第20話「声の向こう側」
20話目になります。
よろしくお願いします。
『世界から逃げる男』のショート映像をYouTubeでも公開しています。
本編とあわせて、映像でも世界観を楽しんでもらえたら嬉しいです。
翌朝。
午前八時四十一分。
久世透真のスマートフォンが震えたのは、駅前のコンビニを出た直後だった。
八月の朝は、まだ九時にもなっていないというのに容赦がない。自動ドアが閉じた途端、それまで背中にまとわりついていた冷気が切れ、代わりに湿気を含んだ熱がシャツの表面へ貼りついてくる。
右手にはアイスコーヒー。
左手にはスマートフォン。
画面に表示された名前を見て、透真は歩道の端で足を止めた。
相良修司。
昨夜、別れる前に聞いた言葉が頭をよぎる。
明日の朝には、媒体の所在が分かる。
見つからなければ、それで終わりではない。
だが、見つかった場合は。
透真は通話ボタンを押した。
「はい」
『久世か』
電話越しの相良の声は、昨日より少し低かった。
「違ったらどうするつもりだったんですか」
『お前の番号に掛けてる』
「じゃあ確認する必要ないでしょう」
数秒、沈黙があった。
『……朝から面倒くせえな、お前』
「電話してきたの相良さんですよ」
『見つかった』
透真の指が止まった。
コンビニの前を自転車が通り過ぎる。前籠に買い物袋を載せた女性が、日差しを避けるように帽子のつばを押さえていた。
ありふれた朝だった。
だからこそ、その一言だけが妙に浮いた。
「音声ですか」
『ああ』
相良はすぐには続けなかった。
『媒体番号も一致した。保管記録も残ってる。今、再生できる状態にしてもらってる』
「何時です?」
『九時半には来られるか』
透真は腕時計を見る。
「行けます」
答えてから、少し離れた場所へ視線を向けた。
駅の改札へ続く歩道。
その向こうから、白峰アリスが歩いてくる。
プラチナブロンドの髪が朝日に反射し、人混みの中でも妙に見つけやすい。片手には小さな紙袋、もう片方には二本のペットボトルが入った透明な袋を持っていた。
昨夜、待ち合わせの時間だけは決めていた。
音声が見つからなければ、そのまま別の資料を確認する。
見つかったなら、聞きに行く。
透真だけではなく、アリスもそう決めた。
「白峰さんも一緒です」
『……分かった。着いたら連絡しろ』
そこで通話は切れた。
透真がスマートフォンを下ろした頃には、アリスがすぐ前まで来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
アリスは透真の顔を見る。
それから、その手にあるスマートフォンへ視線を移した。
「相良さんですか?」
「はい」
「ありました?」
透真は一拍だけ置いた。
「見つかったそうです」
アリスの表情は大きく変わらなかった。
ただ、透明な袋を持つ指が僅かに強くなる。
「……そうですか」
「九時半です」
「じゃあ、間に合いますね」
それだけ言うと、アリスは袋から一本のペットボトルを取り出した。
無糖のアイスティーだった。
透真へ差し出す。
「どうぞ」
透真は自分の右手を見る。
アイスコーヒー。
次に、アリスの手にあるアイスティーを見る。
「ありますけど」
「知ってます」
「じゃあ、なんで買ったんです?」
「昨日、コーヒーばっかり飲んでたからです」
「監視されてました?」
「見てただけです」
「それを監視って言うんじゃないですか」
「違います」
「どう違うんです?」
「監視は仕事です。私は自主的です」
「余計怖いですよ」
アリスが小さく笑った。
結局、透真は受け取った。
昨日までなら一度断っていたかもしれない。
そんなことを考えるほどのことでもないので、透真はアイスティーを鞄へ入れた。
「行きますか」
「はい」
二人は並んで駅へ向かった。
歩き出してしばらくしてから、アリスが訊いた。
「緊張してます?」
「何にです?」
「自分の声を聞くことに」
「自分の声なんて毎日聞いてますよ」
「十年前のです」
透真は前を向いたまま答えた。
「それは自分の声なのか微妙ですね」
「本人なんでしょう?」
「記憶にないなら、感覚的には他人に近いでしょう」
「でも久世透真です」
「らしいですね」
アリスはそれ以上追及しなかった。
電車がホームへ滑り込む音が近づいてくる。
透真は歩く速度を僅かに落とした。
隣にいるアリスが、それに合わせたことには気づいていた。
何も言わなかった。
*
午前九時二十八分。
案内された部屋は、昨日資料を確認した場所より少し狭かった。
窓のない小さな会議室。
長机が二つ。
椅子が六脚。
壁際には古い書類棚があり、その上で空調機が低い音を立てている。
机の中央にはノートパソコンと、小型の再生機器。
その隣に、透明な保管ケースが置かれていた。
相良は既にいた。
昨日と同じシャツだった。
ただし襟元の皺は増えている。
「寝ました?」
透真が訊くと、相良は書類から顔を上げなかった。
「三時間」
「それは寝たに入るんですか」
「目を閉じて意識がなかった。十分だ」
「気絶との区別が難しいですね」
「朝から元気そうで安心したよ」
「普通です」
「お前の普通は信用してねえ」
アリスが椅子を引きながら言った。
「私もです」
「なんでそっちにつくんですか」
「事実なので」
透真は小さく息を吐き、空いている椅子へ座った。
その直後、自分がアリスの隣を選んだことに気づいた。
別に意味はない。
再生機器が正面に見える位置がそこだった。
そういうことにしておいた。
相良は透明なケースを机の中央へ置いた。
「先に確認する」
ケースの中には小さな記録媒体が収められている。
十年前のものだからといって、博物館に置かれるような代物ではない。傷があり、ラベルの端が少し黄ばんでいる程度で、見た目だけならただの古い記録媒体だった。
