第五話 「すき」と若が言うので
美奈子から、晴臣の烏龍茶が烏龍ハイに差し替えられたと連絡が入ったのは、夜8時半頃のことだった。
酒の1杯や2杯、どうなるものでもないが、表だろうと裏だろうと社会にはルールがある。そこからはみ出せば、足元を掬われる原因に繋がる。
晴臣たちが入った店は、一般的なチェーン店だ。カタギの道理はカタギに任せた方が早い。
「未成年に酒を提供していると、店の本部にチクれ。お前はそのまま若を見張ってろ。もし気分が悪いように見えたら、どんな手を使ってもいいから外に連れ出せ」
〈わかった〉
「……酒をすり替えたのは、誰だ?」
〈なんか、面倒くさそうな酔い方してる……ように見せてる女。まだ誰も気付いてない。ハルくんは一口飲んで気付いて、飲むのやめてる。賢いね〉
鷹匠は、先週コインパーキングで会った2人の女が言っていた、晴臣に会いたがっている女の存在を思い出した。
〈おっ!?ハルくんの隣にいたイケメンが、「これ、烏龍ハイじゃん」って周りにバラして店員さんに返してくれてる!いい奴〜〉
「……どんな男だ」
〈スラッとしてて、マッチョじゃないけど、ジムには行ってる感じ。髪は黒で、ちょいロン毛。……なに?妬いてんの?〉
「無駄口叩く暇があるなら、ちゃんと見てろ」
〈……蓮司のそんな声、初めて聞いた。大切にしてんだねぇ〉
「店の近くに車を回す。若から目を離すな」
〈あっ!ちょっ——〉
一方的に通話を切り、事務所のソファから立ち上がった。美奈子は良い女だが、悪ノリが過ぎるのが玉に瑕だ。
ジャケットとシャツを脱ぎ、ソファの背もたれにかけた。ブラインドが下ろされていない窓に、筋肉で覆われた上半身が映る。
背中には、青と黒の羽を広げた鷹が彫られていた。
「頭、いつもの白のバンでいいですか?」
帳簿をつけていた若衆が、壁に固定されているキーケースの蓋を開ける。鷹匠が肯定すると、事務所前まで持ってきます、と駆け出していった。
ハンガーにかけられていた黒のTシャツを着る。財布から万札を何枚かと千円札を1枚抜き、札ばさみに挟んで携帯電話と一緒にスラックスのポケットに入れた。
エレベーターは使わずに、廊下の奥にある、外の非常階段に通じるアルミのドアを開ける。昼間の熱気を残した風が、頬をぬるく撫でた。
パトカーのサイレンの音と、空に反射するネオンの明かり。この高さからでも、夜の繁華街のざわめきを拾うことができた。
カンカンと、鉄製の非常階段を踏む革靴の音が響く。煙草を取り出そうとして、ジャケットに入れていたことを思い出した。
足が自然と止まった。
先程開けた6階のドアを見上げてから、また降り始める。
小さなため息が、街に溶けた。
下まで降りると、白のバンが事務所前で待っていた。
「これも一応用意しときました」
運転席から出てきた若衆が、鷹匠に医療用の眼帯を差し出す。見かけによらず、気の利く男だった。
入れ替わるように運転席に乗り込んだ鷹匠が、車の側で頭を下げている若衆に声をかける。
「……事務所にある、俺のジャケット。くれてやるから、直して使え」
「い、いいんですか!?」
勢いよく顔を上げた若衆が、唾を飛ばしながら問いかけてくる。
窓を半分閉めていて良かったと思いつつ、ギアをドライブに入れた。
「煙草もやる。携帯用の灰皿だけ、机に置いとけ」
「あああありがとうございますッッ!!」
「……うるせぇな。スーツ買う金くらい持ってんだろうが」
「な、何言ってんすか!頭からスーツをいただけるなんて、山川の叔父貴でも滅多に……、うっ、うぐぅ……!」
これぞ男泣き、というような顔で泣き始めた若衆を一瞥だけして、鷹匠は何も言わずにアクセルを踏んだ。
