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聖誕祭の魔法騎士  作者: 板山葵
ドレグニア王国革命編
11/43

馬から落ちて

 ロッテンバーグが視察に来てからもアニェスの日常は変わらず、外界から遮断されていた。ずっと暇で、たまに孤児院を訪問するだけの日々が続くだけだ。


 変わったことといえば、最近、グレーゲルがアニェスに色々なことを教えてくれるようになったことだ。主に彼の実戦経験から来ているので、庭に自生する食べられる植物だとか、野営の仕方だとか、およそ貴族の令嬢が覚えるようなことではなかった。しかし、アニェスにとっては、どれも新鮮で面白かった。

 中でも乗馬が特に楽しくて、毎日、日が落ちるまで熱心に指導を受けた。

 ギャンターという生き物で、馬という通称で呼ばれている。細長い四本足の先に蹄が生えており、走るのがとても速く、それに加えて背中が丸く安定しているので、人を乗せることができる。だから移動によく使われる。太い首の先には面長の美しいかんばせがあり、知能が高く、人間の相棒として物語ではよく語られてきた生き物だ。


「本日は駈歩をいたしましょう」

「まあ、あの駈歩?」


 アニェスは目を輝かせた。兵士がよく訓練している、あのかっこいい乗り方だ。


「ええ、あの駈歩です」


 グレーゲルは猛禽類を思わせる鋭い目尻を下げて、小さく笑った。


「落とされないかしら?」

「ご安心ください。私がついております。力を抜いて、リラックスして鐙をお踏みください」


 グレーゲルは馬に跨るアニェスの足首を掴み、鐙にその足をそっと乗せ直した。


「何かコツはある?」


 アニェスが尋ねると、グレーゲルはその精悍な顔をわずかに顰めて、考える素振りをした。


「背筋を伸ばして、全身をリラックスさせて……あとは、将軍のようにどっしりと座っていれば何とかなります」


 グレーゲルは、どこか遠くを見ながらクスリと笑った。


「将軍!?」

「ええ、兵士をとりまとめる一番偉い人です」

「さすがにそれくらいは知ってる……って、そんなすごい人の真似なんてできないわ!」


 アニェスは心底驚いて返したが、それを聞いてグレーゲルは堪えきれないと言ったふうに笑い出した。


「もう、なに?」


 どうして笑われたのか分からなくて、ふくれっ面でグレーゲルを睨みつける。彼はひとしきり笑った後、眦に浮かんだ涙を指で乱暴にぐいっと拭った。


「いえ……申し訳ありません。想像したらおかしくて」

「もう!」


 グレーゲルに笑われた恥ずかしさから、アニェスは全身がカッと熱くなるのを感じた。グレーゲルはまだ僅かに笑いながら、片手を馬の肩に、もう片方の手をアニェスの背中に当て、そっと撫でた。


「アニェス様」

「な、なに?」


 急に触れられたせいで、アニェスはビクリと背筋を伸ばした。


「今の感じで姿勢よく、リラックスしてください」


 グレーゲルは優しく微笑んだ。そうやって微笑まれながら触れられたら、リラックスできるものもできない。アニェスは内心ため息をつきながら、ふいと顔を逸らした。この男は本当に質が悪いのだ。


 あの日から、グレーゲルはよく笑うようになった。今までも口の端を吊り上げて笑うことはあったが、その表情はとても皮肉げだった。だが、最近の彼は優しく笑うことが多くなったように思う。グレーゲルにそうやって微笑まれる度に、アニェスは緊張で胸がどぎまぎしてしまう。


 もしかして、自分はグレーゲルに惹かれているのだろうか。

 アニェスは今まで誰も好きになったことがない。それどころか、親しい友人も、優しい家族もいない。アニェスを気にかけてくれるのは、執事のジェレミー、ただ一人くらいだ。ただし、ジェレミーは教育係でもあるから、いつも厳しく、口うるさい。だから、友人や家族というよりは、先生という言葉がしっくりくる。


 それなら、グレーゲルはどうだろう? まだ出会って数か月だが、本当にずっと一緒にいる。皮肉を言う姿、真摯に感謝する姿、今のように楽しそうに笑ったり、優しく励ましてくれたりする姿。色々なグレーゲルを見てきた。もちろんイヴォンやヨーランのように、ワーゼル王国にいた頃の彼を知っているわけではないが、アニェスなりに彼の内面にたくさん触れてきたつもりだ。

 その上で、自分はグレーゲルをどう思っているのだろうか。友達でもない、家族でもない、先生でもない。目標や仕事を共にする仲間というわけでもない。


 グレーゲルの顔をちらりと見る。すると、彼は柔らかい表情で「どうしましたか?」と僅かに首をかしげた。

 その瞬間、どきりと心臓が跳ね、やっと自分の気持ちに気づいてしまった。今はもう涼しい季節なのに顔が熱くなるのを感じて、急いで前を向き、誤魔化すように馬の首を撫でた。馬は不満そうに嘶き、蹄を鳴らした。