相良が紙資料を一枚横へ置く。
「昨日見つけた記録だ」
透真は視線を落とした。
見覚えのある文字。
『久世透真・現場聞取補助』
その下。
『音声媒体参照』
相良は媒体のラベルと紙資料を指で交互に示した。
「参照番号は一致。録音日は八月二十日。場所は病院内の臨時確認室。作成者は当時の現場班。保管移管の記録も残ってる」
「途中で入れ替わった可能性は?」
透真が訊く。
相良は僅かに眉を上げた。
「俺が言う前に聞くな」
「同じこと考えてたなら省けるでしょう」
「省くな。確認しろ」
相良は別の紙を引き寄せた。
「媒体そのものの管理番号は、当日の記録簿と一致してる。後年の移管記録にも同じ番号がある。別日の音声を間違えて突っ込んだ可能性はゼロとは言わんが、少なくとも記録上はない」
「編集は?」
「今朝、データ化する時に確認させた。明確な切断や継ぎ足しの痕跡はない。ただし十年前の録音だ。専門鑑定までやったわけじゃないから、『絶対に編集されてない』とまでは言わん」
アリスが媒体を見る。
「つまり」
相良が頷いた。
「現時点では、八月二十日に病院で録音された久世透真の現場聞き取りとして扱っていい」
透真は何も言わなかった。
相良はさらに一枚、紙をめくった。
「それと本人の特定についてだが、音声だけで判断したわけじゃない。当日の聞き取り対象者一覧、病院側から渡された患者情報、担当者の記録が一致してる。十五歳。久世透真。病室も一致」
「声紋とかは?」
「十年前のお前の比較対象がない」
「ですよね」
「今のお前と似てるから本人、なんて雑なことはしねえよ」
「安心しました」
「お前に言われると腹立つな」
相良が再生機器へ手を伸ばした。
その指が、再生ボタンの上で一度止まった。
「久世」
「はい」
「一応言っとく。途中で止めたければ言え」
透真は相良を見る。
その隣で、アリスは何も言わない。
大丈夫ですか、とも。
本当に聞きますか、とも。
ただ待っていた。
透真が何を選ぶのかを。
「再生してください」
相良がボタンを押した。
最初に聞こえたのは、低いノイズだった。
空調のような音。
遠くで何かが動く音。
紙が擦れる。
椅子の脚が床を引っ掻いた。
そして。
『名前、確認するぞ』
相良の指が止まった。
十年前の自分の声だった。
現在より少し若い。
当然だ。
それでも話し方には、現在の相良へ繋がるものがある。
声の張り方。
質問する前の短い間。
相手の答えを急かさない癖。
『久世透真』
少年の声が答えた。
透真は瞬きをしなかった。
自分の声。
そう認識するまで、僅かに時間が掛かった。
高い。
今より細い。
だが、不思議なほど知らない声ではなかった。
録音の中で相良が続ける。
『十五歳。間違いないな』
『はい』
『病室は五階』
『はい』
『今日はどこまで行った』
少し間がある。
『旧棟』
『そこは分かってる。旧棟のどこだ』
『廊下です』
『廊下は長いんだよ』
『じゃあ、長い廊下です』
現在の相良が片手で額を押さえた。
アリスが横を見る。
透真は再生機器を見たまま言った。
「何です?」
「……いや」
「何か?」
「十年前から面倒くせえなと思ってな」
「僕も今、少し思いました」
「本人が言うな」
アリスの口元が僅かに緩む。
だが音声は続いている。
『ふざけなくていい。何階まで行った』
『五階』
『階段で?』
『たぶん』
『たぶん?』
『途中から覚えてないです』
そこで、現在の透真の指先が僅かに動いた。
記憶にない。
今の自分が十年前についてそう言うのではない。
十五歳だった自分自身が、その日のうちにそう答えている。
相良も気づいたらしい。
しかし再生は止めなかった。
『右脚、痛むか』
『今は少し』
『歩けるのか』
『歩けます』
『病院からは車椅子って聞いてる』
『そうですね』
『じゃあどうやって旧棟まで行った』
再び間。
今度は少し長かった。
録音の向こうで衣擦れの音がする。
少年の透真が椅子に座り直したようにも聞こえた。
『歩いたと思います』
『思います?』
『戻ってきた時は歩いてたから』
部屋の空気が僅かに変わった。
現在の透真は机の上に置かれた資料へ目を落とす。
右脚負傷。
車椅子。
歩行許可。
そして旧棟側の記録。
『右脚庇う様子なし』
相良が再生を止めた。
「ここだ」
「はい」
透真は短く答える。
相良が紙資料を引き寄せた。
「病院側の記録じゃ、お前は右脚を痛めてた。歩行そのものは禁止されてない。ただ、長距離移動は車椅子を使わせてた」
「それは前に確認しました」
「ああ。で、旧棟の業者記録には『右脚庇う様子なし』」
アリスが再生機器を見る。
「でも本人は、『戻ってきた時は歩いてた』と言ってる」
「そうだ」
「行った時じゃなくて?」
相良がアリスを見る。
アリスは言葉を選ぶように続けた。
「『歩いて旧棟へ行った』とは言ってません。『戻ってきた時は歩いてたから、歩いたと思う』です」
透真は再生機器へ視線を戻した。
「その前、もう一回いいですか」
相良が巻き戻す。
『じゃあどうやって旧棟まで行った』
『歩いたと思います』
『思います?』
『戻ってきた時は歩いてたから』
再び停止。
透真はアイスコーヒーの蓋へ指を置いた。
氷はかなり溶けている。
飲むことはしなかった。
「行きは覚えてない」
「そう聞こえるな」
相良が答える。
「それに、歩けたことと痛みがなかったことは別だ。痛み止めの影響もある。興奮状態だった可能性もある。庇ってなかったって業者の観察自体が正確だった保証もない」
「はい」
「だから脚については、これだけじゃ何も確定しない」
「でも」
アリスが言った。
「十年前の透真さん自身も、移動の一部を覚えてなかったことは分かります」
相良は数秒考え、頷いた。
「そこまでは言っていい」
透真は黙っていた。
知らない自分。
その表現は、少し違うのかもしれない。
