第十五話 「どうして?」と若が言うので
月めくりのカレンダーが、最後の1枚になった。
乾いた冷たい風が、通りを歩く者たちの足を急がせる。
師走の空気が街を包み始め、どこか浮足だった忙しなさを感じさせていた。
柳が手打ちの場所に指定してきたのは、横浜にある会員制の高級中華料理店だった。
時間は午後8時。
2週間後の土曜日。
年末、大晦日の夜だった。
上総重成が亡くなったのは、去年のクリスマス。喪が明けるのを待っての謝罪の場も、礼儀に沿っている。
極道の年末年始は、一般のそれとは違う。12月中旬の事始めに重きを置く組が多く、大晦日や正月の忙しさはそれほどでもない。加えて、上総組に限って言えば、今年は喪中のためそれもなかった。
今月控えている大きな行事は、25日の上総重成の一周忌だ。
この日はさすがに、鷹匠も本宅へと戻る。晴臣と顔を合わせるのは、秋以来。確認しなければならないことがある。ちょうどよかった、どうせ会うのだから、と誰に言うでもなく胸の内で言い訳をする。携帯電話を使って、晴臣に連絡しなかった理由を。
鷹匠の手元には、2つの情報が入っていた。
1つは横浜にある高級中華の店を指定している情報。
そしてもう1つは、同じ日時に同じ横浜で、埠頭にある小さな船の上を指定している情報だった。
似ているようで違うこの2つは、招待主は同じで宛先だけが違っている。
中華料理店は、鷹匠宛に。
そして埠頭の船上は晴臣宛に。
鷹匠の脳裏には、晴臣の攻略ノートの記述が浮かんでいた。
3人目の『悪いやつ』の項目だ。
「アジトに監禁、怪しげなオークションに出される、海外に売り飛ばされそうになって大ピンチ……」
口に出して、整理する。
1人目は先回りして潰したが、2人目はエンディングの流れには沿っていた。もし柳が3人目の『悪いやつ』であるならば、このエンディングに沿った罠を仕掛けてくるのかもしれない。
——晴臣の元に夜梟からの接触があったのは、今月に入ってすぐのことだった。
と言ってもそれを晴臣自身や、夜梟が鷹匠に知らせたわけではない。情報源は、晴臣と同じ授業を取らせていた、美奈子の店で働く女だ。
『だーかーらー、真っ昼間から何やってんの、って言ったのに!』
電話口の美奈子は、かなり機嫌が悪かった。
晴臣に接触してきたのは、学生を装った夜梟のメンバーのようだった。確証はないが、話している内容を店の女から聞いた美奈子が、そう判断したらしい。
学食で、晴臣の隣に若い女が座った。周りからは、晴臣に気がある女に見えただろう。
晴臣を見守る役目の女は、2人から見て真後ろに席にいた。耳にイヤフォンをして、音楽を聴くふりをしていた。そうすれば、晴臣に近づく者が気にせず話をすると考えてのことだ。イヤフォンは実際には小型の集音器だった。
晴臣の隣に座った女は、バッグから『上総組の若頭と夜梟の総長がラブホテル街で密会している』写真を持っている、と取り出した。それは、柳が鷹匠と密着した状態で口付けを交わしているものだった。
女は晴臣に『揉めているはずの2つの組織のトップが実はデキているなど、上総組にしてみれば、外聞が悪いだけでなく組織が瓦解しかねない案件である。写真の元データはデジカメに入っている。渡して欲しければ、指定の場所に来ること』と告げて去っていった。その指定の場所が、埠頭の船上というわけである。
あまりにも杜撰な取引だ。乗るのは世間知らずの馬鹿くらいだと言い切れるほどの。
データが渡される保証はなく、その後の身柄に対する言及もない。晴臣ならわざわざ埠頭を指定した意味を、考えるだろう。そして自分で攻略ノートに書いたエンディングを、思い浮かべる。
晴臣が誘いに乗るはずないとは思っているが、今日に至るまで「夜梟から接触があった」と本人から聞かされてもいない。元々手打ちの場を必要としている鷹匠とは事情が違う。晴臣の状況を考えれば、知らせて然るべきではあるが。写真の内容が内容だけに、二の足を踏んでいるのかもしれない。
一周忌の場で、それも合わせて確認する予定だった。
本宅で執り行われる一周忌とは別件で、風舞伎町でも一周忌の段取りを進めていた。
