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第十四話 祈らなくていい

 美奈子から連絡があった個室ビデオ店は、風俗ばかりが入った7階建ての細長いビルの1階にある。

 灰色の壁には黒ずんだカビが張り付き、壁際は誰かが吐いた汚物で汚れていた。

 裏手に回ると、小さな空きスペースがある。音を立てる室外機の横に立っていた男が「す、すみません」と酷く怯えながら頭を下げた。

「電話を切った後で、美奈子ちゃんから相手が誰だったか聞きまして……」

「気にしなくていい。先に名前を言ったら、挨拶だの何だのが面倒だと思ったんだろう。あいつはそういう女だ」

 それよりケツモチの件だが、と鷹匠は何度も頭を下げる男には構わず、本題を切り出した。

「面倒ごとに巻き込んで悪いが、一旦受けてもらいたい。その間、ショバ代はこっちが持つ」

「えっ!?……い、いいんですか?」

 顔を上げた男が目を丸くしている。

 それは、ショバ代を鷹匠が持つということと、上総組のシマのケツモチを三陽会に渡しても良いのか、という2つの驚きが合わさっていた。

「ケツモチの矢野興業とは話(ナシ)をつけてある。年明けにはカタを付けるが、あんたから見て信用できる店が同じ目に遭ってたら、話をしてやってくれ。この町は、上総組(うち)が守る。こんな時のための、看板なんでな」

「た、鷹匠さん……!ありがとうございますっ……!」

「礼を言うのは、チンピラの喧嘩に巻き込んじまった、こっちの方だ。連絡したい時は、美奈子に言えば伝わる。年内分のショバ代も渡しておく」

「は、はい!」

 用は、これで済んだ。

 頭を膝につくくらい折り曲げた男の肩を優しく叩き、鷹匠は踵を返した。

 電話でも足りる用件だが、鷹匠が自分で足を運ぶことに価値がある。こうすれば相手は、鷹匠に恩を感じる。恩と義理で繋がると、損得よりも情で動くようになる。外商の厚木と同じだ。少しずつ、相手の懐に入っていく。

 何も悪いことをしているわけではない。ただほんの少し、口を軽くしてもらえるように『親切さ』を出しているだけで。

 そもそもショバ代などという余計な出費自体、本来は支払う必要などないのだが。

 それはもう、この町で生きていこうというのなら、諦めてもらうしかなかった。






 ——尾行(つけ)られている。

 いや、わざとわかるようにしている。

 鷹匠が、足を止めるように。


 ラブホテル街に近い通りだった。

 その場で立ち止まり待っていると、「鷹匠蓮司さん」と背後から声がかけられた。若い声だ。振り返る。

 肩までの髪を黒の飾り紐で1つ結びにした、妙な色気を纏う、切長の瞳の男がいた。

「先日は、大変失礼いたしました」

 夜梟(イエシャオ)の柳風月(やなぎがづき)だ。

 服装は黒のブルゾンに白のシャツ、黒の綿パン。いたって普通のものだが、漂う雰囲気に夜が混じっている。

 鷹匠は返事もしないまま、柳をじっと見据えた。身長は晴臣と同じくらい。肉付きも、そう変わりはないように見えた。

「改めて、自己紹介させてください。夜梟の総長をしています、柳風月と言います」

 口調は丁寧に感じられる。

 晴臣は柳を見て「綺麗な人だと思う」と評したが、鷹匠はそうは思わなかった。


 この男からは、血のにおいしかしない。


 足を止めたのは、尾行者を確認したかったからだ。まさか柳が最初から出てくるとは、さすがに思ってはいなかったが。

 背を向け、再び歩き始める。

 相手はそれも予想していたのか、「噂通り、クールでカッコいいなぁ」と言いながら隣に並んだ。

 夜梟とは、戦後の中国で生まれ、1980年前後に日本に帰国した者たちが新華僑の後ろ盾を得て立ち上げた組織だ。風舞伎町警察署捜査四課の長田も話していたが、夜梟は近年親殺しをして代替わりをしたという黒い噂が立っている。一部の連中が過激化していると長田は言うが、三陽会の入交が連れてきたことを考えると、柳の後ろは新華僑と三陽会、その両方ではないかと推察された。

