01 闇夜に溶ける人魚はそっと
秘密ってのはね、うまく隠さなくていいんだ。ちらつかせるくらいが、ちょうどいいんだよ。
◇ 1 ◇
カチコチ、カチコチ。時計の針の音が鳴り響くだけの部屋だった。
鈴無鈴里は引っ越していた。前の家には住んでいられなかった。遠い親戚が用意してくれた安いアパートの一室でひとり暮らし、たまに通信制の高校に登校していた。
普段はなにもせずにいた。することといえば、風呂の掃除と炊事くらいのこと。ほかはテレビを見ながらぼーっとした。きまぐれで散歩に出て、河原に座って、少年たちの草野球を眺めることもあった。
そして一週間に一度、病院に行く。そこで担当医の枢木蒼乃陣からケアを受ける。鈴無鈴里の生活は、それの繰り返しだった。
毎朝六時半に起き、毎晩十一時までには寝る。そういう習慣もついた。枢木は「いいことだね」といった。
「生活習慣っていうのは、けっこう大切だよ。精神の安定が形作られていくからね。それに、適度な散歩をしているのもいいね。運動ってのはだいじだし、人間、太陽の光に当たらなきゃ大変だからね」
鈴無鈴里は生きていた。たしかにいまを生きていた。平穏が打ち砕かれるのは、六月三日のことである。
◇ 2 ◇
梅雨が近くなって、すこし憂鬱だった。お米をボウルのなかで研いで、それから釜に移して、炊飯器のスイッチを押す。
六月三日。鈴里は今日で、十六になる。誕生日というのは、どことなく浮足立つ感じがある。それは鈴里もいっしょだった。
今日は通院日だったのだけど、枢木に会うと、彼は「どうしたんだい、ひどく上機嫌だね」と鈴里に訊いた。彼女の顔は相変わらずの無表情ではあったが、三年ほどみ続けてきたら、ちょっとくらい感情の変化がわかるようになるのだろうか。
枢木は誕生日プレゼントも用意してくれていた。小さな、かわいらしいオルゴールだった。自分の誕生日を覚えてくれていたことが、鈴里にとってはちょっと意外で、すこしうれしかった。
夕飯を食べ終えてから、オルゴールを鳴らしてみた。
テレビを切ると、時計の音とオルゴールの音色だけが響く。曲名は知らなかったが、鈴里はなんとなく、海の景色を思い浮かべた。
十一時に近くなり、眠気がきた。ベッドに潜り、今日のことを、朝から順序正しく思い出していく。鈴里が眠るときに、六年前から必ずしていることだった。そうやって、気分を落ち着けるのであった。
全部思い出して、瞼を閉じた。
見えたのは、ぼんやりとした白い光だった。脳が蕩けていて、いまどこにいるのかよくわからない。沼の中でなにかに足を掴まれて、そのまま引きずり込まれていくような感覚があった。
――りん、と鈴が鳴る音がした。
意識が徐々に覚醒していく。カーテンから漏れた月光が、天井を青白く照らしているのが見えた。枕元になにかの気配がする。それは鈴里の顔を覗き込んできた。一匹の黒猫だった。
「想像して」
黒猫がいった。
「君の正体を想像するんだ。ゆっくりでいいよ」
まるで別世界のように静かだった。聞こえてくるのは黒猫の声だけで、あとはなんにもない。黒猫の後ろで、海の波のように月明かりが揺れた。
「君に力をあげるよ。その正体を具現化してね。想像して、選ぶんだ。さぁ選んで、どれがいい?」
……。
「君はなにを持っている? 想像して……ひとつの概念と、ひとつの道具を」
…………。
「想像して。何度でも」
「……自由と」少女は、黒猫を撫でた。「自由と、鎖」
黒猫は笑った。その口を不気味に歪めて、静かに笑った。
「その通りだよ。おやすみ、鈴里」
朝が来て目が覚めると、身体中に冷たい感じがあった。鉄みたいな冷たさだ。不思議に思って起き上がってみると、じゃらりという音がした。
「なに、これ……」
身体中に、銀色の鎖が巻き付いていた。
◇ 3 ◇
「えっとね、黒猫ちゃんが出る夢を見て、それで鎖がなんたらかんたらって話をしたの。そしたら……」
「変な鎖が付いてたと」
「うん……」
麦茶を一口飲んで、灯伊那ととは思案した。ベッドにちょこんと座る鈴里の身体には、ギラギラ光る銀色の鎖が纏わりついている。首から下は全身に鎖が巻かれていた。
腕は肩から手首まで、胴は首から腰まで、そして脚は足首まで。これはいったいどうしたことか。
鈴里自身がこんなことをするとは、あまり思えない。もしかしたら寝ている間に、無意識で鎖を巻き付けたのかも、とかなんとか鈴里はいったが、さすがにそれはないだろうと灯伊那は思った。
「それさ、外せないの?」
「試してみたんだけど……無理みたい」
「どして」
「えと、これね、ところどころ南京錠があって」
そういって、鈴里はシャツをたくって腹を見せた。わき腹辺りにひとつ、小さな南京錠がある。
「鍵がなきゃ開かないの?」
「そうみたい」
「こじ開けたりは?」
「無理だよ……。それに、そんなことができたら、南京錠の意味がないと思わない?」
「たしかに」
今朝、鈴里に電話をもらって駆けつけてみると、彼女は困り果てていた。どうしたのかと訊く前に彼女の身体を見てしまい、灯伊那は驚いた。なにがあって鎖を巻き付けなんかしたんだ、ついに気が狂ったか、とも思った。
でも、彼女自身もよくわかってないらしいと知ると、驚きを不思議が上回った。だれがやったのかは不明で、その目的もまた不明。心霊現象か、はたまたなにかの陰謀か……「謎は深まるばかりだね」と灯伊那がいうと、鈴里は苦笑した。
