Sead
暗い。
そこはただ暗い、何も無い場所。
闇。
夜よりもくらい、何も見えないくらいの闇。
ここはどこ?
その言葉が頭に浮かぶより先に、アリサは自分が今どんな状況下に置かれているのかを理解した。黒いその空間の中には、他の色など存在しない。この光景は、ついこの前目撃したものと全く同じだ。
「っ!」
身体は強ばって上手く動かせない。
「無駄だよ。いくら動こうとここからは出られない。何せ、閉鎖空間だからね」
逃げ出そうとした気配を見抜いたかのように、声は頭に直接響くようにハッキリと聞こえた。その不快な響きは耳を覆おうと途切れることは無く、アリサの精神を削り取る。
「そんな顔しないでくれよ、僕は君と話をしたいだけなんだ」
「私はあなたと話したいことなんてないです」
辛うじてそう切り返し、自分の目に力を集中する。相変わらず何も見えないくらいだけの世界だが、今この場所が、あのスラム街ではなくなっていることが分かった。ここは別に異次元とかそういう訳ではないらしい。地面は一応この世のものではあるし、空気だってきちんとある。なのに「ここからは出られない」とそれはそう言っていた。
「まあまあ、君も退屈しない話だと思うよ」
「……」
アリサはとにかくその声から離れたい一心で、走り出した。
自分の目で地面があることは確認した。自分の肺で空気がある事も分かっている。自分に身体があって、地面を蹴っていることも、進めている事もきちんと分かる。それでも、それなのに何故か、この場からは動けなかった。いくら走っても同じ景色が広がっているだけ。暗闇から出られない。
「だから、無駄だって、君はここで僕と話すのさ」
「……あなた、何ものなの?」
「言ったろ?均衡の守り手を恨んでいる者」
「それは私の質問の答えではないです」
話をしようと言う割に、それは相変わらず自分の正体について語ろうとしない。それが言う、均衡が何を指す言葉なのかも分からないし。それを"恨む者"では何が言いたいのかも分からない。
「君も結構、強情だね」
「私が強情なら、あなたは傲慢ですね」
「……そうだね、名前くらいは名乗ってあげるのが礼儀というものか」
それはため息を付いたかのような間をとってから、名乗った。
「僕は『エルハ』だ。『エルハ・ローレンス』」
聞いたことのない名前だった。少なくともこの国で有名な人ではない。
そして多分、この国の名前ではないだろう。そういう点で言えばルドと同じと言える。今まで気にも止めていなかったが、何か関係があるのだろうか。
「これ以上は教えないよ、万一君にここを出られて、僕の事を奴らに話されたらたまらない。本当は名前ですら嫌なんだけどね。あ、偽名を使えばよかったか」
それはわざとなのか、それとも素で今気がついたのか、無機質な声音からは判断出来ない。
もし素なのだとしたら、付け入る隙はあるような気がする。
「……アナタの名前なんて、その"彼ら"も知らないと思うけど?」
アリサは煽るように切り返した。
「…………確かにそうかもしれないね。奴らは僕の事なんてとうの昔に忘れているのかもしれない」
長い沈黙のあとに、そのエルハの声は聞こえてきた。気のせいかさっきよりも硬質な感じがする。
「……まぁ、それでもいいさ。やる事は変わらない」
「…………」
「さて、君の望む答えは出たようだし、今度はこちらから質問させてもらうかな」
言下にアリサの周囲五メートル地点ほどのところを、アリサが逃げ出すのを防ぐかのように、歪んだ人影が連なって現れた。
その歪んだ人影は、一つ一つがエルハであるかのように、同時に話しだす。
アリサは身に戦慄が走るのを感じた。明らかにアリサがどうにか出来る範疇を超えているのだ。もし仮に、あれら一つ一つが動いて、子供ほどでも力があるならば、アリサは完全に手詰まりだ。やれることが無い。
「そうだな……君は"彼"と親しいみたいだけど、恋人なのかい?」
「……違います」
「へぇ?じゃあ、片思い?」
一見、今の状況に関係のないようなエルハの言葉は不思議とアリサの胸に刺さったが、余裕のないアリサはそれを認識するよりも先に、これからどうするかという思考で頭が埋め尽くされた。
「だとしたら、何でしょう?」
アリサは何とか活路を見出そうと、エルハに聞き返す。
「だとしたらね、やめた方がいいよ」
「…………何を根拠に?」
アリサは自分が、エルハの望む方向に話が進んでいっているのに気が付かなかった。自分が相手の事を探っているつもりで、自分が相手の話したいことを話させていた。
「……彼は人によって違う口調で話すだろう?それは生徒によっても違った筈だよ。君はあんなに近くにいたんだ。少しは見ていただろ?」
「それが何だと…………」
ここでアリサは自分がエルハの言葉に聞き入っていたことに気がついたが、もう遅い。
「あれはね、"自分の性格"なんてもう覚えていないのさ。まるで仮面そのものだ、付け替えすぎて顔が仮面になってしまったんだろ」
それがなんだと言うのか。
人は誰しも仮面を付け替えて暮らすものだろう。
しかし、アリサにはそれが少し、腑に落ちた気がした。その正体が何なのかは、まだ分からない。
「アイツはね、人間じゃ無いんだよ。化け物さ、それも人の皮かぶって大手を振って昼の街中を歩く類のやつだ。
騙して、欺いて、利用して、要らなくなったら最後には骨も残さず食べてしまうようなね。
僕なんかより、もっとずっと、ろくでもない奴さ」
それが比喩のつもりで言っているのか、事実として言っているのか、アリサにはもう、判断出来ない。頭に霞がかかるように思考がぼんやりとしてくる。
「……彼はどう見ても人間です」
どうにかそう反論するが、それが正しい事なのか、アリサには分からなくなってきた。まるでムキになっているだけのような、そんな気がしてくる。
「本当にそうかい?
