第三話 「聞かせてほしい」と若が言うので
晴臣の送迎を白のバンでするようになってから、しばらくが経った。
季節は春から夏に移り、蝉が残りの生を、濃い青色の空へと叫んでいた。
いつものように大学近くのコインパーキングに車を停めた鷹匠は、晴臣が出てくるのを待っていた。もちろん服装はスーツではなく、白のTシャツにカーキのチノパン。足元はスニーカーで、目元の傷を隠すために医療用の眼帯をつけている。
試験期間の中日だが、晴臣からは「今日で自分の前期は終了する」と聞いていた。読み書きと計算は前世の記憶にプラスして女と暮らしていた時に教わったが、試験だの何だのはあまり想像できない。鷹匠にはよくわからないが、大学とはそうしたものらしかった。
カーラジオからは、夏を代表するアーティストの新曲が紹介されていた。前世でも聴いた曲だ。組の兄貴分がカラオケでよく歌っていた。どうやらこの世界でも無事に流行に乗れたらしい。
煙草でも吸うかと、外に出た。
すぐさま、首筋に汗が浮かぶ。
時間は17時を回っていたが、夏の陽射しは昼間と変わらぬ強さで、パーキング内の舗装された地面を焼いていた。
エンジンはかけっぱなしでエアコンをつけたまま、運転席の横で煙草を取り出す。晴臣は煙草を好まない。だからにおいを残さないよう、吸う時は外に出ている。……それでも服にはつくので、何度も指摘されてはいるが。だがこればかりは、仕方がない。前世で早くに覚えてしまったこの味は、新しい人生になってもどうにも切り離せなかった。
吸い終わり、吸殻を携帯灰皿に入れる。何年か前、クリスマスプレゼントだと晴臣から貰ったものだ。見られる度に毎回「まだ使ってる」と困ったように、けれども少し嬉しそうに言われる。時々わざと見せていた。
車内に戻ると、一気に汗が引いた。
ダッシュボードに入れていたタオルで襟足についた汗を抑える。カーラジオは歌の紹介から天気予報へ移っていた。沖縄付近に新しく発生した台風の情報を伝えている。関東への影響は少ないらしい。
ふと聞こえた人の声に、窓越しに外を見た。
パーキングの入り口に、晴臣がいる。彼よりは少し年上に見える2人の女に捕まっているようだった。
少しだけ窓を開けて、耳を傾ける。
「ハルくん、お願い!どーしてもハルくんを呼んで欲しいって子がいてさぁ!」
「マジでチョー可愛い子!あ、でも!好みじゃなかったら、全然気にしなくていいし!女の子は他にもいるから!」
「……合コンとか、あんまり興味なくて……」
「合コンって名前がダメ!?じゃあ、人脈作り!交流会!」
「お酒とか飲ませないから!うちらが守るから!」
どうやら合コンの誘いを受けているらしい。
真夏生まれの晴臣は、来月で19になる。まだ酒を飲める年齢ではないが、この辺りになると実際は飲んでいる者が多い。当然、晴臣はその『飲んでいる者』の中に入るような性格ではなかった。
鷹匠は車の中から、会話を聞いていた。
邪魔はしない。選択するのは、晴臣自身だ。鷹匠の役目は、晴臣が進むと決めた道の障害物を取り除くことである。
「……遅くまでは無理だけど……」
「うんうん!夜の7時集合、2時間飲み食べ放題で9時解散!その後の2次会は自由!」
「ケータイの番号、教えてもらっていい!?」
晴臣は、参加を決めたようだ。ならば女たちに挨拶をしておくかと、鷹匠は車から外に出た。
晴臣からはよく「胡散臭い」と言われる笑みを貼り付けて、3人の元へ向かう。
最初に気付いたのは、晴臣だった。
「晴臣くん。夕飯を奢る約束をしてただろう?迎えに来たよ」
190センチを超えるガタイの良い男の突然の登場に、携帯電話を取り出していた2人の女が固まった。鷹匠は笑顔のまま、瞬きほどの間に女たちの持ち物を見る。口調は上流階級ではない。だがバッグと靴はブランド品。とは言え、そこまでのハイブランドではなく、頑張れば買える程度だ。
一方で女たちは、遠慮することなく鷹匠を上から下まで眺めていた。身体を見て「でっか……」と引き、顔を見て「かっこよ……」と呟き、医療用眼帯から見えている傷跡を見て、少し目を逸らす。この服装なら、このくらいの反応が普通だ。眼帯を外してスーツを着ている時は、まずカタギとは目が合わない。
「晴臣の友達かな?僕は彼の叔父でね。彼がこのくらいの頃からの仲なんだ」
このくらい、のところで親指と人差し指で五センチくらいの幅を作る。それを見て2人の女が「ちっさ!」と笑い出した。
「小人じゃん!ウケる!」
「ハルくんのおじさん、おもしろ!」
女たちは一瞬で、鷹匠の顔にある傷のことなどどうでもよくなったようだった。
「よろしく、オンナノコたち。そのバッグ、いいね。先週日本に入って来たジャナルの新作?」
