第二十六話 殴る?ーーエミリア視点ーー
遠乗り当日は、雲ひとつない快晴だった。
昼食は遠乗りの目的地で取る予定のため、出発は午前中だ。
一週間前よりも、日差しはさらに白みを帯びて眩しくなっている。
一日ごとに、夏へ近づいているのが分かった。
ずっと部屋へ籠もっていたせいで、なおさらそう感じるのかもしれない。
エミリアはお気に入りの乗馬服へ身を包み、メイド長を伴ってウィザー家へ向かった。
ウィザー家の前庭には、すでに馬が四頭、馬車が一台用意されていた。
馬丁たちは馬の世話に忙しく、御者は馬車を引く二頭の馬へ声を掛けている。
護衛たちも、自分たちの騎乗馬の機嫌を取っていた。
使用人たちは、ピクニック用の荷物を馬車へ積み込むため、きびきびと動き回っている。
さすがウィザー家、といった光景だった。
付き添い役は、それぞれの母親が務める予定になっている。
ただ、エミリアの母リディアはまだ到着していない。
もう少しすれば、侍女のマーサを伴ってやって来るだろう。
エミリアは、母の準備が整うのを待ちきれず、一足先に家を出てきていた。
馬たちの息遣い。
軽い嘶き。
蹄で地面を掻く音。
馬へ話しかける男たちの声。
護衛たちも、まだ仕事前の寛いだ空気の中で楽しそうに話している。
それらすべてが、木々を揺らす風へ混ざり合い、エミリアの耳へ届いていた。
出発前の、この少し浮き足立った喧騒が、エミリアは好きだった。
「おはようございます、エミリアお嬢様」
到着へいち早く気づいたウィザー家の執事が、穏やかに声を掛けてくれる。
「おはようございます。少し早いかなとは思ったのだけれど、待ちきれなくて」
エミリアは、少しだけ肩をすくめながら答えた。
その顔には笑顔が浮かんでいて、言葉が本心なのだと物語っている。
執事もまた、優しく目を細めた。
「今日は、馬で出かけるには最高の日和ですからね。シャノンお嬢様も、間もなくお見えになると思いますよ」
幼い頃から交流のあるウィザー家の人々は、エミリアのお転婆ぶりをよく知っている。
遠出の前になると落ち着かなくなり、部屋でじっと待っていられなくなるのも、いつものことだった。
ざわざわとしていた空気が、一瞬だけ静まった気がした。
玄関へ視線を向けると、シャノンが姿を現したところだった。
シャノンの乗馬服姿は、やはり目を引く。
この国では、小柄であることが美人の条件の一つとされている。
だけど、シャノンを見ていると、そんな価値観は簡単に覆されてしまう。
夏用のロングコートは、普段のドレスよりも着る人の体格をはっきり映し出す。
横へ深く入ったスリットからは、歩くたびにブリーチズとロングブーツに包まれた脚の動きが見えた。
すらりと長い脚で大股に歩く姿には、自然と風格が漂っている。
黒髪を一つへまとめ、キャスケットを目深に被っているにもかかわらず、その美しさは隠しきれていなかった。
「おはよう、シャノン。相変わらず、あなたの乗馬服姿は見ごたえがあるわ」
「おはよう、エミリア。お褒めにあずかり光栄だわ。乗馬服っていいわよね。楽だもの」
それには、エミリアも深く同意した。
この国の女性用乗馬服は、かなり先進的だ。
先代か、そのまた先代の王妃が活動的な人物で、“女性の乗馬もまたがって乗るべきだ”と提唱し、それにふさわしい服装を考案させたらしい。
当初は批判的な声も多かったそうだ。
だけど、その結果として女性の落馬事故が明らかに減り、今では当然の服装として定着している。
他国では今なお、女性の乗馬は横乗りが一般的で、鞍へまたがること自体を破廉恥とみなす国も多いらしい。
エミリアはこの話を聞いた時、心の中で王城へ感謝した。
二人が他愛もない会話を交わしているうちに、それぞれの母親たちが侍女を伴って姿を見せた。
これで準備は整った。
エミリアは馬丁の手を借りて馬へ跨る。
視界が一気に高くなった。
首筋をそっと撫でながら、「よろしくね」と声を掛ける。
すると馬は片耳をエミリアの方へ向け、首を軽く振りながら、蹄で地面を二度掻いた。
――“任せとけ”。
エミリアは勝手に、そう解釈している。
「行きましょうか」
全員が馬、あるいは馬車へ乗り込んだことを確認し、シャノンが声を掛けた。
馬丁二人が先導となり、その後ろをエミリアとシャノンが並んで進む。
さらに後方には護衛二人、馬車、そして最後尾にもう二人の護衛が続いていた。
舗装された道が終わり、人家もまばらになったところで、馬を駆け足へ移す合図が出る。
速度が上がった瞬間、顔へ当たる風に重みが加わった。