十年前の自分もまた、自分自身について知らない部分を持っていた。
そのことだけが、妙に引っ掛かった。
「続けてください」
透真が言う。
相良は一度だけ透真の顔を見て、再生を再開した。
*
音声はしばらく、旧棟内部の確認へ続いた。
煙を見たか。
焦げた臭いはしたか。
誰かが走っていたか。
扉は開いていたか。
警報は鳴っていたか。
十五歳の透真は、分かることには短く答え、分からないことには分からないと言った。
妙に大人びているわけではない。
相良に質問を重ねられると、少し苛立った声になる。
『さっきも言いました』
『確認だ』
『同じ答えです』
『十回聞いたら変わるかもしれん』
『じゃあ十回聞くんですか』
『必要ならな』
『面倒ですね』
現在の透真が小さく眉を寄せた。
「……似てますね」
アリスが言った。
「どこがです?」
「そこです」
「どこです?」
「そういうところです」
「便利な答えですね」
相良が鼻から息を吐いた。
「十年前のお前の方がまだ可愛げがある」
「十五歳相手に何を求めてるんですか」
「少なくとも今より素直だ」
音声の中で、少年の透真が水を飲むような音がした。
そのあと、別の話題へ移る。
『旧棟から戻ったあと、誰かと話したか』
『看護師さん』
『高瀬さんか』
『名前は知らないです』
『ほかには』
『警察の人』
『俺だろ』
『たぶん』
『たぶんって何だよ。さっきから俺が聞いてるだろ』
『だから今は分かります』
現在の相良が目を細めた。
その声に、僅かな引っ掛かりがあった。
十年前の相良も同じだったのかもしれない。
録音の中で、紙をめくる音がする。
『高瀬さんが言ってたんだが』
そこで相良の手が僅かに動いた。
透真も気づいた。
アリスの表情から笑みが消える。
『お前、戻ってきた時、一人じゃなかったのか』
音声の中の少年は、すぐには答えなかった。
だが迷っているというより、質問の意味を考えているような短い沈黙だった。
『一人じゃないです』
現在の相良の指が、机の端を押さえた。
録音は続く。
『俺といた時の話か?』
『違います』
『じゃあ誰といた』
一秒。
二秒。
ノイズの向こうで、遠くから金属製の何かが閉じる音がした。
そして十五歳の透真は、ごく普通の声で答えた。
『白い人です』
誰も動かなかった。
録音だけが先へ進む。
『……白い人?』
十年前の相良の声。
『はい』
『誰だ、それ』
『分かりません』
『名前は?』
『聞いてないです』
『病院の人か』
そこで少年の透真は少し間を置いた。
『たぶん違います』
『なんで』
『病院の人なら、あんなところに一人でいないと思うから』
『お前もいたんだろ』
『僕は患者なので』
『患者なら余計いちゃ駄目だろ』
『それはそうですね』
椅子の軋む音。
そして、少年の透真が続ける。
『でも、白い人は先にいました』
相良が再生を止めた。
空調の音が戻ってきた。
いや、ずっと鳴っていたのだろう。
音声へ意識を奪われていただけだ。
透真は再生機器を見たまま動かなかった。
白い人。
その言葉そのものは、特別なものではない。
名前ではない。
誰かを特定できる呼称ですらない。
だが。
十年前の透真は、確かに言った。
一人ではない。
相良ではない。
白い人。
そして、その人物は自分より先に旧棟にいた。
「……高瀬さんの記憶と」
アリスがゆっくり口を開いた。
「一致しますね」
相良はすぐには頷かなかった。
「質問があったことは一致する」
「回答もです」
「回答の内容は、高瀬さん自身が明確には覚えてなかった」
「名前じゃなくて、呼び方だった気がする、と言ってました」
「ああ」
相良は机の上の紙へ目を落とした。
「そこまでは合う」
透真はまだ再生機器を見ていた。
やがて言った。
「そこ、もう一回お願いします」
相良が顔を上げる。
「久世」
「『一人じゃなかったのか』の前から」
「少し休むか」
「必要ないです」
「急ぐ話じゃない」
「十年経ってますよ」
相良は黙った。
透真は視線を上げた。
「今さら十分遅いでしょう」
声を荒げたわけではない。
それでも相良は数秒、透真を見た。
アリスは何も言わない。
大丈夫かと尋ねることもしない。
透真の手元へ、さっき渡したアイスティーを置いただけだった。
透真は無意識にキャップへ手を掛ける。
一口飲んだ。
冷たかった。
「もう一回お願いします」
今度は相良も止めなかった。
巻き戻す。
再生。
『高瀬さんが言ってたんだが』
『お前、戻ってきた時、一人じゃなかったのか』
『一人じゃないです』
『俺といた時の話か?』
『違います』
『じゃあ誰といた』
『白い人です』
二度目。
透真は音ではなく、間を聞いていた。
質問から回答までの時間。
声の揺れ。
息遣い。
思い出そうとしているのか。
考えているのか。
作っているのか。
『白い人です』
ほとんど迷っていない。
アリスも同じところを見ていたらしい。
再生が止まると、彼女は小さく言った。
「思い出した呼び方じゃないですね」
相良がアリスを見る。
「どういう意味だ」
「名前を忘れていて、代わりに特徴で呼んだようには聞こえませんでした」
「それは印象だ」
「はい。だから事実だとは言いません」
アリスは机の上で両手を重ねた。
「でも、『誰だったかな』と考えてから白い人と言ったんじゃなくて、質問の意味を確認して、そのまま答えてます」
透真も同じことを感じていた。
白い人。
その呼び方が、少年にとって既に成立している。
まるで二人の間では、それで十分だったように。
相良は腕を組んだ。
「まず普通の可能性から潰す」
誰も反対しなかった。
「一つ。十五歳のお前が嘘をついた」
「理由は?」
透真が訊く。
「知らん。怒られると思った、誰かを庇った、話を早く終わらせたかった。子供が警察に嘘をつく理由なんざいくらでもある」