彼は自分が人間だと言ったことがあったかい?
仮にあったとして、その真偽を確かめる術は?
そもそも、何があったら人間を人間足らしめていると言えるのかな?
僕はね、人間とは本能と理性、感情の狭間に揺れる、人型の存在を人間と呼ぶのだと思う。感情の抜け落ちた人形が、じゃない。断じて」
「その言い方だと、まるで彼が感情のない人形だと言っているように聞こえますね」
「事実さ」
「それこそ何を根拠に?
あなたには私の様な目はないでしょう?
私たちのように彼と長い間いたわけではないでしょう?それに、私にはあなたの方が十分、人外に見えますよ」
嘲笑のような声が、少しの間を開けて淀んだ空間に響いた。
「近くにいる方が分からないこともあるんだよ、アリサさん?」
「…………っ」
「それに、僕は別に自分が人間だなんて言ってないじゃないか。むしろ僕は人外だよ。
君に言われるまでもなくね」
エルハの声はどこまでも不快だった。アリサを囲む輪は依然全くの動きを見せず、不安感を拭い去れない。
「君はなんで彼を人間だと思うんだい?」
「……私の目に異常として映らないから。それ以上に理由が必要ですか?」
「そう、君は表面上にしか彼を見れていないんだね。それも当然か、あれが君を信用するとは思えない。
……そうだね、君の間違いを正すためにも、僕は君にこんな言葉を君に送ろうと思うよ。
あんな、500年以上の時を過ごしてきた、非生物に君は何を望むというんだ?あれは君たちの事なんてこれっぽちも信用していない。愛着すら持っていない、自分たちの”目的”のために君たちを利用しているだけの存在だよ」
アリサは、その言葉を聞いて何故か、少し前の何てない会話を思い出した。なんともない会話の中で、彼はおそらく茶目っ気たっぷりにいったのに違いない。
『50年生きようが、100年生きようが500年生きたって、"何でもできる"ようになんてなりません』
自分が500年生きているなんて、誰も信じるはずがない、思うはずもない。彼はそう思っていたのだろうし、実際彼女はその時にその言葉に対して疑問も持たなかった。
何故かそれが印象的にアリサの耳に残っていたのは、ただの偶然なのだろうか。
エルハが言うように、本当に彼が500年の時を過ごしているのなら、あのメメヤも、あの時助けてくれたジェーンも、おそらく、見た目通りの年齢じゃない。
「信じられない……」
呟く言葉とは裏腹に、彼女はどこか納得していた。
だって、それなら彼が、彼らの言動が、雰囲気が、人間関係が、異常なことにも頷ける。あの異常な能力にも、少しは言い訳が付く。
「あれは、500年前の遺物さ。とびきり質の悪い……ね」
エルハが強調して言う、500年という数字にアリサは引っ掛かりを覚えた。
500年前、今から500年昔。その時代にあった出来事と言えば――――
「なんだこりゃあ」
突然黒い空間に、場違いな声が響いた。驚きに目を丸くして、アリサはあたりを見渡すが、どこにもその声の主の姿は見えない。
「真っ暗じゃねえか、あーくそ、何も見えやしねえ。
大体、俺は先頭に特化した能力持ちじゃねえっての」
声は続けざまに、何かを引き裂くような音とともに聞こえてくる。
「……っ!何て出鱈目なっ!誰だ!」
「なんてことはないさ、ただのおじさんさね」
エルハ曰く出鱈目なその人物は、彼にそう答えた。
~”Sead” end~




