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第十話 溺れたチンピラ

 カレンダー上の暦が、8月から9月へ移り、10月へと変わった。

 わずかばかり残っていた夏の面影も、朝の空気に溶け消えていく。高さの増した空に流れる鱗雲。

 ブラインドを開けた窓から見下ろす通りには、薄手のコートを羽織った者の姿も見える。

 季節は、秋へ進もうとしていた。



 鷹匠が風舞伎町にある組事務所の隣で寝泊まりをするようになってから、1ヶ月ほどが過ぎた。晴臣への誕生日プレゼントは、山川経由で晴臣へと届けられた。

 ここに来る前の半月は組事務所で寝泊まりをしていた。だが住み込みや当番の者たちにあまりに気を遣われ、相手にするのが面倒になり、今の場所へと移った。事務所所有の、貸し倉庫として運用している5階建ての古いビルの一室だ。1階にはコンビニが入っており、組事務所の者からは「徒歩1分のコンビニ」として評判が良い。上階へは、コンビニ横の階段かエレベーターを使用できる。

 鷹匠は、たまたま空いていたシャワーブースとトイレ付きの最上階の西向きの部屋を使っている。昔は警備会社の分店が入っていたらしい。飾り気のないタイルの床と白い蛍光管が並ぶ白い天井に、オフィスとしての名残が見えた。

 内装はアルミラックが1台とソファ、そして小さな冷蔵庫が1台とその隣で袋の口を開けているゴミ袋。

 それが鷹匠にとっての、今の自分だった。


 

「蓮司〜、ゴミ出しに来てあげたよ〜」

 シャワーを浴び、タオルを肩に引っ掛けただけで冷蔵庫を開けていた鷹匠に、ノックと同時に声がかけられた。

 薄手のニットにミニスカート、足元は厚底の黒のロングブーツ。緩く巻いた髪を明るく染め、時代を反映するような強い化粧をした女が、ドアを開けて入ってくる。

 鷹匠が経営しているキャバクラの店長、美奈子だ。

 両手にコンビニ袋を持っている。

「お水も買ってきた。冷蔵庫に入れといていい?」

「あぁ」

「早く服着なよ。乙女に見せていい大きさじゃないでしょ、ソレ」

 勝手に入ってきて見たのはそっちだ、とは思ったが1言えば10返ってくるような相手にそれを指摘するのも馬鹿らしく、鷹匠は黙って下着とズボンだけ履いた。

 拾った当初は骨と皮ばかりで、目だけギョロギョロさせて一言も喋らない女だったが、随分と逞しくなったものだ。

「冷蔵庫、またお水とビールしか入ってない」

「下にデカいやつがあるからな」

「あはは、わかる〜。1階にコンビニとか、立地的に最高だよね」

 美奈子が笑いながら、冷蔵庫にペットボトルのミネラルウォーターを入れる。それから長い爪で器用にゴミ袋の口を縛り、ドアの近くに置いた。他にゴミがないか探したりはしない。

「あと頼まれてた、ハルくんの大学の聴講生の件。お店の子が書類審査通ったから、行けるって。ハルくんの時間割は山川さんから貰ってるから、それ見て被るところは全部入れてくれる」

「そうか、……助かる。日当とは別に手当も出すと伝えてやってくれ」

「りょーかい」

 ゴミ袋を持った美奈子が、「別件だけど」とドアの前で振り返った。

「昨日、お店に三陽会(さんようかい)の人が来たよ。近々先代のご位牌に線香を上げに行きたいから若頭さんに日取り聞いてくれって、ルイ入れてくれた」

「……三陽会が?」

「返事はまた今晩聞きにくる、って。どうする?」

「…………」

 三陽会は、上総組と同じく関東近郊に拠点を構える組織だ。違う点は、一本独鈷でやってきた上総重成の人柄に惚れて親子盃を交わし傘下に収まった組を抱えている上総組に対して、三陽会は兄弟盃で連合を作り積極的に組織を拡大してきたという経緯がある。規模も人数も三陽会の方が上だが、古い極道の中には上総組のやり方の方を好む者が多い。任侠の上総、組織の三陽会。二つの組織は、危ういバランスの上で、それでも同格として成り立っていた。

