気持ちの再確認
その日は最悪の目覚めだった。
起きて早々、三日前のことを思い出した。
あの後、イヴォンは疲れたように笑い、「あなたは何も悪くありません。申し訳ありませんが、ダニエラを探すので失礼いたします」と言って部屋を出ていった。そうして、部屋にはアニェスとグレーゲルの二人だけになったが、グレーゲルが「今日はもうやめておきましょう」と首を振りながら言ったので、アニェスもそれに同意して、二人はすぐに屋敷に戻った。
ジェレミーが困惑していたが、イヴォンの体調不良により負担をかけないように帰ったと言い訳したら、訝しみながらもひとまずは納得してくれた。
「あー最悪。何もしたくない……」
アニェスは独りごちる。あれからずっとダニエラとのやり取りを考えていた。
たしかにグレーゲルの言う通り、ダニエラの態度は良くなかった。だが、彼女の怒りの源は、苦しむ祖国の民にある。その感情には、正当性があるように思う。一方でアニェスのあの態度は、孤独や独占欲に起因していた。両者では、悩みのスケールが違う。アニェスの悩みは、利己的で小さすぎる。
後悔と羞恥心がないまぜになって、アニェスはベッドの上で頭を抱えた。
外では、どんどん雪が降り積もっていることだろう。そんな積もり積もった雪のようで、正反対のどす黒い感情を誤魔化したくて、アニェスは起き上がり、侍女を呼ばずに一人で身支度を始めた。そして、執事のジェレミーがまだ起こしに来ないのをいいことに、こっそり部屋を抜け出して書庫へと向かった。
書庫は埃まみれで、全く掃除が行き届いていなかった。それもそのはず、書庫に来るのはアニェスくらいのもので、アダンは資料が必要な場合は、いつだって使用人かアニェスに取りに行かせていた。だから、使用人たちから書庫の掃除は必要ないと判断されているのだった。
アニェスも一応は雇い主の妹だが、その意向は無視しても構わないと思われているらしい。この物寂しい書庫は、アニェスの情けない現状を映し出しているようだった。
入口近くには、木製の机が一つと同じく木製の椅子が向かい合わせに一対置かれている。照明は少ないが、机の上にはランタンが置かれており、地下でも読書ができる。
アニェスは、ランタンに灯りをつけ、本棚に向かった。そこからタイトルも見ずに、無造作に一冊本を手に取ると、誰もいないのをいいことに、大きなため息をつきながら椅子を引き、どさりと腰かけて読書を始めた。
ところが、いくら本の世界に入り込もうとしても、頭の中でつい先日のことが何度も何度も浮かんできた。仕方ないので、再びため息をつきながら、席を立って別の本を選ぶことにした。
ぼんやりと本棚を吟味していくと、部屋の奥に扉があることに気づいた。よく考えたら、ここまで奥に来たのは初めてかもしれない。つい出来心で、アニェスは扉をそっと開けて中に入った。
扉の奥には、また書庫が続いていた。しかし、手前の部屋より幾分か狭い。アニェスは本棚に近づいて、いくつかのタイトルを見た。
すると、予想もしていなかった単語が並んでいた。
焦燥感にうなじがチリチリと熱くなる。その隣、さらにその隣……と、アニェスはタイトルを順番に見ていった。
間違いない。
見渡す限り、ワーゼル王国に関する本だ。ワーゼル王国についての地理や風俗、童話――そして、魔法について。
誰が、何のために、こんな所にこれらの本を集めたのか?
