第二十八話 私たち、そこから始めませんか?
エミリアは、応接室へ入る前に、アレクから受け取った花束をメイドへ手渡した。
「花瓶に挿して、私の部屋へ飾ってくれる?」
「かしこまりました」
何気ないやり取り。
だけど、アレクが持ってきたものを、エミリアが受け取り、自室へ飾る。
今までは、そんなことを意識したこともなかった。
だけど、もし婚約が解消されれば、それはもう“当たり前”ではなくなる。
――この日常が、続きますように。
そんな祈りを胸に、アレクは応接室へ足を踏み入れた。
二人が席へ着くのを待って、紅茶と焼き菓子が運ばれてくる。
ふくよかな紅茶の香り。
焼き菓子の甘い香り。
二つの香りが混ざり合い、二人の間にある緊張を、ほんの少しだけ和らげてくれた。
「エミリア――」
まずは謝罪を。
そう思い、アレクは口を開く。
「アレク様、お手紙は拝見しました」
しかし、エミリアがその言葉を遮るように話し始めた。
「翌日のお手紙には、丁寧な謝罪のお言葉がありました。ですから、この場ではもう謝罪はいりません」
「しかし……」
ガーデンランチでのイヴリンの言葉。
全くの虚言だった。
だが、あまりの内容に即座に否定できなかった。
その上、自分はイヴリンへ付き従い、その場を去った。
その事実が、今もなおアレクの内側を冷やしている。
謝罪を聞きたくないと言うエミリア。
その言葉の裏にある感情を、アレクは測りきれなかった。
「お父様から伺いました。
アレク様が、なぜターナー侯爵令嬢のエスコートを引き受けたのか」
エミリアの視線が、まっすぐアレクを見つめる。
「ホイヤット領の復興。
それは、私があなたへ嫁いだ時に、少しでも被災地を元の姿へ戻しておきたかったから。
私に惨状を見せたくなかったから。
――それは、本当ですか?」
「本当だよ、エミリア」
アレクもまた、視線を逸らさず答えた。
「俺は、被災直後には領地へ行っていない。
学園の長期休暇を利用して、初めてあの光景を目にした。
その時、一番に思ったのが、“君へこれを見せてはいけない”だった」
当時を思い返すように、アレクはゆっくりと言葉を続ける。
「父や役人たちが立てた復興計画も見せてもらった。
だけど、必要なのは莫大な資金と技術力だった。
ターナー家なら、その両方を持っている。
ターナー侯爵の依頼を受ければ、得られるものは大きい。
……正直、そのことしか考えていなかったと思う」
嘘はない。
やましさもない。
それが少しでも伝わるように、アレクはエミリアを見つめ続けた。
「なぜ、そのことを私へ話してくださらなかったの?
ターナー侯爵令嬢をエスコートすることも」
エミリアの瞳が揺れる。
だけど、彼女もまた視線を逸らさなかった。
少しでも目を逸らせば、アレクの本心を見落としてしまう。
そんなふうに思っているようだった。
「……素直に受け入れてほしくなかったからだと思う」
「えっ?」
エミリアの目が、大きく見開かれる。
「自分でも、リアムへ指摘されるまで気づいていなかったんだ。
俺、君へその話をしてないこと自体、全然意識してなかった」
「えっ?」
今度は、エミリアの眉間へうっすら皺が寄った。
「この二年間、自分の記憶にある限り、君へターナー侯爵令嬢の話をした覚えがない。
やましいからじゃない。それは誓える。
だけど……無意識に、その話題を避けていたんだと思う」
いつの間にか、アレクの視線はテーブル上の茶器へ落ちていた。
唇も、わずかに内側へ巻き込んでいる。
不甲斐なさが、自分を内側へ引きずり込もうとしていた。
――駄目だ。
アレクは背筋を伸ばした。
「君へ、俺が他の女性へ触れているところを想像してほしくなかった」
領地復興のため。
ただエスコートしているだけ。
それ以上の関係ではない。
だけど、エミリアの頭の中へ、“他の女性と一緒にいる自分”を思い浮かべてほしくなかった。
「ごめん。
自分でも、後付けの言い訳だなって思う。
でも……それくらいしか思い当たらなくて……」
アレクの声が、次第に尻すぼみになる。
伸ばした背筋も、再び丸まりそうになった。
だけど、それでも。
アレクは、エミリアからだけは目を逸らさなかった。
もう二度と、“今のエミリア”を見落としたくなかったから。
「なに、それ……」
エミリアの声が、小さく漏れる。
「あなたが話さなくたって、いろんな噂は耳に入ったわ。
とても仲が良さそうだったって」
噂を聞いた時のことを思い出したのか、エミリアは視線を伏せた。
長い睫毛が、細かく震えている。
「本当にごめん。
自分たちが噂されているかもしれないなんて、考えたこともなかった」
アレクは、自分の至らなさに、ほぞを噛む思いだった。
貴族にとって、噂は時に真実以上の重みを持つ。
そう教わってきたはずなのに。
自分自身も、“噂される側”であるという認識が、あまりにも薄かった。
エミリアの眉間が、ぐぐぐと寄る。
小鼻も、きゅっと窄まる。
だけど、彼女は泣かなかった。
大きく喉が上下したあと、
「……分かりました」
エミリアは、冷静な声で言った。
「私から、一つお願いがあります。」
アレクの喉も、無意識に上下する。
口の中が乾いていた。
何を言われるのか。
自分に受け入れられる願いだろうか。
「私の誕生日――今年は、それを待たずに領地へお戻りください。」
アレクは、息を呑んだ。
――それは、どういう意味だ?
