ネズミのダンス
グレーゲルからドレスをもらってから月の半分が過ぎた。
アニェスは王都にある別宅に移ることになった。本邸は王都まで遠いので、当日に出発しては王宮に間に合わないからだ。その道のりは、時間にして馬車で二日間ほど。そのため、道中の街に住まう裕福な商人の屋敷に一泊し、さらに南にある王都を目指した。
王都の門を越えると、アニェスたちはヴィスコンティ家が所有する別宅へと向かった。
王都にある別宅は二つ。
どちらも本邸には及ばないが、一つは比較的新しく、広く立派な造りをしている屋敷。普段は次兄のティエリーが住んでいる。姉たちは分からないが、少なくともアダンはこちらに宿泊する予定だ。一方、もう片方の別宅は老朽化がかなり進んでおり、狭い上にボロボロだった。
アニェスたちが泊まるのは、もちろん後者だ。
「随分……歴史を感じるわ」
馬車から降りて屋敷を目の前にしたアニェスは、貴族の住まいにしてはあまりにもみすぼらしく古びた佇まいの家屋に、呆気に取られた。だが、グレーゲルには別の考えがあるようだ。
「これは……丁度いい」
「ちょっと、何を考えているの?」
当惑して尋ねると、グレーゲルはにっこりと笑った。
「ここは動物が沢山住み着いていそうなので、暇つぶしには事欠かないと思いまして」
グレーゲルの返事に、アニェスは引きつった笑みを浮かべる。
「動物って……主にドブネズミよね?」
「ええ、もちろん。さらには、なんとカラスもおります」
グレーゲルは楽しそうに付け加えた。そんな補足情報はいらない。意外と子どものようなことを言うグレーゲルに、アニェスは呆れ返った。
「……ちなみに、何をする気なの?」
アニェスの問いかけに、グレーゲルは「そうですね……」と顎に手を当てて考え込む。
「芸事を教えてはいかがでしょう?」
「ネズミが玉に乗って転がすのかしら?」
「それもいいでしょう」
アニェスの皮肉に、グレーゲルは愉快そうに笑った。何とも掴みどころのない男だ。
グレーゲルのことはおいといて、ひと足先に別宅へ足を踏み入れると、まずカビのような臭いが鼻についた。アニェスは思わず鼻を抑えた。
「このかぐわしい香りは……花でも活けてあるのでしょうか?」
アニェスの後に続き、荷物を持って別宅に入ったグレーゲルは、嫌味を言いながら顔を顰めた。アニェスは、どんな時でも皮肉屋な彼を呆れ半分、尊敬半分の気持ちで見つめた。
「なにか?」
「いえ……あなたはどんな環境でも我を失わなくて素敵だと思ってね」
「この程度で我を失っては、軍人は務まりませんからね」
グレーゲルは片眉を上げ、荷物を運び入れた。アニェスはその後ろで肩を竦めた。
カビ臭く何もない玄関広間を通り過ぎると、奥には狭いサロンがあった。そこには、古びた丸テーブルとくすんだ色の小さなソファが二つ設置されていた。
「まあ、一応団欒できる空間はあるのね……きゃっ!」
「アニェス様!」
テーブルに手をついた途端、軋んだ音を立てて傾き、アニェスはぐらりとバランスを崩した。小さな悲鳴は広間まで響いたようで、ジェレミーが焦ったように駆け込んできた。
「お怪我はございませんか!?」
「ええ……問題ないわ。私のことは気にしないで」
焦りから一瞬で息が上がってしまった。今もどきどきする胸を抑えて、安堵の息を吐く。この屋敷は家具も何もかも、長いこと放っておかれていたようだ。至るところにガタがきている。
そして、極めつけはこの強烈なカビ臭さ。ここで暮らしていたら、ドレスや髪に匂いが移りそうだ。そもそも体調を崩して聖誕祭に行けない可能性もある。
臭いの大元が気になったが、広間もサロンも一見すると、どこもカビが繁殖しているようには見えない。アニェスはふと思い立って、厨房へと足を向けた。
すると信じられない光景が広がっていた。あまりの衝撃に声も出ず、アニェスは「ひっ!」と鋭く息を吸い込んだ。
「これはひどいですね」
