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第3話

昨夜、私が眠っている間にかなり激しい雨が降ったようで、今朝学校に少し遅刻してしまった原因のひとつになったかもしれない。


道のあちこちに水たまりが見えて気づかないうちに、足が踏んではいけない場所を踏んでしまった。水しぶきが制服のスカートに飛んだ。しまった、とそのとき思った。


学校の廊下で靴をロッカーに入れ替えていると、名前もちゃんと覚えていないクラスメートが飾り用の紙を何枚か持って近づいてきたそれを見た瞬間、今日は各クラスの教室を飾り付ける当番だということを思い出した。


彼女は足元から頭のてっぺんまで私をじろじろ見て、笑ったでも今回は何か違う感じがした。馬鹿にされているような気がしたけれど、気にせず彼女をそのままにして歩いていった。


「ちょっと待って、少し話したいんだけど」


後ろから声が飛んできた。振り返ろうとしたけれど少し迷ったこのクラスメートが私に何を話したいのか。どうせ私はクラスの普通の女子に過ぎない彼女と私の間に関わり合いなんてないはずなのに。結局、頭の中の疑問に負けた。


「何を話したいの?」


「えっとね、今クラスの飾り付けしてるんだけど、正直あんまり得意じゃなくてクラスメートくん、手伝ってもらえない?」


小さく息をついて、今朝の天気のせいで少し曇り始めた眼鏡を直した。断りたかったあの視線が少し気持ち悪かったから。だから正直に言うことにした。


「無理、断る。他にもクラスメートいるじゃない」


振り返らずにそのまま教室へと足を向けた。面倒をかけたくないし、かけられたくもない。あの見方からして、この子との関係は利用し合いの延長でしかないと思った。


教室に着くと時計はちょうど8時を指していた。クラスメートたちはすでに掃除をしたり、壁にシールを貼り始めたりしていた。私は教室の掃除担当今は箒を持って掃いているところだった。


背中に小さな感触があって振り返るとまた同じ子だった。本当に今私が作業中だとわかっていないのだろうか。何かを企んでいるような動き方をしていて、どう反応すればいいか困った。


「あのね、実は図書委員会に入りたくて手伝ってもらえる?」


これを言いたかっただけか。もっと意味のあることを言うかと思っていたのに。彼女との会話を早く終わらせたくて、深く考えずに作業に戻りながら、ただ「わかった」とだけ言った。


「クラスメートくん、ありがとうね」


「そういえばさ、古い図書館の掃除する班だったんだよね。いいなあ、グループどうだった?」


また質問を投げかけてきた。私はただ掃き続けながら、その間にも他のクラスメートたちの声が何度か飛び交っていた。数秒が過ぎても彼女の足先がまだそこにあって答えを待っているのがわかったから、余計なことは考えずに箒に視線を向けたままただ答えた。


「悪くなかったよ」


「そっかあ、うちの班は公園の清掃だったから、ちょっと残念。図書館のほうが古い本とか見つかりそうでいいよね」


「それとさクラスメートくんはあまり一人でいすぎないほうがいいよ。友達がいるのも大事なことだから。またね!」


ようやく彼女は自分の作業へ戻っていった私の目には彼女の背中だけが映っていた。ふと深く考えた古い本を見つけるのが楽しいと、あんなに気軽に言っていたけれどクラスメートのひとりが自分の死をある本に記録しているという事実を、この子は知らないのだろうか。


さっきの言葉が、じわりと胸に刺さった。なぜ彼女がああいうことを私に言ったのか理由はわからないけれどあの一言が、なんとなく自分に考えさせるものを残した。


作業が終わってから気づくと、他のクラスメートたちはそれぞれの会話や話し合いに夢中だった。私はただ席に座って、可愛く飾られた教室をぼんやり眺めていた。窓から朝の光が少し差し込んで濡れたままのスカートを、少しずつ乾かしていた。


その教室でひとりの物思いにしばらく沈んでいると、やがてチャイムが鳴って私とこの教室を切り離すような音がした。鞄の中からお弁当を取り出して、食べられる場所へ向かった。


階段を降りようとしたとき、あの人が手を振りながら目を細めて嬉しそうにこちらを見ていた。さっきまで教室で見かけなかったのに、どこにいたんだろう余計なことは考えず、そのまま通り過ぎようとした。