◇◇◇
どういう意味か。
問いかけたいのに、声が出ない。
見開かれたアレクの瞳を見つめながら、エミリアはさらに言葉を続けた。
「私も、色々考えたんです。
この二年間のことも。これからのことも」
エミリアは、一度小さく息を吸い、改めてアレクを見つめる。
「アレク様のお気持ちは分かりました。
だけど、急に態度を変えられても……頻繁に会おうとしてくださっても、気遣ってくださっても、その気持ちを今はまだ素直に受け取れないと思ったんです」
その声には、自分自身への戸惑いも混じっていた。
「だけど、近くにいたら……やっぱり会いたいって思ってしまう」
そう言って、エミリアはわずかに視線を逸らした。
アレクの見間違いでなければ、頬がほんのり赤い。
だけど、次にこちらを見た時の眼差しは鋭かった。
「今の私たちには、物理的に少し距離がある方がいいと思うんです」
その言葉と視線に、アレクは射抜かれた。
「正直、何を話せばいいのか分からなくなってしまったの。
会って顔を見たら、つい意地の悪いことを言ってしまうかもしれない。
そういう自分も嫌なの。
……そんな姿を、アレク様に見せたくない」
エミリアの瞳に涙が浮かぶ。
先ほどよりも、少し砕けた口調。
だからこそ、それが本心なのだと分かった。
「また、お手紙を書きます。たくさん。
だから、アレク様もお手紙をください。
私たち、そこから始めませんか?」
こんな提案をさせるほど、自分はエミリアを追い詰めていた。
「……分かった」
擦り切れそうな声だった。
本当は嫌だと言いたい。
社交シーズンが終わった以上、近いうちに領地へ戻らなければならない。
だけど、せめてエミリアの誕生日を祝ってから――そう思っていた。
正直、怖い。
物理的に距離を取ることが。
だけど、それがエミリアの望みなのだ。
「私があなたの元へ嫁ぐ時、どうか笑顔でホイヤット領を案内してください。
そのために、ターナー侯爵の申し出を受けたというなら、なおさら」
エミリアは涙をこぼさなかった。
伸びた背筋のまま、アレクへ覚悟を突きつける。
言葉にした以上、その言葉へ責任を持てと。
貴族とは、そういうものだと。
「分かった。」
今度は、腹へ力を込めた声が出た。
先ほどとは違う。
芯の通った、深い声だった。
自然と、アレクの背筋も伸びる。
「約束する。
次に君と会う時は、今より少しでも、君の隣へ立つに足る男になっているよう努力する」
「私はますます、魅力的になりますよ?」
エミリアの瞳が、きらりと光った。
冗談めかした言い方。
だけど、全く冗談になっていない。
アレクの喉が、再び詰まる。
「わ、分かってる。」
上ずった声を聞いて、エミリアが笑った。
「私も、意地を張りすぎました。
お手紙には、自分の気持ちをきちんと書きます。
だから、忙しくても読んでくださいね?」
「もちろん。
ちゃんと読むし、俺も書く」
アレクは、しみじみと思う。
儀礼ではない、心を込めた手紙の大切さを。
そのためには、どれほど自分の心を覗き込まなければならないのかも。
「白い紙を前にすると、自分の心と向き合わされるんだな。
今回のことで、よく分かったよ」
アレクは、エミリアから何通もの手紙を受け取ってきた。
そのたびに「ありがとう」とは伝えていた。
だけど、自分は一度も返事を書かなかった。
あの手紙と一緒に、エミリアは“自分を想う気持ち”を差し出してくれていたのに。
「アレク様って、案外、感情が筆跡に出ますものね」
エミリアの笑みが、さらに深くなる。
そんなに分かりやすかっただろうか。
だけどきっと、それは相手がエミリアだからだ。
エミリアになら、何もかも知られていい。
今回のことで、自分よりも遥かに貴族としての矜持を持つエミリアから、学ぶことは多いのだと知った。
たった数年早く生まれただけで、“守ってやりたい”などと考えていた。
烏滸がましかったのだ。
次に会う時、エミリアは社交界へデビューする。
そのエスコートは、絶対に自分がする。
足りないものは、まだ多いだろう。
だけど。
エミリアの隣へ立つことは、まだ許されている。
それだけでも、今は十分だった。
あとは、それからだ。
ただ一つ願うなら――エミリア。
もう、どうか一人では泣かないで。
ーー完ーー
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本編はこれにて完結です。
あと数話、番外編がありますので、もしよろしければ、そちらにもお付き合いいただけると嬉しいです。




