月光
それから舞踏会までの間、夕飯はいつも『夜更けのネズミ』で過ごした。メニューの種類が豊富で、名前から全く料理の想像がつかないから、毎回新鮮な気持ちで食事を楽しむことができた。
日が出ているうちは特にやることもなく、屋敷にある埃まみれの古い書物を読んだり、連れてきた馬と触れ合ったりしてのんびり過ごした。
グレーゲルといえば、驚くべきことに本当に屋敷の小動物を相手に芸を教えていたのだった。
舞踏会を明日に控えた昼。例によって暇を持て余したアニェスとグレーゲルの二人は、テラスでのんびりすごしていた。
「ねえ、グレーゲル」
アニェスは読んでいた本を閉じてソファの上で身動ぎした。スプリンクラーが軋んだ音を立てた。
「どうされましたか? アニェス様」
グレーゲルはアニェスに顔を向けて柔らかく微笑んだ。しかし、アニェスはその顔を見て、何とも言えない気持ちになった。
「あなたたち魔法使いって本当にネズミに芸を教えるのね……」
アニェスの視線の先にいたのは、鼻先に角砂糖を乗せたネズミだった。もちろん、指示しているのはグレーゲルだ。
「いったいどうやって角砂糖を手に入れたの? それが高級品だってことは、さすがに私でも分かるわ」
呆れ顔で尋ねると、グレーゲルはなぜか楽しそうに答えた。
「厨房を漁ったら出てきました」
「まあ! あそこを探し回ったって言うの?」
アニェスは目を丸くした。グレーゲルは「ええ、しばらく探しました」と答えながらネズミを一回転させた。アニェスは思わずため息を漏らした。
「呆れた。さすがに汚いわ」
「汚い私はお嫌いですか?」
グレーゲルはアニェスを見つめて、悪戯っぽく笑った。床にしゃがみこんでネズミと戯れていたので、グレーゲルは自然と上目遣いになっていた。こんな凛々しい顔立ちの男に上目遣いをされても、と冷静に考えたが、湧きあがってくるグレーゲルへの『かわいい』『愛おしい』という気持ちが抑えきれない。
「……っ、別に?」
顔が熱くなるのを感じ、およそ令嬢には似つかわしくないぶっきらぼうな物言いで返した。それを聞いたグレーゲルは、ふっと笑いながら腰を上げ、アニェスに近づいた。
「では、触れても?」
「えっ……!?」
アニェスは驚いて勢いよく仰け反ったが、ソファの背もたれに阻まれて、スプリンクラーが軋んだだけに終わった。グレーゲルは微笑んだままアニェスの隣に座り、顔を近づけた。
「……手っ! ネズミに触れたりしていたのだから汚いのではなくて!?」
あまりの近さに恥ずかしくなって、アニェスは咄嗟に指摘した。
「では、洗い流せばよろしいですか?」
グレーゲルは両手をアニェスの前に出した。すると、手のひらから水が湧き出てきて、ぼたぼたと流れ落ちてアニェスのスカートやグレーゲルの袖を濡らす。
「ちょっ……なにやってるの!?
あっ!」
焦ってグレーゲルを止めようとすると、彼は水が滴り落ちる手でアニェスの両頬を包み込み、耳の後ろにまで指を這わせた。
温かい。
最初に思ったことはそれだった。その温かさは首筋を伝い、どんどん下へ下へと流れ落ちてくる。服を着たまま身体が濡れていく倒錯した感覚にぞくりと肌が粟立つ。
「アニェス様、お慕いしております」
「んっ……」
グレーゲルは囁くと、アニェスに口づけをした。前にされた時よりも長く感じて、我慢できなくなって唇を離し、抗議しようと口を開いた。その瞬間、彼はアニェスに噛み付くように唇を合わせ、舌をれろりと舐め上げた。
もう何が何だか分からず、ぎゅっと目をつぶって、されるがままだ。
しばらくそうして、ただ攻めてくる未知の感触に耐えた。口づけが深くなるほど、全身にじわりじわりと今までにない何かが浸透し、巡るような感覚がした。それを覚えてから、身体がどんどん熱くなっていく。自分が自分ではなくなるような、そんな不安が頭をよぎる。
ふとその感覚が消えて、目を瞑ったまま荒い呼吸を整えていると、グレーゲルの小さな笑い声がした。
「目をお開けになってください、アニェス様」
「うっ……」
恐る恐る目を開けると、おかしそうに笑うグレーゲルの姿が視界いっぱいに広がった。次に、ゆっくりと自分の首筋や衣服に触れてみた。すると、それらが全く濡れていないことに気づいた。おまけに、水浸しになっているかと思われたソファも床も、元の乾いた状態に戻っている。グレーゲルが魔法で消したのだろう。
「……もうっ! からかわないで!」
アニェスはグレーゲルの身体を軽く押して怒ったが、彼はびくともせずに肩を震わせて笑っていた。怒りながらも、アニェスの心臓は早鐘を打っている。
そうやって、のんびりと平和でちょっと刺激的な時間を過ごすうちに、あっという間に日が暮れて、もう夕飯の時間になっていた。
向かう先は、もちろん『夜更けのネズミ』だ。アニェスとグレーゲルはそこでもじゃれ合い、店主のキムに呆れられた。
