02 闇夜に溶ける人魚はそっとⅡ
◇ 5 ◇
個性的なファッションだね、といわれてしまった。
学校からの帰り道、電車に揺られながら鈴里は思う。どうしてこうなってしまったのか。
昨日、ショッピングから帰ってきて、工具やらなにやらで鎖を壊そうと試みたのだけれど、結局うまくいかなかった。それで今日は、あきらめて黒ローブを着て家を出たのである。
そしたら、クラスの人には「魔導士かな?」と笑われるし、先生には「個性は大切にするんだよ」と妙にあたたかい口調でいわれてしまった。恥ずかしさを通り越して、どこか虚しかった。
そんなことをメールで灯伊那にいってみると、『ほんとにその恰好で出たの?』と返信された。これを着ろといったのはどこのどいつだったか。そう返したら、『すねないでよ』と笑われた。
『ところで』と、携帯をしまいかけた頃に着信があった。『ここ最近、通り魔が出るらしいよ』
『通り魔?』
『うん。なんでも、女の子ばっかり狙ってるみたいで、ネットじゃそれなりに騒がれてるよ。殺されて、死姦されて、ポイされるらしい』
『うわぁ……』
『鈴里ちゃん、夜遅くなるでしょ? 気をつけてね(>_<)』
『うん、ありがと』
電車を降りて、駅を出る。じゃらりと鎖の音がした。
ローブの裾をたくし上げて、腕時計を見る。七時十分。すこし遅くなっただろうか。
いまから買い物をして帰るとなると、家に着くころには、八時近くになっているかもしれない。
――用心しなきゃな。
そう思って、歩き始めた。
スーパーの袋を提げて、なるべく街灯の多い道を歩いた。住宅街に入ると、だれかとすれ違うことはもうなかった。虫がたかった街灯をふと見上げて、鎖の重さが妙に気になって、さっさと帰りたくなった。
歩くたびにじゃらじゃら鳴るのには、なんとか慣れてきたところであった。鈴里自身、たった一日や二日で鎖の音に慣れるとは、あまり思っていなかったのだが、人間の適応力って、案外すごいらしい。
この感じだと、恥ずかしい服装にもいつか慣れてしまって、なんとも思わなくなる日がくるのだろうな。鈴里は溜息を吐いて、道端に転がっていた空き缶をつま先で蹴った。
公園の前に出た。街灯の下に立ち、何気なくその公園を眺めてみる。昼間には子どもたちが遊んでいるだろう場所も、夜中になると、どこか人を寄せ付けないものを感じさせた。まるで時空を歪めてつくったバリケードがそこにあるみたいだ。いやな感じがする。
はやく離れよう――そう、一歩足を踏み出したときだった。
「ねぇ、なにが見える?」
鈴の音が鳴って、鈴里は固まった。身体中が硬直した。身動きがまったく取れなくて、額に少量の汗が浮かんだ。
「ほら、公園を見て。そこになにがある?」
聞き覚えのある声だった。昨日――いや、一昨日の夜に聞いた……。
鈴里は思い出した。黒猫だ! ハッとして公園を見る。黒のパーカーを着た男がいた。フードを深くかぶっている。黒猫を探すと、すぐに見つけた。鈴里の足元にちょこんと座っている。
「彼が盾にしている“概念”はなんだろう? そして剣とする“道具”は?」
黒パーカーの男がゆっくりと近づいてくる。手には包丁を持っているのが見え、顔はよく見えないが、どうやら笑っているらしい。薄気味が悪い。
ふと、電車の中で交わしたメールのやり取りを思い出した。――『通り魔が出るらしいよ』――『気をつけてね』。
「最悪だと思ってるね」と黒猫がいった。鈴里はなにも答えられなかった。恐怖に身体が震えていて、それなのに黒猫は楽しそうに笑うだけだった。
「でもね、こういうときだからこそ想像するんだ」
「想像……?」
鈴里は首を振った。そんな余裕はどこにもなかった。すぐそこに通り魔がいて、自分の命が危機に晒されていて、それでいて身体はまったく動かなかった。『重力』が、凄まじい。
「想像するんだ」黒猫はあくまでもそういい貫くだけだった。「さぁ、“概念”はなんだっていい。その言葉の意味を深く考えないで。本来の意味はここじゃ関係ない。僕らは響きで使ってるだけさ。そう――抽象的なものでいい、感情的なものでいい。想像して」
