第十一話 「おかえり」と若が言うので
正門には回らず、裏口に車を停めた。
見張りがいない代わりに、勝手口に繋がる門扉には鍵がかかっている。携帯を取り出し山川にワン切りすると、セキュリティが解除され鍵が開いた。
門扉の先は、小さな裏庭になっている。
来客用に広い駐車スペースがある前庭、日本庭園と錦鯉が泳ぐ中庭、そして飛び石が並ぶ通路の脇を笹で囲んだ裏庭。上総重成は裏庭を好み、生前は笹の間に置かれた腰掛石に座って、晴臣に隠れてよく煙草を吸っていた。
その石を視界の隅に収めながら、勝手口へと向かう。
方引き戸の引手に手を伸ばしたところで、向こう側から戸が開いた。
「おかえり、鷹匠」
「——……っ」
突然現れた晴臣に完全に虚を突かれ、一瞬立ちすくむ。
夏以来に見る晴臣は、略喪服の黒いスーツを着ていた。左手には、鷹匠が贈った腕時計をつけている。
「鷹匠の分も用意してあるから、こっちに来て」
踵を返し数歩進み、ついて来ない鷹匠を振り返る。
「10時に来るんだろ?急がないと」
「……若と三陽会の連中を会わせないようにと、言ってたはずですが」
ようやく声が出る。勝手口から入ると、檜の無垢材を敷いた長い廊下になっている。晴臣以外に、誰もいないようだった。
「俺が山川さんに、『俺の父さんのことだから』って無理言って残らせてもらったんだ。山川さん、初めて鷹匠に会った時に殴っちゃったから、今度は自分が殴られる番ですって言ってた。悪いのは俺だから、殴らないであげて」
晴臣と引き合わされた日か、と鷹匠は思い出す。あの時、鷹匠の安い挑発に乗り殴ってきた若衆が、山川だった。
「……わかりました。殴りません」
答えると、小さく「ありがとう」と笑った晴臣が、廊下の途中にあった障子を開けた。
「既製品にはなるけど、いつも仕立ててもらってるところに同じサイズで頼んだ。合うよね?」
「えぇ」
畳敷の和室に入ると、衣紋掛にハンガーを引っ掛けるようにして吊り下げられた光沢のない濃紺色のスーツが目に入った。普段から黒のスーツを着ている鷹匠が、今日の弔問用にと事前に山川に準備するよう指示していた。黒にしていないのは別の意図によるものだったが、出席を決めた晴臣が黒を着ているのなら、鷹匠が着る色としても濃紺以外に選択肢はない。
極道にとって、葬祭は特別だ。
礼を尽くす儀式である。
上総重成への弔問なら、息子の晴臣に黒を着せる。無礼な先触れに対し、こちらは相手をしない。品格を守る。
ジャケットを脱ぎ、衣紋掛にそのままかける。ふと視線を感じ振り返ると、晴臣がこちらを見ていた。
「若、先に仏間へ」
「ここで見てる。鷹匠が逃げないように」
少し棘のある言い方だ。
だが無理もない。
それでも、無駄な抵抗をしてみた。
「どこにも逃げませんよ」
「ずっと逃げてただろ。家に帰ってこなかった」
「仕事が忙しくて、事務所に泊まり込んでいただけです」
「決算には早いし、大きな揉め事も起きてないって山川さんからは聞いてる」
やはり無駄な抵抗だったようだ。
分の悪い状況ではあったが、鷹匠は思わず笑った。疑問を抱いたのだろう、晴臣が首を傾げたのがわかる。
こんな時でも、頭の中では計算が働いていた。
晴臣に辛辣な言葉を投げるのは簡単だ。
たった一言でいい。
単なる遊びのキスに特別な意味を期待するな、と。
言えばおそらく晴臣は傷付くが、言葉通りに受け取るほど浅慮でもない。すぐに鷹匠の真意が別にあると気付き、そうまでして自分を遠ざけたいのかという結論に辿り着く。
その時初めて、本当の意味で傷付くのだろう。
たった一言だ。
言えるはずだ。
本気で、晴臣に光の中にいて欲しいと願っているのなら。
「……叱り方が、親父にそっくりですね」
——言えるはずも、ない。
……ようやく掴んだ、光を前にして。
『守れないなら、手を離してあげて』
『両目を差し出すわよ。私の無償の愛よ』
『あんたのそれは、愛じゃない。溺れてる人間が、必死で助かろうとしてるだけだよ』
何度でも、早苗の言葉が耳を打つ。
自己保身しかできない男を、嘲笑うかのように。
「……父さんに?そうかな……」