後ろから突然声がして、驚いてビクッと肩を揺らす。こんなふうに音もなく、人の背後に立つことができる人間は、一人しかいない。
「グレーゲルッ……! あなたいつもびっくりするのよ!」
「これは大変失礼いたしました。私は普通に近づいただけですが」
「今度からはふんぞり返って大きな音を立てて近づいてちょうだい!」
「承知いたしました」
グレーゲルは肩を竦めた。これは今後も改善されなさそうだとアニェスは思った。わざと音を立てて歩くグレーゲルも想像できないし、実際に目の当たりにしたら笑ってしまうだろう。
「それで、本日はお食事抜きになりそうですが、いかがなさいますか?」
「あーそうね……」
グレーゲルの言葉はもっともだった。このような状態では厨房で料理なんてできそうにもない。前途多難な別宅での暮らしに、アニェスは深く項垂れた。
するとグレーゲルはアニェスの正面に回り、手を差し出した。
「では、本日は外でディナーにいたしませんか?」
突然降ってきた興味をそそる提案に、アニェスは勢いよく顔を上げた。
「いいのっ?」
「ええ、エスコートさせてください」
「やった! お願い!」
アニェスは嬉しくなって、勢い良くグレーゲルの手を取った。普段は孤児院以外への外出は禁じられているから、お店でご飯を食べる機会が全くなかったのだ。
二人は互いに微笑み合い、しばらくの間、手を繋いでいた。そのすぐ近くで「まったく、カビの花園で睦言とはね」とジェレミーが呆れ顔で呟いていたことなどアニェスは知る由もなかった。
ディナーの場所は、意外なことにグレーゲルが選んでくれた。
夕刻、グレーゲルの案内のもと店に向かうと、そこはこじんまりとしているが、落ち着いた雰囲気のあるレストランだった。看板には『夜更けのネズミ』と書かれていた。
つい最近までワーゼル王国にいたはずのグレーゲルが、なぜ王都の外れにあるこんな小洒落たレストランの存在を知っているのだろう?
気になっても聞けずにいたが、謎はすぐに解けた。
馬車が店の前で停まると、グレーゲルは降りてアニェスをエスコートしつつ、先陣を切って店の扉を開けた。後ろから顔を覗かせて奥を見ると、店内はとても静かで、客は二組しかいない。
中に入ると、グレーゲルに気づいた大柄な男がこちらを振り返り、「いらっしゃいませー!」と大声で言った。その顔は強面で、縦に大きな傷が入っていた。
彼はグレーゲルと後から入ってきたアニェスの姿を認めると、眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔をする。だが、グレーゲルはそんなことなど全く意に介さなかった。
「キム! 飯だ!」
グレーゲルは強面の男をキムと呼ぶと、気安く声をかけた。間違いなく店員に対する態度ではない。二人は知り合いのようだ。
アニェスはおずおずとグレーゲルの後ろから顔を出し、キムの反応を窺う。
「ああ、お前か! ん? ……あー分かった。こちらに案内しよう」
キムはグレーゲルに大声で返したが、後からアニェスが出てきたことで困惑した表情を浮かべた。それからしばらく、アニェスとグレーゲルを交互に見て、二人を二階へと案内した。
二階には、四角い木製テーブルが一つだけあり、同じく木製のイスが二つずつ向かい合って置かれていた。客は一人もいない。
キムは手に持った蝋燭をテーブルの中央に置くと、「どうぞこちらへ」と丁寧に椅子を引いた。
アニェスとグレーゲルが着席すると、いそいそとキムがグレーゲルに近寄り、なにやら彼に耳打ちする。グレーゲルは軽く笑うと、ちらりとアニェスを見て「紹介しよう」と言った。
「キム、彼女は俺が護衛をしているアニェス様だ。アニェス様、こちらは古くからの顔なじみで、この店の店主のキムです」
キムはアニェスをじっと観察していたが、グレーゲルの話で得心がいったようだ。アニェスの方も、王都にある小洒落た店をグレーゲルが即座に紹介できた理由に合点がいった。
