番外編 第二話 分からないわ!
「ターナーの今後をどう考えている?」
ターナー侯爵の目が、イヴリンの瞳の奥を探る。
イヴリンはその視線を受け止めながら、父の背後にある窓へ目を向けた。
少しずつ、少しずつ、青から黒へ色を変えていく空。
今はもう、外の明るさと室内の灯りはぶつかり合わない。
自然の光は消え、人工の光が室内を照らしている。
それでも何も困らない。
直系が途絶えれば、傍系から誰かを迎えればいい。
昔から繰り返されてきたことだ。
「親戚筋から、トーマスに見合う娘を養子へ迎えればよろしいかと。トーマスも、その方がやりやすいのでは?」
「……アレクとなら、ターナーを率いることができるか?」
ターナー侯爵の目は変わらず、イヴリンの奥を探ろうとしていた。
そんなところに、答えなどないのに。
「トーマスはどうするおつもりですか」
「第一秘書として――」
「お父様らしくないわ」
イヴリンは、かすかに笑った。
「そんな、できもしないことを口にするなんて」
「しかし――」
「望んでいません。アレクとの結婚なんて」
「じゃあ、なぜあんなことを言った」
「分からないわ!」
声が思った以上に大きく響いた。
自分でも驚くほどだった。
分からない。
自分が何を考えているのか。
分からない。
自分が何を望んでいるのか。
分かるのは――
あんなことをしたからには、アレクに嫌われたということ。
そして、それで構わないと思っていたこと。
それだけ。
ずっとずっと、幼馴染の少女だけを見ていたアレク。
あと数年もすれば、その少女と結婚できるアレク。
アレクに愛されているエミリア。
数年前。
学術発表会へ招待され、学園を訪れたエミリアを見た。
きらきらと眩しいほど可愛らしかった。
だけど同時に、不安そうでもあった。
アレクとイヴリンが一緒にいる姿を見て。
つまり、エミリアもアレクが好きなのだろう。
幼馴染で、相思相愛。
それほど強い絆なら。
少しくらい傷をつけたところで、壊れたりしないでしょう。
「アレクは断るわ。どんなことをしても。
そして彼のお父様――ホイヤット伯爵も、それを支持するでしょう」
「……」
「ホイヤット領は、まだ復興の途中です。
だけど本来は、とても豊かな領地だった。
ホイヤット伯爵が外交官だった頃の手腕を考えれば、復興もそれほど遠い未来ではないはずです」
イヴリンは静かに続ける。
「豊かな領地を持つ有能な人物を敵に回して、それがターナーのためになるとでも?」
「それだけ冷静な判断ができるのに、なぜあんなことをした」
「ほんの少し、傷つけばいいと思ったの」
イヴリンは俯いた。
「ずっと好きだった人と結婚できるのだもの。
この程度の醜聞、いずれ思い出話になるでしょう」
「恨んでいるのか。
前の婚約を解消させたことを」
「恨んではいません。
仕方のないことだと理解はしています」
理解はしている。
だけど、心が追いつかなかった。
兄が死んだ。
母が倒れた。
婚約が解消された。
自分の心だけが、あの頃へ置き去りにされたまま。
私以外は皆、一日一日を前へ進んでいるのに。
幼馴染だった元婚約者も、数か月前に結婚した。
隣の花嫁へ幸せそうな笑顔を向けていた。
私は新しい婚約者と、まだ向き合えていないのに。
私以外は皆、この世界を器用に生きているのに。
私は、それができない。
どんどん底なし沼へ沈んでいくような息苦しさを、どうにかしたかった。
何もかも壊してしまえば、息がしやすくなるのか。
それとも、完全に止まってしまうのか。
そのどちらでも構わないと思った。
全部。
全部、壊れてしまえばいい。
その瞬間、イヴリンは初めて自分の破壊衝動を自覚した。
「とりあえず、しばらく領地へ行け。その間に何とかする」
「分かりました」
イヴリンの返事を聞き、ターナー侯爵はソファの背へ身を預けた。
片手で目元を覆う。
滅多に見せない仕草だった。
疲労と困惑と、やるせなさが滲んでいる。
イヴリンは静かに立ち上がった。
ソファとテーブルの間を抜ける。
そして右手を胸へ当て、深く膝を折った。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
謝るつもりなどなかった。
それなのに、自然とそうしていた。
父の中に愛情がなかったわけではない。
ただ余裕がなかっただけ。
分かっているつもりだった。
けれど、父の愛情は、イヴリンが思っていたよりもずっと深かったらしい。
「イヴリン」
「はい」
「私は今、お前に腹を立てている。
失望もしている」
父の声は静かだった。
「だが、それ以上に悔やんでいる」
イヴリンは顔を上げない。
「私の余裕のなさが、お前を追い込んだ。
過去は変えられん。
だが、これからを変えることはできる。
……できるようでありたい」
少しの沈黙。
「区切りがついたら、ゆっくり話そう。
お前も、自分がこれからどうしたいのか考えなさい。
今度は、しっかり話を聞く」
「はい」
イヴリンはさらに深く頭を下げた。
そして姿勢を正す。
父もまた背もたれから身体を起こし、いつもの姿勢へ戻っていた。
イヴリンは窓の外を見る。
黒い空に、月と星が見えた。




