第二話 触れていたはずの距離
アレクは今、二年前まで通っていた学園の面会用サロンにいる。
テーブルを挟み、向かいに座るのは、婚約者のエミリア・リンバー。
リンバー伯爵家の第三子で第一女。
絹糸のようなプラチナブロンドの髪は緩やかに波打ち、緑の大きな瞳は、少しだけ垂れたまなじりごと長いまつ毛に覆われている。
陶磁器のように白くきめ細やかな肌。標準よりわずかに低い身長と、華奢な体つき。
どれも、この国の令嬢たちが理想とする姿を、そのまま形にしたようだった。
生まれた頃から知っているはずなのに、
目の前のエミリアは、どこか違う。
細くて柔らかい髪は毛量が多く、こまめに手入れをしないとすぐ絡まると、彼女はよくぼやいていた。
朝などは悲惨な状態になるのだと笑いながら、「伸ばしたくない、お兄様たちみたいに短くしたい」と繰り返していたはずなのに。
今、彼女の髪は腰まで伸び、つややかに光を返している。
丁寧に手入れされていることは、一目で分かった。
幼い頃の彼女は、外へ出るのが好きだった。
兄たちの後を追い、草花や虫、小さな野生動物を見つけては観察し、ときに追いかけ回していた。
ただし外に出るには、大きな日除け帽と日焼け止めが欠かせなかった。
母リディアからの厳命だった。
ずれて視界を塞ぐ帽子に文句を言い、ぬるつくクリームを嫌がりながらも、それでも外へ出たがった。
そのおかげか、彼女の肌は今も変わらず白く、きめ細かい。
うっすらと色づいた頬と唇は、まだ少女の面影を残したまま、淡い色香をまとわせている。
その髪に、何度も触れたことがある。
庭を駆け回ってついた葉を取ってやり、絡まった毛先をほどいてやった。
落ち込めば慰め、うまくいけば褒めて、頭を撫でたことも一度や二度ではない。
頬に触れた記憶も同じだ。
ケーキのクリームを拭ってやったことも、こぼれた涙を指で受け止めたこともある。
抱っこだって——。
「アレク様?」
挨拶を交わし席についたものの、言葉を発しないアレクに、エミリアが声をかける。
「あぁ、すまない。」
気づけば、手元の紅茶は少しぬるくなっていた。
アレクは口元を手で覆い、ため息をついた。
エミリアに関する記憶は、いつだって鮮明だ。
「今日はどういったご用事で?」
丁寧な言葉だった。
だが、どこか引っかかる。
——用事がなければ、来ないのでしょう?
そう言われた気がした。
「エミリア。」
身体が、知らず強張っている。
思ったより低い声が出た。
「はい。」
変わらず穏やかな声。
こちらの戸惑いも、わずかな苛立ちも、軽く受け流されてしまう。
「……なぜ、俺に教えなかった?」
◇◇◇
アレクは数日前のことを思い出していた。
夢の中で泣いていた、幼いエミリア。
泣き止み、顔を上げた彼女は、いつの間にか成長していた。
そしてその顔には、表情がなかった。
目を覚ましたとき、夢でよかったと思った。
けれど——
自分は、大事な何かを忘れている。
それを思い出さなければ、何かを失う。
おそらく……いや、きっと、エミリアのことだ。
だが、何を忘れているのかが分からない。
とにかく頭をはっきりさせようと、ベッドから降りた。
床に足をつけた瞬間、ふくらはぎがきゅっと引き締まり、意識が現実へ引き戻される。
朝の空気を吸い込む。
視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。
花も飾られていない、実用一辺倒の部屋。
壁にはカレンダー。
細かな予定は手帳で確認するが、朝一番にカレンダーに目をやり、日付と曜日を確かめるのがアレクの習慣だった。
今日は、五月十日。
エミリアの誕生日は六月。まだ先だ。
この国の社交は、十二月に始まり、翌年五月末まで続く。
その終了を待たずに領地へ戻る貴族もいるが、アレクは毎年、リンバー家でエミリアの誕生日を祝ってから戻ることにしている。
社交に関することだろうか。
だが、エミリアはまだデビューしていない。
エミリアの、デビュー——。
不意に、背中を冷たいものが走った。
エミリアは、次の社交シーズンの始まりにデビューする。
その半年前の今、王立学園で、所作やダンスの腕前を厳しく見られているはずだ。
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今日の日付は、五月十日。
王立学園の入学式は、四月一日。
エミリアに関して、忘れていたこと。
それは——
彼女の、王立学園入学だった。




