第二十四話 …アレク、あいつバカだったんだなーーエミリア視点ーー
リディアの抱擁は力強く、その勢いに息苦しくなったエミリアは、空気を求めるように顔を横へ逃がした。
視線の先には、母が開け放った扉。
その近くに、肩で息をしているマーサの姿が見える。
どうやら、母の突進は相当なものだったらしい。
「お、奥様……。」
マーサは息を切らし、その先の言葉が続かない。
扉の向こうには、執事長やメイド頭の顔まで見えていた。
母が知った時点で、こうなることはある程度予想していたが、エミリアの現状は、今まさに屋敷全体へ共有されたらしい。
マーサたちの説得もあり、リディアはエミリアへ決断を急がせず、しばらく静観してくれることになった。
とはいえ、その表情にはアレクへの不満が分かりやすく張りついている。
母の勢いに流されれば、婚約解消まで一直線に進みそうだった。
公の場で、イヴリンとお揃いのスズランを胸元へ飾り。
ターナー家の紋章入りチーフを、何の疑問もなく身につけている。
傍から見れば、恋人同士と受け取られてもおかしくない装いだった。
しかし――。
多分、アレクは何も分からず身につけていた。
それは、あの時の表情を見れば分かる。
だけど。
二年間、イヴリンについて何一つ話してくれなかった。
だから芽生えてしまった。
不安も、諦めも、不信も。
そんなものを抱えたまま、アレクとは向き合えない。
エミリアは小さくため息をこぼした。
◇◇◇
母との怒涛のやり取りのあと、今度は父に呼ばれた。
執務室へ入ると、父は革張りのソファへ座っていた。
エミリアも向かい側へ腰を下ろす。
「今日のことは、マーサから聞いたよ。」
「はい。」
「一つ気になったんだがね、エミリア。」
「はい。」
「君は、ターナー侯爵令嬢の発言を受けて、二人の関係を受け入れるような返事をしたそうだね?」
エミリアの瞳が、一瞬ぎらりと鋭く光った。
「はい。」
「どうして、そんな返事をしたのか聞かせてもらってもいいかな?」
「……。」
「……。」
エミリアが黙り込むと、父は急かさず待つ姿勢を見せた。
ゆったりと背をソファへ預け、静かに紅茶へ口をつける。
鷹揚に構えているように見せかけながら、エミリアが話し出すまで、いくらでも待つという意思表示。
「……アレク様に腹が立ったからですわ。」
しばらく考えたあと、エミリアはぽつりと口を開いた。
「アレクに?」
「えぇ。アレク様に。」
あの時感じた苛立ちが、今もまだ胸の奥で燻っている。
その感情が、言葉へ棘を混ぜそうになる。
エミリアは気持ちを落ち着けるため、紅茶で喉を湿らせた。
湯気とともに立ち上る香りは、馥郁としている。
いつも飲んでいる茶葉ではない。
来客用の高級茶だろう。
しかも、普段なら少ししか入れてもらえない砂糖とミルクが、今日はたっぷり入っていた。
その甘さと香り。
そして、何も言わずそうしてくれたメイドたちの気遣いが、ささくれ立ちかけたエミリアの内側を、ゆっくりと整えていく。
「アレク様が、ターナー侯爵令嬢をエスコートしている理由。
それがホイヤット領の復興支援のためだということは、お父様から説明を受けています。
だから、頭では理解しているのです。
だけど――アレク様からは、一言も説明を受けていません。」
エミリアは、ゆっくりと言葉を続けた。
「お二人が、学園時代の同級生だったことは知っています。
だけど、その頃からずっと交流があったのか。
噂で言われているように、お互いが嫡子でなければ、結婚を考えるほど親しい間柄だったのか。
そういうことも、何一つ。」
父は何も言わず、静かに耳を傾けている。
「今日のターナー侯爵令嬢の発言は、真実ではありません。
それは、アレク様の表情を見れば分かりました。
だけど。
婚約者以外の女性をエスコートすることについて、何の説明もなかった。
私は、そのことをずっと悩んできました。」
胸の奥へ沈めていた感情が、少しずつ言葉になっていく。
「尋ねれば、きっと答えてくださったと思います。
だけど、聞かれたから答えるのではなくて。
思いやりの一つとして。
