第九話 「誕生日プレゼントが欲しい」と若が言うので
晴臣と初めて会った時、3歳の舌はまだ『鷹匠』を正確に発音することができなかった。
「たぁじょ」と呼びながら、鷹匠の手を握り、公園までの道のりを歩く小さな手。
晴臣は、随分と大人びた子どもだった。前世があると告白された今となっては、前世の記憶があったからだと理解できるのだが、当時の鷹匠は、やけに達観した子どもだな程度の認識だった。
それでも身体を動かすのは好きらしく、2人でよく近くの公園に行った。晴臣がどこの家の子どもが知っている近所の者たちは、2人が公園に入ると距離を取ったり出て行ったりしていた。
鷹匠は子どもの遊びなどは知らなかったので、逆に晴臣から教わった。
日が暮れて、帰り道。
長く伸びた影を連れて、赤い夕暮れの中、手を繋いで歩いた。
季節は秋だった。
少し肌寒く、けれども子どもの体温は温かかった。
『……たぁじょ、ないてるの?』
問われて、鷹匠は初めて自分が涙を流していることに気が付いた。
この時返した言葉を、今でも一言一句覚えている。
『眩しいなぁ、と思いまして』
前世で、ひどい苦しみの中で、最期に眩しい光を見つけて。
自分もそれに触れて歩んでみたい人生だったと、願って死んで。
今、手の中に小さな温もりがある。
これか、とその時の鷹匠はなぜかそう思った。
あの光の中に、ようやく自分も入れたのだ、と。
不幸中の幸いというべきか、帝和誠が晴臣に飲ませたのは強めの睡眠導入剤のみらしかった。
一般用の携帯電話に長田から連絡が入ったのは、鷹匠が知り合いの病院に晴臣を運び込んだ直後だった。
予想通り、合コンで晴臣に酒を飲ませようとした女は帝和誠とつながっており、今日も食事中の晴臣たちに偶然を装って声をかけ、食後の珈琲に眠剤を混入したのだという。その際、前回のような失敗を恐れ、通常の倍の量を入れたらしい。
意識が朦朧とした状態の晴臣を、帝和誠とともに地下に運び、報酬の薬を受け取った。その場で使用してから外に出て、山川に捕まったという流れだ。女の方から聞ける話はこのくらいだろう。
気になるのは、帝和誠の方だった。
そもそも、なぜ晴臣を狙ったのか。
攻略ノートには登場人物として書かれていたが、晴臣と帝和誠の繋がり自体は薄い。友人関係とは言え、それも大学に入ってからだ。帝和誠の立場や将来を考えれば、いくら金で揉み消せるとしても、人間を1人拉致するのはリスクが大きい。
鷹匠の疑問に答えたのは、不起訴にする代わりに、と切り傷だらけの顔に包帯を巻いた帝和誠へ情報提供をもちかけた長田だった。
『帝和誠の上にさらに指示役がいる。ハル坊を上総組の一人息子だと知った上で、拉致って薬漬けにしろと言われていたらしい』
鷹匠たちが地下に踏み込んだ段階で、実はかなりギリギリであったのだという。
晴臣に眠剤を飲ませた帝和誠は、眠っている間に晴臣の腕に薬物を注射する予定だった。だがその前に、上総組の一人息子を犯して写真を撮れば、仲間内、つまり薬を使った乱行パーティを楽しむような者たちの中での地位が上がるのではないかと考えたようだ。自身がセックスドラッグを摂取していたことも、それを後押ししたのだろう。
鷹匠が間に合わなければどうなっていたのかは、想像に難くない。
長田の話では、帝和誠のバックまで探るのは無理だろうとのことだった。明日には釈放され、そのまま揉み消されるだろうとも。つまり、「不起訴の代わりに」も何も初めから帝和誠は任意同行止まりなのだが、長田は本人がそれを理解していないのをいいことに情報だけ引っ張りだしたわけである。
『こっちはこっちで忙しくなる。俺が手伝えるのは、ここまでだ。……テメェは、一度きっちりハル坊との向き合い方を考えろ』
プツリと電話が切れる。
鷹匠は、非常用ランプだけが灯る病院の待合室の椅子に腰を下ろした。
20床ほどの個人病院の1階フロアに、昼間の雰囲気はない。
微動だにせず、ただ床を見ていると、廊下の向こうから鷹匠と変わらぬ年代の女が歩いてきた。
病院の現院長の娘だ。今年3年目の医師で、上総重成の終末期も担当した。鷹匠とは、彼女がまだ高校生だった頃からの付き合いになる。
医療用のプラスチックエプロンを脱いだ女は、シンプルなシャツとデニムパンツを身につけていた。
「自分でも一度トイレで吐いてたみたい。少し脱水があったから点滴してるけど、それが終わったら帰ってもらっていいわ」
「……世話をかけた、早苗」
「本当にね。だからヤクザって嫌い。人様に迷惑をかける生き方しかできない連中ばっかり」
早苗と呼ばれた女が、辛辣な言葉を投げつけながら鷹匠の右側に腰を下ろす。