「あり得ますね」
「二つ。誤認。病院職員を患者か何かと勘違いした」
「白衣なら『白い人』でもおかしくないです」
アリスが言う。
「そうだ。三つ。質問そのものを取り違えた。俺たちは旧棟で一緒だった相手を聞いたと思ってるが、本人は別の時間帯の誰かを答えた可能性がある」
透真が再生機器へ目を向ける。
「でも直前が旧棟から戻ったあとの話です」
「ああ。だから可能性は低い。ただゼロにはしない」
相良は指を一本ずつ折る。
「四つ。俺以外の警察関係者。五つ。高瀬さん以外の病院関係者。六つ。そもそも『白い人』が一人の人間を意味してたのかどうか」
「最後は?」
「服を掛けた何か、マネキン、見間違い。十五歳の子供の表現だ。『人』と言ったから人間だと決めつける必要はない」
「なるほど」
透真は否定しなかった。
その方がいい。
簡単に異常へ飛ぶより、普通の答えが残っているなら全部確認した方が早い。
相良は鞄から別のファイルを出した。
昨日見たものだった。
旧棟の安全確認表。
紙の角に細かな折れがある。
相良は目的の箇所を開き、机の中央へ滑らせた。
『患者側二名、警察一名通行のため作業停止』
三人の視線が同じ行へ集まる。
「こっちは警察の聞き取りとは別系統だ」
相良が言った。
「旧棟で作業していた業者側の安全確認表。事故防止のために人の通行を記録してた」
透真は文字を追う。
「書いた人は?」
「昨日の段階では生存確認まで。今朝、連絡も取れた」
アリスが顔を上げる。
「覚えていたんですか?」
「そこまで都合よくねえよ」
相良は苦い顔をした。
「十年前の一日のことなんか細かく覚えてない。本人もそう言ってる。ただし、書き方については確認できた」
「患者側、ですか」
「ああ」
相良は記録の一行を指で叩いた。
「本人によると、当時は工事関係者以外を大きく『病院側』『患者側』『警察・消防』で分けて書くことがあった。患者本人と付き添いが一緒なら患者側二名。患者と家族でも二名。患者と病院の職員なら、基本は患者一名、病院側一名と分ける」
透真の視線が止まる。
「基本は?」
「現場の手書きだ。絶対じゃない。看護師が私服だったり、見分けがつかなければ患者側でまとめることもあり得るって本人も言ってる」
「つまり、二名とも患者だったとは限らない」
「そうだ」
「でも」
アリスが紙を見る。
「少なくとも、書いた人には二人に見えた」
相良は頷いた。
「そこはいい」
空調の低い音が続く。
相良はもう一枚、当日の警察側記録を横へ置いた。
「さらに警察一名」
透真が言う。
「相良さん」
「当時の配置と俺自身の記録から見て、その可能性が高い。絶対とまでは言わんがな」
「なら三人です」
「記録上はな」
透真。
相良。
そして、もう一人。
高瀬の記憶。
業者の記録。
十五歳の透真自身の声。
同じものを記録するために作られた資料ではない。
目的も違う。
作成者も違う。
それでも、それぞれが同じ場所の空白へ近づいている。
相良は腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言う。
「高瀬さんの記憶違いだけでは説明できなくなった」
透真は相良を見る。
「昨日もそこまでは来てましたよ」
「ああ」
相良は視線を返した。
「今日はその先だ」
机の上の三つの資料。
高瀬の証言を書き留めた記録。
業者の安全確認表。
そして、今再生した音声。
「少なくとも八月二十日、十五歳の久世透真は、俺とは別の存在を認識していた。それを自分の口で『白い人』と呼んでる」
相良は一度そこで言葉を切った。
「それが誰だったのか。本当に人間だったのか。業者が見た二人目と同一だったのか。そこまでは確定できん」
「はい」
「だが、お前が誰かを認識していたこと自体は、もう高瀬さん一人の記憶には依存しない」
透真は返事をしなかった。
代わりに、音声媒体を見る。
十年前の自分。
記憶にいない自分。
その自分が、自分の知らない誰かを知っている。
奇妙なのは、そのことよりも。
少年の声に、恐怖がなかったことだった。
白い人。
まるで、そこにいたこと自体は不思議でも何でもなかったように。
*
午前十一時七分。
音声の残りを確認する前に、相良が一度休憩を入れた。
透真は廊下の自動販売機の前に立っていた。
買うつもりはない。
手にはアリスから渡されたアイスティーが残っている。
少し離れた壁際で、アリスがスマートフォンを確認していた。
やがて画面を消し、透真の隣へ来る。
「会社、大丈夫ですか?」
「大場さんから三回来てます」
「電話?」
「メッセージです」
「何て?」
透真は画面を見せた。
一件目。
『今日は来るのか?』
二件目。
『来ないなら先に言え』
三件目。
『あと廉がプリン食った』
アリスが数秒黙った。
「最後、必要ですか?」
「たぶん一番重要なんでしょう」
「誰のプリンです?」
「大場さんじゃないですか」
「怒ってるんですか?」
「知らないです」
透真は返信欄を開いた。
『昼過ぎまで戻れません。プリンは本人同士で解決してください』
送信。
すぐ既読がついた。
返事は、
『冷たいな』
だった。
アリスが笑う。
透真はスマートフォンをポケットへ戻した。
「戻ります?」
アリスが訊く。
一瞬、何を指しているのか分からなかった。
会社か。
部屋か。
「まだ音声残ってますよね」
「はい」
「じゃあ、そっちです」
「仕事は?」
「あとから怒られます」
「逃げないんですか?」
透真はアリスを見る。
アリスは何気なく訊いたような顔をしていた。
透真はペットボトルのキャップを締める。
「怒られるのは逃げても追ってくるので」
「なるほど」
「それに」
透真は会議室の扉へ視線を向けた。
「ここまで聞いて、途中だけ相良さんから説明される方が面倒です」
アリスは一度だけ頷いた。
