第十六話 愚痴の報酬
家へ戻ると、通いの家政婦から手紙を渡された。
差出人は、ターナー侯爵。
アレクの都合がつく時に、ターナー家へ来てほしいという内容だった。
『本来であれば、こちらから出向くべきなのだが、多忙を極めており、屋敷を離れられない』
そう詫びた上で、日時は必ずアレクの都合へ合わせると記されている。
イヴリンの発言によって、ターナー侯爵家の屋台骨は揺らいでいる。
今回の件を“なかったこと”にするため、どれほどの人員と金、そして労力が必要になるのか。
アレクには想像もつかなかった。
だが、ターナー侯爵ならば、それを成し遂げるのだろう。
……できる。
だが、その代償は決して小さくない。
立場だけを考えれば、ターナー侯爵がここまで低姿勢になる必要はない。
アレクは、没落寸前だった伯爵家の跡取りに過ぎない。
しかも数年前までは平民だったのだ。
それでもなお、ここまで誠意を示してくれる。
そのことに、アレクは素直に敬意を抱いた。
とはいえ、侯爵家への訪問は気が重い。
だからこそ、先延ばしにせず、翌日にとの返事を出した。
◇◇◇
「あぁ、今日はわざわざすまないね」
応接室へ通されると、すでにターナー侯爵が待っていた。
ソファで寛ぐこともなく、立ったままアレクを迎える。
「あれは現在、私室で謹慎させている。
必要ならば、直接謝罪もさせるが……どうするかね?」
「いえ。謝罪は求めません」
「そうか」
侯爵は静かに頷いた。
「では改めて、私の方から謝罪させてもらおう」
そう言うと、ターナー侯爵は深々と頭を下げた。
「今回は、本当にすまなかった」
……ここまでするのか。
いや。
“ここまでしなければならないこと”なのだ。
当事者でありながら、アレクはまだ、貴族社会というものを完全には理解しきれていない。
正直に言えば、居心地が悪かった。
「あの……どうか頭を上げてください」
「ありがとう」
侯爵は顔を上げる。
先程までは、父親の顔だったように思う。
しかし今はもう、この国有数の高位貴族の顔へ戻っていた。
「――では早速、慰謝料の話からしようか」
「慰謝料……ですか?」
「あぁ、もちろん。
まさか、当主が頭を下げたから終わり……などと思ってはいないだろう?」
侯爵の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥にある重みは明確だった。
「今回の件は、“空気を悪くした”程度で済ませていいものではない。
君だけではない。
リンバー伯爵令嬢は、これからしばらくの間、口さがない噂に晒される。
自尊心も、名誉も傷つけられるだろう」
侯爵はそこで一度言葉を切った。
「もちろん、私の威信にかけて火消しは行う。
だが、侯爵家の人間が、公の場で堂々と口にした言葉だ。
特に下級貴族ほど、こういう話には飛びつく」
その現実味に、アレクは口を閉ざした。
「だからこれは、君に対してというより、リンバー伯爵令嬢に対してと考えてほしい。
……彼女とは、会って話せたかね?」
「……いえ。まだ会えていません」
「そうか」
侯爵は静かに頷いた。
「とりあえず、座ろう」
その言葉に従い、アレクはソファへ腰を下ろす。
侯爵も向かいへ座った。
それに合わせるように、使用人たちが流れるような所作で紅茶と焼き菓子を運んでくる。
その無駄のない動きからも、侯爵家の積み重ねが感じられた。
◇◇◇
「あの、」
アレクは迷いながらも口を開いた。
「慰謝料は、私ではなく、エミリアへ直接お渡しいただけませんか?」
正直、自分が慰謝料を受け取る立場だとは思えなかった。
イヴリンの発言は事実無根だ。
だが、自分が貴族社会の暗黙のルールを理解していなかったこと。
そして、トーマスのような洞察力や推測力を持ち合わせていなかったことも、今回の一因なのではないか――そんな思いがあった。
アレクは、イヴリンへ何度かエミリアの話をしている。
おそらく、かなり浮かれた調子だったはずだ。
話題を振ってきたのはイヴリンの方だった。
だが、その時。
イヴリンにも、幼馴染の婚約者がいたこと。
そして、その婚約が家の事情によって解消されたこと。
それらを知っていれば、もう少し配慮して話せていたかもしれない。
話している途中で、彼女の表情は変わっていたかもしれない。
もしそれに気づいていたら、別の話題へ切り替えることもできたかもしれない。
聞かれるまま、無邪気にエミリアのことを語るアレクを、イヴリンはどんな気持ちで見ていたのだろう。
アレクの口から語られる“エミリア”に、何を思っていたのだろう。
「金は受け取りにくいかね?」
いつの間にか俯いていたアレクが顔を上げる。
ターナー侯爵の視線とぶつかった。
「……はい」
誤魔化しても仕方がない。
アレクは正直に答えた。
「だったら、“私の愚痴を聞くことへの報酬”という形なら、受け取ってもらえるかな?」
「愚痴……ですか?」
予想外の言葉に、アレクはその単語を繰り返すことしかできなかった。
目の前にいるのは、威厳に満ちたターナー侯爵だ。
だが、よく見れば、その表情には濃い疲労が滲んでいる。
日曜の夕方から、まだ丸二日ほどしか経っていない。
まともに眠る時間すらなかったのだろう。
それに――と、アレクは思う。
こういうとき、味方を見極めるのは難しい。
ホイヤット家の不祥事が発覚した時。
祖父はすでに当主の座を退いていたが、一部事業ではなお実権を握っていた。
長年仕えてきた腹心もいた。
だが、彼らもまた伯父の不正へ関わっていたのだ。
長く付き合った相手だからといって、その本心まで分かるわけではない。
ターナー侯爵が人を見る目に長けていたとしても、今はいつも以上に慎重になっているだろう。
今回の件で、ターナー侯爵へ責任を問う声は必ず上がるだろう。
場合によっては、当主交代を求める者まで現れるかもしれない。
崖際へ追い詰められた人間に、部下たちが変わらぬ忠誠を誓い続けるとは限らない。
今のターナー侯爵は、誰をどこまで信じてよいのか、判断しづらい状況にいるはずだ。
特に、重要な役目を任せている相手ほど、弱みは見せにくい。
たった一言の愚痴が、自分の立場を崩しかねないのだから。
その点、アレクは都合がいい。
もし余計なことを口にしたとしても、簡単に握り潰される側だから。
まだ平民感覚の抜けきらない彼にとって、高位貴族とは、それほど絶対的な存在だった。
それに、もしかしたら。
この二年間の交流で、少しは信頼を得られていたのかもしれない。
そうだったなら、少しだけ嬉しい。
そんなことを思いながら、
「分かりました。お聞きします」
と、アレクは答えた。




