎるな」
「分かってます」
透真は写真を机へ戻した。
白い女性の身体は、520へ向いているように見える。
だが正確には。
520のどこへ向いていたのか。
まだ分からない。
部屋そのもの。
扉。
扉の横。
あるいは。
そこにあった何か。
そして十五歳の自分も。
カメラを見ていない。
女性を見ていない。
図面と写真を重ねれば、その身体の向きは520側へ寄っている。
偶然かもしれない。
十年前の自分が何か別のものを見ていただけかもしれない。
白い女性と同じものを見ていたという証拠はない。
それでも。
「相良さん」
「今度は何だ」
「明日、原本だけじゃなくて」
相良が嫌そうな顔をした。
「増やすな」
「一個だけです」
「言ってみろ」
透真は平面図を指した。
520。
正確には、その扉。
「鍵の記録、もう少し前後まで見せてもらえます?」
相良の目が細くなる。
「前後?」
「八月二十日だけじゃなくて、その前後」
「何を見る」
「520が普段どう開けられてたのか」
透真は写真を指先で押さえた。
「原則施錠なら、普段誰が、どういう時に開けてたのか分かった方が早いので」
施設管理担当者が考える。
「貸出記録と搬入出記録を合わせれば、ある程度は」
「お願いします」
透真はすぐに言った。
「あと」
相良の眉間に皺が寄る。
「一個じゃなかったのか」
「これは今の話の続きです」
「便利な言い方覚えたな」
透真は気にしなかった。
「当時の鍵って、形まで分かります?」
その瞬間。
自分で言った言葉が。
頭の中に引っかかった。
鍵。
古い鍵。
これまで別の場所に置いていた記憶が、520という数字の横へ移動する。
透真は黙った。
アリスが気づく。
「久世さん?」
「……いえ」
「何か思い出しました?」
「思い出したというか」
透真は少し迷った。
そして、やめなかった。
「前に出てきた古い鍵」
相良の表情が変わる。
「まさか、お前」
「520の鍵だとは言ってません」
先に否定する。
「形が合うとも思ってません。そもそも鍵穴の種類も知らないので」
「なら何だ」
「確認できるなら、確認しておいた方がいいかなと」
透真は写真を見る。
女性の胸元。
光を拾う銀色。
鎖のように見える何か。
それが鍵なのか。
装飾なのか。
名札なのか。
そもそも女性の持ち物なのか。
何一つ分からない。
だからこそ、決めない。
決めずに確認する。
「鍵の型と管理番号が残ってるか調べる」
相良が言った。
「ただし期待するな。十年前だ」
「してません」
「即答すんな」
「期待すると面倒なので」
「お前の人生、面倒で大体説明できるな」
「便利ですよ」
資料室を出る。
廊下の白色灯は半分ほど落とされていた。
夜の病院は静かだった。
遠くでワゴンの車輪が床を転がる。
エレベーターの到着音。
ナースステーションから漏れる声。
現在の病院には、今も患者がいて。
職員がいて。
誰かが誰かを治療している。
十年前に閉鎖された旧棟とは違う。
エレベーターを待ちながら、アリスが言った。
「久世さん」
「はい」
「明日、何時ですか?」
透真は彼女を見る。
「来るんですか?」
「行きます」
「仕事とかないんですか」
「あります」
「じゃあ仕事してください」
「久世さんもです」
「僕は自分が写ってるので」
「私は自分で行くと決めてるので」
透真は黙った。
正論だった。
少なくとも、追い返す理由にはならない。
エレベーターの数字が下がってくる。
七。
六。
五。
「時間分かったら連絡します」
透真が言った。
「はい」
四。
三。
「あと」
「はい?」
「明日は僕が何か買います」
アリスが一瞬だけ目を丸くした。
「パンですか?」
「別にパンじゃなくても」
「じゃあプリン」
透真は彼女を見る。
「なんでプリンなんですか」
「大場さんに買ったんですよね?」
「口止め料です」
「私にも何か口止めすることあります?」
「ないです」
「じゃあ普通に買ってください」
「理屈がおかしくないですか」
扉が開いた。
アリスは先に乗った。
「嫌ならいいです」
透真も乗る。
「嫌とは言ってません」
扉が閉まる直前。
透真はもう一度、手に持った写真へ目を落とした。
520。
十年前の八月二十日。
患者のいなかった部屋。
物品保管室。
原則施錠。
開けられた記録は、今のところない。
それなのに。
白い人は、その部屋の前にいた。
十五歳の自分も、そこへ行った。
そして偶然撮られた写真の中で。
二人とも、カメラを見ていない。
白い女性が見ていたのは、透真ではない。
十五歳の透真が見ていたのも、彼女ではないかもしれない。
今まで。
この写真に写っている「人」を見すぎていた。
誰なのか。
なぜいるのか。
本当に存在したのか。
だが、写真そのものは最初から人物を記録していなかった。
工事前の廊下。
つまり。
場所を記録していた。
エレベーターが下降する。
透真は写真を鞄へ入れようとして。
一度だけ手を止めた。
白い女性の胸元。
銀色の細い光。
その先は、写真の粗さに溶けている。
鍵だとは限らない。
むしろ、そうではない可能性の方が高い。
それでも。
確認できる。
520の鍵が、どんな鍵だったのか。
十年前。
誰が持てたのか。
そして。
写真が撮られた午後二時台。
本当にその扉は、閉じていたのか。
一階へ到着する直前。
透真はスマートフォンを取り出した。
相良との通話履歴を開く。
一瞬だけ迷って。
短いメッセージを送った。
『明日、520の鍵穴の型も分かればお願いします』
送信。
すぐに既読がついた。
返事。
『増やすな』
透真は画面を見たまま、小さく息を吐いた。
もう一度入力する。
『ここまで来て残す方が面倒なので』
数秒。
『分かった』
透真はスマートフォンをポケットへ戻した。
エレベーターの扉が開く。
明るい一階ロビーの向こうに、夜の街が見えた。
十年前から残っていた写真は。
白い女の写真ではなかった。
十五歳の自分の写真でもなかった。
少なくとも、本来の目的は違った。
あれは。
520号室の前を記録した写真だった。
そしてその偶然の一枚に。
本来、患者がいるはずのない部屋を見つめる二人が残っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
コメント、高評価よろしくお願いします。
YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。
今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。
▼YouTube Shortsはこちら
【YouTubeのURL】
https://youtube.com/channel/UCKWGBcfVzGly66ocn66qdsw?si=HehsNKGWu4fcWrui
続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。