「じゃあ、戻りましょう」
二人は同時に歩き出した。
*
残りの音声は、先ほどまでより短かった。
相良は再生前に時刻を確認し、紙資料とのずれが数分以内であることを確かめる。
正式な供述調書ではない。
あくまで現場の情報整理。
だから会話も途切れ途切れで、途中には別の警察官が相良を呼ぶ声や、廊下を誰かが通る足音も入っていた。
『その白い人とは話したのか』
十年前の相良。
『少し』
『何を』
『忘れました』
『またそれか』
『覚えてないものは仕方ないでしょう』
『どこで会った』
そこで少年の透真が少し黙る。
『五階』
『旧棟の?』
『はい』
『どの辺だ』
『端の方』
『部屋に入ったか』
『……たぶん』
『何号室』
長めの沈黙。
『分かりません』
相良が一度再生を止めた。
「ここは分からんな」
透真も頷く。
五階。
旧棟。
端。
それだけでは場所を絞れない。
「続けてください」
再生。
『白い人は何してた』
『立ってました』
『どこに』
『部屋の前』
『お前を待ってたのか』
『違うと思います』
『なんで』
『僕を見てなかったから』
透真の眉が僅かに動く。
『じゃあ何を見てた』
その質問に対する返答は、少し聞き取りにくかった。
衣擦れと、遠くの声が重なる。
相良が音量を上げる。
『……部屋』
『部屋?』
『はい』
『どの部屋だ』
『だから分かりません』
『番号見てないのか』
『見たかもしれないけど、覚えてないです』
そこで遠くから相良を呼ぶ声が入る。
録音の向こうの相良が返事をする。
椅子が動く。
『久世、ここで待ってろ。まだ終わってない』
『長いです』
『お前が勝手に旧棟行くからだろ』
『僕のせいですか』
『半分くらいな』
『じゃあ半分帰っていいですか』
現在の相良が目を閉じた。
「殴りてえ」
「十五歳ですよ」
「今のお前をだ」
アリスが笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
音声はそこで数十秒、ほとんど会話がなくなる。
遠くの足音。
紙を動かす音。
少年の透真の呼吸。
そして。
小さく椅子が軋んだ。
相良がいない時間だった。
十五歳の透真が、何かを見たように衣擦れの音を立てる。
そのあと。
『……まだいるんですか』
透真の指が止まった。
アリスが顔を上げる。
相良は再生機器へ身を寄せた。
音声には返事がない。
少なくとも、録音には残っていない。
数秒。
『別にいいですけど』
また沈黙。
それから遠くで相良の足音が戻ってくる。
『誰に言ってる』
少年の透真が答える。
『白い人』
『どこにいる』
『そこ』
『……誰もいないぞ』
音声が途切れた。
誰も口を開かなかった。
再生機器の表示だけが動いている。
透真は、今の数秒を頭の中で並べ直していた。
相良が部屋を離れる。
十五歳の自分が誰かへ話しかける。
録音には相手の声がない。
相良が戻る。
誰に言っていると尋ねる。
白い人。
どこにいる。
そこ。
誰もいない。
相良の手がゆっくり再生ボタンから離れた。
顔色が僅かに変わっている。
「相良さん?」
アリスが呼ぶ。
相良は返事をしない。
机ではなく、部屋の右側を見ていた。
今の会議室には何もない壁。
だが相良が見ているのは、ここではない。
「……待て」
低い声だった。
透真は何も言わず待った。
相良が眉間を押さえる。
「今の……」
「思い出したんですか」
透真が訊く。
「分からん」
相良はすぐに否定した。
「記憶かどうかも分からん。今の録音を聞いたせいで頭が勝手に作った可能性がある」
「何が浮かんだんです?」
相良はしばらく黙っていた。
「お前が」
言葉を探す。
「椅子に座ってる」
「はい」
「俺は一度、部屋を出た」
「録音通りです」
「戻った時、お前が……俺じゃない方向を見てた」
透真の視線が動く。
「どっちです?」
相良は右手を僅かに上げた。
「横だ。たぶん……窓か、壁か……そこまでは分からん」
「人は?」
「見えない」
即答だった。
「顔も?」
「見えないと言ってる」
相良は苛立ったように自分の額を押さえた。
「ただ、お前が誰かの返事を待ってるように見えた。それで俺が……」
相良の口が止まる。
『誰に言ってる』
音声に残っていた言葉。
相良は椅子へ深く座り直した。
「駄目だ」
「何がです?」
「信用できん」
「自分の記憶が?」
「ああ。今聞いたものと一致しすぎてる」
相良は透真を見る。
「人間の記憶なんて簡単に書き換わる。音を聞いて、その場面を頭の中で映像にしただけかもしれん」
アリスは静かに訊いた。
「でも、音声には残ってますよね」
相良が頷く。
「会話はな」
「相良さんが戻った時、透真さんが誰かに話していた」
「ああ」
「相良さんには、その相手が見えなかった」
「少なくとも俺は『誰もいない』と言ってる」
アリスはそこで黙った。
断定しない。
透真も同じだった。
録音に声が入っていないから、存在しなかったとは言えない。
逆に、透真が話しかけているから、本当に誰かがいたとも言えない。
独り言。
錯覚。
誤認。
何か別の対象。
普通の説明はいくらでも残っている。
だが。
それだけでは処理しづらい記録が、別にある。
透真は机の端に置かれた安全確認表を引き寄せた。
『患者側二名、警察一名通行のため作業停止』
相良がその動きを見る。
透真は紙から目を離さず言った。
「これ、同じ時間帯でしたよね」
「近い」
「どのくらい」
相良は別資料を確認する。
「完全一致じゃない。業者側は五分刻みの記録だ。聞き取り音声より前。旧棟から戻る時間帯と重なる」
「なら」
透真は指先で『二名』の文字を押さえた。
「少なくとも、僕が『白い人』と言ってるものと、業者が二人目として数えたものが同じ可能性はある」
「ある」
相良は答えた。
「同一だとは言えん」