「お弁当持ってきたよ。君も持ってきてる? 一緒にどう?」


彼が隣に並んで歩き始めた。ちらりと彼が見せているお弁当箱を盗み見た。


どう答えても彼の行動は変わらないだろうと思った断っても絶対ついてくる。だから余計な理由も余計な気遣いもなしに、無表情のまま「もちろん」とだけ言った。


歩きながら、ふたりの間でちょこちょこと話が続いたというより、彼が質問して私が答える形で。「さっきクラスメートと話してたよね」と彼が言って、私はその都度うんとかいいえとか返した。でも何となくわかっていた隣を歩くこのクラスメートは、私の状況をほんの少し理解している人なのかもしれないと。


「眼鏡かけたらかっこよくなれるかな?」


「…………」


「本を読みすぎて目が少し斜視になってきた気がする。何かアドバイスある?」


「……本を読むのをやめれば」


「ぷっ、それはさすがに極端すぎるけど、間違いではないね。でも僕、読むの好きだし読書が得意な人になりたいんだよ、読書上手さんに」


「それ、私に引っかけようとしてるよね?」


「バレたか。ちょっとくらい下心あってもいいじゃない」


「十分問題だよ」


「そんなにひどい?」


「かなりひどい」


「じゃあもっとひどくなるよう頑張る」


彼は廊下に響き渡るほど笑い声を上げた周りの騒がしさなんて気にしていない。一人で先に行こうかという気持ちが頭をよぎったけれどそうしたら少し傷つけてしまうかもしれないと思って、やめた。


しばらくして、学校の野球グラウンドを横切ると、彼がバットを持った男子生徒に気づいて「頑張って」と手を振った。その子がこちらに近づいてきて、隣の彼を見て「ありがとう、君も頑張って。お先に」と言った。


いつも通り、明るいクラスメートとしての彼らしく野球の制服を着たその子は、彼とかなり仲良さそうだった。こういう人のそばにはたくさんの人が集まってくる当然のことだ。隣に立っていても、誰の視線も私には向かなかった。それに、私みたいな人間はそもそも好かれることもないのだからそんなことを考えているうちに、その子は去っていった。


「さっきの子、君のことに気づかなかったみたいだね」


「……それは普通のことだよ」


「まあひどいよね、疲れてたのかな。それにしても隣にいるクラスメートがこんなに綺麗なのに気づかないなんて、もったいない。もし嫉妬できないなら損だよ」


「……別に。いつものことだから。もし気づいてたとしても、何を言えばいいかわからないし」


その返事を聞いた彼の目が一瞬揺れたそれからまた微笑んで、昼の光の下を一緒に歩き続けた。


やがて校舎の裏、桜の葉がすっかり茂った木の横にたどり着いた。少し風が顔に当たった。このクラスメートがここまでついてくるとは思っていなかったいつもと少し違う感じがした。


木の根元を囲むコンクリートの縁に腰を下ろして、朝から母が用意してくれたお弁当を開いた。箸を出して「いただきます」と言うと、彼も元気な声で続けた。


「ねえ、さっきクラスメートの女子と話してたの見てたんだけど新しい友達?」


「あの子は……そういうわけじゃない。手伝いを頼まれただけ」


「いいね、四つ目のクラスメートくんって頼りになるんだなって、嬉しいよ」


「断ったけど」


箸の音がしばらく止まった彼がむせて、何度か咳をして喉を整えた。その反応は少し大げさだと思った。私はただ大事じゃないと思ったことを断っただけで、その判断には自分なりの理由があった。


「なんで? 同じ人間として助け合うのは当然じゃない。生き物はみんな繋がりを持つべきだと思うけど」


「私はそう思わない」


「まあ、否定もできないけど。でも、それは君の決断だし」


「じゃあなんで他のクラスメートと関わりたくないの? それとも、悪く思われるのが怖い?」


小さく笑いながら彼は食べ続けた。その言葉には一理あったでも私には私の理由がある。他の人と関わることを考えると、相手の立場に立って想像してしまって、そのあと何が起きるかまで考えてしまう。それだけで、自分と人の間に少し距離を置きたくなってしまうのだ。それに学校の人間関係って、ある種の食物連鎖みたいなものだとも思っている。