“心配しなくていい”という言葉が欲しかったのです。」
エミリアは、自分の膝の上で手を重ねた。
「スズランの花飾りだってそうです。
エスコートする男性と、される女性が同じ花を身につける意味。
たとえアレク様が、その意味を知らなかったとしても。
誰かが、そのことを私へ教えるかもしれない。
それを聞いた時、私がどう感じるか。
そういうことを、少しでいいから考えてほしかった。」
この二年間。
アレクの気持ちが、どこへ向いているのか分からなかった。
二人の噂を耳にするたび、不安へ飲み込まれそうになった。
飲み込まれないために、心を凍らせてきた。
その凍てついた心へ、今日、イヴリンの“悪意”という熱が向けられた。
強引に溶かされた心の中に残っていたのは、不安ではなく――怒りだった。
「……アレク、あいつバカだったんだな。」
父の呟きに、エミリアは思わず瞬きをした。
ため息とともに漏れた父の呟きは、独り言なのか、それともエミリアへ聞かせるためのものなのか分からなかった。
だけど、その言葉が確かに耳へ届いたのも事実だった。
父はふいに、エミリアから視線を外す。
その視線は室内のあちこちをさまよっていて、心に浮かんだことを口にするべきかどうか迷っているようにも見えた。
右手の人差し指、中指、薬指が、太ももをリズミカルに叩いている。
まるで、ピアノの鍵盤を鳴らすみたいに。
考え事をしている時の父の癖。
エミリアは、その様子を黙って見つめていた。
しばらくして、父の視線が再びエミリアへ戻る。
そこにはまだ、わずかためらいが残っていた。
「本来なら、こんなことは私の口から言うべきではないと思うんだよ。
まったくもって、無粋極まりない。」
そう言う父の顔は、苦手なものを飲み込もうとしている子供のようだった。
「だけどさ。
二年間もエミリアを不安にさせていたんだ。
これには多少、罰が必要だと思う。
だから私は、あえて無粋者の役を演じるよ。」
前置きが長い。
つまり、それだけ言いにくい話なのだろう。
エミリアには、何を言われるのかまったく予想がつかなかった。
ほんの少し腰を浮かせ、座り直す。
革張りの座面が、ぎゅっと小さく鳴った。
太ももへ下着が張りつくような不快感もある。
緊張が、エミリアの感覚をいつも以上に敏感にしていた。
「アレクが、ターナー侯爵令嬢のエスコートを引き受けた理由。
それがホイヤット領への復興支援を受けるためだったというのは間違いない。」
父は、そこで一度言葉を切った。
「だけどね、エミリア。
ホイヤット領の復興へあそこまで必死になった理由の一つには、君が嫁いだ時、少しでも不安材料を減らしておきたいという気持ちもあったんだよ。」
「えっ……!?」
思いもよらない言葉に、エミリアは思わず声を上げた。
「あいつは、ホイヤット領で生まれ育ったわけじゃない。
災害が起きるまでは、“父親の実家がある土地”くらいの認識だったんじゃないかな。」
父は静かな口調のまま続ける。
「もちろん、大勢の命が失われたことには胸を痛めていた。
だけど、当時のあいつにとっては、どこか現実感の薄い出来事でもあったらしい。
それでも長期休暇のたびに領地へ入り、現状を見て回った。
そうしているうちに、自然と君のことを考えるようになったそうだ。」
「それは……。」
妹として思い浮かべただけではないのだろうか。
だって、その頃はまだ婚約者ではなかった。
父は、そんなエミリアの考えを見透かしたように話を続けた。
「私がアレクへ、エミリアとの婚約話を持ちかけたのは、あいつが学園へ入学する少し前だったからね。」
「えっ!?」
再び驚きの声が漏れる。
「正式な申し込みというほど大げさなものじゃないよ。
“学園生活の中で特別な相手ができなければ、エミリアのことも結婚相手の候補として考えておいてくれ”――そのくらいの軽い話だった。」
父は小さく肩をすくめた。
「正式な返事をもらったのは卒業直前だったけどね。
でも、領地の惨状を見るたびに――」
そこで父は、少しだけ苦笑した。
「“この景色をエミリアには見せたくない”って思ったみたいだよ。」