「分かってます」
「病院職員だった可能性も残る」
「はい」
「お前が嘘をついた可能性も」
「それも」
「ただし」
相良はそこで言葉を止めた。
視線が安全確認表から、再生機器へ移る。
「一個ずつなら説明できる」
透真は顔を上げた。
「高瀬さんが十年前の記憶を間違えた。それはある。業者が人数を間違えた。それもある。十五歳のお前が嘘をついた。それもある。俺が誰かを見落とした。なくはない」
相良の指が机を一度だけ叩いた。
「だが、目的も作成者も違う三つが、同じ時間帯に『久世透真の近くにもう一人いた』方向へ寄ってる」
部屋の空調が低く唸った。
「偶然で片づけるなら、偶然が三つ必要になる」
相良はそう言ってから、すぐ付け加えた。
「だからって超常現象だとは言わんぞ」
「誰も言ってません」
「お前の顔が言いそうだった」
「僕の顔にそんな機能ないです」
アリスが僅かに笑った。
その小さな音で、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
だが透真は、すぐに別の資料へ視線を移した。
高瀬の記録。
『久世透真 内服確認 本人確認済』
「これ」
透真が言った。
相良も見る。
「本人確認済、か」
「高瀬さんが『誰といた?』って聞いたのは、この前後でしたよね」
「本人の記憶ではそうだ」
「だったら順番、確認した方がいいんじゃないですか」
「何の」
透真は紙を指で動かした。
「高瀬さんが僕を見た。誰かといたと思った。僕に『誰といた?』って聞いた。そのあと、本人確認をした」
アリスの目が僅かに細くなる。
「それとも逆か」
透真が続ける。
「本人確認をしたあとに、誰かといたことを確認したのか」
相良は何も言わなかった。
「順番で意味が変わります」
「……そうだな」
「もし『誰といた?』のあとに本人確認してるなら、高瀬さんは何かを見たあとで、わざわざ僕が久世透真本人か確認してる」
アリスがゆっくり息を吐く。
「単なる投薬確認じゃなかった可能性が上がりますね」
相良はすぐには同意しなかった。
「まだ上げるな。看護業務として本人確認しただけかもしれん」
「でも高瀬さん自身が、普段より強く確認した感覚を覚えてる」
「記憶だ」
「はい」
透真は資料を閉じなかった。
「だから順番を確認するんでしょう」
相良が透真を見る。
少しの間、何も言わなかった。
やがて椅子から立ち上がる。
「待ってろ」
「どこへ?」
「当日の看護記録の写し、もう一回見てくる」
「僕も」
「ここにいろ」
「なんでです?」
「部外者だからだよ」
「昨日は見せたでしょう」
「昨日見せられる範囲は見せた。原本管理の場所まで連れていけるか」
「じゃあ待ちます」
透真は素直に座り直した。
相良が一瞬、拍子抜けした顔をする。
「何です?」
「いや。もっと面倒なこと言うと思った」
「無理なものに時間使うの嫌いなので」
「そういうところだけ合理的だな」
相良は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
透真とアリスだけが残った。
机の上には、十年前の音声。
安全確認表。
高瀬の記憶。
そして本人確認済の文字。
アリスはしばらく何も言わなかった。
透真も同じだった。
やがてアリスが、再生機器を見る。
「透真さん」
「はい」
「十五歳の透真さん、変でしたね」
「だいぶ失礼ですね」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあどういう意味です?」
アリスは少し考えた。
「白い人のことです」
透真は黙る。
「相良さんに『誰もいない』って言われても、否定してない」
透真はその言葉を頭の中で反芻した。
確かに。
普通なら。
そこにいる。
いるでしょう。
見えないんですか。
何か反応してもいい。
だが録音の少年は、ほとんど反応していなかった。
「慣れてた?」
透真が言う。
アリスは首を横へ振った。
「分かりません」
断定しない。
「でも、驚いてないように聞こえました」
「僕が?」
「はい。相良さんに見えてないことに」
透真は再生機器へ目を戻した。
その部分をもう一度聞こうかと思った。
だが手を伸ばす前に、扉が開いた。
相良が戻ってくる。
手には数枚のコピー。
「時刻までは分からん」
席に着くなりそう言った。
「ただ、順番はある程度追える」
透真が身を乗り出す。
相良は二枚の紙を並べた。
「高瀬さんの看護記録。内服確認が先だ」
透真の眉が僅かに動いた。
「先?」
「ああ」
相良が記録を指す。
「久世透真本人であることを確認して投薬。そのあと、高瀬さんが別件で短い会話をしてる。内容までは記録されてない」
「じゃあ」
アリスが言う。
「『誰といた?』は本人確認のあと」
「高瀬さんの記憶が正しければな」
相良は答える。
透真は紙を見続けた。
予想とは逆だった。
誰かといた。
だから本人確認した。
そうではない。
高瀬は先に、透真が透真本人であることを確認している。
そのあとで。
誰といた?
と聞いた。
「……なら」
透真はゆっくり言った。
「高瀬さんは、僕を別人だと思ったから確認したわけじゃない」
「少なくとも順番だけなら、そうなる」
相良が答える。
「本人確認は通常業務だった可能性がある。ただ、高瀬さん自身が『あの日は妙に念入りに確認した』と覚えてる。その理由はまだ分からん」
「でも」
アリスの視線が紙へ落ちる。
「本人だと確認したあとに、誰かと一緒だったことを聞いてる」
「そうだ」
それは小さな違いだった。
だが意味は違う。
高瀬は、目の前の少年が久世透真かどうか疑ったから「誰といた」と聞いたわけではない。
少なくとも記録の順番は、そうではない。
久世透真本人だと確認した。
その上で。
その久世透真に対して。
誰といた?
