第十五話 試金石
トーマスの視線は、変わらずアレクへ向けられていた。
だが、その鋭さがふいに和らぐ。
代わりに、自分の内側を静かに覗き込んでいるような、わずかな翳りが差した。
「では、なぜ急にあんなことをしでかしたのか。
そう考えた時、私は初めて、イヴリン嬢の胸の内について考えました」
トーマスは淡々と続ける。
「正直に言えば、こんな事態になるまで、彼女が何を思っているかなど考えたこともなかった。
ですが、よくよく振り返れば、兄上の急死によって、彼女の人生は大きく変わっている」
そこで一度、言葉を区切る。
「ターナー家嫡子という立場に立たされ。
その結果、幼少期からの婚約者との関係も解消されています」
アレクは息を呑んだ。
知らなかった。
だが、考えてみれば十分あり得る話だ。
高位貴族の婚約は早い。
トーマスとの婚約が決まったのは、学園入学直前だったはずだ。
つまり十五歳前後。
それ以前に婚約者がいても、おかしくはない。
……解消させられたのか。
「嫁ぐつもりでいたのに、突然、家を継ぐ側へ回ることになった。
それまで受けてきた教育では足りない。
……いえ、必要な知識そのものが違います」
トーマスは小さく息を吐いた。
「私自身、ターナー家への婿入りが決まった後、侯爵から与えられる課題には散々苦しめられました。
イヴリン嬢の負担は、それ以上だったでしょう」
その声には、どこか実感が滲んでいる。
「前の婚約者とは、幼馴染で仲が良かったとも聞いています。
それが、私のような人間に取って代わられた。
不満を抱いて当然だった。
ですが、当時の私は、そこまで考えが及ばなかった」
トーマス本人もまた、余裕などなかったはずだ。
だが、それ以上にアレクの胸へ刺さったのは、別のことだった。
自分が話すエミリアの話を、イヴリンはどんな気持ちで聞いていたのだろう――。
「そんなことを、つらつら考えているうちに、ある言葉を思い出したんです」
アレクの思考をよそに、トーマスは静かに続けた。
「赴任先にいた研修員の言葉です。
平民、それも労働者階級出身の人物でした」
トーマスはわずかに視線を伏せる。
「ある時、伝達ミスが原因で、大事故になりかけたことがありました。
幸い、大惨事になる前に収束できましたが……冷や汗が止まりませんでしたよ」
かすかに苦笑する。
「原因と再発防止について話し合っていた時、彼に言われたんです。
『言葉と態度で誤解を与えたのなら、言葉と態度でその誤解を解かなきゃならないだろう』――と」
その言葉を口にしたあと、トーマスは静かに息を吐いた。
「その言葉を思い出したとき、私は、自分とイヴリン嬢との関係について考えました。
……そもそも私たちは、“誤解を与える段階”にすら立っていなかったのだな、と」
静かな言葉だった。
だが、空気に染み渡るほど、重みのある言葉だった。
「彼女が、なぜ公衆の面前であんなことを言い放つに至ったのか。
私には予想もつきません。
これから結婚し、一つ屋根の下で暮らすというのに」
トーマスはそこで少し視線を遠くへ向けた。
「最低限の義務だけ果たす夫婦。
そういう関係が存在することも知っています。
実際、珍しくもない」
そして、ゆっくりとアレクを見る。
「ですが、だからといって、自分までそうなる必要があるのか。
本当に彼女は、私に何も期待していないのか。
……そんな話を、私たちは一度もしたことがなかった」
その声には、ようやく“個人”としての迷いが混じっていた。
「ならば。
ここまで泥まみれになってしまった今なら。
恥も外聞も、もう意味を失った今なら。
一度くらい、真正面から向き合ってみるべきでは――そう思ったんです」
「――すみません。少々、自分語りが長すぎましたかね?」
そう言うと、トーマスは優雅な所作で紅茶をひと口含んだ。
そのわずかな動作だけで、彼の空気が変わる。
内省的で年相応の青年から。
現実を的確に把握し、状況を裁く有能な貴族へ。
まるで、自らの内側にある“役割”へ切り替えたようだった。
「噂の火消しについては、ターナー侯爵が動いてくださいます。
社交シーズンも、もう終わりです。あなたも近いうちに、領地へ戻られるのでしょう?」
トーマスは静かに続ける。
「次のシーズンで、あなたがリンバー伯爵令嬢と親しくしている姿を見せれば、あの程度の噂など、暇な人間しか蒸し返しませんよ。
今回の件、あなたは間違いなく被害者です。
ですから、堂々としていてください」
そう言って見せた表情は、いっそ晴れやかと言ってもよかった。
アレクは、その反応を意外に思った。
トーマスの第一印象は、自分の内面をそう簡単に見せる人物には思えなかったからだ。
もちろん、そんなことを口に出すつもりはなかった。
だが――
「あなたとは同い年ですし。
置かれた立場は違えど、お互いイヴリン嬢に振り回され、結果としてゴシップの中心人物になってしまった」
そこで、トーマスはほんの少し口元を緩める。
「それに多分、婚約者との距離感を掴みかねているところも似ている。
……だからでしょうね。
少し、自分をさらけ出してみたくなったんですよ」
その笑みは、ほんのわずかだが、年相応の悪戯っぽさを感じさせた。
アレクは思わず、息を呑む。
トーマスの慧眼の深さに。
トーマスの評判を聞く時、必ず語られるのは、その教養と才覚だった。
実際、王立学園を一年早く卒業し、そのまま海外技術研修団へ選ばれるなど、並の人間にできることではない。
知力。
判断力。
機転。
それだけでも十分、卓越している。
だが、それだけではないのだと、アレクは今日、実感した。
おそらくターナー侯爵が彼を後継者に据えた理由は、その洞察力と胆力にある。
そして、その胆力が、これから試される。
まず間違いなく、トーマスは話題の中心人物になる。
しかも、良くない意味で。
元々、子爵家次男である彼が、ターナー侯爵家を継ぐことに反発する声は少なくなかった。
それを、彼は実力で黙らせてきたのだ。
だが、今回の件は別だ。
男女の問題。
そこには必ず、下世話な噂がついて回る。
それでも、トーマスの表情に怯みは見えなかった。
もし彼がイヴリンへ歩み寄り。
そして、イヴリンがそれを受け入れたなら――。
『自分でも、何を考えているのか分からない』
そう呟いていたイヴリンの顔が脳裏をよぎる。
本来なら、自らの立場を危うくした相手へ向ける感情ではないのかもしれない。
だが、アレクは、イヴリンを恨む気にはなれなかった。
今回の出来事は。
自分が貴族として生きていくための、試金石のようにも思えたからだ。
こうしてトーマスと向き合い、話をする機会を得られたのも、イヴリンのあの爆弾発言があったからこそ。
あとは、自分自身の足元を見つめ直し。
貴族として生き抜く覚悟を決めればいい。
そんな思いを胸に抱きながら、アレクはマイヤー家を後にした。




