05 調査報告
「探偵さん方には標的がわかっていたから、鈴里ちゃんのところへ……?」
「あぁそうだ」
「なんで……わたし、なんにも……!」
怯えたような声を上げて、鈴里は灯伊那の腕にしがみついた。あまりに恐ろしくて、気分が悪かった。ジューサーでカエルとニンジンをかき混ぜるのを、ただただ見せられるような気持ちの悪さだった。鎖の冷たさが、急に感じられるようになった。
「じゃあ、どうしてそれを鈴里ちゃんにはいわなかったんですか?」と灯伊那が訊いた。
「信じてもらえるかわからないし、なにより、混乱させる必要はないと思った」
「……たしかに信じれません、この写真がどうやって手に入ったのかがわからないと……」
「それを説明するのが一番難しい」神谷は腕を組んだ。「では……灯伊那さん。僕たちが超能力者だといったら、信じますか?」
「え?」灯伊那は目を丸くして、神谷の奇妙な笑顔を見た。「信じませんよ。だって、そんな、非現実的な」
「そう、突飛な話です。でも僕らは実際に――」
「神谷さん」いきなり古屋が口を挟んだ。「そこまで話す必要はないと思いますよ」
「ふむ」
なら、と神谷が右手の人差し指をピンと立てた。
「企業秘密ということにさせてくれ。ストップが入ってしまったのでね」
隣で古屋がまた溜息を吐いた。やれやれだ、といったところだろう。
けれども灯伊那にとっては、企業秘密だなんて言葉で片付けられてしまって、どうにも消化不良だった。
「まぁまとめると、僕らは鈴無さんが襲われたことを知ってはいなかった。どちらかといえば、狙われていることを知っていた――ということだね」
「……納得とまではいきませんけど」灯伊那は渋い顔をした。「理解なら、まぁ、多少はできました」
「それならよかった」神谷は穏やかに微笑んで見せた。「ほかになにか訊きたいことは?」
「あの……わたしは、どう、して、狙われたんです、か……?」
震えた声で鈴里がいうと、神谷はすこしの間をおいて、こう答えた。
「理由というものはわからない。けど……そうだね、頭か胴か知らないが、気に入られたんじゃないかな?」
◇ 13 ◇
浅原栗花落の淹れたコーヒーを飲んで、古屋はむせた。思っていた以上に熱かった。浅原が申し訳なさそうに「ご、ごめんなさい」と頭を下げてくる。「謝らないでくださいよ、自分が悪いんですから」と古屋はいって、それからまた咳き込んだ。
鈴里たちが事務所を去り、午後五時になった。今日は何月何日だったっけと思い出す。記憶に間違いがなければ、六月六日であろう。通り魔事件が発生し出したのは五月末のことで、それから数日かかって、やっと郡に辿り着けた。そして今日、古屋たちはやつを叩く。
作戦はこうだった。
まず神谷は、六人目の被害者と予想される女性――相原佐紀の護衛にあたる。護衛といっても、おそらく夜遅くまで仕事場に残り、暗い中帰宅するであろう相原を尾行するのである。そしてなにかの危機があれば、出て行って守るのだった。
そして探偵事務所の所員であるふたり――天文ヶ原峰と驚木谷憲吾のコンビが、郡の現住居に押しかける。
古屋は唯一襲撃から逃れることのできた鈴里を、神谷と同じように護衛することになっていた。
コーヒーを啜る。神谷は既に出払っていた。ほかの所員も、もうこの作戦が終わるまで事務所には戻ってこないだろう。いまここにいるのは、古屋と事務員の浅原だけだ。
浅原はさっきからデータの入力だったり書類の整理だったりをして、忙しそうである。一本の電話がかかってくる。彼女は作業をいったん中断して、その電話に出た。
「はいもしもし、秋手帖探偵事務所です。……あ、天文ヶ原さん……古屋くん? いますよ」
浅原に近づいて、電話をかわった。
「古屋です。どうかしましたか?」
『……郡がね』その女性の声は、狼狽えているように聞こえた。『家にいないんだよ』
「えっ」
『はやく護衛対象のところに行って。これは危険かもしれない』
「わかりました、すぐ行きます」
受話器を置いて、浅原にいった。
「郡が家にいないみたいなんです。俺もう事務所出ますから、留守を頼んでいいですか」
「あったりまえです、そういう仕事です」
浅原の明るい笑顔を見てから、古屋は事務所を飛び出した。