と聞いた。
相良が椅子の背へ身体を預けた。
「本人確認の件はこれ以上、今ここじゃ進まん。高瀬さん本人にもう一度確認する必要がある」
透真は頷いた。
「音声、まだありますよね」
「少しな」
「聞きます」
「今日はここまででもいい」
「まだ終わってないですよね」
相良が透真を見る。
「お前、会社は」
「もう怒られるの確定したので同じです」
「そういう問題か?」
「途中で帰ったら、あとでまた来ることになります」
「お前は全部、面倒かどうかで決めてるのか」
「割と」
相良は呆れたように息を吐いた。
アリスは何も言わず、透真の横で椅子へ座り直した。
相良が再生ボタンへ手を伸ばす。
最後の部分。
十年前の声が、再び部屋へ戻ってきた。
*
音声の終盤に、決定的な新しい発言はなかった。
相良が少年の透真へ、旧棟へ戻らないことを約束させようとする。
少年は露骨に嫌そうだった。
『約束しろ』
『嫌です』
『なんでだ』
『約束したら守らないといけないでしょう』
『当たり前だ』
『じゃあ嫌です』
『十五歳ってもっと素直じゃねえのか』
『人によると思います』
現在の相良が再生を止めかけた。
「やっぱり殴っていいか」
「十年前の僕に言ってください」
「今いるだろ」
「別人かもしれないですよ」
冗談として言った。
その瞬間。
自分で口にした言葉が、少しだけ重かった。
相良も反応しなかった。
アリスも。
透真は視線を落とす。
「……続けてください」
再生。
『とにかく一人で動くな』
『一人じゃなかったです』
十年前の相良が黙る。
『その白い人ってやつか』
『はい』
『どこ行った』
『知りません』
『いついなくなった』
『分かりません』
『気づいたらいなかった?』
『たぶん』
『お前、そいつの顔は見たのか』
数秒の間。
透真の指先が止まった。
『……ちゃんとは』
『ちゃんとは?』
『見てないです』
『服は白』
『はい』
『男か女か』
また少し間。
『女の人だと思います』
部屋の中で、誰も動かなかった。
白い人。
ここで初めて、音声の中の呼び方が僅かに輪郭を持った。
固有名詞ではない。
正体も分からない。
だが十五歳の透真は、その存在を女性として認識していた。
相良が再生を止める。
「ここは慎重に扱うぞ」
誰にともなく言った。
「声を聞いたのか、体格を見たのか、服装で判断したのか分からん。本人も『思います』と言ってる。女だったと確定はしない」
「分かってます」
透真は答えた。
だが。
三人が同じものを思い出していた。
第十六話から何度も見てきた一枚の写真。
旧棟。
十五歳の透真。
そして。
白い服の女性。
首元から下がる、銀色の鎖。
透真は椅子の背から身体を離した。
「相良さん」
「ああ」
相良も気づいていた。
透真は言った。
「写真」
相良は鞄へ手を伸ばした。
何枚かの資料を避け、クリアファイルを取り出す。
そこから一枚の写真を机へ置いた。
十年前。
旧棟で撮影された写真。
見慣れたはずだった。
だが、音声を聞いたあとでは、同じ写真には見えなかった。
少年の透真。
白い服の女性。
古びた壁。
そして奥に見える、五二〇の表示。
透真は写真を手に取らない。
机の上に置いたまま、顔を近づける。
アリスも隣から覗き込む。
相良は向かい側。
「この人」
アリスが言った。
「白い服ですね」
「それだけなら一致とは言えん」
相良が即座に返す。
「病院だ。白い服の人間なんか珍しくない」
「はい」
「写真に写ってる女と、音声の『白い人』が同じだって証拠もない」
「それも分かってます」
透真は写真を見続ける。
何かが気になった。
白い服。
女性。
銀色の鎖。
五二〇。
違う。
そこではない。
もっと単純なもの。
透真は写真の中の十五歳の自分を見る。
今まで、この写真を見る時。
誰もが白い服の女性を見ていた。
誰なのか。
なぜ写っているのか。
銀色の鎖は何なのか。
五二〇とは何なのか。
だから、少年の透真そのものを細かく見ていなかった。
透真は写真を指で少し回した。
「何してるんです?」
アリスが訊く。
「見やすくしてます」
「何を?」
「僕を」
相良が眉を寄せた。
透真は写真の中の自分の顔を見る。
正面ではない。
カメラを見ていない。
以前から分かっていたことではある。
だが。
「この写真」
透真が言う。
「誰が撮ったんでしたっけ」
「病院関係者が撮影した記録写真の一枚だ。撮影者まではまだ特定できてない」
「僕、カメラ見てませんよね」
「そうだな」
「白い人も」
アリスが写真へ顔を近づける。
白い服の女性は、少年の透真から少し離れた位置にいる。
完全に横を向いているわけではない。
だがカメラへ顔を向けてもいない。
透真は自分の身体の向きを見る。
右肩。
左肩。
足。
そして顔。
「……違う」
「何がだ」
相良が訊く。
透真は写真から目を離さなかった。
「僕、この人を見てない」
アリスの視線が動く。
「白い服の女性?」
「はい」
写真の中の少年と女性には距離がある。
だが少年の視線は、女性の顔へ向いていない。
その少し先。
廊下の奥。
「確かに」
アリスが言った。
「視線がずれてます」
相良が写真を引き寄せる。
「写真だけで視線を正確に読むな。角度の問題もある」
「分かってます」
透真は答える。
だが指は別の場所を示した。
写真奥の壁。
五二〇。
「音声で僕は何て言いました?」
相良が僅かに眉を動かす。
透真は自分で続けた。
「白い人は、僕を見てなかった」
アリスが息を止める。
『じゃあ何を見てた』
『……部屋』
透真は写真の中の白い服の女性を見る。
彼女の身体は。
カメラでも。
少年の透真でもなく。
廊下側へ僅かに向いている。
その先にある。
五二〇。
誰もすぐには口を開かなかった。
相良が写真を持ち上げ、角度を変える。
「待て」
警察官の声に戻っていた。
「写真だけで決めるな。これが五二〇を見てるとは限らん。隣の壁かもしれない。廊下の先かもしれない。単に横を向いた瞬間かもしれん」
「はい」
「そもそも音声の白い人と同一人物かも分からん」
「はい」
「なら――」