「うちと上総組の二次団体さんの件で。……厚かましいとは思いますが、話を聞いていただきたくて」

 白い指先が鷹匠の腕に触れる前に、軽く躱す。柳は避けられたことも気にせず、薄く笑った。

 上総組の下部組織と夜梟のメンバーとの間に起きた小競り合いは、発端自体は大したことではない。昨年末、酒に酔って喧嘩騒ぎを起こした。それだけだ。

 先に挑発したのは夜梟の方だが、場所とその後の下部組織の対応が悪かった。

 そこは、上総組のシマから離れた場所だった。しかも下部組織の下っ端が安い挑発に乗り、喧嘩の場でよりによって上総組の名前を出したのだ。

 後日の言い訳として夜梟側は、相手が上総組の下部組織だとは知らなかったと言い張り、名前を出した下部組織の方が引っ込みがつかなくなった。ここで引けば親組織の名前を出した上でイモを引いたとして、看板を下ろすだけでは済まなくなる。

 一方で上総組は年内はまだ喪中にあり、たかだが下部組織の喧嘩で腰を上げたとなると格が下がる。抗争にまでさせない落とし所としては、金と組織の処分が妥当だった。

 すぐに下部組織の組長が風舞伎町の上総組事務所に、金と喧嘩の原因となった下っ端を連れて頭を下げにきた。下っ端は破門にするという。鷹匠はそれを認め、金を夜梟へと渡して手打ちとすることにした。

 だが夜梟は現時点でも、あれこれと理由をつけて金の受け取りを引き延ばしている。

 結果、2つの組織は今でも火種を抱えたままというわけである。

 夜梟が金を受け取らない理由については鷹匠も疑問に思っていたが、先日の弔問でおおよその筋が見えた。揉め事が起きたのは昨年末。上総重成は動ける状態ではなかったが、それでもまだ上総組の組長だった。事の始まりは、重成の代の時。夜梟が「まずは先代に非を詫びてから、改めて二代目との場で金を受け取る」つもりなら、言い訳は立つ。入交が仏前に客人を連れてきたのも、その『先代への詫び』を自分の仲介で終わらせる算段だったのだろう。

 鷹匠としては、昼間のラブホテル街で柳の話を聞く分には問題ない。手打ちに向けて日取りだけ決めて、後日改めて場を設ける。そこで柳は発端となった挑発行為を上総組に謝罪し、上総組は下部組織から預かった金を柳に渡す。それでこの件は、片がつく。

 気乗りはしないが足を止めようとしたところで、柳が一つの名前を口にした。

「橋本信行(はしもとのぶゆき)くん、ですよね」

 知らない名前だ。

 だが、感覚だけが知っていた。

 この身体の、元の持ち主の名前だった。

 立ち止まり、隣の柳を見下ろす。

 鷹匠がこの身体を得たのは、10歳頃だ。

 足を止めた鷹匠に、「合ってましたか」と柳が笑った。

「父親は、橋本信雄(はしもとのぶお)。飲んだくれで、酒を飲んでも飲まなくても暴力を振るう。内縁の妻は子どもを置いて、別の男と逃げた」

 それは鷹匠ではなく、この身体の経歴だ。

「……信雄さんと僕の父の間に、少し縁がありましてね。彼が死んだ時に父が『どうせ怨恨だろ』と笑っていたのを、子どもながらに見て覚えていました」

 昼間とは言え、通りにはちらほらと人通りがあった。だが立ち止まっている2人に興味はないらしく、一瞥しただけでホテルへと入っていく。

 近くの公園から飛んできた枯葉が、乾いた音を立ててアスファルトの上を転がっていった。

「父は人でなしでしたから、いざという時の脅し用に信行くんの写真を持ってました。信雄さんは、父の子飼いの雑用係でした」

 柳の話の本筋は、まだ見えない。しかし彼はそれも楽しんでいるようだった。

「上総組の『片目の鷹』の名前が知られるようになった頃、一度だけ見に行きました。きっと運命でした。随分と大人になっていたけど、そこにいたのは写真の少年の面影を残した、鷹匠蓮司という名の極道でした」

