第十話 無言の意味
……なんだ、“装いを見て理解した”って。
エミリアの視線に促されるように、アレクも自分の胸元へ目を落とした。
そこにあるのは――。
スズランのブートニエール。
そして、ターナー侯爵家の紋章入りのポケットチーフ。
……だって、これは。
「――優秀なのね、あなたも。
まぁ、用件はそれだけよ。それでは、ごきげんよう」
それだけを言い残し、イヴリンは当然のようにアレクへエスコートを求めた。
だが、アレクはすぐには動けなかった。
エミリアに、何か言わなければ。
そう思うのに、何を言えばいいのか分からない。
視線を合わせたい。
なのに、エミリアは一度もこちらを見ようとしない。
表情はどこまでも静かで、まるで何事もなかったかのようだった。
その平静さが、かえってアレクの中をかき乱す。
なんで――。
何が――。
感情が爆発しそうになった、その時だった。
小さな咳払いが聞こえる。
反射的にそちらを見ると、イヴリンがわずかに眉をひそめたまま立っていた。
――エスコートなさい。
再度の意思表示。
アレクは無意識に奥歯を噛みしめる。
拒否したい。
今は、イヴリンに近づきたくない。
だが、立場がそれを許さなかった。
今日が最後のエスコートになるはずだった。
これで契約は終わる。
それでも今後、ターナー家とは円満な関係を築いていけると信じていた。
だって。
イヴリンの先ほどの言葉に、事実は一つも含まれていない。
この二年間、自分は義務的なエスコートしかしてこなかった。
イヴリンだって、それ以上を求めるような素振りは見せなかった。
だから自分たちの関係は、学園一年時の“クラスメイトとしての友好”以上のものではなかったはずだ。
一年の頃。
何度かイヴリンから話しかけられ、会話を交わしたことがある。
エミリアの話をしたこともあった。
その時、イヴリンは楽しそうに話を聞いてくれていた。
『婚約者なの?』
そう聞かれ、
『今はまだ正式ではありませんが、いずれ、そうなればと思っています』
と答えた。
するとイヴリンは、「素敵ね」と微笑んでくれたではないか。
あの頃、まだ正式な婚約は決まっていなかった。
だがリンバー伯爵からは、すでに話を持ちかけられていた。
『返事を急ぐ必要はない。
もし学園で、結婚したいと思う令嬢が現れたなら、この話は忘れてくれて構わない。
だが、もしそういう相手が現れないようなら、エミリアとの将来も考えてやってほしい』
そう言われて、アレクは初めて、エミリアとの未来を強く意識した。
当時十歳だったエミリアは、自分が少し幼く見えることを気にしていた。
だが、そんなところも可愛らしかった。
そして学園へ入学する頃には、きっと素敵な女性になるのだろうと思っていた。
だからなのか。
無意識に、学園で女生徒を見かけるたびに考えていた。
――いつかエミリアも、あの制服を着るのだろうか、と。
さすがにそこまでイヴリンへ話したことはない。
だが少なくとも。
アレクがエミリアへ好意を抱いていることを、イヴリンは知っていたはずだった。
そして、それを微笑ましく受け止めてくれているのだと思っていた。
◇◇◇
気づけば、いつの間にか馬車の前まで来ていた。
染みついた動きのまま、アレクはイヴリンへ手を差し出す。
イヴリンもまた当然のようにその手を取り、馬車へ乗り込んだ。
拒絶したい。
その手を振り払い、「ふざけるな」と怒鳴りつけたい。
肩を掴んで揺さぶり、「何を考えているんだ」と問いただしたい。
込み上げる感情を、アレクは必死に理性で押さえ込む。
イヴリンが座席へ腰を下ろしたのを確認し、アレクも馬車へ乗り込んだ。
本当なら、このまま馬車を見送ってしまいたかった。
自分は別の手段で帰りたかった。
だが、そういうわけにもいかない。
ターナー侯爵邸の玄関前まで送り届ける。
それが、アレクの役目だった。
アレクが座ったのを確認すると、馬車の扉が閉じられる。
静かな振動と共に、馬車は動き出した。
しばらく沈黙が続いた後、イヴリンが口を開く。
「静かね。何か言うことはないの?」
「……何か、とは?」
「“なんであんなことをしたんだ”とか。“ふざけるな”とか?」
「私は、それを言っていい立場にありません」
「ふぅん。そういうのは分かるのね?」
「……」
「でも、私のドレスの色の意味とか。
二人で挿すスズランの意味とか。
家紋入りのチーフの意味とか。
そういうのは考えないんだ?」
「…………」
「後学のために教えておいてあげるわ。
どれも、“この二人は恋人同士です”って意味よ。
しかも家も認めている。
だから、私があそこであんなことを言わなくても、周囲が勝手に推測して、噂を“事実”として広めてくれたでしょうね」
「……では、なぜあんなことを言ったんですか?」
「……なんでかしら」
イヴリンは小さく視線を伏せる。
「私、そういうの考えるの、苦手なのよ。
……でも、あなたの婚約者さん、泣かなかったわね。
なんだか、それだけは少し心残りかもしれない」
「エミリアを泣かせたかったということですか?」
「だから、分からないって言っているでしょう?」
イヴリンはどこか投げやりに言った。
「ただ、なんとなく、そう思っただけ。
でも、そうね。一つだけ言えることがあるとしたら――」
そこでイヴリンは、アレクをまっすぐ見た。
「彼女の方が、よほど貴族としての矜持を持っていたわ。
あなた、本当にその調子で貴族社会を渡っていけるの?
あれだけ“無言の意味”に鈍感で」
「……」
「彼女の方が、ずっと肚が据わっていて頼もしかった」
それを言われると、アレクには何も返せなかった。
学園のサロンで再会した時にも感じた。
エミリアは、感情を一切見せず、完璧な淑女の仮面を被ることができる。
今日だってそうだ。
怒っていたのか。
呆れていたのか。
それとも、もう完全に見限ってしまっていたのか。
アレクには何一つ分からなかった。
――もう手遅れなのか?
その問いが、さっきから頭を離れない。
自然と視線が落ちていく。
イヴリンは、俯いたアレクをしばらく見つめていた。
だが、もう言いたいことは言い終えたのだろう。
その後はずっと、馬車の外をぼんやり眺めたまま、揺れに身を任せていた。




