第二十三話 どうしたい?ーーエミリア視点ーー
イヴリンの声は、エミリアが想像していたよりも柔らかかった。
「はい。」
「あぁ、顔を上げてちょうだい。少し話がしたいの。」
その言葉を受けて、エミリアはゆっくりと姿勢を正した。
顔を上げると、イヴリンが真っ直ぐこちらを見つめている。
だけど、そこにある感情が見えない。
貴族らしく巧みに隠しているというより、感情そのものが存在していないように見えた。
「私ね、あなたに言わなければならないことがあるのよ。」
その言葉とともに、彼女の内側から感情がゆらりと立ち上がる。
重たく、どこかどす黒い感情。
だけど――。
視界の端に、アレクがこちらへ向かってくる姿が映った。
どうやら今になって、エミリアがこの場にいることへ気づいたらしい。
愕然とした表情で、こちらを見ている。
「今日のこの状況を見ても、冷静なのね?」
イヴリンは、自らの胸元へ飾られたスズランへそっと触れた。
「見ての通り、私とアレクは恋仲なの。
だけど残念なことに、私は婿を取り、アレクは嫁を迎えなければならない。
だから結婚できないことは、お互い納得しているわ。
でもね――私、どうしても彼との子供が欲しいの。」
イヴリンの口角が、わずかに上がった。微笑みのつもりらしい。
「……意味は、分かるわよね?」
悪意で塗り固められたような言葉だった。
「はい。」
「これを聞いても、動じないのね?」
ほんのわずかに、イヴリンの首が傾ぐ。
「はい。父から、お二人の邪魔はするなと申し付かっております。」
エミリアは、イヴリンから目を逸らさなかった。
「……そう。」
イヴリンはしばらくの間、エミリアを見つめていた。
確かにこちらを見ている。
本心を探っている?
――いや、違う。
エミリアは思う。
イヴリンは、自分を見ているようで、見ていない。
もっと別の何かを見ている。
見たいと願っている。
そんな気がした。
やがて、小さなため息とともに、イヴリンの視線が下へ落ちる。
どこかふてくされたようにも見えるその表情は、彼女を少しだけ幼く見せた。
先ほどの言葉は衝撃的だった。
イヴリンが、自分とアレクを恋人同士だと思わせたがっているのも事実なのだろう。
そして、それによってエミリアを傷つけようとしていることも。
だけど。
それは、この会話の本質ではないような気がした。
本当にアレクを愛しているなら、こんな公の場で、あんな言葉を口にするだろうか。
とはいえ――。
エミリアは、アレクへ視線を移した。
襟元のスズラン。
胸ポケットの上質なチーフ。
胸がじりと軋む。
涙が浮かびそうになるのを、必死に堪えた。
言おうか。
やめようか。
一度開きかけた口を閉じる。
だけど――。
エミリアは改めて、真っ直ぐイヴリンへ視線を向けた。
「本日のホイヤット伯爵子息様の装いを拝見し、理解を深めました。」
アレクが目を見開き、自らの胸元へ視線を落とす。
イヴリンが何を考え、こんな行動へ出たのかは分からない。
だけど、その策略へまんまと乗せられているアレクには腹が立った。
近くで見れば、ポケットチーフは思った以上に上質だ。
しかも、ターナー家の紋章まで刺繍されている。
そんなものを胸へ差し、さらに男女で同じ花を身につける。
その意味を、アレクは考えなかったのだろうか。
「――優秀なのね、あなたも。」
どこか気の抜けた口調で、イヴリンが言った。
「まぁ、用件はそれだけよ。それでは、ごきげんよう。」
イヴリンは、アレクへエスコートを求める。
アレクは、先ほどの愕然とした表情のまま、エミリアを見つめていた。
だけどエミリアは、イヴリンから視線を逸らさなかった。
――あなたなんて、見てやらない。