「逃げ口を先に潰してくる、怖い叱り方です」
シャツは元々白の無地を着ているため、スーツの上下を着替えるだけでいい。下を履き替えてからネクタイを手に取ると、背後にいた晴臣が動く気配がした。
「俺がつけるよ」
「……いえ、自分で」
「いいから」
するりと、手の中からネクタイが引き抜かれる。
「鷹匠、こっち向いて」
「…………」
「早くしないと、三陽会の人が来る」
逃げ口を、先に潰される。ようやく振り返ると、晴臣の手が伸びてきてネクタイとともに首の後ろに回された。
頭ひとつ分低い位置にある視線が、鷹匠の首元に合わせられる。
細いが男だとわかる手が、シャツの襟を立て、そこに沿うようにネクタイを置く。首元で一度輪を作り、できた穴に通して押さえながら引く。それから襟を戻し、形を整える。
その手が真っ直ぐに伸びたネクタイを辿り、鷹匠の胸の上で止まった。
「……俺が怒っているように見える?」
「そうですね……」
「……キスした後で顔を合わせない、鷹匠に対して?」
「——……そうですね」
「怒ってないよ」
晴臣が、視線を上げた。
至近距離で、目が合う。
「怒ってない、……ただ、決めただけだ」
何を、と聞く前に、晴臣の身体が鷹匠から離れた。
同時に、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
足音は障子の前でぴたりと止まると、「失礼します」と先に断りを入れた。
「三陽会の方が、お見えです」
山川の声だった。
障子の前まで行った晴臣が振り返り、こちらを見ている。
鷹匠はジャケットを手に取ると、袖を通しボタンをかけた。
「まずはお悔やみを申し上げる。先代は、まさに任侠と呼ぶに相応しい気風の方でしたな」
黒紋付羽織に鼠色の行灯袴を着た恰幅の良い白髪の男は、そう言うと自身の後ろに控えていた壮年の男に目配せをした。
頭を下げた壮年の男が、袱紗から分厚い香典袋を取り出し、テーブルに置く。
仏間で位牌に手を合わせた後、場は大広間の近くにある応接室へと移されていた。
三陽会からは4人、ソファに座る現会長である入交と、後ろに控える香典を置いた若頭の門脇、その横にいる本部長の宮地、そこまでは鷹匠にもわかる。だが、あともう1人宮地の隣にいる若い男。迎えた山川からの報告では、「引き合わせたい客人」とだけ言われたらしい。
「ありがとうございます、入交会長。会長にそう仰っていただけると、父も喜ぶでしょう」
テーブルを挟んで入交の前に座っている晴臣が、答える。鷹匠はその後ろに控えるように立っていた。
先代亡き後の、組長代行と先代の息子。立場としては、代行の方が上だが、入交の訪問理由が弔問である以上、晴臣が前に出るのが自然だ。それを捻じ曲げて隠そうとしたのが先週の鷹匠であり、正論で通したのが今日の晴臣だった。
部屋の隅には、山川ともう1人上総組の幹部を立たせている。
入交の口上は丁寧で、服装も一周忌を前にした弔問としては大袈裟なほどだが合ってはいる。けれど先触れのやり方や、この場に『客人』という外部の人間を連れてきたこと自体が、すでに上総組を同格ではなく格下として扱おうとする意思を感じさせた。
「長く入院されていたと聞きました。お身体の具合はいかがですか?」
「いやぁ、長年の酒が祟りましてな。看護婦から不養生を叱られましたよ」
晴臣の問いに、朗らかに答える。
この年代の者の中には、いまだに『看護婦』と呼ぶ者が多い。以前早苗が「私を見て男の医者を呼べっていう奴も普通にいるし。あーやだやだ、私もいつかああやって時代に取り残される側になるのかな〜」とぼやいていたことを思い出した。
さらに言うなら、入交の入院は半分が嘘だ。
入院自体は本当だが、理由は後付けである。実際は、昨年末に行われた警察の一斉取締りから逃げるためだった。生前の上総重成は入交について、鷹匠に「アイツは入交じゃなくて、ケツマクリだよ。逃げ足だけは速ぇんだ」と笑って話していた。
器としては3流とまではいかないが、2流止まり。だが口の上手さと逃げ足だけは1流。
それが鷹匠の中での、入交という男の評価だった。
