番外編 第一話 私は廃嫡ですか?
ガーデンランチの後、アレクの慇懃な――というより、嫌悪感の滲む挨拶を聞き流し、イヴリンは自室へ戻った。
侍女が静かにドレスを脱がせる。
わずかにコルセットを緩めてもらい、着慣れたデイドレスへ袖を通した。
それだけで、ほんの少し肩の力が抜ける。
「それ、捨てておいて」
先ほどまで身につけていたドレス。
アレクの色を連想させるドレス。
もう、なんの意味も持たなくなったドレス。
侍女は、まばたき三回分ほどそのドレスを見た。
それから視線をイヴリンへ戻す。
「かしこまりました」
この侍女は、『よろしいのですか?』とは聞かない。
このドレスを誂えた時も、何も言わなかった。
いったい何を思っているのだろう。
自室へ戻れば、顔見知りの使用人たちとイヴリンの悪口でも言っているのだろうか。
だけど、とイヴリンは思う。
この侍女からは、そういう気配を感じない。
悪意は滲み出る。
どれだけ取り繕っていても。
こちらを嫌っているという気配までは隠しきれない。
少なくとも、侯爵令嬢であるイヴリンの目は誤魔化せない。
目の前にいる侍女は、イヴリンを嫌ってはいない。
ただ――呆れてはいるのかもしれない。
このお嬢様はいったい何がしたかったのだろう、と。
それは、イヴリン自身も同じだった。
私はいったい何がしたかったのだろう。
◇◇◇
何をする気にもなれず、窓際へ置かれたカウチへ腰を下ろす。
窓の外では、初夏の風が木々を揺らしていた。
今日はガーデンランチに相応しい気候だった。
春から初夏へ移り変わる時期特有の、濃い緑の匂い。
爽やかな風がそよぎ、小鳥は歌う。
イヴリンは、先ほどの会場を思い返した。
イヴリンとアレクの登場で、ぴんと張り詰めた空気。
顔を寄せ合いながらも、視線だけはこちらへ向け、小声で囁き合う招待客たち。
その視線のいくつかは、別の人物へ向いていたのかもしれない。
アレクの婚約者。
エミリア・リンバーへ。
数年前と変わらず、可憐な少女だった。
だけど、可憐なだけではなかった。
侯爵令嬢であるイヴリンから、あれほど荒唐無稽な話を聞かされても動じなかった。
瞳は揺れず、声も震えない。
その上――。
ほんの一瞬。
イヴリンを案じるような気配まで見せた。
イヴリン自身も理解できていない何かを、あの少女は感じ取ったようだった。
――泣いてくれればよかったのに
とイヴリンは思う。
エミリアが泣いて。
アレクでもいい。
ワイマール夫妻でも。
近くにいた誰かでも。
彼女を慰めて。
イヴリンを悪者にしてくれたら。
絵柄の分からない。
もしかしたら黒一色なのかもしれないパズル。
その欠片が、一つだけはまるような気がしたのに。
彼女は泣かなかった。
◇◇◇
窓の外が茜色に染まり始めた頃。
呼びに来た家令に伴われ、イヴリンはターナー侯爵の執務室を訪れた。
部屋へ入ると、まず父の姿が目に入る。
マホガニー製の大きな執務机。
その向こう側に、ターナー侯爵は座っていた。
奥の掃き出し窓からは夕空が見える。
先ほどまで茜色だった空は、少しずつ深い青へと移ろいでいた。
本来なら、もう厚手のカーテンが引かれている時間だ。
だけど今日は、まだそのままになっている。
不測の事態が起きたから。
――あの日は、どうだったのだろう。
兄が病に倒れた日。
イヴリンは思う。
あの日から、何もかもが変わってしまった。
死神は兄を連れ去り。
母の健康も奪い去った。
兄の葬儀。
母の転地療養。
そして後継者選定。
それらの手配のほとんどは、この執務室で行われた。
重厚な執務机へ積み上げられた書類へ目を通しながら、秘書や家令へ次々と指示を飛ばす父。
ターナー家の地盤が、わずかにも揺らがないよう神経を尖らせていたはずだ。
内容は違っても、今も同じなのだろう。
必要なものを残し。
必要な場所へ配置し。
不要なものは切り捨てる。
今の私は、多分、捨てられる側でしょうね。
力のこもらない目で、イヴリンは父を見つめた。
「座りなさい」
父の声に促され、来客用のソファへ腰を下ろす。
ターナー侯爵も執務机から離れ、向かい側へ座った。
近くで見ると、その顔には苦悩が滲んでいる。
意外だわ、とイヴリンは思う。
もっと苦虫を噛み潰したような顔をしていると思っていたのに。
「私は廃嫡ですか?」
父の顔に浮かぶ悲壮な表情を、あまり見たくなくて。
イヴリンは自分から話題を切り出した。
父の顔から感情が消える。
そう、それでいい。
「廃嫡されて、生きていけるのか?」
「無理でしょう」
「……現実は見えているようだな」
「それなりには」
父の口が開きかけて閉じる。
同時に、膝の上へ置かれた手が拳になった。
『ならば、なぜこのようなことをした』
そう問われるものだと思っていた。
だけど、しばらく待ってもその言葉は出てこない。
だからイヴリンは続けた。
「修道院へでも入れていただければ、しばらくは生きていられるのではないでしょうか」
「トーマスとの結婚は、それほど嫌か」
父の声は低い。
だけど、どこか心許なかった。
「嫌と思うほど、彼のことを知りません」
イヴリンは淡々と答える。
「あちらこそ、こんな凡庸な女を娶るのは嫌なのでは?」
学園時代から、何度も耳にしてきた言葉だった。
――凡庸。
侯爵家の娘でありながら、領地経営科ではBクラス。
幼い頃に『当主になる』と宣言したシャノン・ウィザーと比較され、あれほどの気概を持てと言われ続けてきた。
親族からも。
クラスメイトからも。
淑女教育は超一流のものを施された。
それなりに身につけたとも思う。
だけど、領地経営に関しては同じようにはいかなかった。
『優秀なトーマスがいるのだから、あなたはそのままでいい』
そう言う者もいた。
『貧乏子爵の次男坊ごときに、ターナーの実権を握らせる気か』
唾を飛ばす勢いで詰め寄る者もいた。
どちらの言葉にも、
『お前がもっと優秀だったら』
という思いが透けて見えた。
一度だけ、父へ愚痴をこぼしたことがある。
朝食の席だったと思う。
『そのくらい、軽く流せ』
父はそう言った。
何かの書類を見ながら。
こちらを見もせず。
父にも余裕がないのだと分かった。
それ以来、愚痴は言わなくなった。
――言えなくなった。
昔は、父へ愚痴を言う必要などなかった。
幼馴染の婚約者がいた。
母もいた。
二人とも、いつだってイヴリンの話を聞いてくれたから。
兄を連れ去った死神は。
ついでとばかりに、イヴリンと婚約者を繋ぐ絆まで断ち切っていった。
彼のことを異性として好きだったのかは分からない。
だけど、家族になる相手として受け入れていた。
頼りにもしていたのだと思う。




