第十八話 恋のはじまりーーエミリア視点ーー
幼い頃から、母が何かにつけエミリアを自慢し、優先することに、居心地の悪さを感じていた。
可愛がられていること。
大切にされていること。
それは十分に分かっている。
それでも、二歳上の兄マティウスから時折向けられる、意地の悪い視線に幼心は傷ついたし、母に連れられて行くお茶会で、母のいない隙を狙って囁かれる、聞こえよがしの嫌味にも疲弊していた。
母へ話せば、相手に言い返してくれるだろう。
だけど、それが貴族夫人として相応しい振る舞いではないことを、エミリアはすでに知っていた。
それに、嫌味の原因は母自身にある。
だれかれ構わず、エミリアの可愛らしさを、あけすけに語ってしまうのだから。
だからエミリアは、心の内へ感情をしまい込み、何も気づいていないふりをしてやり過ごしていた。
そんなある日のことだった。
兄たちと遊ぼうと、二人の背後から近づいた時。
マティウスは時折、「エミリアはいいよなぁ」などと嫌味を口にすることはあった。
それでも、本気で嫌われているわけではないと思っていた。
だから、いつものように近づいていき――そして、耳にした。
「はっ、エミリアのわがままにはうんざりだ。
いっつも僕たちの後ろをついて回ってさ。
それだけでも鬱陶しいのに、あいつが転んだり、服を破いたりすれば、僕たちが母上に叱られる。
だからといって遊んでやらなかったら、それはそれで叱られる。
あいつなんて、ただ可愛いだけで、何の役にも立たないお荷物じゃないか」
「うん……まぁ、そうだね」
パトリックとマティウスは、エミリアへ背を向けている。
だから、マティウスの吐き捨てるような言葉へ同調した時の、パトリックの表情は見えなかった。
エミリアにとって、パトリックはいつだって優しく、頼りになる兄だった。
マティウスが、一緒に遊びたがるエミリアを鬱陶しがっても、パトリックはいつも、そんな弟を宥めてくれていた。
だからエミリアは、パトリックがすぐにマティウスをたしなめてくれると思った。
それなのに。
パトリックもまた、マティウスへ同意した。
その事実をどう受け止めればいいのか分からず、その場へ立ち尽くしていると、不意にアレクと目が合った。
兄たちに鬱陶しがられている存在。
それを見られてしまった。
幼いながらも、エミリアはいたたまれなくなって。
逃げるようにその場を離れた。
少し離れた場所にあるガゼボは、エミリアのお気に入りの場所。
ベンチへ腰掛けた途端、それまで堪えていた涙が溢れそうになる。
家庭教師からは、人前で涙を見せるのは、はしたないことだと教えられた。
でも、今ここには誰もいない。
だから、少しくらい泣いても許されるだろうか。
本当なら部屋へ戻るべきなのだ。
それは分かっている。
部屋でなら、泣くことは許されているのだから。
だけど、部屋へ戻れば、きっと乳母はエミリアの潤んだ瞳に気づくだろう。
そうしたら、「どうされましたか?」と聞いてくるはず。
兄たちと遊んでくると言って部屋を出たエミリアが、そんな顔で戻れば、乳母は原因が兄たちにあると察するだろう。
そして、エミリアの「伝えないでほしい」という気持ちは無視され、このことは両親へ報告される。
そうなれば、兄たちはまた母に叱られてしまう。
だからほんの少しだけ、ここで気持ちを落ち着かせたかった。
しばらくして。
カサリ、という音に顔を上げると、そこにはアレクがいた。
目に浮かんだ涙は、まだ乾ききっていない。
エミリアは、静かにアレクへ視線を向けた。
「隣に座ってもいいかな?」
優しい問いかけだった。
アレクの口調から、気遣いを感じた。
だから余計に、エミリアの涙は再び零れ落ちそうになる。
気づかれたくなくて、俯いたまま。
エミリアは、アレクが座れるよう、自分の体を少しだけ端へ寄せた。
アレクはただ隣に座り、何も言わずにいてくれた。
時折、エミリアの髪をそよ風が揺らす。
ガゼボを囲む木々の葉が、さわさわと音を立てた。
時々、小鳥がチチチと鳴く。
自然の音を、ただじっと聞いているだけ。
静かに、時間だけが流れていく。
そうしているうちに、エミリアの中で今にも溢れ出しそうになっていた感情が、少しずつ元の場所へ戻っていった。
「エミリア。頭、ポンポンってしてもいい?」
まるでそれが分かったかのように、アレクが問いかける。
エミリアは、すぐには頷けなかった。
「……なんで?」
こんなの、可愛らしい返事じゃない。
いつでも可愛らしくあることを求められているエミリアにとって、この答え方は褒められたものではなかった。
「なんでだろう?
エミリアが可愛いからかな?」
少し茶化すような言い方に、アレクの優しさを感じた。
その優しさが、さっき胸へ刺さった棘を、するりと撫でた。
だからだろうか。
言うつもりのなかった言葉が、勝手に零れた。
「私は、わがままなんでしょう?」
こんな風に聞けば、「そんなことないよ」と答えるしかなくなる。
ずるい聞き方だと、自分でも思った。
だけどアレクは、
「七歳の女の子が、家の中でちょっとくらいわがままなのって、普通だろ?
マティウスがああ言ったのは、家庭教師に注意された腹いせだよ。
ただの八つ当たりさ」
と、穏やかに言った。
アレクは、エミリアがわがままであること自体は否定しなかった。
淑女教育を受けている身としては、わがままだと思われていることを恥じるべきなのだろう。
だけど、アレクの言葉と表情は、ありのままのエミリアを優しく受け止めてくれているようで。
エミリアの中で固まりかけていた感情が、ゆっくりとほぐれていく。
でも、その気持ちをうまく言葉にはできそうになかった。
だから、少しだけアレクへ近づいて。
そっと、自分の頭を差し出した。
アレクは、エミリアの頭を軽くポンポンと叩いたあと、優しく自分の方へ引き寄せてくれた。
アレクの体温。
頭を撫でる、穏やかな手の動き。
それを感じた途端、エミリアは自然と泣くことができた。
恥ずかしいとは思わなかった。
ただ静かに。
感情のままに。
七歳の少女が一人で抱えるには重すぎた、“誰かに疎まれている”という事実。
そして、それによって波立った感情を。
アレクは、ただ優しく癒してくれた。
それが、エミリアの恋の始まりだった。