事務所の自転車に跨って、走りはじめる。鈴里の住むアパートまでは二駅くらい離れていたか。だいたい三十分くらいで着くはずである。帰宅をはじめたサラリーマンや学生たちの間を縫って、全速力で目指した。
まだ夜はすこし遠い。郡が動き出すとはあまり思えない時間帯だった。もう準備を始めたのか? ではだれを襲うための準備だろう。鈴無鈴里か、相原佐紀か……。もし前者なら、自分の出番ということになる。
古屋はペダルを強く踏み込んだ。横断歩道を駆け抜けた。今度はしくじるなよと自分に言い聞かせ、日が傾き始めた空を睨んだ。
◇ 14 ◇
必要なものは“包丁”だけだった。ショルダーバッグのなかにタオルで包んだそれを忍ばせて、アパートの窓を開ける。外にはだれも見当たらない。それを確認してから、郡孤尾流は飛び降りた。地面とは二階ぶんの距離があった。
着地すると、足の裏に痺れるような痛みが走った。数秒だけ屈んだまま、ゆっくり呼吸を整える。ただでさえ興奮しているのに、これに痛みまで加わってしまうと、歯止めが利かなくなりそうだった。
黒いパーカーのフードを深くかぶって、郡は歩き出す。
腕時計を見ると、もうすぐ五時になるころだった。自分を嗅ぎまわっているやつらは、いまごろどうしているだろうか。おそらく住居は突き止められている。その方法は知らないが、推測するに、自分と同じ種類の人間なのだろう。
理解ができない、と歩きながら郡は思った。これほど便利な能力があるのに、どうしてやつらは、自らの欲望のために使わないのだろうか。それが理解できない。
正義のヒーローを気取ってみたところで、それは突き詰めてみれば、自己満足の塊でしかないはずだ。それは欲望のために動くのと、いったいどこが変わらないというのか。郡にはそこがまったくわからなかった。
五時のサイレンが聞こえた。まだ夜は来ない。動くのは――まだあとでいい。せめて七時、いや、八時だ。七時の段階じゃ明るすぎる。それまでの時間をどう潰すか、郡は考えてから、てきとうな喫茶店に入った。
カウンターの奥の席を選んで座る。アイスコーヒーを注文した。三時間、そのあいだを耐えればいい。欲求も欲望も欲情も、いまの俺なら噛み殺せる――脳の中で、郡はそう自己暗示した。
アイスコーヒーが出てきた。ミルクを一個、シロップを二個入れた。
相原佐紀、二十六歳。三条株式会社の事務員である。普段の退社時間は七時、電車で会社から三駅離れたマンションに帰宅するのはだいたい七時半であった。
しかし、木曜日には決まって退社時間が遅くなる。四十分ほどずれ込むのである。郡はそう調べ終えていた。
今日は木曜日であった。
いつも通りであれば、相原佐紀は遅く退社する。それを待ち伏せればいいのである。マンションの最寄り駅からの帰路も把握済みだし、一か所だけ、街灯もなく暗いところがあった。そこが一番いい。なによりもいい。
郡は夜道をひとり、早足で歩いていた。探偵社の面々は、彼がいまどこにいるかをおそらく知らない。向かっている先もわかっていない。きっと“彼女”に近づけば見張りのひとりやふたり、いるだろうと思うのだが、それもどうだっていい。
なにせ一度、やつらの内のひとりに、俺は勝っている――郡はほくそ笑んだ。自分に自信しかなかった。もう二度と失敗することはないはずである。胸の高鳴りが止まらない。この興奮が堪らない。目的地に着いた。ショルダーバッグを地面に投げる。包丁を抜き出して、暗闇の中で素振りする。この感じがすごくいい。人を殺そうとするとか、穢そうとするとか、そういろいろ空想して、実際に凶行に出ようなんていうこの瞬間が、なによりの幸福を感じられる。この世のどんな絶頂を体験しようとも、郡はこれだけは断言できるつもりだった。
相原佐紀を殺したくて堪らない。穢したくて堪らない。彼女の完璧なフォルムが好きだ。特に胴体はすごくいい。すごくいいすごくいいすごくいいすごく欲しい。
でも――貰うのは今日じゃない。
郡は真っ暗闇の中から、明かりの点る部屋の窓を見上げた。鈴無鈴里のアパートだった。
◇ 15 ◇
蛍光灯の明かりが眩しい。鈴無鈴里は段々と蒸し暑くなってくる六月の空気に、なんだか嫌気がさして、エアコンを除湿でつけた。電気代がもったいない気がすこしした。
