第十七話 言葉を尽くす
「ありがとう」
ターナー侯爵はそう言うと、ようやく背中の緊張を解いた。
わずかに肩の位置が下がる。
軽く足を組み、上になった膝の上で指を組んだ。
「……とは言っても、私も何から話せばいいのか、まだよく分かっていなくてね」
侯爵の視線が宙をさまよう。
人差し指が、反対の手の甲を一定のリズムで叩いていた。
いろいろな思いが交錯しているのだろう。
アレクは何も言わず、静かに待った。
「イヴリンとは少し話はしたが……」
侯爵の視線が、ふとドアへ向く。
意識が、ドアの向こう――屋敷の奥へ向いているのだろう。
「何年か前……多分、学園へ入学してしばらく経った頃だったかな。
朝食の席で、あれが……イヴリンが愚痴を言ってね。
シャノン・ウィザー伯爵令嬢を引き合いに出されるのが辛いと」
それは、アレクも知っていた。
一年時、クラスメイトたちがそんな話をしているのを聞いたことがある。
『イヴリン様も女当主を目指されたらどうです? 貧乏子爵家の次男坊なんかに継がせずに』
『ウィザー家の小娘が当主になると公言してるんです。あんな子供より、イヴリン様の方が相応しいでしょう』
近くで聞いていても、追従なのは分かった。
当時、アレクたちは十六歳。
シャノンはまだ十一歳くらいだったはずだ。
シャノンの“女当主宣言”は話題性もあり、多くの人間が知っていた。
だが、本人を実際に知る者は少ない。
だからこそ、多くは“子供の背伸び”程度に軽く見ていた。
特に十代半ばの、思春期真っ只中の者たちにとって、自分たちより五歳も年下の少女が「当主になる」と言い放つことは、なぜか自分たちまで見下されたような気分になったのだろう。
その鬱屈を、イヴリンを過剰に持ち上げることで晴らそうとしているようにも見えた。
イヴリンは、そのたび曖昧な笑みを浮かべていたと思う。
「学友だけではない。親戚たちからも、似たようなことを言われていたらしい。
うんざりすると言っていたよ」
まだ世間を知らない若者たちだけではない。
貴族社会を熟知しているはずの大人たちまでもが、だ。
「私はそれを聞いて、“軽く流せ”と言ったと思う。
その程度で揺らぐな、と」
侯爵はそこで、自嘲気味に小さく笑った。
「……多分、覚えている限りでは。
イヴリンが私に愚痴を言ったのは、それが最後だ。
それまでは、それなりに話ができる関係だったと思う」
侯爵の視線が、ゆっくりと落ちる。
「兄の死が怖く、悲しかったこと。
母が屋敷を離れて寂しく、心細いこと。
でも、早く元気になってほしいから我慢する。
幼馴染の婚約者と結婚できなくなって、残念だ。
……そんな話はしてくれていた。
それなのに、気づけば私は、娘のことを何も知らない父親になっていた」
イヴリンの兄――ターナー侯爵家の後継者。
彼の急死は、あまりにも大きかった。
ターナー家の未来予想図は、その全てが彼を当主とする前提で組み立てられていたはずだ。
それが、一瞬で崩れ去った。
ターナー家の国への貢献度を考えれば、後継者選びは慎重にならざるを得ない。
しかも、急務だった。
ターナー侯爵自身も、余裕などなかったのだろう。
もしかすると、息子の死を悲しむ時間すら、なかったかもしれない。
それでも――。
十代前半の少女が兄を亡くした。
そのせいで、母も体調を崩し、屋敷を離れた。
突然、嫡子という立場を背負わされ。
嫁ぐはずだった相手との婚約も解消された。
代わりに現れたのは、自分との関係性ではなく、“能力”だけで選ばれた男。
さらには、
“お前が当主になれば、あんな男を後継者に据える必要はなかったのに”
とまで言われる。
そして、その苦しさを、父にも話せなくなった。
イヴリンの心の澱は、ただ静かに、内側へ溜まり続けていくしかなかったのだろうか。
「表面上は、とても穏やかな数年間だったと思う。
トーマスとの関係は多少気になったが、時間が解決するだろうと考えていた。
何か問題があれば、以前のように話してくれると、私はタカをくくっていたんだ。
その慢心の結果が、これだ。
話さないからといって、何も感じていないわけではないことくらい、気づいてやれてもよさそうなものを……気づけなかった」
アレクにとっても耳の痛い話だった。
そう。
何かあれば、言ってくれると思っていた。
だが、それは信頼関係があってこそだ。
「それに……」
ターナー侯爵は、そこで言いよどんだ。
視線が少し先の床へ落ちる。
絨毯の模様をなぞるように目を動かしたあと、しばらくして再び口を開いた。
「前の婚約者が、数ヶ月前に結婚してね。
それが今回のことに影響したのかは分からん。だが、何かしら思うところはあったのかもしれない。
それに――」
ターナー侯爵の目が、アレクを捉える。
「君との契約も終わる。
この二年間、君との関係が、あれの支えになっていたのかもしれんな。
……まぁ、これも推測でしかないが」
それはどうだろう。
アレクは思う。
関係と呼べるものが、自分とイヴリンの間にあっただろうか。
自分はただ、義務を果たしていただけだ。
丁寧には接していた。
だが、寄り添ってはいなかった。
それでも――。
そんな心許ない関係へ縋りたくなるほど、イヴリンは孤独を抱えていたのだろうか。
エスコートのためターナー邸を訪れるたび、イヴリンの周囲には大勢の従者たちが傅いていた。
エスコート先でも同じだ。
彼女を中心に、多くの貴族が集まる。
偉ぶることもなく、静かな微笑みを湛えていた彼女が、胸の内で何を思っていたのか。
アレクには分からない。
「あぁ、すまない。余計なことを言った。
歳を取ると、いらんことまで口にしたくなる」
アレクの沈黙を困惑と捉えたのか、ターナー侯爵は少し空気を和らげた。
「イヴリンのことを理解してほしいとか、ましてや許してほしいと思って、この話をしたわけではない。
ただ、いい歳をした大人の失敗談として、聞き流してくれて構わん。
だが、ひとつだけアドバイスをするなら――
言葉を大事にしなさい。
これは私自身への教訓だが、君にも知っておいてもらいたい」
そう言って、ターナー侯爵は会話を締めくくった。
◇◇◇
家へ戻ったアレクは、自室の机の引き出しを開けた。
そこには、エミリアから届いた手紙が大切にしまわれている。
アレクは、そのうちの一通を取り出した。
エミリアは、ずっと言葉を尽くしてくれていた。
その言葉を奪ったのは、アレク自身だ。
また以前のように、何でも話してもらえる関係へ戻れるよう、最大限の努力をしなければならない。
アレクは、まっさらな便箋を取り出した。
まずは会ってもらえるよう。
言葉を尽くそう。
そこからだ。