その言葉に意味はない。意味に縛られてはいけない。飛躍しなければならない。言葉の意味――言葉なり得るもの――概念が概念となりうる概念など、考えなくていい。
頭が締め付けられるような感じがする。手で頭を押さえて、屈みこんだ。男はもうすぐそこにいる。恐怖と痛みがまぜこぜになってしまっている。“概念”とはなんだ? “道具”とはなんだ? 自分が一番知っていて、一番知らないだれかの声が頭の中でこだましている。そして囁きかけてくる。その声を、鈴里は反芻した。
「《衝動》と……《刃》……!」
「その通りだよ」
瞬間、水の中に沈んでいく感覚があった。
アスファルトの道路が急に液体みたくなって、鈴里を受け入れたのであった。そしてまるで、地面が無限に続くプールのように、泳げるような気がした。実際、そのとき鈴里は地面を泳いでいた。地中に潜っていたのである。
「君が手にした《自由》は人魚。街を自由に泳ぐ力さ。で、どうする? 逃げるかい?」
鈴里は迷いなく泳ぎ始めた。男から離れるために、帰り道の方向へ懸命に泳いだ。どこからともなく、黒猫の笑い声が聞こえる。
「君は逃走を選択した! 正しい選択だと思うよ。でも泳ぐのは疲れるだろう? 息継ぎが必要だ」
そう聞いた途端、いきなり息苦しさが自覚せられた。地中から浮上して、アスファルトに顔を出す。ぷはあ、息が吸えた! 地面に手をついて、全身を地面から引っこ抜く。息を整えながら、ふらふら立ち上がって、それから後ろを振り返った。
「だいじょうぶ、もう来ないさ」足元にいた黒猫がいった。「はやく家に帰ることだね」
「……君は……なんなの?」
息切れぎれにそう訊いた。夜の闇が、黒猫を隠すようだった。また、鈴の音が響いた。
「それは、どういう問いかな? 僕の名前を訊いているのか、それとも存在意義を訊いているのか」
「両方……」と鈴里は答えた。「……両方だよ、わたしが知りたいのは」
「ふむ」
黒猫の声が、さっきより離れて聞こえた。どこかに消えようとしているのだろうか。
待って、と声を掛けようとしたとき、黒猫の声が響いた。時計を地面に落とした後のしんとした静寂に、そっと添えるような声だった。
「僕は君に過去を教えたい。秘密の種明かしをしたいんだ。そのときに僕の存在意義は理解せしめることができるだろうし、名前だってわかるだろうね。それまでは……『黒猫ちゃん』でいいよ」
黒猫の言葉は、真夜中に残響を落として消えていった。残響が消えた後、残っていたのは、遠い街灯の明かりと鈴里だけだった。
買い物袋を落としていたことには、帰宅途中で気が付いた。
◇ 6 ◇
今日は映画を見て過ごそうと、そう思った。できるだけ楽しい映画が見たかった。「使ってるみたいで悪いのだけど」と、そう断ってから、灯伊那にミュージカルとかコメディとかの映画を五枚くらいレンタルしてきてもらった。自分から外には出られそうになかった。
灯伊那は昼から学校に出るつもりだったようで、朝の十時くらいまでいっしょにいてくれた。映画を見たい理由については、深く聞いてこなかった。でもまさか、通り魔に襲われかけた、とは思っていなかっただろう。
ずっと映画を流している。
DVDプレイヤーには今日だけ、大働きしてもらおう。灯伊那セレクトの一本目は、バーで出会った男女が恋に落ちる王道なミュージカルだった。軽快なリズムに乗って踊る俳優たちを、毛布を羽織って三角座りで見た。
一本目が終わったころに、灯伊那はアパートを去った。
で、ひとりで二本目を見た。つい最近上映されて、世界中で大ヒットしたアメリカのコメディ映画だった。どうやら新作も借りてきているから、灯伊那は今日中に返しに行くつもりらしい。ぜんぶ見れるかな、と思いはしたが、考えてみれば時間は余るほどあるし、きっとだいじょうぶだ。
そのコメディ映画では、最初にある謎の女が主人公に怪しい儲け話をもちかけるところからはじまる。もちろん主人公は疑ってかかるのだけど、結局、女のうまい話に乗ってしまう。
そして舞台は、アメリカのファストフード店から、マレーシアに移る。
するとマレーシアに着いた途端、女が失踪した。主人公は途方に暮れる。どうしていいかもわからず、ただブラブラと街を歩いていると、ある男に声をかけられた。ここまでがプロローグらしい。