「日本じゃ認可されてない眠剤だった。吸収量が多かったら、呼吸不全になってたかもね」
「そうか……」
鷹匠は視線を上げない。
「ひっどい顔。昔、人の男の鼻骨折った男とは思えない」
「……あれは結婚詐欺だっただろ」
「まーね。その節はお世話になりました」
椅子のシートに後ろ手を付き天井を見上げた早苗が、片足を上げ、履いていたサンダルをプラプラと揺らす。
「……守れなかったの?」
確信に触れる問いができるくらいには、長い付き合いだった。
答えない鷹匠の隣から、ため息が聞こえてくる。
「……あんたにだけは、伝えとく。口淫の形跡があった。多分、眠ってる時。ハルくんは気付いてないはず」
「…………」
「守れないなら、手を離してあげて。あの子は、裏社会にいていい子じゃない。あんたが一番、それをわかってるはずでしょう?あの家から出して、関わらない。上総組はあんたが継ぐ。それで済む話じゃないの?」
早苗の言葉は、すべてが正しかった。
鷹匠は上総組二代目としては、手堅い。年齢はまだ31歳だが、16歳で重成から親子盃を受けた後は晴臣の世話の傍ら、闇金の回収から夜の店のケツモチ、シマ争いの仲介といった一歩間違えれば自分の指が飛ぶような火種にまで介入して場を収め、人脈と金を作ってきた。上納金の額も20歳を超えてからは、鷹匠の独壇場だった。
古参の幹部も、鷹匠が跡目を継ぐ宣言すれば戦争を起こしてまで反対しようとは思わないだろう。
早苗の言うように、晴臣にはセキュリティがしっかりした高級マンションにでも移ってもらい、大学もそこから通わせる。
鷹匠は上総組二代目として、組を率いていく。
それが一番丸く収まる道だとわかっている。
「……早苗。子ども、いくつになった?」
「えっ?今年2歳になるけど」
「……もしお前の子どもが明日、事故に遭うとして。それをお前の両目と引き換えになかったことにできるとしたら、どうする?」
突然飛躍した鷹匠の問いかけに、早苗が目を丸くする。だがそれでも真面目に考えてから、口を開いた。
「そりゃ、もちろん両目を差し出すわよ。それが親の愛ってもんでしょ?」
「……親の愛、ね」
「私の愛、に言い換えようか?世の中の親全員が子どもの味方なわけじゃないってことくらいは、職業柄知ってるから。私の、無償の愛よ。あんただって、ハルくんを守るために片目を——……」
言いかけてから、何かに気付いたように早苗が口を閉ざした。
その視線が、通路の奥を見る。そこは、晴臣がいるだろう処置室がある場所だった、
「……差し出したんじゃなくて……、引き換えにして、あの子を縛ったのね。……自分から、離れないように」
早苗が、喉の奥で小さな呻きを上げた。それから「馬鹿ね」と苦しそうに表情を歪める。
「あんたのそれは、愛じゃない……。溺れてる人間が、……必死で助かろうとしてるだけだよ」
立ち上がった早苗が「点滴が終わったら帰って」と告げて去っていく。
それでも鷹匠は、視線を床から上げることはなかった。
廊下の先にある処置室だけは、1階フロアの中で煌々とした明かりに照らされていた。
暗い道の先に、光の部屋がある。
鷹匠は、その手前で立ち止まった。
自分がそこに、入る価値のない人間に思えた。
自嘲を浮かべ、再び足を進める。光が、暗闇に慣れた網膜を焼く。
晴臣は白いベッドの上にいて、鷹匠を見ると真っ先に「助けに来てくれてありがとう」と笑った。
「……具合は、どうですか?」
「吐きすぎて喉がヒリヒリするけど、大丈夫。早苗さんも、入院まではしなくていいって言ってくれたし。点滴も、あと30分くらいかな?」
横になったまま、晴臣が自身の腕から伸びている点滴管を見上げる。
室内はベッドと小さなパイプ椅子、そして壁に掛けられている丸い時計以外には何もない空間だった。処置をする部屋、というよりは処置が終わった者を安静にさせるための部屋なのだろう。
30分かと鷹匠は考え、パイプ椅子をベッドの側、晴臣の顔近くに置くとそこに座った。
先に聞くべきことから確認しておく。
「どこまで覚えてますか?」
危険な目に遭ったばかりの相手にするには、酷な質問だ。だが鷹匠は、知っておかなければならなかった。
「この間の合コンの時に連絡先交換した誠さんて人に誘われて、食事をしてたんだけど。途中からユミさんていう、合コンにもいた女の人が同席して、3人でデザート食べて。珈琲飲んだ直後に、変な眠気が来たから、トイレで一回吐いて……」
そこからは……と、晴臣が首を横に振る。
つまり意識を失った後、地下のクラブで帝和誠を殺そうとした鷹匠を止めたことは覚えていないらしい。