「ああ、アニェス様ですね! グレーゲルからお話はよく伺っております。この度は、わざわざこちらまで御足労いただき、誠にありがとうございます」
キムは強面の顔を歪めた。口角が上がっているので、おそらくは笑みのつもりだろう。だが、アニェスにはただ迫力が増しただけに見えた。
その一方で、見た目に似合わず、言葉遣いは非常に丁寧だった。もっとふんぞり返って「よく来たな!」なんて言いそうなイメージだが。
「キムさん、はじめまして。あの、お話って……?」
アニェスは首を傾げた。グレーゲルと出会ってからというもの、彼は毎日アニェスの護衛をしていた。ヴィスケ地方の屋敷から王都までは、馬を走らせても半日以上はかかる。手紙でも出していたのだろうか。
アニェスの疑問に、キムはグレーゲルをちらりと見た。グレーゲルは頷くと、一つ咳払いをして口を開いた。
「私たち魔法使いは、同じ符号を持つ者の元へ、瞬時に移動できます」
「へぇ! そうなの!?」
驚きのあまり、アニェスは間の抜けた声を上げてしまう。
「すごいのね。キムさんも魔法使いってこと?」
「ええ、殴りが得意そうな見た目ですが」
「おい!」
軽快なやり取りに、思わず笑いながら尋ねる。
「それでいつも会ってお話していたの?」
「ええ、夜中などに」
「そうだったの。私ったら全然気づかなかった」
「音を殺すのは得意ですから」
グレーゲルは片目を瞑って答えた。
同じ符号を持っており、以前から密会している魔法使い、つまりキムもグレーゲルの仲間だろう。念のため「彼もワーゼル王国の方ってことなのよね?」と確認すると、グレーゲルは「ええ、腐れ縁で」と肩を竦めた。
「……と、紹介はこのへんで。とりあえず何かいただきませんか?」
「そうね。お腹が減ったわ」
今日は長旅で体力をかなり消耗した。グレーゲルの提案に、アニェスは一も二もなく同意した。
「では、ごゆっくり」
キムは一礼して一階に降りていった。
それから二人は、顔を突き合わせてメニュー表を見た。そこには料理のはずが不思議な名前ばかりが並んでいた。
「ねえ、この『満月』って何かしら?」
「ああ、それはウィロー肉をミンチにして丸めたものを乳とイール粉ベースのソースで煮込んだものです。我が国、ワーゼル王国の郷土料理です」
「へえー! おいしそうね」
アニェスがはしゃぐと、グレーゲルは懐かしそうに「絶品ですよ」と微笑んだ。
さらにメニューを読み進めていくと、一つだけ価格が何倍もする料理を見つけた。
「こっちの『情熱』は? 他よりずっと高いわ」
「こちらは、シャキを茹でたものだと思いますが……」
グレーゲルは言い淀んで「おい! キム!」と大きな声を上げた。しばらくすると、一階からキムがドタドタと足音を立てて昇ってきた。
「なんだよ。こっちは忙しいんだ」
「お前のメニューは分かりにくい。この『情熱』ってなんだ」
「ああ……それはパエロニを茹でた料理だ」
キムの言葉を聞いて、アニェスは目を瞠った。
「パ、パエロニ!? ってあの?」
「ええ、あのパエロニです」
「まあ! あれってこんなにするのね!」
アニェスは驚いて、両手で口元を覆った。
パエロニは硬い殻とハサミをもつ生き物で、淡水の泥の中に生息している。アニェスもよく屋敷で食べている、柔らかいのに歯ごたえがある不思議な食感の食材だ。
アニェスの反応にキムは片眉を上げた。
「平民にとっては滅多に食べられない高級料理ですな」
アニェスは一瞬凍りついた。今のは絶対、相場の分からない貴族の小娘だと思われた。
「……そうだったのね」
無学ゆえの失言だ。何気なく口にしていた食材が、こんなに高級なものだなんて知らなかった。知らなかったというより、今まで気にもしていなかった。
質素に暮らそうと心がけていたのは、使用人や民衆から報復に遭うのを恐れていたからだ。本当に彼らのためを思っていたわけではない。だから物価については、付け焼き刃程度の知識しか身についていないのだ。
