第六話 「気の合う友人ができた」と若が言うので
携帯電話というのは、便利なものだ。
この世界の今と、前世で刑務所に入った年代はほぼ同じだったが、前世の鷹匠は携帯電話を持ってはいなかった。外からの連絡手段と言えば公衆電話くらいで、組の事務所にかけて相手が留守ならそこで終わり。後で「連絡をしなかった」と兄貴分に殴られるまでがセットだった。
晴臣が言うには、2010年代に入ればさらに便利なスマートフォンやタブレットという機器が登場するらしいが、鷹匠としては電話もできて写真も撮れる、今のもので充分だった。以前それを伝えたところ、「前世の父さんと同じこと言ってる……!」と引かれてしまったのだが。
——……その晴臣は、あの夜のパーキング以降、鷹匠の前で無理に明るく振る舞っていた。
想いが避けられた夜を、覚えているのだろう。
忘れた振りをすれば済む話だろうに。
なんとか自分の中で、折り合いをつけようとしている。
逃げることも、責めることもせず。
それでも顔を合わせると気まずいのか、夏季休暇ということもあり、外出が増えた。晴臣は小中高と、上総組の息子だと知られていたせいで周囲との交流がほとんどないまま過ごしていた。
初めて気の合う友人ができたと、嬉しそうに話していた。
本人は、ストーカーも見当たらないため待ち合わせにはバスや電車を使うと言うが、そこは譲らず、必ず山川に送迎をさせることで納得させていた。おかげで山川からは、「若と何があったのかは知りませんがね。はやいとこ仲直りしてくださいよ」と苦言を呈されている。
鷹匠は、風舞伎町にある組事務所で、2つの報告書に目を通していた。
夏の西日が事務所に赤く染めている。
1つは今手にしている、先週、美奈子から受け取った分。もう1つは、今朝届いたものだった。
あの日から、2週間が経った。明日は晴臣の誕生日だ。毎年欠かさず、組で祝いをして贈り物を渡していた。今年も、その予定でいる。今のところ、晴臣から取り止めにしてほしいなどといった申し出はされていない。
そこは、問題ないと言えるのだが。
……三日前。
夏祭から帰宅した晴臣のうなじに、虫刺されではない赤い痕があった。
本人は気付いていない。汗を払う振りをして指先で触れたが、虫刺されや注射針のような盛り上がりはなかった。
驚いて振り返る晴臣に「楽しめましたか」と問いかけると、笑顔で頷いていた。写真を撮ってきたと、携帯電話を見せられる。
そこには親しげに晴臣の腰を抱き、携帯のカメラに収まる好青年の姿があった。
「……テメェが、『偉いやつ』か」
手にしていた報告書が、握り潰される。
書類と一緒にクリップで留められた写真に写る爽やかな笑みの男が、鷹匠の手の中でぐしゃりと歪んだ。
大手ゼネコンである帝和建設の御曹司、帝和誠。
年齢は26歳。海外で経営学を学び、帰国後に日本の大学へ編入。本人の意向により、現在修士課程。
『……あまり良くない噂をお持ちの方も、いらっしゃいまして』
百貨店の外商部長の厚木が漏らしていた愚痴の中に出てきた人物と、同じ名前だった。
『以前、すぐに持ってこいと言われ、指定された会員制のお店にご希望の品をお持ちしたことがあったのですが……。それが、その……なんと言いますか……、とても健全とは言い難い部屋に通されまして。おまけに、警察に言っても無駄だと脅され、腰を抜かしながら会社に戻りました』
思い出すだけで恐怖が蘇るのか、エアコンの効いた室内にいたはずの厚木の額には大粒の汗が浮かんでいた。
警察沙汰になるような健全とは言い難い部屋、の詳細を鷹匠は尋ねてはいない。だが大体の想像はできた。
裏社会の人間に尋ねれば、ほとんどの者が「賭場か殺しか薬」と答えるに違いない。けれども賭場は、まず違う。カタギの人間というのは、賭博に対する忌避感が薄い。海外では合法であったり、国内でも競輪競馬などの国営賭博があったりするからなのだろう。
殺しは一番ありえない。あれは他人に見られたら終わりだ。