鷹匠はいくらか安堵している自身に気付きながらも、それを表情には出さず、「わかりました」と返した。
「……結論から言うと、若の攻略ノートの『偉いやつ』のエンディングの一つでした」
何をどう伝えたとしても、晴臣の心に傷を付けることになる。ならばここは下手に誤魔化すよりは、用意されていた攻略ノートの肯定をした方が晴臣のためにも良い。
驚いた顔をしている晴臣からの返答を待たず、鷹匠は続けた。
「帝和誠。大手ゼネコン、帝和建設の御曹司です。表向きは好青年ですが、裏では違法ドラッグの売買に手を染めていました。若を眠剤で眠らせ地下の高級クラブに拉致って、薬漬けにする予定だったそうです」
「……誠さんが……?ストーカーが出てこなかったから、全部俺の勘違いだったのかもって思ってたのに……」
返答を聞き鷹匠は、晴臣から見えない場所でストーカーの男を消したことが、逆に晴臣を油断させてしまったのだと知った。
良かれと思って選んだ道が、晴臣から逃げ場を奪っていた。その事実に、足元の道が沈む泥へと変わる。
「友達だと思ってたのになぁ……」
「すみませんでした。俺がもう少し若の交友関係を詳しく聞いていれば……」
「た、鷹匠のせいじゃないって……!」
「俺なら、帝和誠の名前を聞いた時点で気付けたはずです。完全に俺の失態です」
謝罪とともに頭を下げる。攻略ノートの内容も頭に入れていた。厚木からの話も聞いていた。判断できる材料は揃っていた。
足りなかったのは、優先順位だけだった。
晴臣の安全よりも、無意識に今の関係が続く方を選んでいた。
鷹匠は、壁の時計を見た。
いつの間にか時間は、深夜をまわっていた。
晴臣の誕生日。
いつもなら、部屋を訪ねてプレゼントを渡している頃だ。
鷹匠の視線を見て同じことを思ったのか、晴臣が雰囲気を明るくするように「プレゼント貰い損ねた」と少しだけ笑った。
「家に用意してあります。明日の朝、受け取ってください」
「うん、ありがとう」
どことなく張り詰めていた空気が、柔らかく変化する。
点滴が終わった晴臣が針をゆっくりと抜き、枕元の小さなトレーに置かれていたカット綿で刺し口を軽く押さえた。
上半身を起こし、身体の調子を確認している。
「頭痛も吐き気もない。大丈夫」
「……安心しました」
「心配かけて、ごめん」
「若のせいでありませんよ」
「鷹匠のせいでもないよ」
先程の会話を踏まえてのことだろう。さすがに鷹匠も蒸し返すつもりはなく「ありがとうございます」とだけ返した。
点滴が終わったら帰宅していいと言われている。
晴臣の体調に問題がないのなら、すぐに出ても大丈夫だろう。
車は運び込む時に目立たないよう、裏口に停めてある。
「正面玄関で待っていてください」
先に出て車を回してくるかとポケットのキーを探っていると、ベッドの上から控えめに名を呼ばれた。
「……あのさ、……誕生日のプレゼント……欲しいものがあって……」
自分からあれが欲しいこれが欲しいとは言わない晴臣の性格を考えると、本当に珍しいことだった。
「これが駄目なら、……もう本当に諦めるから……」
シーツを握りしめた晴臣が、意を決したように顔を上げる。
「——……キ、……キス……してほしい、です」
染まった頬と、緊張で潤んだ瞳。
どれだけの覚悟を持って、それを言葉にしたのか。
……だが、それでも。
鷹匠は、首を横に振ろうとした。
『……あんたにだけは、伝えとく。口淫の形跡があった』
早苗の言葉を思い出した。
自分より先に、晴臣のうなじに触れ、咥内に触れた者がいた。
それは衝動という感覚で、鷹匠の行動を支配した。
ベッドに乗り上げ、「まさか」という思いで見上げてくる晴臣の顎を指で掬い上げる。そのまま手を滑らせ後頭部を支え、もう一方の手で晴臣の背中を撫で腰の少し上で軽く力を入れる。背が反り、頭部が上を向く。
唇を、深く塞いだ。
それでも、腰を撫でようとする手を、耳を摘もうとする指を意識的に抑え込み、指の腹でうなじにだけ触れる。
口内の汚されていそうな場所を舌で撫でてから、そっと身体を離す。
「……たか……じょう……」
熱い吐息が溢れる晴臣の、その濡れた唇を指で拭ってから、鷹匠は彼に背を向けた。
失敗した、と思った。
「——……忘れて、ください」
暗い廊下に出て、歩く。
2階に行けば当直の医師や夜勤の看護師がいるが、巡回に出ているのか1階には警備員の姿もなかった。
『あんたのそれは、愛じゃない……。溺れてる人間が、……必死で助かろうとしてるだけだよ』
先程の早苗の言葉が、鷹匠の頬を鋭く張った気がした。
次回第十話は9月19日17時更新です。