12月に入り、三陽会の構成員の動きはさらに派手になっている。ケツモチを変えるようにと迫られた店は5軒に上っていた。三陽会側の予想として跡目を継ぐだろう晴臣が、どう対処するのかを見ている。沈黙を選ぶと判断すれば、さらに大きく動くことは予想できる。
それこそが、鷹匠が待っていた瞬間だった。
12月25日。重成の一周忌の日に、三陽会は必ず上総組のシマにある店を荒らしに来る。
表向きは遊んでいるだけだ。だが、一周忌だと知った上で、上総組のシマの店でシャンパンを開けるなど、宣戦布告も同然である。しかしそれでも、建前は「ただ酒を飲んでいるだけ」で通る。
三陽会は25日を分水嶺として、重成のいない上総組を見極めるつもりでいる。
狩られるだけの鼠か。
それとも、極道の集団か。
……それを、逆に利用する。
結果は、25日にわかるだろう。
上総重成の一周忌は、粛々と執り行われた。
正門前には高級車が並び、数台のパトカーがランプだけ回して周辺で警戒をしている。その中の1台の助手席に、長田の姿もあった。
一周忌とは言え、規模はそこまで大きくはない。参加しているのは、直参の組長とその幹部のみ。人数にすると、40名ほどだ。会場も本宅だけで間に合う。
仏間の襖を開け、隣の大広間を本堂代わりとする。
挨拶は晴臣が行い、僧侶が帰った後の会食時の献杯は、鷹匠が受け持った。役割を分けたことに、「まだ跡目が決まっていないのか」という目線を向ける者はいたが、不満を表に出す者はいなかった。彼らも、一周忌が終われば、と考えているのだろう。
午前11時から始まり会食まで、すべてが終わった時には午後3時を回っていた。
「みんな、お疲れ様」
身内と呼べる若衆たちしかいなくなった本宅で、座布団を運びながら晴臣が言う。若衆たちが、一斉に「お疲れ様です!」と声を上げた。
晴臣の立場なら雑用などする必要はないのだが、率先してしてしまうのが彼らしい。それでも直参がいる時は、挨拶以外は『座っているだけ』という役目を果たしていた。
鷹匠は部下に香典の返礼や、近隣への菓子折りなどを準備を指示しながら、自身も積み上げた座布団を運んでいた。膳を下げた若衆たちが掃除機とタオルを持ってきて、仏間と大広間の掃除を始める。
1時間ほどで片付けも終わり、鷹匠は山川とともに場所を小さな居間に移していた。
一周忌が終われば、年明けに襲名披露がある。
段取りについて話していると、カジュアルな服装に着替えた晴臣がやってきた。
「若、お疲れ様です」
「鷹匠も、お疲れ様」
細長いローテーブルを挟んで、鷹匠の正面に少し足を崩して座る。
居間は6畳の和室だ。真ん中に1枚板の黒檀で作られたテーブルがあり、座布団が5枚置かれている。この部屋は、上総組の中でも極一部の者しか入れない。上座はいつも、上総重成の席だった。
その上座を外して、晴臣が座る。山川はそれを見てから、「茶を用意してきます」と席を立った。
足音が遠ざかるのを聞きながら、晴臣が口を開く。
「……ご飯、ちゃんと食べてる?」
静かで、染み入るような声だった。
「……えぇ。若はお変わりありませんか?」
「特に変わりはないよ」
今日の晴臣は、珍しく前髪を上げていた。そうすると、幼い頃から見てきた柔らかい顔立ちが、いつもより大人びて見える。
実際に、もう子どもではない。
来年の夏には、成人だ。
夕暮れの中で引いていた小さな手は鷹匠を必要とせず、未来を選択できる意思を持っている。
「……大人に、なりましたね」
無意識に、心の中の声が音になった。小さな呟きだったが、晴臣は拾ったらしい。目を細めて「そうかな?」と笑った。
「2ヶ月くらいで、そんなに変わらないよ。久しぶりに会った親戚じゃないんだから」
「——……、そう……ですね」
この時。
本当に唐突に、鷹匠は自分が理解したと感じた。雷に打たれたような、と表現すれば良いだろうか。
『久しぶりに会った、親戚』
まさに、そうだった。自身が周囲にそう見えるように振る舞っていた。晴臣くん、と呼び、晴臣の周囲に親密さ見せた。
晴臣にとっての『親戚』。それはまさに、自分の役割だ。
ならば手を離されるのも当然に思う。親でもない、兄弟でもない。ただ、手を引いて公園で遊んだだけの2人。
