00 鈴無鈴里について
水平線に乗って遊んだ、あの日の少女に捧ぐ。
君のためなら死ねる。
◇ 1 ◇
もう夜が深い。渚火蛹には二〇一Ⅹ年八月十五日午前一時五十七分三十六秒の時点で、まだ息があった。およそ二十秒後、彼女は息絶える。自宅一階の廊下である。二階では妹の鈴無鈴里が就寝中であった。
包丁が腹に突き刺さった状態で廊下の壁にもたれていた火蛹は、朦朧とし混濁する意識の中に三年前の鈴里を描いていた。両親の葬式で、棺から離れようとせず、ただ延々と泣くだけだった少女の姿が見えた。見えた瞬間、黒い渦に呑み込まれて消えた。
次に彼女の意識に描かれたのは、去年の秋、鈴里が久しぶりに見せた笑顔だった。なにかに呪われていた彼女が、ようやく取り戻した煌めきだった。火蛹が意識を失うまで、生命の糸がぶつりと途切れるまで、その映像は彼女の瞳のすぐ前にあった。
渚火蛹の遺体が発見されたのは、日が昇り、鈴里が起床してからだった。第一発見者は無論のこと、鈴無鈴里であった。
◇ 2 ◇
「昔ね、家の近くに古いお寺があったんだ」
白衣を着た三十代くらいの男が、そう話をはじめた。鈴無鈴里は無表情のまま、彼の唇を見た。
「そこはあんまり人がこなくてね、幼い僕にとっちゃ秘密基地みたいなもんだった。山奥にある、小さな寺さ。手入れもたいしてされてなかった。毎日のようにね、近所の友達といっしょになって、お寺に続く階段を駆け上がるんだよ。それからてきとうな木の枝を拾って、チャンバラごっこをするんだ」
話の途中で、男はときどきウーロン茶を飲んだ。鈴里はオレンジジュースをストローでかき混ぜていた。
ニコニコ顔で、男は続ける。
「ある日ね、僕らはそのお寺の本堂に入ろうと思ったんだ。どうしてかって、いいようもなく暇だったからさ。チャンバラごっこにも飽きてね、ちょっと興味本位でさ、入ってみようかって。飾りでしかないお賽銭箱を通り過ぎてね、本堂の扉に手を掛けた。そして開いてみた。ギィって嫌な音がしてね、ホコリの臭いがむわっときた。僕ら、咳き込みながら本殿に入っていったのさ。まずなかを見て、驚いたよ。どうしてだと思う?」
鈴里はオレンジジュースをストローでかき混ぜるだけだった。男は困った顔をして、ウーロン茶を飲んだ。
「人とコミュニケーションをとるのは、難しいことだ」と、男はいった。「僕が思うに、人生における最大の難関さ。だれかとなにかを共有しないと、人間ってなかなかどうして生きていけないけれど、そのシェアっていうのが難しい。どうしてかわかるね?」
「人は沈黙できるから」
「その通り」男はニコニコ顔を崩さなかった。「そして沈黙することは当然の権利だ。たとえ僕が君に対して止めどなく、それこそ気が狂ったようにしゃべり続けたとしても、君は黙ってていい。それはまったく問題ない。しかし支障が出る。君はどんな話が好きなのか、僕はまったくわからないし、逆にどんな話題が苦手でじんましんが出ちまうのかもわからないし、なにより」男はまたウーロン茶を飲んだ。「僕の喉が渇く」
鈴里は無表情なままだった。
◇ 3 ◇
いいかい、鈴無さん。君がどれだけ黙っていても、世界はゆっくり動き出す。時計の針は止まらないし、僕だって老けて、七十年もしないうちに死んでしまう。きみは七十年経っても生きているかもしれない年齢だけど、その七十年間のうちに、僕は君を治してやらなくちゃいけない。
僕はね、君にはとってもいい景色を見せてあげたいんだ。それは日常の輝きだよ。たとえば、ほら。原っぱを走って遊ぶ小学生たちを思い浮かべてごらん。そうだね、十人くらいの男子が、草野球をしてたとしようか。将来有望なバッターが登場して、バットを振り切った! けど残念、ファウルだ。そしたらそのボールが、君の足元に転がってきた。君はボールを拾い上げて、少年たちに投げ返してやる。少年たちは君に礼をいう。なんでか知らないけど、君はちょっといい気分になる。
それだけのことでも、きっと素晴らしいものなんだよ。少なくとも、ベッドに寝っ転がってテレビを見続ける生活よりかは、ずっといい。まぁ、それは僕の休日なんだけどね。
僕はね、笑顔でいろとはいわないよ。
人ってのは、どれだけ苛酷な状況下でも、笑おうと思えば笑えるんだ。それは強い笑顔だ。そういう笑顔なら、君はその顔に装着すべきだ。
でもね、人ってのは、それ以外にもたくさん笑うときがあるんだよ。楽しいとき、うれしいとき――それはやさしい笑顔だ。無理に浮かべる笑顔じゃない。そういう笑顔を勝手につくろうとするとね、つまり無理やり楽しもうとか、無理やりうれしくなろうとか、そう考えてしまったら、かえって辛くなるんだよ。この世の絶望に、どんどん近づいていくんだ。真っ黒なマグマに溶かされそうになるんだよ。
もっと酷い笑顔がある。嘲笑さ。人を馬鹿にしたら、つい楽しくなっちまって、笑顔になってしまうんだ。けれどこれって、いい笑顔じゃないだろう? 最悪な笑顔だ。つまりね、笑顔がだいじって、だいたいのやつは一括りにしていうけれども、それは全部が全部いいものじゃないんだよ。だから僕は、君に笑えなんていわない。
ただ、ひとつだけ。これだけはいわせてくれ。君には笑顔が似合う。
◇ 4 ◇
火蛹が死んだ日から、三年が経った。彼女を殺害した、夫であった渚徹はとっくに逮捕されていて、大きな精神的ダメージを受けた鈴里も、担当医・枢木蒼乃陣のケアによって少しずつ回復していった。
鈴里が笑うことは決してないが、知り合いと会話ができるようになるまでになった。ある特定の友人には、感情を見せることができるようである。三年という月日は、彼女の治療という点においてはひどく短い。まだまだ通院はもちろん必要であった。
以上が、鈴無鈴里に対する経過報告である。
これより以下は、彼女にとって救済と破滅と絶望の物語である。




