間幕 早起きと護衛
翌朝、アニェスは誰に起こされることもなく自然と目を覚ました。伸びをしながら置き時計を見ると、いつも起きる時間の半刻も早かった。
今から数刻後にはドレスを着て王宮にいる。そう思うと胸がざわざわして、もう寝ることはできそうにもなかった。
ふと散歩をしようかとも考えたが、ここはいつもの屋敷とは違うのだと思い出す。広く美しい庭園はこの別邸にはない。あるのは荒れ果てた庭だけだ。昨日見た限りでは、地面は芝生などなく、野生の動物が走り回って荒らしたような形跡があり、植物は茶色く干からびて根っこが露出してしまっていた。まるでおとぎ話の悪い魔女の住む家のようだ。こんな有様を朝から見ても気がまぎれるとは到底思えない。
「どうしよう……」
「何がでしょうか?」
「いつもより早く起きちゃって……って、え!?」
ここにはいないはずの声が耳に飛び込んできて、アニェスは驚いて飛び起きた。
「そんなに急に起きたら腰を痛めますよ」
「グレーゲル! 誰のせいだと……!」
周囲を見回すと、カウチソファにゆったりと腰掛けるグレーゲルが目に入った。
「あなた、いつからそこにいたの?」
「いつから……ですか? いつまで、と聞いてほしいですね」
「いつまで?」
アニェスは首を傾げた。そしてグレーゲルに言われた言葉を咀嚼し、一つの結論にたどり着く。
「まさか、私が寝てからずっといたってこと?」
グレーゲルは、普段は一つに結い上げている髪を鬱陶しそうにかき上げると「正解です」と楽しげに答えた。アニェスは驚きに目を見開き、次の瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
「ずっと起きていたの!?」
「いえ。浅く眠って、いつでも起きられるようにしていました」
「そうなの? き、器用なのね……」
あまりの恥ずかしさにもごもごと呟く。その様子を見て、今度はグレーゲルが首を傾げた。
「今更恥ずかしがっているのですか?」
何でもないようにさらりと言われ、さらに顔が熱くなる。
「だって! お屋敷の時はパーテーションで区切られていたし!」
「たしかにそうですが……そんなに違いますか?」
「違うわよ! 寝顔を見られてしまうじゃない!」
必死になって反論すると、グレーゲルは「それこそ今更ですよ」と肩を竦めた。それを聞いてピシリと固まる。
「……え? どういうこと?」
グレーゲルはいたずらっぽく微笑んだ。
「私は魔法使いであり軍人ですので、隙だらけのご令嬢の寝顔を盗み見るくらい容易いことです」
「え!?」
ぱくぱくと口を開閉させたが、何も言葉が出てこなかった。たしかに今まで気付かぬうちに、グレーゲルが背後に控えていたことは幾度となくあった。そんな芸当ができるのならば、寝ているアニェスを起こさずに近づくことなんて、赤子の手をひねるがごとく容易いことだろう。それに、良く考えれば、同じ部屋で眠ればいいと提案したのは自分だった。
何か言い返したい気分だったが『身から出た錆』という言葉が脳裏に過ぎり、何も言えなかった。
「そういうことなので、この話はお終いです」
グレーゲルは満足気に立ち上がる。
「それで、せっかく早く起きたのですから、何かいたしませんか?」
「……」
もともとそのつもりだったのに、と内心で毒づきながらグレーゲルを睨む。今のやりとりで気がそがれてしまったが、とにかく頭がすっきりすることがしたかったのだ。
「そうね……気を紛らわせたくて散歩がしたかったのだけれど、ここでは見るものもなさそうで」
「では、久しぶりに乗馬をしませんか?」
グレーゲルの提案に、アニェスは現金にも目を輝かせた。しかしすぐに「でも……」と目を伏せた。
「舞踏会の前なのに汗をかくのはちょっと……」
「私が洗って差し上げましょう」
「えっ!?」
せっかく引いた熱が再び戻ってきた。また顔が真っ赤になっているに違いない。グレーゲルはアニェスの百面相を見て、してやったりといった表情を浮かべた。
「い、いいいいわよ! 乾かしては欲しいけど!」
「では布で身体を隠した状態で水を吸い取りましょう。自分が発生させた水なら消すことができますので」
「ええ、そうして……いつものように湯を張ってくれるだけでいいから」
「かしこまりました」
鼻歌でも歌いそうなほど楽しげなグレーゲルに反して、アニェスは朝からぐったりした。
起き抜けにそんなやりとりがあっても、乗馬は楽しかった。荒れ果ててお世辞にも綺麗とは言えない庭で、最近やっと安定してきた駈歩をしてみた。まだあまりスピードを出すことができず、ゆったりとした駈歩になったが、それでも風を感じて気持ちが良かった。
馬と一緒に楽しんでいる感じがする。人間のエゴと言えばそれまでだが。
アニェスは少し汗をかいたところで馬を歩かせ、玄関に座り込んでぼんやりとその様子を眺めているグレーゲルの元へ向かった。彼は朝日を浴びて眩しそうだった。
グレーゲルは近づいてきたアニェスに反応して立ち上がると「お疲れですか?」と尋ねた。それに対して、アニェスは「ええ」と返事をして馬を停め、降りて馬の首をぽんぽんと何度か叩いた。それが乗馬をお終いにする時の二人の合図だった。
屋敷に戻ってまず最初にするのは、もちろん湯浴みだ。
「はぁ、気持ちいい」
汗をかいた後の湯浴みは最高だ。
こんなこともあろうかと、いつも湯浴みに使う大きな桶を別邸に持ち込んでおいて正解だった。例によってグレーゲルにお湯を入れてもらい、ゆったりと汗を流す。
「アニェス様もすっかりワーゼル人ですね」
「ええ……ってあなたはまた人が裸の時にっ!」
いつの間にか、近くのソファでくつろぐグレーゲルにため息をつく。いつも文句を言っているのに、一向に直す気配がない。
グレーゲルが仕方なさそうに「はいはい、こうすればいいんでしょう」と湯に手をかざすと、あっという間に湯が白濁した。「そういう問題ではないのだけど……」とアニェスは頭までお湯に沈んだ。
しばらくお湯を堪能していたが、そろそろ朝食の時間が迫ってきた。
「さて、乾かしましょうか」
グレーゲルは立ち上がり、アニェスにバスローブを差し出す。
「ありがとう。むこうを向いていてくれる?」
「承知いたしました」
グレーゲルが反対側を向いたのを確認して、湯から上がり、急いでバスローブを着た。
「もういいわよ」
呼びかけると、グレーゲルは振り向いて「乾かしますよ」とアニェスに近づき、手を伸ばした。彼がアニェスの濡れた髪を撫でて一房手に取ると、そこからみるみるうちに髪が乾いていった。
さらにグレーゲルはアニェスの頬をなで、そこから首筋や肩に手を滑らせた。その壊れ物を扱うような優しい手つきに、ピクリと反応してしまう。アニェスは耐えきれずにその手を取った。
「ねぇ、これ必要なの?」
グレーゲルの瞳を見つめる。彼はしばらく無言でアニェスを見つめ返した。すると、いつの間にか髪を乾かし終わっていて、グレーゲルは「はい、終わりましたよ」と言ってアニェスから離れた。
「必要ですよ。もっとも私のためにですが」
「え?」
グレーゲルは小さく呟いたが、アニェスには後半がよく聞き取れなかった。彼はいたずらっ子のように笑ってそれ以上何も言わなかった。