イヴリンの小さな咳払いが、アレクの硬直を解いた。
二人は、その場を去っていく。
エミリアは凛とした姿勢のまま、その背中を見送った。
しばらく、そのまま動けなかった。
動けないまま、先ほどの出来事を思い返した。
イヴリンの中には、確かに明確な悪意があった。
一見それは、エミリアへ向けられているように見える。
だけど、違う気がした。
エミリアは幼い頃から、貴族たちの見せる悪意というものを知っている。
それはいつだって、小綺麗なものへ包まれていた。
好意に見える何か。
善意を装った何か。
そんな言葉や態度の裏へ、悪意は巧妙に隠され、隙を突くようにエミリアの周囲を取り囲む。
だけど、あんなむき出しの悪意は違う。
あれでは、発した本人まで傷ついてしまう。
――そう。
あの悪意は、イヴリン自身へ向けられていた。
彼女は、あの悪意で傷ついた場所から、何を取り出したかったのだろう。
そんなことを考えていると、不意にワイマール夫人が静かに近づいてきた。
「大丈夫?」
穏やかな声だった。
その表情には、エミリアを気遣う気持ちがはっきりと滲んでいる。
それを感じた瞬間、急に泣きたくなった。
純度の高い悪意を間近で浴びたことで、エミリアの心は無意識のうちに緊張していたのだろう。
そこへ、ワイマール夫人の優しさが触れた。
張り詰めていたものが、一気に緩む。
その落差が、涙を誘った。
声を出せば、そのまま泣いてしまいそうで。
エミリアは答えることができなかった。
ただ、ほんの少しだけ俯く。
髪で表情を隠したかった。
ワイマール夫人は、それ以上何も聞かなかった。
ただエミリアの背へそっと手を添え、静かに、だけど確かな意思を持って、その場から連れ出してくれる。
少し離れた場所では、マーサが待機していた。
三人で玄関へ向かう道中、マーサもまた何も聞かず、ただ静かに寄り添って歩いてくれる。
悪意を包み隠すための好意や善意なら、これまで何度も見てきた。
だけど、本物の好意と善意も、エミリアは知っている。
ワイマール夫人やマーサが見せてくれたものは、まさにそれだった。
今はその温かさが、じんわりとエミリアを包み込んでくれていた。
家へ戻り、着替えを終えると、ようやくほっと息をつくことができた。
本当なら、このあとアレクと会う約束になっている。
だけど今は、とても会う気にはなれなかった。
アレクとイヴリンは、帰りの馬車の中で何を話したのだろう。
アレクは、彼女の見せかけの恋心を信じただろうか。
――本当に、見せかけ?
悪意を善意へ包み隠せるように、恋心もまた、あの悪意の中へ溶け込んでいたのかもしれない。
だけど、やっぱり、と思う。
本当に好きなら、あんなことができるだろうか。
彼女は、何をしたかったのだろう。
他人の心なんて分かるはずがない。
そう思うのに、考えることをやめられない。
『コココココンッ!!』
突然、勢いの強いノックとともに、扉が乱暴に開けられた。
「エミリアっ!」
声を掛けられた時には、すでに母リディアが室内へ踏み込んできている。
こちらへ向かってくる勢いも凄まじい。
おそらく、マーサからガーデンランチでの出来事を聞いたのだろう。
こういう時の母の行動速度は驚異的だった。
ついさっきまで、心へ重くのしかかっていたものが、リディアの勢いに吹き飛ばされそうになる。
エミリアへ立ち上がる隙すら与えず、リディアはそのままソファへ腰を下ろした。
勢いに押され、身を引きかけたエミリアを、今度はぎゅうぎゅうと抱きしめる。
少しばかり圧の強い、だけど確かな母の愛情が、エミリアを包み込んだ。
「どうしたい!?」
あまりにも端的な問いだった。
だけど、改めて聞かれると分からない。
――私は、どうしたいんだろう。