余計なことを積み重ねずに、ただ正直に答えようと思った。


「他の人が私についてどう思うかは気にしない。ただその人が私とどう関わってくるか、その後何が起きるかを想像するだけで、少し距離を置きたくなってしまう」


「それは面白いことを言うね。君みたいな人にしては少し重すぎる考え方だけどでも、まだ起きてもいないことを想像しすぎてるよ」


「もしクラスメートの誰かが、本当に君のことを気にかけてくれる人だったら? きっと閉じていたものが少し開くと思う」


「……それ、どういう意味?」


「うーん、難しかった? じゃあわかりやすくするね僕が死ぬまで一緒にいてくれれば、わかると思う」


箸が止まった。彼はまた何でも自分の死に結びつけてくるあの言葉から何を受け取ればいいのか、私にはわからなかった。横を見ると、彼は何事もなかったように涼しい顔でお弁当を食べていたまるでさっきの言葉が、ただ風に乗って過ぎていったかのように。


頭の中でその言葉が何度も繰り返されるのに逆らうように、私は次の話題に向けて口を開いた。


「おかずはどう?」


「僕のおかずちゃん、元気だよ。もうすぐいなくなりそうだけど。いい質問だね、四つ目のクラスメートくん、好きだよそういうの」


「"ちゃん"っておかずのこと?」


「そう、そう呼んでるんだよ。なんで? 僕のおかずちゃんが君を誘惑してる?」


そう言いながら、お弁当箱から小さな唐揚げを箸でつまんで私のほうに向けてきた。一体何をしているんだろうまるで絵でも見せているみたいな顔をして、よくわからない動きで飛行機みたいに動かしてから、自分の口に運んだ。


「……わかった、さっきのことは忘れて。続けて」


「無理! 止まった。もうお腹に入らないかも」


「食欲が落ちてるの?」


「そうじゃないけどそういえばお隣のクラスメートがお弁当をあまり食べてないから、僕も合わせることにした」


そう言いながら少しむっとした顔をしていた今の彼の気持ちが正直よくわからない。このクラスメートは自分の好き勝手に行動する私についてきたり、普通じゃない振る舞いをしたり。


「ちゃんと食べないと頭の回転が遅くなるよ。それに食べ物を残すのは普通じゃない」


「でも僕の頭はもともと遅いし。それに頭のやつは裏切り者だよあいつのせいでよく病院に行かなきゃいけないんだから」


「今度一緒に勉強教えてくれない? 四つ目のクラスメートくんと一緒だと、頭が二倍動く気がする」


少し勉強する気があるんだと知って、少し嬉しいようなでも嬉しくないようなそんな気持ちが同時に来た。一緒にやるのは面倒だし、何より他の人に知られたくない。でも「病院」という言葉が、思ったより長く頭に残っていつもより少し長く彼を見てしまった。


水筒の水をひと口飲みながら、少し眉を上げたそれがどういう意味なのかは、彼が受け取り方を決めればいい。短い返事のつもりだった。


彼はその反応を見てかなり嬉しそうだった笑顔がいつもより少し広がっていた。そして突然食欲が戻ったように、お弁当をどんどん食べ始めたその勢いを見てちょっと不思議に思った。さっきの元気はどこから来たんだろう。


「ねえ、実は今ちょっと恥ずかしいんだよね。その恥ずかしさを発散してる」


「そう」


「だって彼女でもない女の子と一緒に家で勉強することになるんだもん。その日が楽しみすぎてどんな感じなんだろうね」


くすくす笑いながら、急いで水筒のふたを開けてごくごく飲んだ。


「あの子はどうするの?」


「もし僕たちがふたりで同じ部屋にいるのを見たら、怒るかもしれないし嫉妬するかもしれない」


「わかった、断る」


「えっ、それはだめだよ、泣いちゃうよ。あの子は大丈夫、今のは冗談。あの子はいい子だから」


「それに、もしバレたら君が説明してくれるじゃん、ははっ」


全然助けにならない。これはもうサイコロを転がしてどの目が出るか賭けるしかないような話だ。これ以上問題を起こしたくないし、何より断る理由をひとつ見つけなければ。


「あ……補講があって無理かも」


「えっ、補講? それは大変だね」


あっさり諦めたいつもと違う反応だ。これは柔らかい断り方として成功したと言えるかもしれない。それ以上考えるのをやめて、残ったお弁当を片付け始めた。今日は食欲があまりないたぶん暑いせいだろう。そう思うことにした。


