06 六月六日、午後七時四十七分二十八秒
「窓から離れろ!」
古屋の声が飛んできたのと同時に、鈴里は肩をつかまれて後ろに引っ張られた。そして灯伊那の腕の中にがっしりと保護される。ベランダに立って窓にぴったり張り付いている男は、ずっと鈴里を見つめていた。光はなく淀んでいて、生きている人間の目には到底思えなかった。
こいつが郡で間違いないだろう、鈴里はそう確信した。指の先から心臓の奥まで、全部が恐怖で震えているのが自覚せられた。額に汗が浮かんでくる。声にならない声を絞り出して、灯伊那の身体にしがみついた。
灯伊那ととも震えていた。彼女は先ほどまで、殺人鬼だろうがなんだろうが、恐ろしいと思ってはいなかった。鈴里のことは自分が守ると決めていた。唯一の親友である自分が、絶対に守ると決めていた。
しかしどうだろう。実際にやつと対面してみて、鈴里を抱き寄せることはできたが、それからは身体が動かなかった。窓越しであるにも関わらず、いまにも郡が自分の喉元に刃物を突き付けて、すぐ刺し殺して、そのあと弄ばれるさまを想像したら、泣き出したくなった。
その思いは鈴里にも伝わってきていた。鼓膜は早まる灯伊那の心音に合わせて振動していた。その振動が脳に達し、そこで振動は恐怖という電撃に変換された。電撃は一瞬で鈴里の全身に行きわたった。なぜか意識が朦朧としてくる。身体がショートしそうだった。
そんな鈴里を、そして灯伊那を、古屋は「しっかりしろ!」と大声を出して目覚めさせた。
「鈴無鈴里!」鈴里を見ずに古屋は怒鳴った。「お前、どうやるかは知らねぇけど、こいつから逃げれるだろ!?」
「え……?」
「携帯は持ってそのまま逃げろ、やつが狙うのはお前だけだ! 俺はこいつをどうにかする、そのあとにお前を迎えに行く! それまで安全な場所に隠れてろ!」
「で、でも、どうにかするって……!」
「いいから!」古屋は鈴里をキッと睨みつけた。「早くしろ、邪魔なんだよ」
「う……」
思わず灯伊那を見上げた。彼女は古屋がなにをいっているのか、理解できていないみたいだった。
「と、ととちゃんは……」
「灯伊那ととは……ここにいればいい」
それが最も安全だろうと古屋は考えていた。郡は気変わりでもしない限り灯伊那を狙わないだろうし、そもそも、やつを中に入れるつもりはさらさらないのである。ならば灯伊那はここにいて、ことが終わるまでじっとしているのがいい。
古屋はまた鈴里を見た。「さっさと行け」と彼女を急かす。鈴里はもう一度、灯伊那の顔を見て、俯いて、腹を決めた。灯伊那から離れる。一瞬だけローブをつかまれたが、すぐに彼女は手を離した。
玄関に向かって、鈴里は走り出す。古屋はそれを見てから、いまだベランダで部屋の中を覗き続ける郡に向き直った。
ズボンのポケットからナックルダスターを取り出して、右手に装着する。郡は窓をがたがた揺らした。無理やり入ろうとしているのだろうか? 古屋は鼻でそのさまを笑った。
左手を前に出し、右手で拳をつくって後ろに引く。腰を低く落とし、左足を前に、右足を後ろに位置させた。右足に力を籠める。左のつま先を郡の方に向ける。
郡はニタニタ笑っている。さっさと来いよ、とでもいいたげだった。
床を蹴った。左手が窓ガラスに触れるギリギリで、古屋は右の拳を突き出した。窓ガラスが砕かれ、その破片が夜空に散った。古屋の拳はガラスの吹雪を突き抜け、郡の胸板に届いた。
郡は無防備なままその一撃を受けた。浮かび上がったやつの身体はフェンスを越える。ここは二階である。郡は数メートルある高さから、転落していった。
古屋はフェンスに身を乗り出して、夜の闇を睨む。すぐに目が慣れていって、アパートの裏にあった駐車場の地面が見えた。そこには光るガラス片と血痕らしきものは見受けられたが、肝心の郡はいなかった。