ほんの少し恋の駆け引きめいたことをして、けれども成長した子どもはもうあの夜の口付けを蒸し返さなかった。
縛りつけようとした片目と、引き留めようとして握った手だけが、残されていた。
人を騙し続けて生きていたツケか。
それでも建前の顔だけが、皮膚に張り付いて剥がれない。
「……夜梟から、接触がありましたか?」
「——うん。山川さんがいないタイミングで、話をしようと思ってた」
これ、と晴臣がテーブルの上にプリントアウトされた1枚の紙を置く。見るまでもなく、あのラブホテル街での写真だ。
「この写真の元データが欲しければ、大晦日の夜8時に指定の場所に1人で来い、って」
写真の中身には触れず、事実だけを言う。
「夜梟と上総組の間のトラブルについても、山川さんから詳しく聞いた。そういう事情があるのなら、真相はさておき、この写真はうちにとって大きな傷になる。……それもわかってて、挑発に乗った?」
「……えぇ。柳が俺の前に現れた時、別方向から視線を感じたもので」
美奈子は随分と臍を曲げていたが、鷹匠は柳が姿を見せたことで、目的が鷹匠との接触にあると気付いていた。
予想外だったのは、それが晴臣へと飛んだことだ。
晴臣は三陽会にとって、これから先の飯の種。写真をちらつかせて脅す意味はない。
となると、夜梟が独断で動いているということになる。
「若が呼び出されたのは、埠頭の船上。攻略ノートにあった『海外に売り飛ばされそうになる』の状況に近くなります。柳が3人目の『悪いやつ』である可能性が、上がりました」
本当は、と鷹匠は続けた。
「その写真は、風舞伎町の組事務所か直接俺の元に来ると考えていました。三陽会が、二代目は若だと勘違いしている以上、障害になるのは俺です。手駒である夜梟が、弱みを作って俺を潰しにくる線もあると。ですが柳が3人目であるなら、話は別です」
鷹匠の脳裏に浮かんだのは、弔問の日の入交たちの去り際だ。客人として紹介したにも関わらず、柳は入交たちとは別の車に乗っていた。完全に格下の扱いだ。格差のある2つの組織が、連れ立ってやってくる理由。三陽会は柳を使って上総組の対応を見て、跡目の探りでも入れるつもりだったのかもしれない。
……では、夜梟は。
上総重成に謝罪したかったなどという戯言を信じる気はない。
三陽会の思惑から外れて晴臣を狙っているのなら、弔問で柳自身の顔と名前を見せることに意味はある。写真を見せた時に相手が誰であるのかを、晴臣がすぐに理解できるからだ。
「念のため聞きますが、夜梟の指示には従いませんね?」
質問ではなく、確定の言い方で聞くと、晴臣はしっかりと頷いた。
「そこは大丈夫。いくら俺でも、こんな呼び出しに1人でのこのこ出て行ったら、どうかなるかくらいはわかるよ」
「……そうですね」
鷹匠は、演技ではない安堵の息をついた。
「呼び出し方が杜撰すぎるのも気になります。大晦日は1人にならないよう、誰かといてください。……そうですね、できれば山川と」
「わかった、山川さんといる。約束する」
山川の名前が出たところで、障子の向こうから足音が聞こえてきた。
「失礼します」
その山川が、盆に湯呑みを3つと急須、茶請けの菓子を乗せて入ってくる。
晴臣がテーブルの上の紙を片付ける。写真についての話は、そこで終わった。
「法事の後ですからね。しばらくお菓子食べ放題ですよ、若〜」
頭部をつるりと剃り上げた強面の男が、ニコニコと湯呑みに茶を注ぐ。
「嬉しいけど、こういう砂糖付きのゼリーみたいなのって、どこに売ってるの?」
「スーパーの菓子コーナーにありますよ」
「あんまりスーパー行かないからなぁ……」
漆塗りの黒い器に盛られた和菓子から、小さなゼリーを取った晴臣がそれを口に入れる。それから「あっ」と小さく呟いて、『栗しぐれ』と書かれた饅頭を取り、鷹匠の前に置いた。
「……ありがとうございます」
礼を言って包みを開け、口に入れる。薄皮に包まれた甘い栗餡が、舌の上でほろりと崩れた。
「おっ、バタピーがあるじゃないですか」
山川の手が、個別包装された豆菓子に伸びる。
「若、俺の渾身のギャグ見ます?」
「いつものやたら長い芝居付きじゃないなら」
「……若には見せてあげません」