 柳が、一歩だけ鷹匠に近づいた。

「……僕、信雄さんの死因を調べたんです。昔の話だし、事件にもなってなかったから見つけるのに苦労しました」

 指先が、鷹匠の襟に付けられた代紋に触れる。

「酩酊状態での煙草の吸殻誤飲によるニコチンの過剰摂取。……嘘ですよね?飲ませたんだ、子どもだった、あなたが」

「……だったら、何だ?」

 柳に対して、初めて鷹匠は言葉を発した。

 嬉しそうに目を細めた柳が、代紋を撫でていた指先を滑らせ、胸の上に当てる。

 鷹匠を見上げるその目は、暗く、それでいて濡れたような光を伴っていた。

「あなたは、僕にとってのヒーローなんです。父を殺しても良いと、教えてくれた。あなたのおかげで、僕は父から自由になれた」

 だからどんな手段を使っても会いたかったんです、と。胸に頬を寄せてくる。

「……蓮司さん、僕を隣に置いてくれませんか?僕は役に立ちます。カタギの道しか知らないような、箱入り息子とは違う」

 柳が踵を上げる。

 乾いた唇が触れた。

 啄むように、柳の唇が鷹匠の唇をノックする。

 鷹匠はそれを冷めた目で見ていた。

 柳の言葉のすべてを信じるほど馬鹿ではない。組織の規模的に、上総組と夜梟が対等な同盟を組むのは不可能だ。傘下に入る、の方がまだしっくりくる。

 おまけにそんなくだらない理由で三陽会まで巻き込んだとなれば、バレた時にあちらからの制裁がくる。

 何か別の理由があると考える方が自然だ。

 ——だが。

 柳の唇が、男を知るものであるのも確かだった。

 男が女に与える口付けとは違う。受け入れる側としての匂いを含んだような色がある。

 子どもの火遊び感覚で手を出してくるなど、舐められたものだと思った。

 尻の線にはまるように指を沿わせ、下半身を引き寄せる。ウッと息を詰めた柳の唇を、こちらからこじ開けた。


 時間にすれば、数分足らず。

 どこかから視線を感じた。

 手を離した鷹匠の足元に、柳がへたり込む。


「……手打ちの場は、そっちで用意しろ。それで喧嘩の件は終いだ」

 唇を赤く熟れさせ惚けた顔をしている柳に背を向け、歩き出す。

 看板の影から、美奈子が顔を出した。

 美奈子の店は、ラブホテル街から近い通りにある。だが先程感じた視線の出所ではない。

「……何やってんの蓮司、こんな真っ昼間から」

「ガキに拳骨くれてやっただけだ」

「あっそ〜」

 付いてきた美奈子の手が、鷹匠の腕に絡む。なんだ?という視線で見下ろすと、「慰めてあげてんの」と返ってきた。

「……いつから見てた」

「蓮司が立ち止まった辺りから」

 密着した美奈子の胸が、鷹匠の腕を挟む。だがそこに性的なにおいはなかった。

「……ねぇ、蓮司。幸せになってね」

「なれるわけねぇだろ」

「じゃあ、言い方変える。蓮司が幸せになりますように」

「……誰に祈ってんだ」

 神も仏も信じてなどいない女だろうに。

 問いかけると、美奈子は空を見上げながら「ん〜〜」と口を突き出して考え、それから鷹匠を見て笑った。

「——……ハルくん。ハルくんに、祈るよ」

次回第十五話は9月24日17時更新です。


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