それを知ると、古屋はすぐさま二階から飛び降りた。灯伊那の悲鳴に似た制止の声が聞こえたが、その頃には、古屋はもう着地していた。
◇ 16 ◇
なにも見えない地面の下を、闇雲に泳いでいた。部屋を飛び出てからは無我夢中といったところで、どうやって潜ったのかもよく覚えていない。ただ必死だった。
息継ぎなしでいけるところまで泳いで、鈴里は地面から顔を出した。泳いだ距離は十五メートルくらいで、あまりアパートから離れていたわけでもなかった。もう一度潜る。
次に顔を出したとき、鈴里は茂みの中にいた。アパートから二十五メートルていどの距離だった。ちょうどいいかもしれないと思って、全身を地面から引っ張り出して、そのまま茂みに隠れる。
握りしめていた携帯で時間を見たら、いまは十九時三十八分だった。いつ電話が来るのだろう。荒くなった息を整えながら、ふと、電話は掛かってこないかもしれないなんていう不吉な考えが浮かんできた。
あたりに街灯はひとつもなく、一面を深い闇色が塗りつぶしていた。アパートの明かりがすこし離れたところに見える。もっと逃げたほうがいいのだろうか。そう考えてまた潜ろうとしたが、どうやって潜るのか、よくわからなくなっていた。
だれかに教えてほしい、なんて思った。地面に手を突いて、そこを凝視する。黒々とした土は、急に溶けて鈴里を迎え入れる――ということはなくって、硬いまま地面としてあるだけだった。
「わからないんだ?」声が聞こえて、どこかで鈴が鳴った。「想像すればいいだけだよ。そしてこっちにおいで」
いわれた通りに想像してみる。この地面が液状になって、そのなかを自分が泳ぐ――地面はぐにゃりと歪んで、そのまま鈴里を呑み込んだ。
「こっちだよ、こっち」
声を頼りに泳いでみる。不思議と息苦しさを感じない。
「そこでいい。上がってきて」
浮き上がって地上に出ると、そこには黒猫がいた。尻尾を闇夜にゆらりと揺らし、足を舐めて、顔を洗って、そして立ち上がった。鈴里に背を向けて歩きはじめる。
なぜか意識がぼんやりとして、はっきりしない。黒猫の姿が二重に見えた。
「気をしっかり持って」黒猫の声が聞こえる。「すこし歩くけど、着くのはすぐだから。いまはまだ、“君”でいてくれなきゃ困るよ」
鈴里の足取りは覚束ない。歩くのがやっとという感じだった。黒猫が三匹に見えるとか、遠くに見える街灯の明かりが赤色になったりとかの幻覚が襲ってきた。吐きそうだ。前後不確定である。乱高下、もう二度とリンゴの皮が剥けない気がしたたた。
「まずいね、想像以上ダ」黒猫の声が聞こえる。「まサかこうなるとハ……目覚メが早かッたのカナ……」黒猫の声が聞こえる。「鈴無鈴里じャ耐えキレないのカなぁ……」黒猫の声が聞こえる。「demo、もうすこいだからしゃ……」
しゃ?
しゃってなんだ? ローマ字表記をするとS・H・A。漢字変換すれば者社紗車写斜謝舎捨射沙洒遮赦奢寫煮卸娑砂……。
違
たしか死因はS! え、そうだったっけ。 ったようなきがしなくもなくもなくもなくもなくない。
死因が違うのか! そう、強いんが違う……あう、あうあうあ? 字が違ってなにが違う。言葉が違う響きが違うなにかが違うわたしが違う?
これ以上のリンクは危険かもしれないいいいいいい。頭が割れそうだ鈴無鈴里じゃ耐えきれない観測者としてなにもできない。
強制的に排除せねば……せねばせねばせなばいなば。!、”、#、$――遮断。
◇ 17 ◇
郡はどこにいるのか、古屋には見当もつかなかった。完全に見失っている。舌打ちをして、もう一度、あたりを注意深く見て回った。
しかし郡の姿は、このアパート裏の駐車場にはまったく見受けられなかった。やつはどこに消えたのか。たしかに自分は郡を殴ったし、あいつはそのまま地上へと落下したはずだった。
――逃がしてしまったのか?