晴臣たちがいる居酒屋は、車だと逆に遠回りになるくらいの距離にある。だがその時間差も、計算に入れてのことだ。
十分刻みのコインパーキングに車を停め、医療用眼帯をつける。片目だけの視界にも慣れて久しい。
——もう9年も前になる。
子どもというのは無邪気ゆえに残酷なもので、晴臣が極道の息子だと知っていて、わざと嫌がらせをする者たちがいた。
その日、晴臣はランドセルを学校裏にある大きな木の枝の上に隠されていた。やったのは上級生だ。晴臣の希望により、通っていたのは普通の公立だった。そこには、親が偉いから、親が金持ちだから。そんな理由でいじめをする者がいた。大人ではない彼らは、世間の常識を知らなかった。……いや、知っていて、風船よりも軽く見ていた。
迎えの車の中で待っていた鷹匠は、なかなか来ない晴臣を探して、校門近くまで行った。そこでちょうど、晴臣のランドセルを裏の木の上に隠したと自慢しながら下校する数人とすれ違った。
鷹匠が駆けつけた時、晴臣は大きくひび割れた枝の上にいた。
身体が勝手に動いたのは、前世を含めて2度目だった。
枝が折れ、宙に放り出された晴臣を助けることしか頭になかった。
たとえ折れて鋭く尖った木が、己の目を縦に切り裂いていったとしても。
車から出ると、すえた臭いが鼻をついた。誰かの吐瀉物に、鼠が群がっている。建物の隙間から、それを狙う野良猫の目が見えた。
この街は、人も動物も互いに食い合いを繰り返している。
角を一つ曲がった先が、目的地の居酒屋だった。
店の前に10人ほどの男女グループがいる。その中に、晴臣を見つけた。酒は一口だけだと聞いていたが、少し足元がふらついている。それを支えるように、襟足辺りまで髪を伸ばした男が晴臣の背に手を添えていた。
一瞬だけ、世界から音が消える。
だがすぐに、あれか、と冷静に観察を終えてから近付いた。
こちらからは声をかけない。適当に店の看板を見ている振りをすると、「あー!ハルくんのおじさん!」と、例の2人組の女が声を上げた。
「あれ?……お〜!そういえば、合コン今日だっけ?」
さも今気付いた顔で、手を振る。2人組の声で鷹匠に気付いたグループの女が「え?顔良くない?」と囁き合い、男は「イイ身体すぎる!」と盛り上がっていた。
「そうだよー!おじさんも飲み会?」
「おじさんは、仕事。看板屋さん」
「あはは!かわいー!」
何が可愛いのかはわからなかったが、楽しそうに笑った女たちが互いに顔を見合わせ、「ごめんね」と揃って鷹匠に向かって手を合わせる。
「ユミのバカがさ。ハルくんに、こっそりお酒飲ませようとしてたらしくて」
「知らずに、一口飲んじゃったんだよね」
「店員さんからも、未成年にお酒を飲ませるなら退店してくださいって怒られて、追い出されちゃった」
「ハルくん、最初は全然平気そうだったんだけど、動いたらお酒が回っちゃったみたいで」
「う〜ん、そっか〜」
そこで初めて鷹匠は、晴臣を見た。驚いた顔でこちらを見ている。その後ろの方では、美奈子が素知らぬふりをして連れの女たちと楽しそうに話していた。
「おじさんもちょうど仕事が終わったとこだから、晴臣くんを連れて帰ろうか」
「うん、そうしてあげて」
「ほんとごめんね、おじさん。ユミはもっかい、うちらでシメとくから」
「いいよ、いいよ」
軽く答えて、もう一度晴臣を見る。そして、その隣にいる男を。
美奈子が言うだけあって、整った顔をしている。晴臣よりは、かなり年上に見える。色男というよりは、誠実で清潔感のある好青年といった印象だ。身長は、晴臣よりも顔半分ほど高い。