「え?わかんの!?昨日会った彼氏とか、全然気付かなかったのに!」
「えー!じゃあ、アタシのピアスわかる!?」
「去年のクリスマス限定のディナーリのピアスかな。整理券で完売したみたいだけど、すごいね、持ってるんだ」
「そう!寒い中、めっちゃ頑張って並んだの!おじさん、すごーい!」
キャッキャと騒がしく、はしゃいでいる。悪い女たちではないようだ。
「ハルくん、いいね〜!こんなにカッコよくて優しいおじさんがいてさ〜!」
「おじさん、うちら今ちょうどハルくんを合コンに誘ったんだけどさ。安心して!悪い虫がつかないように、ちゃんと見てるから!」
「えっ?おじさんは誘ってくれないの?悲しいなぁ」
わざとらしく眉を下げると、女たちがさらに楽しそうに笑った。
「ごめんね〜!大学縛りの合コンだから〜!」
「ねえねぇ!ケーバン交換しようよ!そんで今度カラオケ行こ!」
言われて鷹匠は、組とは関係ない者たちの連絡先を入れている、一般専用の携帯電話を取り出した。
女との繋がりは、あればあるほど良い。なぜなら彼女たちのネットワークは、時に組織のそれを上回るからだ。
「おじさん、カラオケ何歌える?」
「カーリング娘。振り付き」
ウィンクしながら答えると、女たちは腹を折って「死ぬ!死ぬ!」と笑い、「やっば、笑いすぎてマスカラ落ちたわ」とポーチから出した鏡でメイクを確認してから携帯電話をバッグにしまった。
「あー、面白かった。ハルくん、マジで羨ましい〜。アタシもこんなおじさん欲しかったな〜」
「ハルくんもおじさんも、こんなとこで騒いでごめんね。じゃあハルくん、来週の土曜、風舞伎町の駅前の広場に6時半集合で!」
じゃあね〜!と2人が手を振りながら去っていく。笑顔で手を振り返していた鷹匠は、不意に強くTシャツの裾を引っ張られ、視線をやった。
「……若?」
「……先に車に戻る」
それだけ告げて、晴臣が白のバンへと走っていく。
鷹匠は笑顔の仮面を外すと、その後を追った。
パーキングの支払いを済ませ車に乗ると、カーラジオが消されていた。
後部座席の晴臣は、窓から外を見ている。運転席に座った鷹匠がギアを入れると、「女の人には、あんな感じなんだ」と後ろから声がかけられた。
「カタギの女には、あれが一番ウケがいいですから」
何でもないことのように答えて、サイドブレーキを下ろしアクセルを踏む。ゆっくりと進み始めた車が、下がっていたフラップ板をゴトンと踏んだ。
「カタギじゃない女の人なら?」
「ヤクザの女、という意味でしたら、そもそも会う機会がないですね。店の女という意味でしたら、俺の本業を知ってますから、普通に接してますよ」
「…………そっか」
晴臣から、小さな嫉妬を感じた。だがそれ以上は追求するつもりはないらしく、視線を窓に向けたまま口を閉ざしている。
「食事、……行きますか?」
今度は鷹匠から話しかける。晴臣が驚いた顔でこちらを見た。
ルームミラー越しに、目が合う。
「大学前期、お疲れ様会です」
女たちに向けていたものとは、まるで違う笑みを向ける。途端、晴臣の表情が外の太陽よりも明るく輝いた。
「天ざる蕎麦食べたい!あと、カキ氷!」
「知り合いの蕎麦屋があります。そこに行きましょう」
ハンドルを郊外に向けて切る。着く頃には、ちょうど夕食時だろう。半年先まで予約で埋まるような店だが、鷹匠なら特に連絡しなくてもすぐに個室が用意される。
カーラジオは切られたまま。
しばらく車を走らせた。
夏の太陽がようやく夕暮れの色を帯び始めて来た頃、晴臣が「鷹匠、また煙草吸っただろ?」と遠慮がちに問いかけてきた。
「服に残ってましたか?今度から臭い消しを使います」
晴臣が煙草を好まないのは知っているが、かといって鷹匠に禁煙の予定はない。今度から吸った後はシャツだけでも変えるかと考えていると、「そうじゃなくて……」と何かを言い淀む声がした。
「……ほら、煙草って身体に良くないって言うだろ?俺さ……、前世は肺の病気で死んだんだ。だから、どれくらい痛くて苦しいか知ってる」
最初に前世について告白されてから、晴臣は時折、思い出したように過去を鷹匠に伝えてくれていた。自分が2002年生まれなこと。2025年に死んだこと。優しい家族がいたこと。
だが彼自身の死についての詳細を聞いたのは初めてだった。
「この時代って、強い煙草ばっかりだし、電子煙草もないし。……俺、鷹匠に長生きしてほしいよ」
「……若は、俺が長生きだと嬉しいんですか?」
「当たり前だろ……!だって、死ぬのってすごく苦しくて、悲しいんだ……っ」
それは、実際の死を体験した者の言葉だった。晴臣は知るはずもないが、鷹匠にも覚えのある感覚だ。