「アニェス様」

「は、はいっ」


 唐突にグレーゲルに名前を呼ばれ、アニェスは驚いて勢いよく返事をした。彼も驚いたように、その猛禽類のような鋭い目を見開いた。


「どうして敬語なのですか?」

「うっ、その少し、ぼーっとしちゃって」

「鞍上でぼーっとするのは危険ですよ」


 誰のせいだ、とアニェスは朱が差した顔でグレーゲルを睨んだが、彼にアニェスの事情なんて分かるわけもなく、不思議そうに首を傾げられる。

 

「……ごめんなさい。気をつけるわ」

「ええ、くれぐれも怪我にだけは気をつけて。それさえ気をつければ、こいつはとても利口です。私の指示を何でも聞いてくれます」

「えっ、何でも?」


 やっと乗馬に意識を戻したアニェスは、半信半疑でグレーゲルを見た。彼はすかさず「そうだよな?」と馬の首を軽く叩いた。すると、それまで不満げに首を振っていた馬が急に大人しくなった。今度は、アニェスが目を見開く番だった。


「まあ、本当だわ……! グレーゲル、あなたってすごいのね」

「ええ、祖国でも馬は友人でしたから」


 グレーゲルは、優しげに笑みを浮かべた。その大切なものを胸に抱くような、それでいて少し寂しそうな表情を間近で見て、アニェスは、先ほどまで膨らんでいた気持ちが、空気の抜けた風船のようにしゅるしゅるとしぼんでいくのを感じた。

 分かってはいた。気付かぬふりをしていただけだ。グレーゲルには帰る場所がある。しかもその場所は今、アニェスの国に支配されている。そんな状況で恋愛なんてできるだろうか。自分だったらできない。できるはずがない。それどころか、宗主国の人間なんて、全て敵に見えるだろう。胸がズキズキと痛んだ。


「アニェス様? いかがなさいましたか? お加減がよろしくないようなら――」

「ごめんなさい。問題ないわ」


 心配そうに見上げてくるグレーゲルに、気丈に笑ってみせた。今は乗馬に集中しないと。それに、恋愛なんかしなくたって、別に死ぬわけではないのだ。


「そうですか。それなら良いのですが……」


 グレーゲルがこちらをじっと見つめてきた。その冴え渡るアイスブルーの瞳に心の内を全て暴かれそうで、アニェスは視線に応えることができなかった。


「……この馬は私が指示した通りに動きます。アニェス様がバランスを崩したら、すぐにお止めしましょう」

「ええ、分かった。ありがとう」


 ごちゃごちゃ考えるよりも、今は馬との触れ合いを楽しむべきだ。アニェスは気を取り直して、言われた通りに背筋を伸ばし、身体をリラックスさせた。




 アニェスの気分は晴れないまま、練習だけはほとんど毎日続けた。馬を駈歩で発進させるのに数日を要し、さらに何日も練習した。

 しかし、集中できなかったせいもあるが、落馬を恐れるあまり、どうしても身を固くしてしまい、鐙から足が浮いてバランスを崩してしまう。そして、その度にグレーゲルに馬を止めてもらっていた。

 乗馬も気持ちも不安定なまま。何かに支えてほしくて手綱に力を入れたら、馬が暴走してしまい、グレーゲルが慌てて止めに入ったこともあった。

 最初は気晴らしのための乗馬だったが、うまくいかない情けなさと、気づいてしまった自分の気持ちのせいで、グレーゲルと一緒にいるのが辛かった。


「アニェス様、力を抜いて下さい」

「ええ……でも、力を抜いたらどこかへ飛んでいきそうで」


 不安な思いを吐露すると、グレーゲルはおかしそうに笑った。


「身を固くしている方が飛んでしまいます。まずは力を抜いて、揺れに身を任せてください。もし飛んでいったら私が受け止めます」

「……本当?」


 グレーゲルを鞍上から見下ろす。普段だったら有り得ない構図だが、今ではそれが日常になっていた。


「ええ、ご安心ください」

「そう、分かった。あなたを信じる」

「お任せ下さい」


 グレーゲルは、安心させるようにアニェスの太ももにそっと手を置いた。そんなところを今まで人に触らせたことがなかったから、羞恥に顔が熱くなった。心臓がドコドコと暴れ出すのを感じる。しかし、その後すぐに胸の痛みが訪れて、何もかもが帳消しになった。


「今度はご自身で馬に指示を出してみましょうか」

「ええ……え?」


 生返事をしてしまったが、何が重要なことを言われた気がする。アニェスは慌てて聞き返した。置かれた手に一喜一憂しているうちに、グレーゲルが言ったことを聞き逃してしまった。