ということは、必然的に答えは——。
鷹匠は皺だらけになった写真付きの用紙を放り投げ、テーブルに置いていた、もう1つの報告書を手に取った。
最近巷に回り始めた薬物のルートが、売人の顔写真とともに並んでいる。警察と麻薬取締部が泣いて欲しがる情報だ。
上総組では、傘下の組を含めて、すべての薬物の売買を掟として禁止していた。破れば、制裁が下される。
それは正義感でもなんでもなく、リスク管理の問題だった。
薬に溺れた人間は、薬のためならなんでもやるようになる。情報も平気で売る。このリストに並ぶ売人たちの情報を漏らしたのも、そうした類の者だ。
「テツ、事務所の前に車出しとけ」
「ウッス!」
テツ、と呼ばれた事務所の若衆が、勢いよく頭を下げて部屋から飛び出していった。先日鷹匠が譲ったジャケットを、仕立て直して着ている。
鷹匠は、薬の売人とルートがリスト化された方の紙束を持って立ち上がった。
ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出そうとして、携帯用の灰皿しか入れていなかったことを思い出す。
小さなため息とともに、事務所を出た。
その日、風舞伎町警察署では2001年最大の事件が起きていた。
風舞伎町を裏で牛耳る、関東屈指の大規模暴力団上総組の若頭、鷹匠蓮司が1人で1階の受付に現れたからだ。
残業の前に腹ごしらえをと自身のデスクの上でカップラーメンを啜っていた捜査四課長の長田克弘は、それを聞き驚きのあまり麺を鼻から噴き出した。
「お天道様の下を歩けねぇドチンピラの分際で、カタギのディナーを邪魔して良いと思ってんのか?アァ!?」
どちらが極道かわからない口調で、長田が応接室のローテーブルに手を叩きつける。
柔道で潰れた耳に、スーツの上からでもわかる筋肉、するどい目つきと角刈りの頭。その見た目も、鷹匠と変わらないほど反社組織の人間に見える。
「ひどいなぁ。俺は長田さんの昇進を手伝ってるだけですよ」
「なぁにが昇進だ。テメェの敵を潰してぇだけだろうが、『片目の鷹』がよ」
「その変なあだ名、勘弁してください。前に若に知られて、爆笑されたんです」
「…………」
晴臣の名前を出すと、長田はため息とともに暴言を収めた。
湯呑みを乗せた盆を持ったまま、応接室のドアのところで固まっていた職員の女が、恐る恐るやってくる。
出されたお茶に鷹匠が礼を言うと、女は頬を染めて退室していった。
「おい、うちの職員に色目使うんじゃねぇ。次やったら猥褻罪でしょっぴくぞ」
「礼を言っただけですよ。親父からも、人としての礼儀は忘れるなと、口を酸っぱくして言われてましたから」
柔らかい笑みを浮かべる鷹匠に、聞こえる音で舌打ちをした長田がソファに深くもたれて白い天井を見上げる。
「……血を血で洗う抗争でのし上がった『ツブシの重成』の後継者が何か言ってらぁ」
「だから、その変なあだ名やめてくださいって。風舞伎町に昔のあんたのあだ名『四課のハイエナ』を広めますよ?」
「……自分が言われると恥ずかしいな」
天井を見ていた長田が、視線だけを鷹匠に向けた。
「で?今日は何を持ってきやがった」
「薬の売人リストを」
「……ブツは?」
「MDMAです」
「セックスドラッグか。相変わらずイイ男だよ、テメェは」
鷹匠が差し出したリストを、長田がひったくるようにして奪う。
「前に、中学も出てねぇっつってたな?」
パラパラとそれをめくり、時折赤いペンで何かを書き込みながら長田が言う。
「読み書きくらいは女から教わりましたが」
「……天賦の才ってやつか。まともな教育受けてたら、どんな道に進んでたんだろうな」
「残念ながら、何度生まれ変わっても、俺はあんたが言うようにチンピラのままでしょうね」
鷹匠の脳裏に、前世での自身の死の瞬間が浮かんだ。
惨めで情けなくて、冷たくて。
だが、眩い光が見えた最期だった。
長田がリストに目を通している間、室内の調度品を眺める。