「それにしても、晴臣くんも大きくなりましたな。いや、『くん』は失礼でした。……先代が亡くなられて、そろそろ1年。お二人が座られてる位置が、今後の地位ということで、よろしいかな?」
ぐっと入交が踏み込んできた。組の跡目に関する話を外部の者が口にするなど、言語道断だ。部屋の隅にいる山川のこめかみに、太い血管が浮かぶ。
だが晴臣は下手をすると干渉になりかねない質問にも、慌てることなく穏やかに微笑んだ。
「喪が明けるまでは、公表は控えます」
「なるほど、これは失礼。祝いの気持ちが急いたようです」
失礼と言いながら、頭は下げない。晴臣もわかっているだろうに、それでも笑みを崩さなかった。
弔問は用が済めば長居せずに帰るのがマナーだ。テーブルには、茶しか出ていない。本来なら「そろそろ……」と立ち上がるべきタイミングで、入交が背後にいた、客人だと言う若い男に視線を向けた。
切れ長の目を持つ、妙な色気がある男だ。うなじよりも少し長い髪を、黒の飾りが付いた紐で縛っている。入交の愛人だと言われても、違和感もなく納得してしまいそうな雰囲気の男だった。
「亡くなった彼の父君と、生前に縁がありましてな。どうしても重成さんに直接詫びを入れた上で、上総組のお方々にも頭を下げたいとのことで、無礼を承知で連れてきました」
その言い方と若い男の雰囲気に、鷹匠はある予感を抱いた。同時に、弔問は口実でこれが本命かと、上総重成の死を利用する三陽会のやり方に怒りを抱く。
この場で紹介を断っても、受け入れても、上総組の名に泥がつく。
揉めるのを承知で鷹匠が間に入ろうとした瞬間、晴臣が口を開いた。
「夜梟の新しい総長の、柳風月さんですよね」
ギョッとしたように、入交が晴臣を見た。その後ろの面々も、同じ顔をしていた。
ただの学生でしかない晴臣が、なぜ知っている。そんな顔だった。
鷹匠も同じ心境だった。ちらりと山川を見る。目だけで否定を返された。情報源は、山川ではない。
「……こ、れは……これは……ご存知だったとは……。彼の名前は表には出ていないはずですが……」
必死で立て直そうとする入交の動揺が目に見える。
夜梟という組織の名前までは鷹匠も知っていた。長田も知っている。だが組織として大きくないがゆえに、内部は完全にクローズされている。母体が新華僑というのもそれに拍車をかけていた。
理由はわからないが、ここで晴臣が客人の名前を言い当てたことは渡りに船だった。
客人の正体をこちらから提示することで、相手の訪問も紹介も、『客人が上総組と揉めている中華系組織の総長だとすでに知っていたが、弔問だと言うからわざわざ招き入れてやった』という流れになるからだ。三陽会の無礼を、格上として押さえつけた形になるのである。
この差は大きかった。
なぜなら、狙いが何であるにしろ、相手の手を先回りして潰すことができるからだ。
「入交会長、仲裁の引き合わせ、お気持ちだけ頂戴いたします。ここが仏間ではないとは言え、親父の前で頭を下げられたら、我々も火種を無視して許すしかなくなる。……先に挑発された側として、それでは筋が通らないでしょう」
立ったまま頭を下げずに言う鷹匠に、入交は一瞬だけ口元を歪めたが、すぐにそれを笑みで隠した。
「仲裁などと……、そんな大層な真似までするつもりは。今日は線香が本分。余事まで持ち出すのは、出過ぎた真似でしたな。柳くんも、重成さんへの詫びまでで、ひとまずの区切りにするといい」
後半は後ろの若い男へと視線だけを向けて言い、袴の皺を伸ばしてから入交が立ち上がる。
「ではまた、襲名披露の時に改めて。今日はこれにて」
座を辞す言葉に、山川が案内人となり玄関へと4人を先導する。
玄関で草履に足袋を通した入交が、晴臣と、そしてその後ろにいる鷹匠を見た。
「なかなかどうして、立派な息子さんだ。先代も鼻が高いでしょうな」
それは入交が、二代目がどちらになるのかを予想をした瞬間だった。
玄関前につけられた黒塗りの左ハンドルの後部ドアが開けられる。
鷹匠は、彼らが乗り込む順番と場所を静かに見ていた。
次回第十二話は9月21日17時更新です。