 だが、上総重成が死んだ途端にこれかと、熾火のような怒りが胸に宿る。

 当時三陽会は会長の入院を理由に、上総重成の葬儀を欠席した。それをやった上で、今度は組を通すのではなく、鷹匠の店に来て伝言を頼んだ。表向き、最低限の礼は果たしているように見せて、実際は自分たちが敬意を持っていたのは上総重成だけだと言っている。

「……来週の月曜、10時と伝えろ。人数は聞いとけ」

「わかった。一周忌が近いから、って言ってた。去年のクリスマスだったもんね。親分さんが亡くなったの」

 返事はしとくね、と美奈子がゴミ袋を抱えて去っていく。

 多少悪ノリはするが、大事な場面では線引きがしっかりしている。余計なことは言わない、聞かない。組の事情には立ち入らず、必要な情報は伝える。

 鷹匠が、彼女に生活圏への立ち入りを許している理由だった。

 ベッド代わりのソファの上に放り投げていた組専用の携帯電話を手に取り、短縮ボタンを押す。2コールで山川が出た。

「来週の月曜、10時に三陽会が親父に線香を上げにくる。仏間、念入りに掃除しとけ。俺もそれに合わせて、そっちに戻る」


〈了解です〉


「……若とは会わせるな。連中が来る日は、適当な理由つけて裏口から外にお連れしろ」


〈……俺の説明で納得しますかね〉


「させろ。渋るなら『悪いやつ』かもしれない、と言えば引き下がる」


〈……は?はぁ、わかりました〉


 明らかに疑問を抱いている山川へのフォローはせずに、電話を切った。

 アルミラックに引っ掛けていたワイシャツとジャケットに袖を通す。洗い替えは、若衆が来てすべてクリーニングに出し毎朝運んでくる。

 上総の代紋を刻んだ純金製のバッジが、ジャケットの左襟で存在を主張していた。

 今日も、昨日と同じ毎日だ。

 隣の事務所へ行き、パソコンと帳面を見ながら、シマに関する報告を受ける。

 画面上だけの数字を目で追い、組の資産を増やす。今の鷹匠にできるのは、その程度だった。




 

 週が明け、月曜。

 クリーニングから返ってきたばかりの、シャツとスーツを着る。

 適当にジェルをつけて前髪を上げ、靴を履く。車のキーと携帯、何枚か纏めて畳んだ万札をポケットに入れて、ドアを開けた。

 エレベーターは、1階で止まっていた。その横にある、階段へと足を向ける。各踊り場の非常灯が点いている。薄暗いが見えないほどではない。

 1階まで降り、内鍵を開けるとドアノブを回した。

 さすがに朝晩の空気は、ひんやりとしている。

「あっ!おはようございまーす!」

 階段へのドアとエレベーターしかない短い通路には、大きなゴミ箱が2つ並んで置かれていた。その脇から箒を持った若い男のコンビニ店員が顔を出し、挨拶をしてくる。事務所にいる組の人間は、この店をよく利用する。鷹匠は下の者に、騒ぐな、長居するな、礼は必ずしろ、の3つを徹底させていた。

 おかげで店員は皆、上総組に対して好意的だ。ガラが良いとは言えないが、買い物は高単価で礼儀正しい。おまけにクレーマーや酔っ払いが騒ぎ始めても、組員が入店しただけで静かになる。店にとっては良いことづくめなのだろう。