風舞伎町警察署捜査第四課、通称マル暴の応接室だ。飾り気のない棚に、きちんと水遣りがされている観葉植物。いくつかの賞状と、写真。目に入るのはそれくらいで、大したものは置かれていない。
「……帝和建設のボンボンがいるじゃねぇか。こいつは四課じゃ無理だぞ」
「起訴が目的じゃありません。そもそも無理でしょう。今の都知事は大手ゼネコンとズブズブだ。麻薬取締部に頼んで引っ張ろうとしたところで、その前に総監経由で警務が動いて、あんたは左遷ですよ」
「……お上の事情を、よくご存知でらっしゃる」
ケッ、と、隠しもせずに長田が苛立ちを吐き捨てた。彼の怒りは鷹匠ではなく、自身の組織へと向けられている。
長田は鷹匠をチンピラと呼んだが、二人が所属する二つの組織の実態は似たようなものだった。
「ただそのボンボンですが、婚約者がいるそうで。次の選挙で入閣が決まっている代議士の、孫娘だそうです」
「っかぁ〜、上流階級だねぇ〜」
「えぇ。ですから、そんな大事な時期にある若者の未来を守ってやりたいという、俺の善意を受け取ってください。上の顔を立てて帝和の会長にでもチクってもらえれば、両方から感謝してもらえますよ。他の売人は、お好きにどうぞ」
鷹匠の笑みは変わらない。だが、それを見る長田の眼差しは鋭さを増していた。
「……目的は、なんだ?」
「言ったでしょう?ただの善意——」
「——ハル坊絡みか?」
風のない室内で、観葉植物の葉がかすかに揺れた。
並の者ならその場で腰を抜かしただろう鷹匠の視線を受けても、長田は表情を変えない。
「……良い子だよ、あの子は。テメェらみてぇな極道の中にいるべきじゃねぇ、真っ当な感性を持った善人だ」
長田の声は、落ち着いていた。目も逸らさず、淡々と告げる。
「もう9年になるか?俺は四課のヒラで、テメェは若衆頭だった。ガキ同士のイジメで怪我人が出たって呼び出されて。なんで四課がってぶーたれながら生活安全課に行ったのを覚えてるよ」
その記憶は、視点を変えて、鷹匠の中にも存在していた。
鷹匠はその時、生活安全課の一番奥にある小さな会議室のパイプ椅子に座っていた。机を挟んだ対面には、顔色真っ青にして座っている相手の親たちと、まだ理解できていない少年たちがいた。
鷹匠の腕の中には泣いている晴臣がいて、必死で「病院に行こう、お願いだから」と請うていた。鷹匠の顔は、血で真っ赤に染まっていた。晴臣の丸い頬も、白い手も、同じ色に染まっていた。
「今日と同じ、花金の夜だった。何があったんだと事情を聞けば、バカなガキが起こした度を超えたイジメが原因で、木から落ちた子どもを庇って大人が目を潰した。なのに、いじめたガキはへらへら。故意の致死に繋がる案件として児相へ一時送致になるって段階になってようやく、今までの生活が終わったことを理解してたな」
……その目、と長田が鷹匠の左目を見て軽く顎を上げた。
「すぐ病院行ってりゃ、失明まではせずに済んだんじゃねぇのか?」
指摘は鋭く、そして正しかった。
鷹匠は、あの時わざと病院に行かなかった。その方が傷も残り、より多くの賠償を背負わすことができると踏んだからだ。
イジメをしていた少年たちは、その後保護観察処分となり、学校に来ることもなくなった。親は民事で訴訟を起こされ、多額の賠償を支払うはめになった。
学校側も逃げ切りなどさせなかった。イジメを知っていて、ヤクザの息子だからと黙認していたとして、教育委員会を巻き込んで役員や教師たち、すべてを入れ替えさせた。
事件後、晴臣は「ヤクザを使って報復した」と噂され、ますます孤立していった。
それを、鷹匠は知っていた。
原因を潰せば、そうなることも予想していた。
「テメェは、自分の目ん玉よりも、ハル坊の頼みよりも、カタギの人生潰して金を巻き上げることを優先した。根っからの極道で、……根っからのクズだよ」
長田の批評は、間違ってはいない。
鷹匠は視線を少し下に向け、「知ってますよ」と笑った。
次回第七話は9月16日17時更新です。