「えっと……古屋くん、で、いいかな?」鈴里はぎこちない笑みを浮かべながら、デスクチェアに腕を組んで座る古屋を見た。彼は話しかけられても無言だった。
ソファに座る灯伊那は古屋にまったく興味がないようで、さっきから無言で携帯をいじっている。場の空気は最悪だった。この部屋にいるよりシベリアの簡素な小屋で一日過ごすほうがまだマシかもしれないと、鈴里は思った。
「あ、そ、そうだ。ふたりとも、麦茶でも飲む……?」どちらからも反応はない。鈴里は縋るように灯伊那を見た。「ひ、灯伊那ちゃん……なにかしゃべってよ……」
「気分が乗らなーい」
「えぇ……」
原因はどう考えても古屋がいることだった。
午後六時にそろそろなろうかという頃、古屋は鈴里のアパートのインターフォンを鳴らした。話を聞くに、郡が動き出したようだから保護をさせてほしいという。
これに答えたのは鈴里ではなく、いっしょにアパートへ帰ってきていた灯伊那だった。彼女は玄関を勢いよく開け放ち、敵意むき出しで古屋にいった。
「あたしがいるから大丈夫です!」
しかし古屋は食い下がった。郡は危険だと何度も繰り返し、結局ふたりは玄関先で口論をはじめた。隣町まで届くんじゃないかと思うくらい声が大きくて、鈴里はふたりがそれをやめるまで、ずっと耳をふさいでいた。
そして口論の末、折れたのはなんと灯伊那だった。
鈴里は古屋が入ってきたとき、ひどく驚いた。まさか口喧嘩で灯伊那が負けるとは、思っていなかったのである。いい合いで灯伊那を負かす人間を鈴里はそのときはじめて見た。
それからギスギスした空気が流れ始めて、もう三十分は経つ。けっこう玄関での口論が長引いたから、それが終わったころにはもう七時で、だからいまは七時半だった。もう外は真っ暗である。古屋の顔つきが、先ほどより険しくなっているように見えた。
「ね、ねぇ、古屋くん」鈴里が話しかけても、古屋は反応を見せない。それでも話を続けてみた。「本当に、その、郡さんっていう人は来るのかな?」
「……」古屋はちらりとだけ鈴里を見て、また目を逸らした。「さぁな」
やっと声を聞けた。鈴里、なんだかちょっぴりうれしい。そんな彼女を、灯伊那は不思議そうに眺めていった。
「鈴里ちゃんってさ、もしかして、古屋のことちょっとかっこいなーなんて思ってたり、してない?」
「へっ!?」鈴里の顔が真っ赤になった。「そ、そんなことは、別に!」
「ふぅん」
灯伊那は気のない返事をした。ちなみに古屋は、面白くなさげに溜息を吐くだけであった。そんな彼を指差して、灯伊那はいう。
「やめとけやめとけ、あんな根暗は。あいつ溜息ばっか吐いてんだよ。幸せの器が空っぽだよ、どうせ」
「い、いや、灯伊那ちゃん、へんな勘違いしないでよぉ!」
「してないよ。揶揄ってるだけ」
「あぁもう!」鈴里はすこし泣きたくなった。「やめてよ、ほんと……」
弱々しい声でいった鈴里を見て、灯伊那はどこか元気になったようである。若干の笑顔を浮かべて、今度は古屋にいった。
「で、郡ってやつは、来るとしたらいつここに?」
「……そうだな」腕を組んだまま、古屋は答える。「やつは暗くなってから動きはじめる。だからもう来たって――」
おかしくない、と古屋がいおうとしたとき、『コンコン』とノックする音が聞こえた。
最初、鈴里はその音が玄関から聞こえたものだと思った。でも違った。もう一度『コンコン』と鳴って、それがもっと近いところから聞こえてきたのである。
また、『コンコン』と聞こえる。灯伊那が訝しげに、「窓……かな?」と呟いた。鈴里がゆっくりと立ち上がる。
ベランダに出られる大窓はカーテンが閉じてあって、外になにがあるのかわからなかった。その窓に近づいて、また『コンコン』と音が聞こえて、たしかにそこから発せられている音だとわかった。
カーテンをつかむ。心臓が妙に早く脈を打って、手に変な汗がじんわりと染み出てきた。なにかがあるのは明らかだった。鈴里は決心して、カーテンを開け放った。
黒パーカーの男が、窓にべったりと張り付いていた。
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