「ご自身で脚を使って駈歩発進をし、バランスを崩したらご自身で手綱を使って馬を止めるのです」

「え!? で、できるかしら?」

「必ずできます」

「そ、そう……? では、やってみようかしら」


 アニェスの返事を聞いて、グレーゲルは太ももから手を離し、少し離れたところに立った。

 早く馬を走らせなければいけないのに、グレーゲルが待っているのに、心が宙ぶらりんのままだった。ドキドキと痛みは同時に訪れることもあるのだな、と他人事のように思った。

 痛みは、家族に蔑ろにされた時や、孤独を感じた時、今までに何度もあった。しかし、ドキドキは、今まで一度も感じたことがない。グレーゲルと出会って、人生で初めて体験した。だから、いっぺんに来ても対処法が分からない。


「アニェス様? どうされましたか?」


 待たせ過ぎたようで、痺れを切らしたグレーゲルに声をかけられた。


「ううん、なんでもない!」


 そう返すと、アニェスは気持ちを切り替えて真っ直ぐ前を向いた。


 駈歩を始めるとやはり揺れが大きく、少し恐怖を感じた。しかし、跳ねる心臓を無理やり抑え、グレーゲルの言う通り、力を抜いて、しっかりと鐙を踏んでみた。すると、先ほどよりもゆったりと鞍に座れ、安定して馬に乗れた。

 自分の上達を実感して、最後に感じたのがいつだったか思い出せないほどの高揚感を覚える。アニェスは、弾けるような笑顔をグレーゲルに向けた。


「グレーゲル! すごいわ!」


 グレーゲルは一瞬、面食らったような顔をした。そして、自分の事のように喜色満面の笑みを浮かべた。

 しかし、次の瞬間には、焦ったような顔になった。


 あっ、と思った時にはもう遅かった。よそ見したのがいけなかったのだ。馬を止める間もなく、アニェスはバランスを崩して、鞍から投げ出された。


「……っ!」


 浮遊感と次の瞬間に来るであろう衝撃に、ぎゅっと目をつぶった。


 しかし、待てど暮らせど衝撃はやってこなかった。

 太くてたくましい腕に抱きとめられたからだ。驚きに顔を上げると、グレーゲルが馬に止まれと指示を出していた。馬は直ぐに急停止して、呑気にも草を食みはじめた。


「……っ」


 アニェスはグレーゲルの腕の中にいることも忘れ、さっきとは別の理由で心拍数が跳ね上がっていた。落ちていれば、どこかを強く打ち付けていただろう。打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。


「……ふっ」

「アニェス様?」

「…ふ、ふふっ」


 危機一髪の場面で、静寂が一瞬その場を満たした。ところが、アニェスは堪えきれずに声を立てて笑いだした。


 グレーゲルへのときめき、そして報われない悲しみ。初めて駈歩ができるようになった喜び、かと思えば落ちそうになった恐怖。こんなふうに怒涛の如く感情が押し寄せたのは生まれて初めてで、ついおかしくなってしまったのだ。

 これではグレーゲルに呆れられてしまっただろう。そう思ってアニェスは彼を見上げた。すると、思ったより近くで彼のアイスブルーの瞳と目が合って、思わず笑いが引っ込んだ。

 彼の瞳は、湖に張った氷のように穏やかでもあり、赤より高温の青い炎のように激しくもあった。


「……グレーゲル」

「アニェス様」


 どちらが先に呼んだのか。二人は、お互いの名を囁き合った。そして、グレーゲルの顔がゆっくりとアニェスに近づく。

 彼の瞳にとらわれて、身動きすることも声を発することもできなくなる。そこに映る自分は、まるで氷点下の世界で時が止まっているようにも、もしくは燃え盛る炎に閉じ込められているように見えた。

 そして、お互いの唇が触れ合いそうになった、その時――


「……お怪我はございませんか?」


 グレーゲルは、アニェスをそっと地面に下ろした。アニェスはハッとして、止まっていた思考を無理やり動かした。


「え、ええ……あなたのおかげで助かったわ」

「滅相もございません。よく乗れておいででした……本日はここまでにいたしましょう」


 そう言うとグレーゲルは、馬を連れてさっさと馬小屋へと歩き去っていった。


 アニェスは自身の唇を指で抑えた。口付けられるのではないかと期待してしまった。自分の思い上がりに恥ずかしくなる。

 グレーゲルは属国の軍人だ。そんなこと、するわけがない。それなのに、自分の想いに応えてくれるのかと期待してしまった。

 グレーゲルはいつだって優しいし、思わせぶりだ。アニェスに取り入って利用するつもりなのだろうか、それとも本心から――


 アニェスは頭を振った。ひとつに束ねたブルネットの髪が左右に揺れる。

 期待してはいけない。これは可能性の低い賭けだ。敗色濃厚。今でさえ胸が痛むのに、期待が膨らんだ状態でグレーゲルに決定的なことを言われたら、どうなってしまうだろう。 

 アニェスは痛む胸を押さえて、淡い期待を振り払った。

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