第八話 侯爵家の日常
今日は、エミリアと会う日だ。
五月も終わりに近い。
春らしい爽やかな空気が窓から流れ込んでくる。
アレクも今日、お茶会へ参加しなければならない。
数日前、イヴリンから同行の要請が来ていた。
庭園を愛でることが目的らしく、開始時間も少し早い。
社交シーズンも終盤を迎え、すでに王都を離れた貴族もいる。
その一方で、この時期は気候の良さもあって、自慢の庭園でお茶会を開く貴族も多かった。
イヴリンとの関係を誤解されていることを知って以来、初めてのエスコートだ。
多少の抵抗感はある。
だが、時期的にこれが最後になるだろう。
これまでも誤解を招くような振る舞いはしていないつもりだった。
それでも今日は、より一層気を付けなければならない。
お茶会のあと、そのままエミリアと会うことになるはずだ。
先日買ったプレゼントを、アレクはそっとポケットへ入れる。
ブラウントパーズのヘアアクセサリー。
普段使いできるものを、と選んだ品だった。
ブラウントパーズの色は、アレク自身の瞳を思わせる。
エミリアのプラチナブロンドの髪に飾れば、少し大人びた印象になるだろう。
以前の自分なら、地味すぎると選ばなかったかもしれない。
だが今のエミリアには、きっと似合う気がした。
今日こそ、ちゃんと彼女の話を聞こう。
今までのように、自分のことばかり話すのではなく。
今のエミリアが何を思っているのか。
これまで、何を抱えていたのか。
たとえそれが、どんなに厳しい言葉だったとしても。
その強さを、エミリアの悲しみとして受け止めよう。
朝から緊張していて、食欲はなかった。
それでも、お茶会で粗相をしてはいけないと、ホットミルクを一口飲む。
じんわりとした柔らかな温かさが、またエミリアを思い出させた。
……感傷的になりすぎている。
まずは、お茶会を無難に終えなければならないというのに。
心はもう、とっくにエミリアの元へ向かっているみたいだった。
今日のお茶会は、王都郊外にある伯爵邸で開かれる。
庭園自慢で有名な家らしい。
王宮近くにある自宅からは少し距離があるため、そろそろ出発しなければならない。
途中でターナー侯爵邸へ寄り、イヴリンと共にターナー家の馬車へ乗り込む。
そう考えただけで、少し気が重くなった。
もちろん、イヴリン付きの侍女や護衛も同乗する。
二人きりになるわけではない。
……イヴリンは、知っているのだろうか。
自分たちが、恋仲だと思われていることを。
直接そのことを問われたことは、一度もない。
だが、もし問われたとしても。
貴族らしく婉曲に否定する技術を、アレクはまだ持ち合わせていなかった。
大声で否定して済むなら、どれだけ楽だろう。
だが、貴族という立場がそれを許さない。
行きたくない気持ちは、何度もカフスやクラバットを確認する動きとなって表れていた。
王宮近くとはいえ、自宅があるのは平民街の一角だ。
そんな場所から貴族の装いで乗り合い馬車へ乗り込めば、余計な揉め事の種になる。
面倒でも、辻馬車を手配しておく必要があった。
色々と問題を起こしたホイヤット家の跡取りである自分が、きれいな服を身につけ、馬車を呼びつけ、煌びやかな社交の場へ向かう。
そのことに、いまだ抵抗感がある。
だが、貴族として体裁を整えることも必要なのだと、リンバー家の人々は教えてくれた。
この時間、周囲の人々は皆仕事か家事に追われていて、通りに人影はほとんどない。
それでもアレクは、自分の服装に対する“着せられている感”を、いまだ払拭できずにいた。
だからこそ、その姿へ生暖かい視線を向けてくる人間がいないことに、密かに安堵するのだった。
辻馬車は、いつものようにターナー侯爵邸の門前へ到着した。
門番から恭しく挨拶を受け、鉄製の意匠を凝らした門扉をくぐる。
整えられた前庭の奥には、タウンハウスとは思えないほど荘厳な屋敷がそびえていた。
この二年間。
夜会に、お茶会。演劇鑑賞。
イヴリンからエスコートを頼まれるたび、アレクはこの屋敷を訪れてきた。
玄関前には、すでに豪奢な馬車が準備されている。
毛艶の良い同色の馬を揃えた二頭立て。
熟練職人による精巧な細工が施された外装に、内部も隅々まで贅が尽くされている。
――支援する側。
それが、ターナー侯爵家だった。
ここへ来るたび、自分とは住む世界が違うと思い知らされる。
気後れしそうになる自分を、アレクは心の中で叱咤した。
――とにかく、貴族として恥じない振る舞いを。