アニェスは、恐怖を覚え、思わず後ずさった。
――その瞬間、誰かが扉を開ける音が聞こえ、焦って後ろを振り返った。
「ほう、こんな部屋があったとは」
入ってきたのは、グレーゲルだった。アニェスはほっと胸を撫で下ろす。アダンだったら、ややこしいことになるところだった。
「グレーゲル、脅かさないで」
「すみません、性分なもので」
「もう。私も初めて知ったわ。ワーゼル王国のことがこんなに……」
「誰が集めたのでしょうね」
「そうね。見当もつかないわ」
グレーゲルは腕を組み、扉に背を預けた。
「でも……よかった」
「え?」
グレーゲルの声がうまく聞き取れず、アニェスは聞き返した。すると、彼はわずかに口角を上げた。
「気になりますか? ワーゼル王国のこと」
「まあ、気になると言えば気になるけど……そこまでは」
本当はものすごく気になるが、先日のダニエラのことを思い出して、さっと顔を伏せた。しかし、グレーゲルにはお見通しだったようだ。
「ダニエラと会ってから、私がお嫌いのようだ」
グレーゲルはゆっくりと近づいてくる。
「そんなことは――」
「嘘だな」
グレーゲルはアニェスの目の前で立ち止まると、その頬に手を添えた。
「ダニエラとは何もありません」
「本当っ?」
弾かれたように顔を上げてグレーゲルを見た瞬間、墓穴を掘ったことに気づく。
「……あっ」
こんなふうに反応してしまっては、気にしていると白状しているようなものだ。
グレーゲルは、形の良い唇をおもむろに笑みの形に変えた。その姿は獲物を目の前にした捕食者のようだった。
「気になっているのは、ワーゼル王国のことだけではないようだ」
「ちがっ……!」
本人に言い当てられ、恥ずかしくなって思い切りグレーゲルの手を払う。しかし彼は黙ったまま、全てを見透かすような笑みを崩さなかった。
アニェスは観念した。
「……そうよ。あなたがダニエラさんを良く理解しているようだったから、嫉妬したの。あと、なんだか最近、孤児院でも蚊帳の外だと感じて……それでダニエラさんに八つ当たりしてしまって……」
歯切れが悪くなってしまったが、アニェスは全てを白状した。あまりの恥ずかしさに、居心地が悪くなる。だから、投げやりに「それだけ! 見つかる前に出ましょう!」と言って、グレーゲルを避けるように出口へと向かおうとした。
だが、グレーゲルに腕を掴まれ、それは阻まれた。
「この部屋には防音魔法をかけています。外には探知の魔法もかけているので誰かが来たら分かるでしょう」
「は、はぁ!? 別にっ、そんなことしなくても話は終わりよ!」
腕を振り解こうとしたが、グレーゲルはそれをものともせず、アニェスを胸に掻き抱いた。
「グレーゲル!」
アニェスはもやは冷静さを失い、やけくそになって腕から逃れようともがいた。しかし、彼の身体はびくともしなかった。
「アニェス様」
「なに!?」
グレーゲルは腕の力を強めた。
「信じてください」
「……っ」
彼の切実な言葉に、思わず動きを止める。
「ダニエラは祖国で共に戦った仲間で、時折指導もしておりました。大切な妹のような存在です。ですが、私がお慕いしているのはアニェス様、あなたです。たしかに今は事情が分からず、疎外感を感じるかもしれません。気づかず、申し訳ございませんでした。ただ、前に『救う』と申し上げたのは本心からです。どうか疑わないでください」
アニェスは、それまで抵抗のために力を入れていた両腕をだらりと落とした。グレーゲルの言葉を聞いて、改めて自分の幼稚さに呆れる。自分の感情を制御できずに、彼にここまで言わせ、謝らせてしまった。
「グレーゲル……」
「アニェス様、信じてくださいますか?」
グレーゲルの腕が緩んだので、そっとその顔を見上げると、とても真剣な表情で見つめられていたことに、今更ながら気づいた。
「……信じるわ。その、我儘を言ってごめんなさい」
グレーゲルの真摯な眼差しが、思ったより近くにあった。決まりが悪くて、アニェスはその胸に顔をあずけてぼそぼそと呟いた。
「あなたの我儘を叶えるのが、私の喜びです」
グレーゲルがくすりと笑ったのが、胸の振動から伝わってきた。
「……ただ、それはそれとして、ダニエラのあの態度は、褒められたものではありません。イヴォンがきつくお灸を据えているでしょう」
アニェスが見上げると、彼は肩をすくめた。
「彼女と仲良くできるかしら……」
アニェスは不安を漏らした。とても小さな声だったが、息がかかるほど近いグレーゲルには、聞こえていただろう。彼は優しくアニェスの頭を撫でた。
「ダニエラは頑固者で、妙なところで真面目ですから、すぐには難しいでしょう」
「良く知っているのね」
「ええ。良く知った上で、あんな頑固者は願い下げです」
グレーゲルの口調は、憎まれ口を叩きながらも優しく、ダニエラを思いやる気持ちが窺えた。だが、そんな彼を見ても、以前ほどは嫉妬の感情が沸かないことに気づく。
グレーゲルにも祖国での生活があって、大切な仲間がいる。以前は、表面的にしか理解できていなかったことだ。しかし、ダニエラの怒りやグレーゲルの思いに触れた今なら、それがどんなにかけがえのないことなのか、少しだけ分かったような気がした。
アニェスがドレグニア王国の貴族令嬢だという事実は、消すことはできない。だから、ワーゼル王国の敵として、これからもアニェスは憎まれ続けるだろう。
しかも、そういった感情をアニェスに抱く者は、ダニエラだけではない。憎悪を表立って向けられる機会は、これからもきっとたくさんある。
それでも、グレーゲルと共に在りたい。アニェスは、そう強く願わずにはいられなかった。
グレーゲルがそばにいてくれるだけで、色んな世界が見えてくる。優しい言葉をくれるおかげで、こうしてあてもなく悩んだとしても、最後には前を向いて一歩踏み出すことができる。
「そろそろ戻った方が良いでしょう。ジェレミーがカンカンに違いない」
グレーゲルは、おどけて言った。アニェスは「ええ、そうね」と返しながら、その姿をつい想像してしまって、二人でくすくすと笑い合った。