気になりはしたが、ここで問いかけるほど馬鹿ではない。たまたま会って家まで送ることになる身内の対応として相応しいのは、晴臣の交友関係を気にせず、ただ連れて帰ることだ。
「晴臣くん、歩ける?」
問いかけると、少し眠そうな目をした晴臣が頷き、ふらふらと歩き出した。
「上総、危ない」
好青年が、後ろから晴臣を抱えるようにして支える。だがその身体が、小さくよろめいた。
「きゃっ!ごめんなさい、ぶつかっちゃった!」
美奈子だ。
「あ、いえ。こちらこそ」
好青年が晴臣の腹部に回していた腕を離す。鷹匠は数歩で距離を詰めると、晴臣の前で背を向けて屈んだ。
倒れるように、晴臣の体重が鷹匠の背にかかる。膝に腕を差し込み立ち上がってから、軽く揺すって抱え直した。
「おじさん、力持ち〜」
「小さい頃から背負ってきたからね。慣れかな?」
これは本当だ。さすがに最近は背負ってはいないが。
じゃあ、と言いかけて、鷹匠は2人組へと振り返った。
「会費の清算は終わってる?」
「約束破っちゃったからさ、うちらが出すよ」
「ほら、ユミも謝りなって」
2人組の片方が、ミニスカートを履いた女の腕を引っ張っている。だがミニスカートの女は、そっぽを向いたままだった。右向きの横顔、その口元にホクロがある。
「あんた、マジでいい加減にしなよ。うちらの集まりには、もう絶対呼ばないから」
どうやら争いが起きそうだ。
周囲の視線を集める前にと、鷹匠は2人組に手を振ってグループに背を向けた。
「こらこら、若人たち。喧嘩しちゃ駄目よ」
良いタイミングで、美奈子が割って入った。
「ひょっとして、二次会の店とか探してる?よかったら、知り合いのカラオケバーに行かない?おにーさんにぶつかっちゃったお詫びに、半額にするけど?」
その提案に、グループが沸いたのが喧騒の間から聞こえた。2つのグループが合わさって移動して行く。
美奈子によって、明日にはグループ全員の個人情報が手に入っているだろう。
鷹匠は晴臣を背負ったまま、コインパーキングへと戻った。
車についた頃には、晴臣はほとんど眠っていた。
半月後には19歳になる。法律上は未成とは言え、酒に弱い体質の者でも、一口でこうはならない。
睡眠薬の類か、と考えた。
後部座席のシートを少し倒し、ゆっくりと座らせる。
脈は正常だった。
「……若、会話はできますか?」
どこまで意識があるのかを確認するために、声をかけた。
「たか、……じょ……?」
「えぇ、俺です。烏龍茶が酒にすり替えられていたと聞きました」
睡眠薬の可能性は言わない。夜の街を歩いたせいで汗をかいている。運転席へ回りエンジンをかけてエアコンの風を送ると、もう一度後部座席のドアの横に戻った。
「……ねむ、い……」
「麻痺はないようですので、眠ってもらって大丈夫です。シートをもう少し倒しましょう」
身を乗り出し、シートレバーに手をかける。
その首に、晴臣の腕が巻き付いた。
「たかじょう……。……すき」
「…………」
唇が触れかけ——……、鷹匠はシートをゆっくりと倒して2人の距離を空けた。
「……っ、ごめ、ん……」
晴臣の瞳が、感情に揺れる。
拒絶された痛みを滲ませ、目を逸らす。
気の毒に、と思った。
晴臣ほど、眩しい生き方をする者なら、もっと相応しい相手がいるだろうに。
「……真っ当な人間がクズに惚れても、……同じクズに堕ちるか、不幸になるか。——どちらかですよ」
身体を起こし、外から後部座席のドアを閉めた。
駐車代金の精算機の前に立つ。
先程の、物陰から獲物を狙っていた野良猫が、死んだ鼠を咥えて走って行く姿が見えた。
次回第六話は9月15日17時更新です。