この日も二人の暮らしは、平穏そのものだった。
ところが夜も更けて寝る前になると、じわりじわりと不安が這い上がってきた。
アニェスが舞踏会に出席したのは、十六歳の始め、通過儀礼として社交界デビューを果たした、あの一度きり。その時も会場は王宮だった。だが、デビューしたてだったため完璧は求められず、愛想の良い挨拶ができれば及第点だった。
きっと今回はそうはいかない。もうあれから、季節が一周して久しい。いい加減、慣れていないと笑われてしまう。とはいえ、社交界での実践経験がないアニェスは、やはり不自然に見えるだろう。今更どうしようもない。
ネガティブな思考が堂々巡りして頭から消えてくれず、眠気が全くやってこなかった。とはいえ、寝ないと明日は余計に醜態を晒すことになる。それだけは避けたい。
とりあえずベッドに入り、無理やり思考をシャットダウンしようとする。だが、目を閉じると余計にあれこれ考えてしまい、なかなか寝つけなくなった。
仕方なく起きて階段を降り、一階のサロンで時間を潰すことにした。
一階に降りると、まずは月明かりを眺めるために、アニェスは古ぼけた重厚なカーテンを開けた。すると、埃が大きく舞って咳き込んだ。涙目になりながら窓の方へ視線をやると、月が優しく光り輝いていた。少し欠けてはいるが、月明かりだけで読書ができそうなほどだ。
月は好きだ。いつも見守ってくれているような気もするし、真っ暗な行先を照らして導いてくれているような気もする。
そう、まるで――
「アニェス様?」
「グレーゲル」
振り向くと、すぐ傍にグレーゲルがいた。今まで散々、彼がいつの間にか背後にいたことに驚かされてきた。しかし、今度は驚かなかった。それが当たり前で、ごく自然なことのように感じられたからだ。
「眠れないのですか?」
「そうなの。なんだか緊張しているみたいで」
再び月明かりへと向き直り、元気に見えるよう大げさに笑う。しかし、それは空虚に響いて聞こえた。
グレーゲルは窓辺に両手をつくアニェスに寄り添い、その白く細い手を自身の大きく無骨な手のひらで包み込んだ。
「温かいわ」
「生きていますから」
アニェスは「はいはい」と言って小さく笑う。グレーゲルもクスクスと笑っているのが、密着した背中越しに分かった。
「明日は」
グレーゲルはアニェスの耳元で囁いてから、口を閉じてしばらく考え込んだ。再び話し出すのを、アニェスは月を見上げながら待った。
「……明日は、安心して舞踏会にご参加ください。アニェス様が困ることは何もないでしょう」
優しい声だった。振り返ってグレーゲルを見上げる。またいつものようにおどけているのかと思ったが、予想に反して彼は真剣な表情をしており、アニェスは目を瞬かせた。
「アニェス様は何が心配でしょうか? 私に教えてくださいませんか」
グレーゲルの真摯な瞳に導かれて、アニェスは素直に口を開いた。
「マナーとかダンスとか、ちゃんとできるかなって」
「なるほど、他は?」
「あとは、参加している貴族の方たちが、うちの兄たちみたいに意地悪で傲慢だったらどうしようとか」
「あとは?」
「えっと……あなたがワーゼル王国出身だと知られて、ヨーランみたいにされたらどうしようとか……」
グレーゲルの顔をちらりと窺うと、彼は微笑んだ。
「すべて私が、あなたの隣にいることで解決しましょう」
「え?」
「マナーもダンスも私がリードします。貴族が嫌がらせをしようとも、私が指一本たりともあなたに触れさせやしません」
グレーゲルは胸を張り、おどけて答えた。
「意外と慣れているの?」
「多少の心得はあります」
見た目からすると荒事ばかりの日々を送ってそうなグレーゲルだが、意外にも貴族の嗜みにも造詣が深いようだ。驚いてグレーゲルをまじまじと見つめると、彼は片眉を上げた。
「そんなに無骨に見えますか」
グレーゲルは拗ねたように言った。アニェスは、少しだけその様子を可愛いと思ってしまった。悪いとは思いつつ、ふふっと笑うと、彼は余計に顔を顰めた。
「まあまあ。ところで、三つ目の心配については?」
笑ってしまったことを誤魔化すために、アニェスは露骨に話を逸らした。それに当然気付いているであろうグレーゲルは、アニェスのつむじに軽くキスを落とした。
「三つ目は……あなたが隣にいて、私を見守っていてください」
その返事を聞いたアニェスは嬉しくなって、グレーゲルの手から自身の手を引き抜き、そのまま身体を反転させ、彼に抱きついた。
「もちろん」
それからしばらくグレーゲルの胸に身を預けていたが、彼の「もう眠れそうですか?」という言葉を合図に急に眠気がきたので、部屋まで運んでもらった。
アニェスをベッドに下ろすと、グレーゲルは額にそっと口づけをして離れていった。
名残惜しさを感じたが、アニェスは次の瞬間には眠りに落ちていた。