「クラスメートたちが将来のために頑張ってるの見てると、嬉しくなるんだよね。君もそう。でも今が僕たちの黄金時代だと思う今やることが、後に残るものだから」


立ち上がって教室に戻ろうとしたでも足が止まった。その言葉が、まるで私をこの冷たいコンクリートに引き戻すように響いた。彼のほうを向くと、彼はまだ空を眺めていた目は相変わらず輝いていた。


気づいたら、頭の中に溜まっていた言葉が口から出ていた。


「時代にはその時があって、黄金には値段がある。それを手に入れられる人は限られてると思う」


「でも値段のつけられないものもある。今やってることは種みたいなもので見えなくても、ちゃんと育っていくよ」


「種? それどういう意味?」


「知ってる? 杉の木って小さな種から育つのに"あいつ"、日本で一番大きな木のひとつなんだよ」


そういえば読んだことがあるというより、たまたま目に入ったのだ。家の建て方を説明する本の中に。あの木は昔から家の土台として十分な強さを持つ、という記述も確かにあった。言っていること自体は筋が通っているでも物に向かって「あいつ」と呼ぶのは、私には少し奇妙に聞こえた。今日のこのクラスメートは少しおかしいんじゃないかと思った。


少し疑わしいトーンで、コンクリートを風のリズムに合わせてとんとんと叩きながら座っている彼に向かって言葉を投げた。


「それで?」


「そういうことだよ、四つ目のクラスメートくん! 僕たちの出会いがその種で時間が経てばきっと大きくて強い木になる。それに、もうすぐ来る僕の死を、君と一緒に彩れたら楽しいじゃない」


「それで?」


「はあ、じゃあこういうのはどう」


「うーん、どう言えばいいかなまたは恋愛とか、もしくはえっとその他の何かとか、正直よくわからないけど、まあなんとなく言ってみた」


「でもまあ、ひとつの教訓と言えるかな、ははっ」


彼は世界が自分だけのものみたいに笑った。私はその言葉をぼんやりと受け止めていた恋愛の話だからではなくて、何か別の、まだ形にならないものが頭の隅でうごめき始めた気がして。彼が言った「教訓」という言葉と、何か関係があるのかもしれない。


「今日の調子はどう?」


待ってさっきの考えが途中でぶつ切りにされた。しかもあの勝ち誇ったような声のトーン。一体何なの。私は横髪をゆっくり手で整えた風がせっかくの位置を崩そうとしていたから。


「それ、急すぎない?」


「僕も同じく元気だよ。見て、空も晴れてる。放課後、予定ある?」


また同じ穴に落ちてしまった。本当に学習しないこのやり方はいつも同じなのに。言葉遊びが本当に効く。私はただ眼鏡を直しながら、同時に少し眉を上げた「わかった、今回だけ」という意味として。彼がそれをどう解釈するかは、彼次第だ。


そのまま空を見上げた太陽がゆっくりと高くなっていくのを眺めながら、彼と短いやり取りを続けた。その後の会話は、彼の死のこと、友人のこと、いくつかの授業のこと、そして彼の言葉遊びについてだったこんなふうにまとめた。


教室へ戻る短い道を歩きながら彼は授業が終わった後に学校の駐車場の裏で待ち合わせをしようと話していた。


「ねえ、後で忘れないで来なくても待ってるから」


「……それって意味なくない?」


「意味なくはないよ、ただ運が悪いだけで……冗談だよ。とにかく、今日という日を楽しんでね。いい一日になりますように」


明るい声でそう言いながら、廊下でそれぞれの目的地へ向かうとき、彼は手を振った。私は教室へ、彼はどこへ行くのかわからない探るのも私の仕事じゃないし。ただ「君も」とだけ返した彼に届いたかどうか、自分でも小さすぎると思いながら。


今日の教室は、中から見ると本当に綺麗だった。たとえそれが、ある事実彼が死という名の下に時間を少しずつ奪われながらも、世界が何事もなく普通に動き続けているという事実とは裏腹であったとしても。


ペンをぎゅっと握りながら窓の外を飛び回る鳥たちをぼんやりと眺めた。この後、私たちが何をするのか考えながら。それだけが、今の私の中にある問いだった。

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