エミリアは一瞬だけ上半身へ力を込め、その圧を受け止める。
両脚は馬体へきちんと添っているか。
手綱の張りは一定に保てているか。
馬の重心へ、自分の重心が自然と乗っているか。
上下左右へ揺れるリズムへ合わせ、身体の均衡を取っていく。
馬が気持ちよく走り続けられるよう、自分の身体に余計な力みが入っていないかも意識する。
全身の筋肉を細かく調整しているうち、いつの間にか呼吸が浅くなっていることに気づいた。
心臓の鼓動が速くなり、身体が新鮮な空気を求める。
すうぅぅぅぅ――っと息を吸い込み、
はあぁぁぁぁ――っと吐き出した。
草の匂いを含んだ空気が、身体の隅々まで行き渡っていく。
ザカッ、ザカッという蹄の音。
馬の息遣い。
それ以外の音までもが、急にはっきりと耳へ届くようになった。
ピュイピュイ、チュリリリリリ――という鳥の鳴き声。
ざわざわと葉を揺らす木々の音。
ザァァ――ピチョチョチョ、と流れる小川のせせらぎ。
都会では聞き流してしまうような音たちが、エミリアを包み込んでいく。
部屋の中で延々と考えていたあれこれが、急にどうでもいいもののように思えてきた。
◇◇◇
目的地へ到着した。
走っている間は、鐙へ足を掛け、太腿で馬体を挟みながら均衡を取っていた。
だから馬から降りると、足の裏全体で身体を支えるという、普段なら当たり前の感覚がどこか頼りない。
地面へ足をつけても、まだ身体には揺れの余韻が残っている。
よろめきそうになるのを堪えるため、足の指へ力を込め、ふくらはぎにもぐっと力を入れた。
馬と一体になり、風を切って走る感覚も好きだ。
だけど、馬から降り、自分自身の足で立っていることを強く感じられるこの瞬間も、エミリアは好きだった。
馬を休ませるため、小川近くの木陰へ連れて行く馬丁たちへ手綱を預ける。
昼食の準備が整うまで、エミリアとシャノンは川沿いを少し歩くことにした。
「シャノン、ありがとう。遠乗りに誘ってくれて」
「どういたしまして」
「何日か前に、ターナー侯爵がお詫びにいらしたの」
「そう」
「その時は話題に出なかったんだけど、お帰りになったあと、お母様がね」
「えぇ」
「イヴリン様のことを少し教えてくれたわ」
「そう」
「お兄様が亡くなって、幼い頃からの婚約者の方とも縁が切れてしまったって」
「そう」
「その元婚約者の方が、少し前に結婚されたって」
「そう」
シャノンは、相槌を打ちながらエミリアの話を遮らずに聞いてくれる。
その静かな姿勢がありがたかった。
「私、自分に置き換えてしまったわ」
「自分に?」
「そう。家の都合で、アレク様との婚約がなくなって。
アレク様も別の方と婚約して、その人と結婚してしまったら……って」
「どうなると思った?」
「……分からなかった」
エミリアは、小川の流れへ視線を落とした。
「この二年間、不満も不安もたくさんあったわ。
でも、婚約が解消されるかもしれないなんて、一度も考えたことがなかった。
アレク様の心がこちらを向いていなくても、結婚はするものだと思ってた。
結婚自体がなくなるなんて……考えられない」
「イヴリン様に同情してるの?」
「……同情、なのかしら」
エミリアは小さく息を吐く。
「でも、心がちぎれそうだったわ」
「それだけアレク様を愛してるってこと?」
「……たぶん」
「じゃあ、元通り?」
「……元通りは、無理じゃないかしら」
「そう?」
「……。」
エミリアは、やっぱり自分がどうしたいのか分からない。
「殴る?」
「えっ!?」
突然飛び出した物騒な言葉に、エミリアは思わずシャノンをまじまじと見つめた。
「一発殴ったら、案外すっきりするかも。試してみたら?」
どこまで本気なのか分からない。
「……痛そう、アレク様」
エミリアの顔が、きゅっと窄まる。
「そりゃ痛いでしょうね。
でも、この二年間の所業を思えば、一発と言わず数発くらい殴られても、文句は言えないと思うわ」
そうだろうか。
アレクは、アレクなりに必死だっただけだ。
ただ、言葉が足りなかった。
それはエミリアも同じ。
勝手にいじけて、言葉を飲み込んで。
“察してくれることが愛情だ”なんて、自分勝手なルールを作っていた。
「話をするわ。アレク様と」
「話すだけ?」
「……とりあえずは」
「そう。殴り方なら、いつでも教えるわよ」
「話してみて、もし殴りたくなったら、その時教えてもらうわ」
「そうね」
シャノンが、ふっと柔らかく微笑んだ。
エミリアもつられるように笑う。
――とりあえず、話そう。
アレク様と。