「ごめん、ごめん。見せて」
「では、第一話。生き別れの弟」
手にしたピーナッツを使って小芝居を始める山川を、晴臣が笑いながら見ている。
そこには、上総重成が生きていた頃と同じ時間が流れていた。
山川が晴臣に向ける情は、それこそ家族愛に近い。鷹匠のような歪な執着や憧憬もなく、ただ尊敬する組長の子として見守っている。
彼のように生きられたら、もっと楽だったのかもしれない。
生き別れとなったピーナッツの弟と和解した辺りで、山川がそれを口に入れて終幕を告げた。
「どうでした、若?」
「普通に良い話だったのが、逆に意味わかんなくて面白かった」
「結構時間かけて考えた、自信作なもんで」
山川は意外にも、物語を好むタイプの男だ。鷹匠は以前、住み込みの若衆が「山川の兄貴に、めちゃくちゃ良いから!ってDVD貰ったんでティッシュ用意してウキウキで再生したら、動物アニメだったんですよ……」と序列が上の若衆に相談しているところに通りかかったことがあった。組に入ったばかりの鷹匠が、当時まだ立場が上だった山川に見せられたアニメと同じだろうという気がした。
ピーナッツの人情噺を終えた山川が、「さて」と居住まいを正す。
「今日の風舞伎町の店の件ですが、準備が終わったと連絡がありました。三陽会がどこに来ても、対応可能とのことです」
若頭補佐としての顔になった山川に、鷹匠が頷く。
「売上の補填についての話は?」
「終わってます。いらないって店もチラホラありましたが、その辺は迷惑料として受け取るように伝えてます」
「……そうか。親父の名を出す以上、補填は絶対だ。遠慮はするなと、言っておいてくれ」
「わかりました」
山川の返事を受けて、鷹匠の視線が晴臣へと向けられる。
「若、この度の件。親父の名前を貸していただき、ありがとうございます」
それは山川を通して、晴臣へ相談という形で打診していた『対三陽会』の筋書きだった。
今夜、風舞伎町にある上総組のすべての店は店内に鯨幕を張り、上総重成の一周忌法要を行う。
一般客へは、貸切ということで来店を断る。だがケツモチの鞍替え成功ですっかり気が大きくなっている三陽会は、入り口でボーイに貸切と言われた程度では納得しないだろう。無理やりに押し入って、店内に足を踏み入れ、そこで白黒の鯨幕を見る。
法事の場に、呼ばれてもいない者が土足で足を踏み入れる。
それがどれだけ危ういか、極道ならば理解せざるを得ない。
「結果がわかるのは今晩になりますが、風舞伎町の件が片付けば、それを使って本丸に手が伸ばせます。しばらくはうちに構っていられなくなるくらいの状態に持っていければ、及第点でしょう」
「その辺は俺にはわからない世界だから、鷹匠に任せるよ」
「……ありがとうございます」
わからない世界。
それは、鷹匠と晴臣の間にある溝だ。そうなるようにしてきたのは、鷹匠自身だった。晴臣が汚れたものを見なくて済むようにと、視線を誘導してきた。
『キレ〜な檻を作ってやらねぇと駄目だ。羽を切らなくても、ここが天国だって勘違いするくれぇのよ』
重成は成功した。彼は自分の妻を手に入れることができた。
鷹匠はできなかった。
……それだけだ。
「頭、夕飯食べていきますか?」
「いや、すぐに事務所に戻る。車を裏に回しとけ」
尋ねてきた山川に答え、立ち上がる。
法事も済んだ。晴臣への確認と、当日約束の場所には行かないという約束も取り付けた。なら後は風舞伎町の事務所で、今夜の仕掛けを見守るのが最善手だ。
「裏口まで送るよ」
鷹匠に続いて立ち上がった晴臣が、先に障子を開けて廊下に出る。
断ることもできず、鷹匠はその背中を追った。
「運転免許を取ろうと思ってるんだ」
廊下を並んで歩いていると、晴臣がそう言って笑った。秋の終わりから、教習所に通い始めたのだという。
取るつもりはないと聞いていたので、意外だった。気が変わったのだろう。
「どっちも乗れた方がいいかな?ってマニュアルにしたんだけど、……めちゃくちゃ難しい」
めちゃくちゃ、の辺りに込められた力に、鷹匠も笑みを返した。
「ブレーキとアクセルがわかっていれば何とかなるオートマに比べると、手順も操作も複雑ですしね」