これから面白くなりそうだな、スナック菓子をつまみながらそう思った。そして男がしゃべり始めた、ちょうどそのとき、邪魔するみたいにインターフォンが鳴った。
「むむ……」
リモコンの一時停止ボタンを押して、鈴里は渋々立ち上がった。
郵便局か、宅配便か。そう思いながらドアスコープを覗いてみると、違った。知らない男がふたりいた。
ひとりは鈴里くらいの年齢だろう、青年だった。短めにさっぱり切った髪と鋭い目つきが、すこし厳しい感じを思わせた。ワイシャツに黒のズボンを履いていて、背は男子高校生の並くらいだろう。引き締まった身体つきをしている。
もうひとりに関しては、顔が見えなかった。とても背が高かったのである。男物のスーツを着ているから、どうやら男性らしいと判別できたが、それ以外はまるっきりよくわからなかった。
出るべきか、出ないべきか。知らない人が家に来て、それも男がふたりとなると、あまり開けたいとは思わない。居留守を使うべきなのかな。そう思っていると、またインターフォンを鳴らされた。それで、「鈴無鈴里さん、いませんかー?」とドア越しに訊かれた。
名前を知られているとなると、はてさて、どういうご用件だろう。いろいろ考えてみて、「まさか」と思った。もしかして、警察だろうか。
昨日、鈴里が出くわしたあの通り魔について、なにか聞きに来たのかもしれない。もう一回、ドアスコープを覗いてみる。服装はたしかに、警察のように見えなくもない。
ただ、背が高いほうはよくわからないが、もうひとりはさすがに若すぎやしないだろうか。どう見ても高校生だし、警察には見えない。
それに、通り魔と遭遇したなんて、灯伊那にもいっていない。だからだれも知っていないし、鈴里に警察が話を聞きに来るとも思えない。
となると、また別の案件だろうか。別の案件って、いったいなんだろう? 想像がつかなくて、やはり居留守がいいと、そう思ってリビングにこっそり戻ろうとした。
そしたら、またインターフォンを鳴らされた。
「いませんかー、鈴無鈴里さーん」
うーむ、どうしたものか。腕を組んで考えてみた。ひとまずチェーンがかかっているかの確認をした。
もう一回、もしもう一回だけインターフォンが鳴らされたら、出てみなくもない。そう決めた。
しかし数十秒待っても、二度目のインターフォンは鳴らされなかった。帰ったのかな、ドアに耳をくっつけて、聞き耳を立ててみる。すると、まだ帰っていなかったらしいふたりの会話が聞こえてきた。
「いないんですかね、神谷さん?」
「いいや、いるはずだよ。古屋くん、こういうときは辛抱強く待つんだ」
「いやでも、もう面倒くさいですし、俺がドア壊しましょうか。神谷さんが後で直せばいいし」
「あのね、彼女は昨日、トラウマ級の体験をしたんだよ。それなのになんだい、今日はドアをいきなり破壊されて、男ふたりに部屋へと侵入されるなんて……考えてもみなよ、可哀そうじゃないか」
ドアを壊す? 侵入する? なにをいってるんだこの人たちは。
なんだかひどく嫌な予感がした。関わったらいけないような気がする。リビングに戻って映画を見よう。そのほうがきっといい――鈴里がそうして戻ろうとしたら、上がり框に躓いてしまった。
「あうっ」
「……ん?」
扉の奥で、どちらかの男性が声に気付いてしまったようだ。仕方ない、のか。
観念して、鈴里は扉を開けることにした。チェーンがしっかりかかっているか、もう一度確認する。そしてゆっくりドアを開けた。
「……あ、鈴無鈴里さんですか?」
扉を開けるなり、背の高い顔が見えなかった男がそういった。
身長が百九十センチはあるだろう細身の男は、背中をぐにゃりと曲げて、鈴里に顔を近づける。狐みたいに細い目をしたその男は、スーツのポケットから一枚の名刺と、そして写真を取り出して、鈴里に見せた。
「僕は秋手帖探偵事務所の神谷荒螺と申します。ちょっとお話、よろしいですか?」
神谷が差し出した写真には、昨晩見た黒パーカーの男が写っていた。
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