「でも」
透真は相良の言葉を遮った。
大きな声ではなかった。
「確認する価値はありますよね」
相良が黙る。
透真は写真を見る。
十五歳の自分。
白い服の女性。
五二〇。
今までは、同じ写真に写っているというだけだった。
それぞれが別々の謎だった。
だが音声が間に入った。
白い人。
女の人だと思う。
旧棟五階。
端の方。
部屋の前。
僕を見ていなかった。
何を見ていた。
部屋。
透真は机の上の音声媒体へ視線を移した。
そして再び写真へ戻す。
「これ」
透真が言った。
「順番が逆だったんじゃないですか」
「何の話だ」
「今まで、この写真に女の人が写ってるから、その人が誰かを調べようとしてた」
透真の指が、写真の白い服の女性の横へ置かれる。
触れない程度の位置。
「でも十年前の僕は、この人の名前を知らない」
アリスが透真を見る。
「白い人、としか呼んでない」
「はい」
「なら名前から追っても出ない可能性がある」
透真は頷く。
「見るべきなのは、この人じゃなくて」
指がゆっくり移る。
五二〇。
「この人が何を見てたのかです」
空調の風が、机の端の紙を僅かに揺らした。
相良は何も言わない。
写真を見ている。
アリスも。
透真は椅子へ背を預けなかった。
帰ることもできた。
会社へ戻ればいい。
ここから先は相良に任せてもいい。
十年前の自分が誰といたのかなど、知らなくても今日の生活はできる。
むしろ、その方が面倒は少ない。
それでも。
透真は写真から目を離さなかった。
「相良さん」
「何だ」
「五二〇号室」
相良の視線が上がる。
「もう一回、調べられます?」
「昨日までに調べた範囲なら資料はある」
「それじゃなくて」
透真は音声媒体を指した。
「八月二十日。その時間に、五二〇号室がどういう状態だったのか」
相良は返事をしない。
「使われてたのか。空室だったのか。誰かが入れる状態だったのか。鍵はどうなってたのか」
古い鍵。
その言葉までは口にしなかった。
今はまだ必要ない。
「それと」
透真は写真を見る。
「この写真が撮られた時間」
相良の目が細くなる。
「音声と照合したいのか」
「はい」
「写真の撮影時刻が残ってる保証はないぞ」
「なければないで終わりです」
「簡単に言うな」
「確認しないと分からないでしょう」
相良はしばらく透真を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
透真は頷いた。
アリスは何も言わない。
ただ、机の上に置かれていた透真のアイスティーを少しだけ彼の方へ寄せた。
透真はそれを取った。
今度は礼も断りもせず、一口飲む。
冷たさはもうかなり失われていた。
それでも、不思議とまずくはなかった。
机の上には、十年前の音声がある。
その音声の中で、十五歳の久世透真は確かに誰かを見ていた。
高瀬も、その存在を前提に問いかけていた。
旧棟の業者も、患者側を二名と数えていた。
誰だったのかは、まだ分からない。
なぜ相良には見えなかったのかも分からない。
写真の女性と同じ存在なのかすら、まだ確定していない。
けれど。
一つだけ、昨日までとは違う。
十年前の久世透真は、一人ではなかったと自分自身で答えている。
その事実だけは、もう誰かの曖昧な記憶ではなかった。
透真はもう一度、写真を見る。
白い服の女性ではない。
その視線の先を見る。
古びた廊下。
閉じた扉。
その横に残る数字。
五二〇。
透真は写真の端を指で押さえた。
「その写真、しばらく借りてもいいですか」
「持ち出しは駄目だ」
「じゃあコピー」
「用途は」
「見ます」
「見りゃ分かる」
「じゃあ聞かなくていいでしょう」
相良が眉間を押さえた。
「お前、十年前から本当に変わってねえな」
透真は少し考えた。
「そうでもないと思いますよ」
「どこがだ」
透真は答えなかった。
十年前の自分なら。
相良に『まだ終わってない』と言われて、面倒そうにしていた。
約束することすら嫌がっていた。
今も面倒なものは面倒だ。
できるなら関わりたくない。
帰れるなら帰りたい。
その性質自体は、おそらく変わっていない。
ただ今日は。
誰にも残れと言われていない。
相良は途中で止めてもいいと言った。
会社へ戻る理由もあった。
それでも自分で再生を頼んだ。
自分で続きを聞いた。
そして今、自分から次の資料を求めている。
そんなことをわざわざ説明する必要はない。
透真は写真を見たまま言った。
「コピー、一枚お願いします」
相良は何か言いたそうな顔をしたあと、写真を手に取った。
「待ってろ」
「はい」
相良が部屋を出ていく。
扉が閉じる。
その音を聞いてから、アリスが横で小さく笑った。
「何です?」
「いえ」
「何かありますよね」
「透真さん、今日はよく『お願いします』って言うなと思って」
「普通でしょう」
「そうですね」
アリスはそれ以上言わなかった。
透真も追及しなかった。
机の中央では、再生を終えた機器の表示が静止している。
十年前の声は、もう聞こえない。
だが。
『白い人です』
その一言だけが、まだ耳の奥に残っていた。
透真はもう一度、空になった写真の位置を見る。
そして初めて思った。
あの写真に写っていたのは、
十五歳の自分と、
正体不明の白い女性。
それだけではない。
二人が同じ方向を見ていた可能性がある。
もしそうなら。
問題は、白い人が誰だったのかだけではない。
その人と十五歳の自分は――
五二〇号室の何を見ていたのか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
コメント、高評価よろしくお願いします。
YouTubeでは『世界から逃げる男』のショート映像も公開しています。
今回のエピソードをイメージした映像も順次公開予定です。
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続きが気になった方は、ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。