「そう!クラッチの踏み方だけでも頭こんがらがるのに、走りながらギアチェンジとか無理だよ!」
慣れてしまえば手も足も勝手に動くようになるのだが、そうなるまでには練習も必要になる。
「……前祝いになりますが、誕生日プレゼントは車にしましょうか?」
「えっ?いいの!?」
「もちろんです。俺の儲けなんて、半分は若の助言で稼いだ株の利益ですから。遠慮なく言ってください」
やったー!と手を上げて喜ぶ晴臣を見ながら、鷹匠はいくつかのメーカーを脳内のリストに入れていた。
「俺、ミニバンが欲しい。後ろに荷物詰めて、キャンプに行きたいんだ」
「わかりました、探しておきます。色の指定はありますか?」
「青がいいけど、鷹匠は何色がいい?」
「俺……ですか?」
急に話を向けられ、取り繕っていない素の問いかけが零れた。
三陽会の弔問の日にも利用した勝手口が見えてくる。先にサンダルを履いた晴臣が引き戸を開け、裏庭へと出た。
冷たい風が、笹を揺らす。
時刻は間もなく午後5時。東の空はすでに夜の色をしていた。
晴臣は飛び石の中程で立ち止まり、鷹匠を待っている。
「そう。最初に鷹匠を乗せるから。……それで、そのまま2人でキャンプに行こう?」
「…………」
なぜ今になってそんな話を、と思った。
年が明けたら、鷹匠は二代目を襲名する。晴臣の肩書きからは跡目候補の文字が消え、先代の息子という形だけが残る。カタギとして、組への発言権もなくなる。
住む世界が完全に分かたれる。
「鷹匠、約束」
スッと、目の前に小指が差し出された。
驚く鷹匠に構わず、手を取り小指同士を絡める。
「……若、自分は……」
「もう約束したから、駄目だよ。免許取って車選んで納車して……となると、夏くらい?」
無理だ、と。その3文字だけが鷹匠の頭に浮かんだ。
今の状態で晴臣と2人で出かけるなど、彼の将来を潰すに等しい。
手離せなくなる。誰にも見つからない場所に囲って、逃げられないように閉じ込めて。
「——……無理です」
踏みとどまっていられるのは、それが己の最後の一線だからだ。
「……どうして?」
「……俺が極道で、若がカタギになるからです」
やめてくれ、と心の中で歯を食いしばる。今ならまだ、晴臣の前でなら鷹匠蓮司として生きていられる。
けれど最後の一線を超えて、命令されるままに他人の命を奪ってきた前世のクズが鷹匠蓮司に成り代わってしまったら。
もう、晴臣に会うことさえ、できなくなってしまう。
「カタギになったとしても、俺が上総重成の息子だって事実は消えない。俺はずっと、ヤクザの息子だよ」
「そんなのは、ただの呼称です。若の手は、汚れていません。…………俺は」
それは、矛盾した気持ちだった。
あるいは、落下を恐れて自ら手を離して飛び降りる気分とでも言えばいいのだろうか。
人を傷付ける行為を嫌う晴臣に、それを告げる。
「俺は……人殺しです」
前世のチンピラの記憶だ。組にとって邪魔な人間を、刺して、殴って、轢いて、埋めて。締める以外は、全部やった。
この世界では、この身体の父親以外は手にかけていないが、それは単に上総重成が鷹匠に殺しの命令をしなかっただけに過ぎない。
そしてそれが偶然にも、鷹匠を今の形にした。
「……誕生日プレゼントは贈らせてください。困ったことがあれば、何でも言ってください。金に不自由はさせません。ひとり暮らしを始めるなら、俺があなたのマンションを買います。それを俺に、……許してください」
失礼します、と頭を下げて、立ち止まっていた晴臣の横をすり抜けた。
平たい腰掛け石が、目に入る。
『……まだ若ぇのに、何人か殺ってるツラだなぁ。極道としちゃ悪かねぇが、碌な死に方しねぇだろうよ』
いるはずもない上総重成が、煙草を吸いながら笑っている。
「——鷹匠」
幻に呼ばれたと思った。
実際には、それは晴臣の声だった。
裏門に手をかけていた鷹匠が、立ち止まることで聞く意思を見せる。
不意に、一際強い風が吹いた。
「……俺も、人殺しだよ」
重なり揺れる笹の音の隙間から、届く言葉。
鷹匠が振り返った時には、晴臣はすでに背を向けていて。
勝手口から中に入っていく、後ろ姿だけが見えた。
次回第十六話は9月25日17時更新です。