「あの、わたし、明日学校なんだ」
「ありゃ、そうなの? あたしは今日、サボったんだけど」
「え、いいの?」
「いいよいいよ」灯伊那はてきとうにそういった。「でも、鈴里は行かなきゃね。単位が取れないし」
「うん……」
ふむ、そうか。灯伊那はまた思案した。なるべく今日中に外せればいいけど、もしできなかったら、鎖を付けたままの外出になるかもしれない。それなら先に、外せなかったときのことを考えて――。
「よし、じゃ、買い物行こうか」
「へっ?」
「鎖を隠せる服を買おう。あと、それを外すための工具とか」
髪を後ろで結って、ジャンバーを着せた。スカートは履けないので、ジーパンを選ばせた。季節外れの格好になったが、鎖を見せないようにするには仕方ない。
「ね、ねぇ、ととちゃん」
「ん?」
「ジャンバーって……その、六月にこれ着るくらいなら、わたし鎖を見られたほうが……」
「ん、たしかに」
ジャンバーをやめて、長そでのシャツにした。鎖がある部分がデコボコになって見えて、変な感じがあった。遠巻きに見たらムキムキマッチョマンだね、そうととがいったら、鈴里は頬を膨らました。
鈴里のアパートを出る前に、灯伊那は思い出したみたいに携帯を出した。そのまま電話をかける。
「ん、ちょっと静かにね」ちょっと怒ってる鈴里にそういって、灯伊那はごほごほ咳き込むふりをした。「……あ、先生……ごほっ……ちょっと今日、風邪気味で……はい、ごほごほ、その、お休みさせていただきたくて……んんっ、ごほ、はい、ありがとうございます……すみません……」
「…………」
「ちょろい」
灯伊那はシニカルに笑った。
◇ 4 ◇
近くのホームセンターで工具を買ってから、電車に乗った。二駅ほど離れたところにあるショッピングモールに、ふたりで向かう。工具が重くて、あとにすればよかったなぁ、と鈴里はすこし後悔した。
いろんな人――特に年老いた人たちが、鈴里のことを不思議そうに見つめてくる。電車の中じゃ、ガタゴト揺れるたびに鎖が擦れて音が鳴るし、すごく恥ずかしい。それに鎖は少々重くて、いつもより歩くのが疲れた。
「ねぇ、どんな服がいいのかな」
「どうだろう……隠せる服って、うーん」
「ポンチョみたいな感じかな。覆い隠す感じで」
「それで学校?」
「やむを得ないって」
ちょっと気が重くなった。
いくつか店を回ったが、覆い隠せそうな服は、やはりポンチョとかの類しかなかった。そろそろあきらめるか、という感じになってきたころ、すこし怪しげな店をふたりは見つけた。
店名は“XAOC”。ショッピングモールの二階、その端っこにぽつんとある。店内は暗めで、いろんなものがごちゃごちゃに置かれているみたいだ。どうやら雑貨店のようだが、商品に統一感はなくて、日用品から洋服まで、いろいろある。
ふたりで顔を見合わせて、すこし躊躇して、結局入ってみることにした。
店の中では変な音楽が流れていて、どうやら歌手がなにか歌ってるようなのだけど、言葉がよくわからなかった。英語ではないし、おそらくフランス語でも中国語でもない。「ロシア語かな?」と灯伊那がいった。
いちおう、ふたりは服を探していたのだが、いかんせんそれ以外のものが多すぎた。それも奇妙なものばかりだから、いちいち見てしまう。藁人形があったかと思えば、マヨネーズ味のポン酢とかいうものが置いてあったりするし、モデルガンが並べてあったりもする。
そんな雑多なものをかき分けて、ふたりは服を見つけた。それも、現代日本じゃなかなか見ない、真っ黒なローブだった。
「これいいんじゃない、鈴里ちゃん」
「えぇ……すっごい厨二くさいよ……」
「でもこれ、首から足元まですっぽり覆い隠せるよ。フード付きだから頭もいける」
灯伊那はローブを鈴里に渡した。困るなぁ、と思いつつ、眺めてみる。
たしかにサイズもぴったりだし、頭から足まで隠すにはもってこいだろう。でも、これを着て学校に行ったりするのは、気が引ける。さすがにない。
「ごめん、ととちゃん。これはちょっと……」
「えー、買うだけ買おうよ。たぶん似合うよ。買うだけタダだよ」
「タダじゃないよ!?」
値札を見てみる。税込み三千二百円。
「うーん、じゃ、あたしが買ってあげようか?」
「え」嫌な予感がした。「どうしていきなり……」
「あはは、いいから頂戴」
強奪された。
カウンターには、仏頂面でガタイのいいお兄さんが座っていた。店主だろう。
商品を渡したら、「三千二百円」と大儀そうに店主がいった。灯伊那が本当に払ってしまって、すぐにローブを受け取って、それから「着替える場所とかありません?」と訊いた。店主は試着室のほうを指さした。
「いやー、やっぱり似合うじゃん! コスプレとか一度させてみたかったんだよね、鈴里ちゃんかわいいから」
ロシア語(と思われる)歌をかき消すくらいの音量で、灯伊那はいった。それから携帯で何枚も写真を撮って、満足したら、鈴里をそのまま試着室の外に連れ出した。
「え、まさか、この格好で外出るのっ?」
「そのために買ったんだよ?」
灯伊那は悪そうな笑顔を見せた。
Next→「02 夜に溶ける人魚はそっとⅡ」