「クソッ」
古屋は怒りに任せて地面を蹴った。その音が夜にこだまして、静けさを強調させていた。
そういえば、と古屋は鈴里のアパートを見上げた。駐車場に車はちらほらあるようだが、鈴里以外の部屋は明かりが点ってはいない。
たしか、鈴無鈴里を最初に訪ねた際、軽い調べをしたのだが、このアパートの入居者は四人ほどだったと思う。鈴里を除いた三人は、七時半を過ぎてもまだ帰ってこないのか、と古屋はなんとなく思った。
このようすを他の住人に見られていないのは、まぁ、いいことなのだろう。窓ガラスを割ったのだって、二階から飛び降りたことだって、目撃されるとすこし面倒だったかもしれない。
十六歳の少女がひとりで住むには、あまりいいとはいえないだろうが、周りの住人の帰りが遅いのは、今日に限ってはプラスなことだった。
でも、窓はどうしようか。俺が弁償するんだろうな、と自分でやったことなのに古屋は溜息を吐いた。それから後頭部をかきながら、二階に戻ろうと歩き始めた。
途端、急に古屋は倒れ込んだ。
何が起こったのかわからなかった。ただただ、身体が重い。重すぎて立ち上がれない。まずい、と古屋は危機を直観した。背中に巨人が胡坐をかいて座っているような感じで、重力がいつもの数倍の力で古屋を地球の中心へと引っ張っていた。
二階から飛び降りたのが間違いだったかと、古屋伊緒はいまさらながらに後悔した。強く後悔した。数日前とまるで変わっていない。どこからか足音が聞こえてくる。その足音は、古屋の顔の前で止まった。汚れたスニーカーのつま先が見える。
古屋はどうにか顔を上げて、近づいてきたやつの全身を見た。首が重力にへしゃげそうだったが、そいつを見ることができた。黒いパーカーを着て、カーキ色のズボンを履いている。右手には包丁を持っていて、やつはゆっくり、右手を持ち上げた。
「ねぇ、君……名前はなんていうのかな」郡が包丁を舐めながらいった。「この間も会ったよね、ちょうど同じ感じだったけどさ。君が地面に這いつくばってて、俺はそれを眺めてる」
どこか負傷したわけではなかった。ただ、身体が重すぎて立ち上がれないのである。古屋は郡をねめつけることしかできなかった。
突進するしか能がない――郡は古屋にそういった。そして顔に蹴りを入れる。古屋はそれを避けられず、苦痛に顔を歪めるほかなかった。
「君はね、邪魔をしすぎなんだよ!」今度は腹を蹴られた。「どうして俺の邪魔をするんだ? 意味が分からない! 鈴里ちゃんが死んじゃったって、俺のものになったって、君、なんの損もないだろ?」
背中を踏みつけられて、古屋は少量の血を吐いた。それから何度も、何度も蹴られ、古屋の意識は徐々に混濁していった。
なんて情けないのだろう、と思った。保護をするとか守るとか、そう堂々といっておいて、このざまである。
古屋は拳を握りしめた。そして口の中にあった数ミリリットルの血をごくりと呑み込んだ。鉄の味がひどくまずい。だが――と古屋は腕に力を籠め、そして身体にのしかかる重みに抗い、力強く立ち上がった。
一発殴ってやらないと、気が済まない。
「郡ィ……たしかになァ、俺には損がねぇよ……」古屋の言葉に過度に含まれた怒気を感じて、郡はすこし後ずさった。「けど、仕事だからよォ……歯ぁ食いしばれクソ野郎ッ!」
拳を振り上げるだけで腕が折れそうだった。ビキビキと骨が軋む音がする。それでも構わず、古屋はナックルダスターをはめた右拳を郡に向かって突き出した。
郡の左頬に決まった右ストレートは、やつの身体をまた吹っ飛ばした。一回バウンドしてから、郡は仰向けになって倒れる。そのまま暫く、やつは動かなかった。
しかしやつは気絶も当然していなければ、立ち上がれないわけでもない。そのことは、いまなお古屋の身体を押さえつけようとする“増幅した重力”が証明していた。
踏ん張って、倒れないようにする。ゆっくりと、一歩一歩、やつの身体に近づいて行った。とどめを刺さなければならない。
重力に押しつぶされそうだった。このまま重力に抗っていると、身体はどこまでもつのだろう――古屋は一瞬だけそう思案したが、答えを出すまで考えられるような余裕は微塵もなかった。
力を振り絞って、郡のすぐ近くまできた。そしてやつを見下ろす。さっきと真逆の構図だな、と古屋は鼻で笑った。そしてまた、全力で拳を振り上げて、やつの顔面に狙いを定める。
いまはこの重力に感謝したかった。このまま拳を振り下ろせば、真下にまっすぐ、それも腕にのしかかる余分な重力があるから、威力は絶大なものになるかもしれない。すくなくとも、一撃で再起不能にはできるだろう。
古屋は口元をゆがめた。自らの勝利を確信した笑みであった。
そして拳を振り下げ、郡の顔面にまっすぐ落とした――はずだった。
いきなり古屋の身体が軽くなった。押さえつけていた重力が減っていた。それも――減りすぎていた。
身体が宙に浮いていたのである。
「――たとえばさ」郡が倒れたまま口を開いた。「俺が重力を操れるとしようじゃないか。そして俺は君に対して、ただただ強い重力をかけていた。でもね、考えてもみろよ」
拳は届かなかった。まるで重力がないかのようだった。身体もうまく動かせなくて、古屋は、郡が寝たまま放った蹴りを避けられなかった。
「強い重力を掛けられるなら、その逆もできるんじゃないか? つまりさ――無重力に限りなく近い状態ってことだよ」
Next→「07 破壊、重力、自由の旗手」