「俺が死ぬ時、みんなすごく泣いてた。父さんも、母さんも、姉ちゃんも。……俺は、何で俺なんだろうって思ってた。絶対に長生きするって、約束した人がいたのに。何で病気になっちゃったんだろう、って」
晴臣の目に涙はない。だがその声は、震えていた。
「前世で、大事な家族を泣かせて先に死んで。この世界では、母さんと父さんに先立たれて。……俺はもう、どっちにもなりたくないよ。鷹匠に置いていかれたくないし、置いていきたくもない。……煙草くらいで大袈裟な、って思うだろうけど。それでも……」
それきり、口を噤む。
高層ビルの隙間に、赤い太陽が沈んでいく。だが夏の空は、まだ幾らかの青さを保っていた。
不思議なものだ、と鷹匠は思った。
もう随分前の記憶で、すっかり忘れていたはずのものが、どこからか顔を出す。
真っ白い息を吐きながら姉と歩いた、大晦日の真夜中の参道。小さな5円玉を清水寺の舞台から飛び降りる気持ちで賽銭箱に放り投げて、鈴緒を揺らした。
「——……姉が」
鷹匠蓮司の身体ではない。クズとして生きて、最期に一つだけ光を見て死んだ、チンピラが持つ思い出。
「俺がまだガキの頃、歳の離れた親代わりの姉が同じことを言ってました。2人で行った初詣で、ずっと横でブツブツ言ってるんです。蓮司が健康なまま長生きできますように、と」
話すつもりはなかったが、口に出してしまったものは仕方がない。大した内容ではないので、晴臣もすぐに忘れるだろう。
「……小さな屋台が出てまして。紙コップに入った栗入りのぜんざいでした。恥ずかしながら金がなかったもんで、一つだけ買って2人でそれをわけたんです。栗は全部、俺が食べました」
ルームミラーから見える晴臣は、驚きと慈しみが混ざったような顔をしていた。
「棒が付いた飴も買いました。菓子なんて年に一度食えるかどうかでしたから、俺は寝て起きたらそれを食べようと思って、布団に入りました」
そこで一度話を止めた。
やはり聞かせるべきではないと考える。
「……鷹匠?」
「面白い話じゃありません。やめましょう」
「……っ、それは……俺がまだ、鷹匠にとって……話せるような相手じゃないから?」
「いいえ。ただ本当に、若に聞かせるほどの話じゃないだけです」
「……だったら、聞かせてほしい」
鷹匠はウィンカーを左に点けて、小さな駐車場に入った。蕎麦を専門に扱う懐石料理の店だ。この駐車スペースは、上総組専用となっている。
まだ気温が高いためエンジンは切らずに、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引く。
一度ルームミラーを見てから、前を向いた。赤く染まった空に、入道雲が見える。
「……朝起きたら、隣で姉が首を吊って死んでました。それだけです」
「——……っ」
後ろで、息を呑む音が聞こえた。
ここから先は、晴臣にも決して話すつもりはない。そんなことを、空の向こうに消えていく鳥を目で追いながら考える。
姉が死んでからは数年ほど施設にいたが、働ける年齢になるとすぐに出た。姉の死の原因が、結婚を約束していた男の裏切りだと知ったからだ。
方々を探し回り、ようやく見つけた。パチンコ店の裏の路地だった。やけに音がうるさかったことを覚えている。
ホームセンターで買った出刃包丁で、後ろから男を刺した。命乞いを聞くついでに「なぜ姉を裏切ったのか」と問えば、「ただの金蔓だった」「弟の学費のために、もう金は貸せないと言われたから、仲間を呼んで強姦して、ビデオにして売った」と返ってきた。
答えを聞き、鷹匠は男を刺すのをやめた。黄色いプラスチックのビールケースをひっくり返すと、椅子代わりにそこに座る。
そうして、「痛ぇよぉ」と泣きながら死んでいく男をずっと眺めていた。
「……飯の前に妙な話を」
しました、と言おうとしてルームミラーに視線を戻した鷹匠は、声を殺して泣く晴臣を見て目を見張った。
「若……?」
振り返ると晴臣が、「ごめん、ごめん……っ!」と謝りながら自身の顔を手で覆う。
「き、聞かせて、って……言っておいて、……ごめん……っ」
鷹匠は思わず手を伸ばしかけ、だが進めることができずにそのまま止めた。
わからなかった。
こういう時に、どうすれば良いかを知らなかった。
「……蕎麦、今度にしますか?」
聞くと、首が縦に振られた。
「少し……遠回りして帰りましょう」
カタギの女への接し方はわかる。
夜の女の扱い方も教わった。
人の殴り方も。
脅し方も。
殺し方も。
けれど、守るように言われた子どもの泣き止ませ方だけは。
まだ、わからなかった。
次回第四話は9月13日17時更新です。