「おでん、入荷しましたよ!大量注文も受けてますので、いつでもどうぞ!」

 鷹匠にはできない、心からの善意の笑みを向けられる。

「……おでんか。そうだな、早速で悪いが10人前ほど適当に選んで、夜になったら事務所に届けてもらえるか?鷹匠に頼まれたって言えば、そのまま中に入れる」

 万札を5枚、店員に渡す。

「釣りは、店員さんたちで分けてくれ」

「あ、ありがとうございます!」

「こっちこそ、いつも助かってるよ」

 頭を下げる店員に軽く手を上げて、横を通り過ぎる。

 朝の繁華街は、夜の喧騒が嘘のように閑散としていた。風に舞った風俗店のチラシが足に張り付き、また飛んでいく。

 通りから先程のコンビニを覗くと、疲れた顔のホストが缶コーヒーを手にレジに並んでいた。

 ビルの裏手に、組の駐車場がある。一等地を更地にして遊ばせておくなんてと山川は言うが、組の資金繰りは順調すぎるくらいに順調だ。

 先日も、晴臣が指定した銘柄が急騰し、莫大な利益を得ることができた。値の上がり方を見るに仕手筋による動きがあったのは明白だったが、鷹匠には見知らぬ者たちの仕手戦など関係ない。早々に売り抜け、数百万の元手が億になって返ってきた。これは所得税や贈与税を綺麗に清算してから、晴臣名義の口座に振り込むつもりでいる。

 駐車場には、組が所有する車が何台か停まっていた。繁華街の中にあるにも関わらず、この周辺だけ落書きも吐瀉物もない。

 8のゾロ目ナンバーの高級車に乗り込むと、キーを差し込む。

 約2ヶ月ぶりとなる、上総組本宅へと向かった。




 晴臣に触れたあの夜以来、一度も顔を合わせていない。

 意図的なものだ。

 夜の駐車場で口付けを避けられた晴臣は逃げなかったのに、深夜の病院で口付けをした鷹匠は逃げた。ただの保身。それもわかっていた。

 男だの女だのは、鷹匠にはあまり関係がない。この身体を得る前の生の頃から、必要ならどちらとも寝た。喧嘩が強かったおかげで、前世での服役中も「女役(アンコ)になるから、他の連中から守ってほしい」と身体を使って交渉してくる受刑者がいたほどだった。

 今まで誰と寝たのかなど、いちいち覚えていない。唯一覚えているのは、鷹匠の姓をくれた女くらいだ。


 ——それなのに。

 晴臣の体温だけが、肌から離れない。


 守れと言われた子ども。

 鷹匠を守った子ども。

 鷹匠が守ってきた子ども。

 秋の夕暮れの中で「泣いてるの?」と問われ、眩しいと答えた。

 その時、鷹匠は自分が報われたのだと思った。

 ようやく報われた。

 自分はこの小さな命を、自分だけを見て笑ってくれる命を託されるほどに、赦されたのだと。

 

 気まぐれのように何度も触れて、ついには手まで出しておきながら、よくもそんな薄っぺらい祈りを捧げられたものだ。


 どうやれば人に好意を持たれるかを、知っている。


 晴臣は普通の善人だ。優しくすれば、それだけで信用してもらえる。真面目で少し愉快な一面を持つ兄のように振る舞い、時折大人としての顔を見せる。そうすれば、晴臣は自分に特別な感情を抱くようになる。

 それを、知っていた。

 知った上で、利用した。

 自分から離れることが、ないように。

 大人の距離だと誤魔化しながら、駆け引きで、より深く釣り上げる。


 前の生の最期に見た光を、覚えている。

 鷹匠の手を握って泣きじゃくる、見知らぬ子どもの顔。冷たい水の中で、誰かに想われ泣かれることの温かさに初めて触れた。

 眩しかった。

 なんて綺麗な涙だろう、と思った。死と暴力だらけの人生で、こんなに綺麗だと感じたものはなかった。


 もしまた生まれてくることができたら、その時は、と願う。

 その時は、誰か1人でいい、自分の手を握ってくれる存在がいて。

 握り返すことのできる自分がいますように、と。

 そう願った、透明な思いも。

 今はあの最期の時の、濁流のように濁り切っている。


 溺れた人間が、必死で助かろうとしている。

 ……死んだくせに。

 流れに飲まれて、揉まれて、沈んで、死んで。

 それでもまだ、助かろうと手を伸ばしているだなんて。


 ——この世で一番、滑稽で哀れな男だと思った。

次回第十一話は9月20日17時更新です。

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