それはきっと、いずれエミリアの隣へ立つ時にも必要になるはずだ。
……今は、まだ全然だけどな。
朝から何度も浮かび上がる憂鬱を、無理やり振り払う。
このお茶会で、イヴリンをエスコートするのも最後だ。
それが終われば、エミリアに会える。
色々と誤解を与えてしまったことを、きちんと謝ろう。
そして、自分が不誠実な関係を築いていたわけではないことも、ちゃんと説明しよう。
無意識に、ポケットへ入れたエミリアへの髪飾りに触れる。
――会いたい。今すぐに。
エミリアの心が、自分から離れていってしまっているかもしれない。
その不安が、アレクの胸の内をかき乱していた。
「ごきげんよう。今日は急なお願いだったけれど、よろしくお願いね」
不意に声を掛けられ、アレクの肩がびくりと跳ねる。
……みっともない。
いつまで経っても身につかない“貴族らしい余裕”に、自分で呆れながらも、アレクは慌ててそれらしい表情を取り繕った。
いつもなら、イヴリンはアレクが到着するまで玄関ホールで待っている。
だが今日は、すでに外へ出ていた。
「こんにちは、ターナー侯爵令嬢」
イヴリンは扇越しに、小さくため息をつく。
「下の名前でと。もう何度めかしら」
「しかし――」
「あぁ、それと……」
そう言ってイヴリンは、アレクの襟元へスズランの花を挿した。
続けて、胸ポケットへターナー侯爵家の紋章入りのチーフを差し込む。
「……これは?」
「ガーデンランチへ招かれた際、ブートニエールの着用は殿方のマナーよ?
それに今日の主催者は、風流人として有名な方なの。
ポケットチーフも流行の最先端。これくらいのおしゃれはしておかないとね」
可憐な形をしたスズランが、自分の襟元を飾っている。
それだけで、アレクはなんとも言えない居心地の悪さを覚えた。
だが、マナーと言われてしまえば外すわけにもいかない。
見れば、イヴリンの胸元にも同じ花が飾られている。
ポケットチーフも同じだ。
ターナー侯爵家の紋章入りのものを身につけるなど、まるで自分までターナー家の所有物になったような気分になる。
上質な布の滑らかな手触りが、かえって自分の未熟さを浮き彫りにしているようで落ち着かなかった。
アレクは何度も、胸元のチーフの形を整え直す。
学園へ入学する時。
――貴族として生きていくと決めた時。
両親が元貴族だったから。
リンバー家で長く世話になっていたから。
自分もそれなりに、貴族としてやっていけると思っていた。
なのに。
こういう、“貴族なら知っていて当然”のことに、いまだ戸惑ってしまう。
洗練された振る舞いも、いつまで経っても板につかない。
今日何度目かも分からない自己嫌悪が、胸の奥に沈んでいく。
……ここへ来ると、いつもこうだ。
普段なら、「そうなんだ。知らなかったよ」で済ませられることを、必要以上に恥じてしまう。
そんな時、なぜか思い浮かぶのはエミリアだった。
これがエミリアなら。
きっと自分は、「知らなかった」と素直に笑えた。
そこまで考えて、アレクはふと息を呑む。
なぜ今、エミリアとイヴリンを並べて考えた?
そもそも、二人との関係性はまったく違うはずだ。
自分の思考が、エミリアとイヴリンを比較したことに、なぜか罪悪感に似たものを覚える。
「さぁ。今日は少し遠出だわ。そろそろ行きましょう。」
イヴリンの声に、アレクは慌てて意識を切り替えた。
気を引き締め直し、彼女を馬車へエスコートする。
馬車の中には、荷物を抱えた侍女がすでに乗り込んでいた。
扉の脇には、外出付き添いの従僕。
さらに、同じ制服を纏った御者と補助役。
役職によって細かな違いがあるらしいが、アレクには見分けがつかない。
ただ、生地の質の良さと、刺繍の繊細さだけは一目で分かった。
誰一人として着崩していないところを見ると、おそらく全員が仕立て物なのだろう。
どこを見ても、ターナー侯爵家の財力がうかがえる。
令嬢一人の外出に付き従うのは、四人の従者と四人の護衛。
さらに、屋敷の使用人たちがずらりと並び、主人を見送っている。
四十人近い人間が整然と並ぶ光景は、圧巻だった。
規律。
調和。
そして、自分たちは“侯爵家を支える存在なのだ”という矜持。
それを、この場にいる誰もが当然のように身につけていることが、その立ち姿だけで分かる。
静かに馬車が動き出す。
すると護衛たちは即座に前後左右へ散開し、隊列を整えた。
馬の足並みすら乱れない。
――これが、ターナー侯爵家の日常なのだ。