質素な服を着る一方で、当たり前のように高級料理を食べるアニェスを、きっと使用人たちは、なんと滑稽なと笑っていただろう。実際その通りなのだから、何の申し開きもない。
グレーゲルと出会う前から孤児院に通っていたのに、こんなことも知らなかったなんて、全く周りが見えていなかった証拠だ。
あまりにも世間知らずで失礼な態度を晒してしまったため、とにかく早く謝らなくては、とアニェスは焦って口を開いた。
「あのっ……不勉強で申し訳ありません」
上手く言葉が出てこずに最低限の謝罪だけすると、キムは少しだけ口角を上げた。
「いえいえ、あなたはまだお若いですから、学ぶことを誰も責めたりはいたしません」
グレーゲルもアニェスとキムを見て、ふっと笑った。
「キムは顔は怖いけど、怒っているわけではありません」
「……でも不勉強で配慮のない発言をしてしまって……」
おずおずと返すと、グレーゲルは微笑んだ。
「アニェス様」
「何?」
「野生のパエロニを見たことは?」
少しだけ考え、記憶を探る。
「ないわ。どこに棲んでいるのかも知らなくて、私……」
気まずくなって口ごもる。グレーゲルをちらりと見ると、彼は穏やかな瞳でアニェスを見返してきた。
「実は、祖国ではパエロニは珍しくともなんともないのです」
「え? そうなの?」
アニェスが目を丸くさせると、グレーゲルは微笑んだ。
「ええ、湖に行けばよく見かけます。我が国では、パエロニは高級食材ではないのです。ですからキムもここに来た時、アニェス様と全く同じ反応をしておりました」
「おい! 言うんじゃねえよ!」
キムは焦ったように叫んだ。アニェスは、それを聞いて目を丸くしたが、耐えきれずに声を立てて笑った。
それから、じっとグレーゲルを見つめる。さっきのは、きっとフォローしてくれたのだろう。視線に気づいたグレーゲルは、片目を瞑ってお茶目な笑みを浮かべた。
「今度一緒に見に行きましょう」
「え?」
「生きているパエロニ、見に行きましょう。ワーゼル王国にお連れします」
グレーゲルは、テーブルに置かれたアニェスの手を優しく握りしめて、そう言った。未来を約束するような言葉に、アニェスはたまらない気持ちになる。
「うん……ありがとう。キムさんも」
泣きそうになって、それを誤魔化すために「パエロニ旅行ね」とおどけてみせる。それに対して、グレーゲルは真面目くさった顔で「旅行ではありません」と返した。
「旅行じゃなかったらなにかしら? 滞在?」
アニェスの質問に、彼は顎に手を当てて「うーん」と唸った。そして、いたずらっぽい瞳でアニェスを見た。
「駆け落ち、ですかね」
アニェスは目を瞬かせた。グレーゲルをまじまじと見つめ、そして彼も見つめ返してきた。しばらく二人でそうしていると、耐えきれなくなって、どちらからともなく笑いだした。
「いいわね! パエロニ駆け落ち!」
「ええ、成功の暁にはパエロニパーティをいたしましょう」
アニェスは「素敵!」と声を上げて笑った。
グレーゲルは、アニェスの悲しい気持ちをいつも楽しいものへと変えてくれる。彼と一緒ならどこへでも行ける。そんな確信めいた予感がする。
二人のやり取りをずっとそばで見ていたキムは、口元に笑みを浮かべながら肩を竦め、「メニューがお決まりでしたらお呼びください」と言って階段へと向かった。そして階段の前でパチンと指を鳴らすと、「ごゆっくり」と呟いて一階へと降りた。
二人の世界から戻ってきたアニェスがふと気配を感じて部屋の隅を見ると、二匹のネズミが社交ダンスを踊っていた。驚いて「あなたたち魔法使いって、ネズミに芸を教える趣味でもあるの?」と尋ねたら、グレーゲルは悪戯っぽく「ええ、その通りでございます」と笑った。
本気かどうかいまいち計り兼ねるが、キムがやったのには間違いない。いまいち理解しがたい、魔法使いからすると粋な演出に呆れたが、ネズミたちの可愛さには思わずくすりと笑ってしまった。




